ヨハネによる福音6:37-40

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

  聖書と典礼のパンフレットの表紙には「死者の日」と書かれています。「死者の日」(11月2日)は、典礼暦の分類上は「記念日」ですが、諸聖人の日(11月1日)の翌日に設定された特別な位置づけの祭儀であり、年間主日よりも高い優先順位が与えられています。

 本日の典礼は、本来は年間第31主日ですが、本日は「死者の日」の典礼となります。

 

 今日の第一朗読は『知恵の書』です。この書は三部構成ですが、その第一部「知恵と人生の意義」が主題となる部分が朗読されます。『ヨブ記』の核となっている「神を信じる者の理不尽な苦難」の問題が『知恵の書』でも繰り返されます。今日の朗読に登場する「愚か者」とは「神を信じない人」のことです。彼らは自分たちの悪行を非難する「神に従う人」を、「暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために。彼を不名誉な死に追いやろう」(2章)と企みます。

 今日の朗読は、「愚か者」たちに滅ぼされ、無駄死にしたかに見える「神に従う人」が「主の愛のうちに主と共に生きる」と希望の言葉が告げられます。

 

 第二朗読の『ローマの信徒への手紙』は「神の愛」についての教えです。キリストを信じる者たちは「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」の難を蒙っても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とパウロは宣言します。復活のイエス・キリストとの出会いによって、劇的な回心をしたパウロの実感のある確信です。

 

 福音朗読は「ヨハネの聖体論」とも呼ばれる箇所です。

 パンを食べさせたイエスを追い求めて来た人々に「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」とイエスは語ります。ここからイエスと群衆とのやりとりが始まります。弟子たちでさえもイエスの言葉を信じることができず、イエスから離れ去っていきます。イエスが十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と訊くと、シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と信仰告白します。

 イエスは「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」と言います。この「意志」と「御心」とは同じ単語です。イエスはご自分の意志を行うためではなく、イエスをお遣わしになった方の意志を行うために天から降ってきました。その方の意志は「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」です。

 イエスを信じることによってわたしたちは永遠の命を得ることができるのです。この言葉を信じてイエスと共に留まるか、あるいはイエスから離れ去るか、今日わたしたちの決断が求められます。

 

ひとこと

 現在、名古屋の金城学院学院長を務めておられる柏木哲夫先生は1984年日本で初めてホスピスを開設した精神科医であり内科医です。

 「サマセット・モームという有名な作家が、次のような言葉を残しています。『世の中にはたくさんの統計があって、その中には、まやかしの統計もある。しかしこの世の中に絶対に間違いがない統計がひとつ存在する。その統計とは、人間の死亡率が100%であるという統計だ』というものです。……この世に生を受けたものは、ただ一人の例外もなく、死を迎えます。まさに人間の死亡率は100%です。しかし私たちは日常生活の中で、あまり自分の死ということを考えないで生活をしているのではないかと思います。頭の中ではやがて自分も死を迎えるということは誰もが理解をしているんですが、自分の死についてしっかりと考えるということを、あまりしないのではないでしょうか」

と柏木先生は言います。

 さらに、「人は死を背負って生きている」と言います。つまり生と死の関係というのは、ちょうど一枚の紙の表と裏の関係であり、予想外の突然の死もあり得ます。死に直面してから突然あわてるのではなく、普段から自分の死についてよく考えておくとよいと柏木先生は言います。そして、せめて一年に一度、自分の誕生日に自分の死についてよく考え、心の準備をしておくことを勧めています。

 

 「死者の日」の今日、わたしたちは人間の死亡率は100%であることを今一度確認し、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われるイエスに、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と心からより頼むことができるよう祈りましょう。

ヨハネによる福音6:37-40

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

 聖書と典礼のパンフレットの表紙には「死者の日」と書かれています。「死者の日」(11月2日)は、典礼暦の分類上は「記念日」ですが、諸聖人の日(11月1日)の翌日に設定された特別な位置づけの祭儀であり、年間主日よりも高い優先順位が与えられています。

本来は年間第31主日ですが、本日は「死者の日」の典礼となります。

 

