マタイによる福音

〔そのとき、〕13・24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 

 良い種を畑に蒔いた後に、敵が来て毒麦の種を蒔いたというたとえは、パウロの手紙にあるように、パウロの宣教後、使徒と称する人びとの教えに影響されたコリントの教会のことを想い起こさせます。

 

 畑に生えている麦の立場からは、自分が良い麦なのか毒麦なのかを判断できません。

 

 イエスをお遣わしになった神に、たとえ毒麦であったとしても、良い麦に変えてくださいと祈ります。