ルカによる福音

 11・1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 

 ルカ福音書の主の祈りは、弟子の求めに応じてイエスが教えたという設定になっています。

 この祈りはイエスご自身が毎日唱えていた祈りではないでしょうか。

 イエスは祈るとき父である神の臨在を実感しながらこの祈りを唱えました。イエスの宣教活動は、父である神の御名が地上であがめられるようになるためであり、父である神の御国が来るためでした。

 更にイエスは「わたしたち」の中にご自分を含めてくださったのだと思います。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕10・38イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

 この物語は「もてなし」ということについて考えさせます。誰かをもてなそうとごちそうを並べるよりも、相手の話に聞き入ることの方がもてなすことになるのです。

 

 傾聴は、アメリカの心理学者カール・ロジャーズが提唱した「来談者中心療法」の核となる考え方に基づき、主に以下の3つの要素で構成されます。

 

1. 共感的理解 (Empathy)

話し手の感情や視点に立って物事を捉え、理解しようとすることです。「あなたはいま、そんな気持ちでいるのですね」ということを相手に伝える姿勢です。単に「かわいそう」と同情することではありません。

2. 無条件の肯定的配慮 (Unconditional Positive Regard)

相手の話を善悪で判断したり、評価したりせず、「あなたはあなたのままで価値がある」という肯定的な態度で受け入れることです。相手の考えや行動に同意できなくても、人間としては尊重する姿勢を保ちます。

3. 自己一致 (Congruence)

聞き手が自分自身に偽りがなく、正直であることです。話を聞くときに、聞き手の表情や態度と、心の中で感じていることが一致している状態を指します。これにより、話し手は「この人は信頼できる」と感じ、安心して話すことができます。

 

 エルサレムへの旅の途中で、マルタとマリアの家によったイエスはご自分の思いを受けとめてくれる聴き手を求めていたのかもしれません。

 

 ロザリオの聖母については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=100701

ルカによる福音

 〔そのとき、〕10・25ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

 律法の専門家がイエスを試そうとすると、イエスから「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されました。

 律法の専門家は即座に申命記とレビ記の掟を組み合わせてイエスに答えました。イエスはその言葉どおりに実行すれば命を得られると言いました。

 彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスに訊きます。

 これは、愛すべき対象に境界線を設け、愛さなくてよい人々を正当化して除外しようとする意図から出た質問でした。

 ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人は、特に「隣人」とは見なされず、軽蔑の対象でした。

 ユダヤ人の軽蔑の対象だったサマリア人がユダヤ人の命を救ったというイエスのたとえは律法の専門家にとってはあり得ないたとえだったに違いありません。

 「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問うイエスに「その人を助けた人です。」と答えさせられた律法の専門家は「サマリア人」という言葉を発することもおぞましいと思っていたかもしれません。

 「誰の隣人になるか」という問いは、パレスチナ問題を前にして先鋭化する問いだと思います。