マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは〕15・21ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 

 イエスに娘を救ってくれるよう頼んだカナンの女性の勇気と粘り強さに感服します。

 この女性の「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」という言葉は、ミサのあわれみの賛歌「主よ、あわれみたまえ」(キュリエ、エレーソン)と同じ言葉です。

 わたしたちはあわれみの賛歌を歌うとき、果たして、このカナンの女性の切実さと粘り強さをもっているのかと自問します。

ヨハネによる福音

 20・1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 マグダラのマリアが、復活のイエスの最初の証人になった理由は、彼女がイエスの死から埋葬、そして復活の朝に至るまで、誰よりも熱心にイエスのそばに留まり、探し続けていたからです。

 イエスは彼女に「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言います。イエスの言葉は冷淡に突き放しているように聞こえます。しかし、その真意は拒絶ではなく、「地上におけるこれまでの関係性の終わり」と、「新しい次元の結びつきの始まり」を告げることばでした。

 イエスはマリアに、「目に見える肉体にしがみついて引き留めようとするな。わたしは昇天によって、もっと深く、永遠にあなたたちと一つになるのだから」と言ったのです。

 

 マグダラのマリアについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=072201

 

マタイによる福音

 12・46イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 

 イエスの母と兄弟たちがイエスに話したいこととは何だったのかは福音書に書かれていません。

 マルコ福音書では、イエスの家族は「イエスが気が変になっている」という噂を聞いて、彼を「取り押さえる」ためにやってきました。

 食事も取らずに群衆に囲まれ、律法学者たちから「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などと非難されているイエスを見て、これ以上事態が悪化する前に「一度ナザレの自宅に戻って頭を冷やし、静養しなさい」と説得するのが一番の目的であった可能性が極めて高いです。

 家族が来ていることを知らされたとき、イエスは「だれがわたしの母、また兄弟なのか。……神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言います。

 このイエスの強い拒絶ともとれる態度は、家族の人間的な心配や、活動を止めさせようとする説得が、神から与えられた使命(福音を宣べ伝えること)と対立するものだったからにほかなりません。

 家族の語ろうとした言葉は、イエスにとっては「神の御心」を妨げる誘惑や障害になってしまうため、あえて血縁の絆を相対化して見せたのです。

 

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)