42-300-お揃いの花かんむりで満足げな双子の女の子たち

 

 

前項「飯塚事件は冤罪なのか 1/3」に続き、ひたすら資料を列挙していきます。

 

 

その他の基本情報

Wikipedia抜粋

 

Wikipediaから捜査、福岡県飯塚市7歳女児行方不明事件の部分と共に私が気になった箇所などを抜粋しておきました。
(※脚注リンクは一部カット・太文字は当ブログ筆者によるものあり。)

 

飯塚事件 – Wikipedia

 

飯塚事件(いいづかじけん)は、1992年(平成4年)2月20日に福岡県飯塚市で2人の女児が行方不明になり、翌21日に同県甘木市(現:朝倉市)の八丁峠で他殺体となって発見された事件である。

 

事件から2年後の1994年(平成6年)、久間 三千年(くま みちとし、事件発生当時54歳、逮捕当時56歳)が殺人などの被疑者として逮捕された。その後略取誘拐・殺人・死体遺棄の罪で起訴され、2006年(平成18年)に最高裁で死刑判決が確定(10月8日付)。2008年(平成20年)10月28日、福岡拘置所で死刑が執行された(70歳没)。久間と妻は冤罪を主張しており、執行後の2009年(平成21年)に1度目の再審請求がされたが、2021年(令和3年)に請求棄却が確定した(#再審請求#冤罪主張を参照)。現在は2度目の再審請求中である。

 

(略)

 

事件の概要

捜査

捜査本部は、事件発生から5日後の2月25日、被害者と同じ校区に住む[18]久間三千年(事件発生当時54歳[注釈 2]:無職)宅を訪問し、事件当日のアリバイなどを事情聴取している[19]。久間は当時、妻、長男と飯塚市内(被害者2人の家付近)に在住しており(逮捕時は母親とも同居して4人暮らし[20])、定職に就いていなかった一方、3年前の1988年(昭和63年)に発生した女児行方不明事件(後述)の際、失踪した女児が直前に久間宅で遊んでいる姿が目撃されていたこともあって、捜査線上に上がった[21]。一方、県警は同年3月9日付で、「現場付近で不審な車と男を見た」という甘木市の山林組合職員から事情聴取し、「事件当日(2月20日)の11時ごろに、遺留品発見現場付近を偶然通りかかったところ、不審な紺色のやや古いワンボックスカーと男の姿を見かけた」という調書を作成したが、久間はその目撃証言で挙げられた車と同じタイプの車であるマツダ・ボンゴステーションワゴン・ウエストコーストを所有しており、車体の色(紺色)や、「後部の窓にスモークフィルムが貼られている」という特徴も、その目撃証言と一致していた[22]。八丁峠は昼間でも車の往来が少ないため、目撃された車を運転していた犯人が、2人の遺留品を捨てている最中だった疑いが浮上したのである[23]

 

同年3月20日[24]、久間を重要参考人として取り調べ[5][25]ポリグラフ検査を実施したほか、毛髪と指紋の任意提出を促した[25]。女児殺害に関して、警察庁科学警察研究所(科警研)にDNA型鑑定を依頼したところ、女児の遺体などに遺されていた血痕(犯人DNA型)と、久間の毛髪のDNA型がほぼ一致するという結果が出た[5]。これを受け、捜査本部は直ちに久間を逮捕しようとしたが、当時はDNA型鑑定の精度がまだ低く、「この鑑定結果だけで立件の決め手とするには不安が残る」と考えた福岡地方検察庁が難色を示した[5]。県警は同じ資料を東京大学帝京大学の法医学教室などに提供し、再鑑定を依頼したが、その際には遺体に遺された血痕から、久間のDNAは検出されず、この時は逮捕には至らなかった[26]。しかし、捜査本部はその後も久間を徹底的にマークし続け、朝から晩まで久間宅近くで張り込みを行ったり、公然と尾行を行ったりした[27]。一方、久間は地元マスコミ(『西日本新聞』や『朝日新聞西部本社版など)の取材に対し、「被害者2人のことは知らない」「遺体発見現場に行ったことはない」などと無実を主張したほか、捜査本部への不満もあらわにしていた[28]。事件から半年後の1992年9月、久間は新車を購入するため、犯行に用いたと疑われていたワゴン車を北九州市内の中古車業者に売却した。県警はすぐにその車を押収し、車内を調べたものの、車内が異常な程きれいに掃除されており[29]、久間の関与を裏付ける証拠は得られなかった[30]

 