 今日の第一朗読は『知恵の書』です。この書は三部構成ですが、その第一部「知恵と人生の意義」が主題となる部分が朗読されます。『ヨブ記』の核となっている「神を信じる者の理不尽な苦難」の問題が『知恵の書』でも繰り返されます。今日の朗読に登場する「愚か者」とは「神を信じない人」のことです。彼らは自分たちの悪行を非難する「神に従う人」を、「暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために。彼を不名誉な死に追いやろう」(2章)と企みます。

 今日の朗読は、「愚か者」たちに滅ぼされ、無駄死にしたかに見える「神に従う人」が「主の愛のうちに主と共に生きる」と希望の言葉が告げられます。

 

 第二朗読の『ローマの信徒への手紙』は「神の愛」についての教えです。キリストを信じる者たちは「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」の難を蒙っても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とパウロは宣言します。復活のイエス・キリストとの出会いによって、劇的な回心をしたパウロの実感のある確信です。

 

 福音朗読は「ヨハネの聖体論」とも呼ばれる箇所です。

 パンを食べさせたイエスを追い求めて来た人々に「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」とイエスは語ります。ここからイエスと群衆とのやりとりが始まります。弟子たちでさえもイエスの言葉を信じることができず、イエスから離れ去っていきます。イエスが十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と訊くと、シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と信仰告白します。

 イエスは「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」と言います。この「意志」と「御心」とは同じ単語です。イエスはご自分の意志を行うためではなく、イエスをお遣わしになった方の意志を行うために天から降ってきました。その方の意志は「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」です。

 イエスを信じることによってわたしたちは永遠の命を得ることができるのです。この言葉を信じてイエスと共に留まるか、あるいはイエスから離れ去るか、今日わたしたちの決断が求められます。

 

ひとこと

 柏木哲夫先生は、1984年に日本で初めてホスピスを開設した精神科医であり内科医です。ホスピス医としての経験を踏まえ柏木先生は次のように言います。

 

 「サマセット・モームという有名な作家が、次のような言葉を残しています。『世の中にはたくさんの統計があって、その中には、まやかしの統計もある。しかしこの世の中に絶対に間違いがない統計がひとつ存在する。その統計とは、人間の死亡率が100%であるという統計だ』というものです。

……この世に生を受けたものは、ただ一人の例外もなく、死を迎えます。まさに人間の死亡率は100%です。しかし私たちは日常生活の中で、あまり自分の死ということを考えないで生活をしているのではないかと思います。頭の中ではやがて自分も死を迎えるということは誰もが理解をしているんですが、自分の死についてしっかりと考えるということを、あまりしないのではないでしょうか」と柏木先生は言います。

 さらに、「人は死を背負って生きている」と言います。つまり生と死の関係というのは、ちょうど一枚の紙の表と裏の関係であり、予想外の突然の死もあり得ます。死に直面してから突然あわてるのではなく、普段から自分の死についてよく考えておくとよいと柏木先生は言います。そして、せめて一年に一度、自分の誕生日に自分の死についてよく考え、心の準備をしておくことを勧めています。

 

 「死者の日」の今日、わたしたちは人間の死亡率は100%であることを今一度確認し、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われるイエスに、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と心からより頼むことができるよう祈りましょう。

マタイによる福音

そのとき、5・1イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 

 イエスが幸いであるという人は、一般的には幸いとは呼べないように思います。しかし、そうした状況でも幸いなのは神がその人と共におられるからではないでしょうか。

 イエスはこの教えを山の上で説かれたので、マタイ福音書5章以下のイエスの教えは「山上の垂訓」と言われています。

 この教えは、イエスご自身の体験を踏まえているように思います。

「心の貧しい人」「悲しむ人」「柔和な人」「義に飢え渇く人」「あわれみ深い人」「心の清い人」「平和を実現する人」「義のために迫害される人」は、イエスご自身ではないでしょうか。

イエスは迫害を受け、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるご自分に従う人にも幸いだと言います。

イエスは彼らと共にいて、大きな喜びを共にすると約束します。

 

 諸聖人の祝日については、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/sol_1101.php