感情をコントロールするって、ひとつ、大人としてのルールなんじゃないかな?とふと思った今朝のこと。


子どもの頃って、感情をうまくコントロールできないことって、多々あるけれど(笑)


大人になったら、相手が誰であれ、他人であれ、逆に、親しい家族だからこそ、
感情コントロールって、相手への優しさだなぁ、と思う。


どんな時であっても、
立山が(たとえば)噴火しても、
富山湾が(もし)モーゼの受戒のように真っ二つに割れたとしても、
焦らず、
動じず、
起きている事象を冷静に眺め、自分の感情を一歩、ひいた視点で眺めたいものだ、と。



と言っても、まぁ、それはそれで、難しいことではあるのだけれど。


私の人生において、大変、大変、お世話になり敬愛していると言っても過言ではない、
BIOTEC社の担当者の方から(もう6年くらいのお付き合いかな?)
私は普通の人と比べて、神経を何倍も疲弊させるタイプなのだと言われている。


人は神経、身体系、弱点ってあると思うけれど、私の場合は神経系が弱いみたい。
それがいまは体質改善のおかげで、だいぶタフになった(と思う)のだけど、
ここ数日は、自分でも知らず、知らず、神経が疲れていたみたい。



普段、「疲れた」とは本当に言いたくないのだけど、
今回は、人に会っていて「どうしたの?」と心配そうに言われたので、
「今の私には、ちょっと休息が必要なのかも」と口にしてみたら、スッキリした。




明日は何もせずに、バカになった気分で(笑)
のんびり小豆でも煮ようかな?

朝晩はすっかり涼しい…を超えて、寒いくらいの我が村です。

さて、明日は第一回目の記念すべき富山マラソンとあり、参加者の皆さんは明日に備えて、体調万全で臨まれるのだろうなぁ…と思いながら、参加者でない私まで、なぜかドキドキしております。

忘れられない、特別なレースになりますように。


閑話休題。

今回、久々に東京に帰ってきました。目的は「富山移住フェア」の相談窓口に出るためのお仕事だったのですが、少し長めにお休みもくっつけ、姉、知恵蔵さんのお家がある青梅でのんびりとさせていただきました。


しみじみ思ったのが、誰かと一緒におしゃべりしながら食べるご飯は、特別に美味しいなぁ、ということです。普段、下手すると、朝、昼(昼は職場の皆さんと出かけることも多々あるけれど)、夜と、一人でご飯食べていることもある、と考えると「ギャァァァ~~~~!それは身体に悪そうだわ」と叫びたくなります(オーバー?笑)

でも、知恵蔵さんも、こないだ学んだアーユルベーダのレッスンで、「誰かと楽しくおしゃべりしながらの食事は、たとえ、食事に、身体に悪いものが入っていたとしても、それを消してしまうくらいの力がある」といったニュアンスのことを学んだそう。

ふむ、ふむ、納得。

確かに、どんなハイカロリーなもの食べても、楽しくおしゃべりしながら食べると、逆に体重が増えていない(減っていたり)こともある。添加物だって、楽しい語らいの前には、その力を失いそうだわ。


身体の神秘、
身体の不思議。


ということで、美味しい豚汁やカレーを作ると、一緒にハフハフしながら食べたいよね、と思う2015年の秋だから…(正確には、秋から冬に向かって進行中)