1993年(平成5年)9月29日朝、福岡県警捜査一課と飯塚署に所属する2人の巡査長が、久間宅のゴミ袋を持ち去ろうとしたところ、激怒した久間は剪定鋏を手に2人に抗議し、揉み合いの末に2人を負傷させ、傷害容疑で現行犯逮捕された[31]。その後、久間は傷害罪で略式起訴され、罰金10万円の刑が確定した[30]

 

1994年6月、新たなDNA型鑑定方法の開発を知った捜査官が再度車内を捜索したところ、繊維鑑定で切り取った部分と接する部分に変色痕があった[29]。東レの鑑定人に照会したところ、繊維鑑定で切り取って東レの鑑定に出された部分に当初からシミが存在したことが確認された[29]。そのため、座席シートをはがして調べてみると、他に染み状になった部分があり、後に第1審判決後になされた鑑定の結果、東レに繊維鑑定に出していたシミの部分につき、A子と同じO型の血液が検出され、新たなTH01型・PM検査法を試みたところ、A子のDNA型と同一の型であることが判明した[29]

 

また、女児の衣服に付着していた微量の繊維片についても科学鑑定したところ、「久間の所有していたワゴン車の座席シートの繊維片とほぼ一致する」という鑑定結果を得た[32]。このため、捜査本部は1994年(平成6年)9月23日、、死体遺棄容疑で久間(当時56歳[注釈 2])を逮捕した[32]。久間は一貫して犯行を否認し続けたが、同年10月14日に殺人などの容疑で再逮捕され[32]、同日、福岡地検から死体遺棄罪で起訴される。同年11月5日、久間は殺人・略取誘拐でも追起訴された。

 

裁判

死刑執行

2007年(平成19年)2月7日付で、福岡高等検察庁から死刑囚死刑確定者)となっていた久間に対する死刑執行が上申された[50]。その後、森英介法務大臣2008年(平成20年)10月24日付で、久間ら死刑囚2人の死刑執行命令書[注釈 4]にサインし[50]、久間は同月28日、収監先の福岡拘置所で死刑を執行された(70歳没)[注釈 2][8]。前回の死刑執行(同年9月11日:当時の法務大臣は保岡興治)からの間隔は1か月半[52](47日)だったが[53]、これは1993年(平成5年)の死刑執行再開以降では最短であった[54]死刑執行の際、久間は手順に従って氏名を確認しようとする刑務官に対し「そんなこと、おまえが分かっとるだろ」と怒りを露わにし、遺書のために用意された紙とペンも受け取らず、最期まで「私はやってない」と怒鳴っていたという[55]

 

朝日新聞』は、2018年における再審請求控訴審の棄却を報道する際、2008年の死刑執行に対して「刑が確定してから約2年という異例の早さ」と報じている[56]。2007年までの10年間で、死刑確定から執行までの平均期間は約8年だった[57][58]。他方で、2008年6月から民主党政権になるまでの死刑被執行者15人のうち13人が2〜3年程度で執行されている事実があり、特段早くない旨の見解も元検事から主張されている[59]

 

福岡県飯塚市7歳女児行方不明事件

1988年(昭和63年)12月4日、本件被害者と同じ小学校の1年生女児(7歳)が[10]、弟とともに久間の息子を訪ねて100メートル離れた[75]久間宅に遊びに行った後、行方不明となる事件が発生していた[76][77][78]。なお、久間が最後の目撃者である[79]

 

福岡県警は、1994年の逮捕後に久間のポリグラフに対する顕著な反応が出たことがきっかけで[80]久間や女児の住む団地近くの雑木林を捜索した[81]結果、女児のジャンパーとトレーナーを発見し[76]、女児の母親が確認した[82]県警には、団地近くの山林に久間が当時頻繁に出入りしていたとの情報が寄せられていた[81]。発見された衣類は比較的傷みが少ない状態であり[83]、捜査幹部によると、失踪後数年してから捨てられた可能性があるという[84]。その後、衣類発見現場から約3メートル離れた土中から子供のような骨3点が見つかった[85]が、骨自体が小さく骨髄液を検出できなかったため、人骨と断定できないという結論となった[86]

 

久間は、事件当日に女児と会ってチョコレートをあげたということは認めており[87]女児の衣類を見せられると動揺した様子をみせて「骨も一緒にみつかったのか」などと捜査員に質問した[85]。しかし、「自分は事件とは無関係だ」と供述する[88]など、事件の関与については全面否定した[89]。その後進展なく1995年2月18日、捜索は打ち切られ、現在も未解決であり、事件に巻き込まれたのか事故に遭ったのかも不明。

 

冤罪主張

久間は逮捕前から刑死する直前まで一貫して無実を主張した。逮捕前にはマスメディアの取材に応じ「アリバイ以上のものを持ってる。100%関係ない。やってないものをやったと思われたことだけは、白黒必ずつける。」などと語っていた[9]。死刑執行後に妻から行われた再審請求の詳細については前述(#再審請求)のとおりである。

 

足利事件との相違点

「西の飯塚、東の足利」と言われてきた通り[90][91]、本件と足利事件両事件はMCT118型検査法によるDNA型鑑定が同じ時期に同じ方法で、同じ鑑定技官[10][11]によって実施されたという共通性は認識されていた[92]。

 

2008年10月16日、足利事件の再鑑定が行われる旨の報道がされた。その12日後の10月28日、本件での久間の死刑が執行された。2009年6月4日、足利事件で服役中であった人物が最新のDNA型鑑定などによって事実上の無実釈放となる。足利事件は、当時の123塩基マーカーで計測したMCT118型の鑑定結果を、アレリックラダーマーカーで再計測したところ、犯人と服役中であった人物のDNA型が一致しないことが明らかになったものであり、また有罪判決に足る証拠はDNA型鑑定と血液型の結果以外になかった事件である。

 

それに対して、本事件は、第二審でアレリックラダーマーカーで検証されているほか、新たに開発されたTH01型とPM型の検査法(2万3000人に1人の精度[93])によって久間所有の車の血痕と被害者のDNAが一致したとの結果が出ている[3]点で異なる。さらに、足利事件とは異なり本事件では車両の目撃証言や繊維片、腟内の血痕の存在など「重要かつ特異的であり、一つ一つの情況がそれぞれに相当大きな確率で犯人を絞り込むという性質を有する」情況証拠が多数存在し、血液型とMCT118型の一致は「決定的な積極的間接事実とはなりえない」と最高裁が支持した第二審判決において判示されている点でも異なる。なお、足利事件は、日本弁護士連合会が支援する再審事件であったが[94]、本事件の再審請求は日弁連によって支援されておらず、2014年3月31日の再審請求棄却決定時に日弁連会長が決定を容認できない旨の声明を出したに止まった[95]。

 

(略)

 

足利事件との比較

 

DNA型鑑定が決定打となった足利事件になぞらえて冤罪を唱えている人ばかりなので、上記記事「足利事件との相違点」を箇条書きにしてみました。
冤罪派が喧伝していることと現実とでは大分違うことがわかると思います。
(ちなみに、私には部分的に冤罪のヒーロー・小野悦男とチカチーロを連想させられる案件とも言えます。)

 

【共通点(重要なもののみ)】

 

・MCT118型検査法によるDNA型鑑定が同じ時期に同じ方法で、同じ鑑定技官によって実施された

 

【相違点】

 

(※Wikiからの抜粋に少々追加。)

 

<足利事件>

 

・種々の問題をはらむ自白あり

 

・DNA型鑑定の試料が精液

 

・有罪判決に足る証拠はDNA型鑑定と血液型の結果以外になかった

 

・当時の123塩基マーカーで計測したMCT118型の鑑定結果を、アレリックラダーマーカーで再計測したところ、犯人と服役中であった人物のDNA型が一致しないことが明らかになった

 

・日本弁護士連合会が支援する再審事件

 

<飯塚事件>

 

・自白なし

 

・DNA型鑑定の試料が血液

 

血液型とMCT118型の一致は「決定的な積極的間接事実とはなりえない」と最高裁が支持した第二審判決において判示されている

 

第二審でアレリックラダーマーカーで検証されている

 

新たに開発されたTH01型とPM型の検査法(2万3000人に1人の精度)によって久間所有の車の血痕と被害者のDNAが一致

 

・車両の目撃証言や繊維片、腟内の血痕の存在など「重要かつ特異的であり、一つ一つの情況がそれぞれに相当大きな確率で犯人を絞り込むという性質を有する」情況証拠が多数存在

 

・再審請求は日本弁護士連合会によって支援されていない (※これでお察しください…みたいな。)

 

 

ということで、皆様には是非、

 

・飯塚事件ではDNA鑑定は判決において重要視されていないこと

 

・冤罪派だって間違うことがある、もしくは、自分たちの思惑・主張を通すためには嘘をつくという現実

 

を受け入れてほしいものです。

 