チャオ♩

ここ、富山県に来たのは、私に課せられた、ここでやるべき、「使命」があったんだなぁ、とつくづく思う今日この頃。


普通、移住なんて、それこそ、Uターンならともかく、縁もゆかりもない場所に来るなんて、

常識のある大人なら、あまり考えないと思うのです。


でも、私の場合、ここに来ずにはいられませんでした。

それだけ私を「移住」させるに、それにふさわしい「原動力」が必要だったんだなぁ、と。





その、「原動力」。

事情を知っている友人その他、ハタから見たら「あららら~デコちゃん…」と笑われていたかもしれない。



いま、こっちに来て半年たって、いろんな呪縛から脱皮できて、

ひとつ、ステージが上にあがったような気分です(笑)。



この半年、時にモヤモヤしたり、時に苦しいことがあったけれど、

自分を苦しめているのは、ぜんぶ、自分の呪縛だったんだな、と。




長い、長いトンネルを抜け出た先の太陽は、いつにもまして眩しかった。



これからが、本当の意味でのスタートかもしれない。



ここでやるべきことがあるから、神様は私の背中を押してくれたんだなぁ。


ここに移住するために起きた、嬉しかったこと、悲しかったこと、時に泣いたこと。

あらゆる事象に心から感謝するとともに、

これからも立山の神様の思いに報いれるよう、精一杯、全力を尽くす次第でござんす。



皆さん、そんなワケでこのあっし、
心身ともにすこやかでやんす。



(こほん)




しあわせな瞬間…って、後からじんわりと、思い出すものなのかも。


その瞬間瞬間も、もちろん、しあわせなんだけれど、ちょっと時間が経って、「あぁ、そういえば、あの夜はしあわせだったなぁ」ってしみじみ思い出すと、さらにそのしあわせ度が増す気がするの。



こないだ、家に立山町出身の同窓メンバーが集まってくださった時、
私はちょこちょこ台所に立ちながら酒肴をこさえていたのだけど、お隣の部屋で、みなさんがリラックスしてくつろぎながら、楽しそうに会話しているのが聞こえてきて。



あの瞬間も、今思えば、えらくしあわせなひとときでした。



半年前までとは、明らかに私を取り巻く環境、人間、水、食事、空、空気、…すべてのものが180度違う。


そして、いま、家の中で、立山弁(富山弁?)を話すお仲間たちの隣の台所で、私はお料理を作っている。



私はなんちゅうファンタスティックな土地に来てしまったのかしら??



たまに、お山たちの神々しい表情を見ながら、ハッと息をのみそうになる瞬間があって。

その瞬間も、これは夢ではないかしら?と思うこと多々。



今ここに住んでいることが未だに夢のように感じる不思議。

一応、ほっぺたをつねったら、痛かったから、たぶん、これは現実だと思うのだけれど(笑)。



多分、この先もずっとこんなこと言っていると思う。


夢なら、覚めないで♪


走ることは昔から好きで、中学の頃は、中距離、大人になってからは長距離が好きだった。


さらに大人になってからは、「ランはアンチエイジングに反する=老化を早める」と思っていたので、

もっぱらランは封印して、ウォーキングばかりだった頃もあった。


それが昨年の今ごろは、よく走っていたなぁ、と思い出した。


ある日、テクテク歩いていて、何だか、もどかしくなって、ちょっと走ってみたのだった。

そしたら、どんどん走りたくなってきた。



秋の涼しい夜、池袋の住宅街を抜けて目白の方まで走った。

深夜までネオンが明るく照らす、池袋の西口の繁華街を戻り、要町の家まで帰ったものだった。


こないだの千垣の運動会で。

短距離は苦手なのに、リレーに出て久々に全力疾走した。

短距離を走るのって高校生以来かも。


ふと、思った。

人はなぜ走るのだろう?

走る時って、みんな何を考えているんだろう?



たとえば、台所でお野菜を刻んでいる時、

お米を研いでいる時、

走っている時。



「単純作業」って、思考が一点にギューッと集中する(私の場合)。

そして、「人はなぜ生きるのか」「なぜ走るのか?」など、思考がやや哲学的になる不思議。


大学を出て社会人になった頃は、当時住んでいた、稲城の小高い丘の上を走っていた。


去年は、池袋の住宅街を走っていた。


そして、今年は富山を、立山町を走っている不思議。



そういえば、昔、好きだった広告コピーを思い出した。

「足を止めた時、そこが旅の終わり」。


競馬か何かの広告だったかな?


そこから派生して、またこの言葉。

「人生は、たかが1レースの競馬だ。逃げ馬になっている暇など、どこにある?」


10年後、私はどこで走っているのだろう。

それとも、走らず、歩いているのかな?



「百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」