ついでに、石山昱夫帝京大名誉教授によってなされた鑑定や筑波大学法医学教室の本田克也教授の鑑定、科警研のDNA型鑑定の写真・ネガフィルム、試料の量については 前項 の「冤罪否定派による検証記事・動画」(特に 飯塚事件 – Enpedia ) で検証済みだし、判決文を読んでもDNA型鑑定は決定的な証拠とはされていないので、そこをつついても無罪にはならないと思われます。

あと、國松さんの件は私も感心できないとはいえ、鑑定結果自体は明らかになっているので、以下同文。

 

 

第二次再審請求の動き

 

福岡・飯塚事件再審請求 「新証言」行方は 15日に3者協議 – 産経ニュース (2021/9/13)

 

「飯塚事件」元死刑囚の遺族側が2度目の再審請求 – YouTube

(ニュース動画・2021/07/09)

 

新たな目撃証言「別人の車に2女児」 飯塚事件、2度目の再審請求|【西日本新聞me】

(2021/7/10)

 

 

飯塚事件証拠品、リスト開示勧告 福岡地裁 /福岡 | 毎日新聞

(2023/3/26)

 

「新証拠」の目撃証言男性を証人尋問へ 飯塚事件2次再審請求、5月31日に福岡地裁で|【西日本新聞me】

(2023/4/22)

 

5/31追記

女児2人殺害『飯塚事件』の再審請求 弁護側の証人が法廷で語る - YouTube

(2023/05/31)

 

CGについて一言:この証人は服装の色まで証言していなかったのでは?

 

 

 

証人尋問間近ですが、新証拠の目撃証言は、死亡推定時刻を過ぎてからの目撃(だから、当初から警察に採用されなかったのでは?)なので、これで再審は無理なのでは。
そして、当然、証言者には悪意は全くなく、善意や周囲の期待に応えたいという思いしかないのでしょうけれども、公判での元死刑囚のマツダのボンゴ目撃証言にあれだけケチをつけた弁護団や冤罪派は、約30年前の詳しすぎる目撃証言も同じ基準(↓)で疑うべきだと思います…というか、まんまブーメランじゃないですか。

 

ただ、八丁峠の「見えないはずのことまで」は1/3で挙げた 再現映像 を観ると、見えていても不思議ではなかったし、判決文等で反論がなされています。

 

日本弁護士連合会:飯塚事件

 

遺留品発見現場の目撃証言は目撃後に相当時間が経過しているのに、内容があまりにも詳細にすぎ、実際には見えないはずのことまで証言している等の問題点があります。

 

被害者の失踪現場付近での目撃証言も、事件発生から何か月も経過してから証言を始めた、科警研のDNA鑑定が出た後に証言を始めた、その内容もあまりにも詳細にすぎる等の問題点があります。

 

 

とりあえず、八木山バイパス(国道201号)の資料も掲載しておきます。

 

■八木山バイパス(国道201号)

 

八木山バイパス – Wikipedia

 

八木山バイパス(やきやまバイパス)は、福岡県糟屋郡篠栗町を起点とし、同県飯塚市に至るバイパス道路国道201号)。

 

国道201号 八木山バイパス 福岡国道事務所|国土交通省 九州地方整備局 更新日:令和4年6月9日

 

yakiyama2022_2-国道201号 八木山バイパス 福岡国道事務所

 

現場地図・動画

 

■福岡県飯塚市潤野

 

 

■八丁峠(国道322号線)

 

八丁峠 – Wikipedia

 

国道322号 – Wikipedia

 

国道322号(こくどう322ごう)は、福岡県北九州市小倉北区から久留米市に至る一般国道である。

 

概要

(略)

 

田川市街地を抜けると、嘉麻市山田市街地を通る。旧山田市地区を抜け、旧嘉穂町から朝倉市境界にあたる八丁峠区間はカーブが多く、道幅の狭い峠道であるため交通量は少ない。この区間は八丁トンネルを含む八丁峠道路が整備され、2019年令和元年)11月16日に開通した[2]

 

(略)

 

 

国道322号 八丁峠道路 福岡国道事務所|国土交通省 九州地方整備局

(平成17-27年度平均で1年のうち約4か月間、災害・積雪による通行規制が発生)

 

【R1.11.16】国道322号八丁峠道路が開通!~地元の喜びの声~ – YouTube

 

国道322号線 八丁峠のトンネル開通前に旧道となる山道を走った。 – YouTube

(2019/07/27)

 

【4K60FPS】急勾配・急カーブの八丁峠の旧道を走るだけ【GSX-S1000F】 – YouTube

(2021/05/01)

 

 

飯塚事件は冤罪なのか 3/3」に続きます。