2018年3月10日、フランスの有名ファッションデザイナー、ユベール・ド・ジバンシィ氏が死去しました。91歳でした。
パートナーでデザイナーのフィリップ・ブネ氏が「眠っている間に亡くなった。甥たち、姪たち、その子どもたちが、苦しみを分かち合っています葬儀は親しい親族のみで執り行われる」と12日、声明で明らかにしました。
1927年パリの郊外ホーヴェでプロテスタント系の貴族の家系に生まれた本名ユベール・ジャム・マンセル・タファン・ド・ジバンシーは2歳の時に父親と死別し、タペストリー工場を経営する祖父に育てられました。ローベル・ピケ・ジャック・ファット(Robert Piguet Jack Fat)のメゾンを経てから修行を積み、エルザスキャパレリのモデリストと主任を務めました。そして、1951年ユーベルト・ジバンシィが当時24歳初のコレクションでは、資金面の問題などによって、安価なコットン素材を使用したシンプルなブラウスやドレスを中心に発表し1952年2月2日に自身の名前を付けた、ジバンシィ社を設立します。女性の体のラインを強調したスタイルとは対照的に、自由であり、かつ体のラインを表現しないスタイルは新鮮さがあり、新しい流行りを生み出しました。
ジバンシィが貴族や著名人から支持されたのかは、貴族的なベースの中に、カジュアルさとシックさ、モードさを織り交ぜたことで、革新的なブランドとして認められたからです。
ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィと女優のオードリー・ヘプバーンの友情は、ファッションの歴史において最も美しいものといわれています。
2歳年下の女優オードリー・ヘプバーンの衣装を多数デザインしたことで知られおり、1954年にはオードリー・ヘップバーンが主演を務めた映画「麗しのサブリナ」の衣装も彼のものでした。
1953年に初めてヘプバーンに出会った時、ジバンシーはショーの準備で多忙のため彼女の衣装作りを断りました。しかしヘプバーンに誘われディナーを共にしたジバンシィは瞬く間に彼女に魅了され、その大役を引き受けその後ふたりは長年の友人関係に。
「To Audrey with Love(オードリーへ、愛を込めて)」のオープニングでジバンシィは「オードリーは、映画『麗しのサブリナ(Sabrina)』のためのドレス制作を依頼しに私のところへやってきた。しかし、私は彼女のことを知らなかった。(女優の)キャサリン・ヘプバーン(Katharine Hepburn)が来ると思っていた」と振り返っています。
「初めて会った時の彼女は優雅で、若々しく、陽気で、少女のようだった。彼女はコットンパンツにバレリーナシューズ、おへそが見えるTシャツ姿で、手には麦わらのカンカン帽を持っていた」
前年に自身のブランドを立ち上げたばかりだったジバンシィは「とても映画の重要な役割を持つ衣装を作れるような状態ではなかった」と語り、女性裁縫師が足りないことを理由に断るもオードリーは彼の答えを受け入れず、ジバンシィをディナーへ招待したそうで 「当時、しっかりとした家の出の若い女性が取る行動としては非常に大胆だった」回想。
ともに貴族のルーツを持つ二人は意気投合ジバンシィは、ディナーが終わるころには2歳下のオードリーに魅了されており、仏パリにある自身のスタジオに次の日の朝来るようにと伝えていたとか。「彼女に説得されてしまった。引き受けて本当に良かった」とジバンシィはAFPに対し話しまし。
映画『麗しのサブリナ』でヘプバーンは、「ジバンシィ(Givenchy)」のアイボリー色のドレスに黒い花モチーフの刺しゅうを施した一着を着用。これはその後の映画史に残る一着に。
1954年、『ローマの休日(Roman Holiday)』でアカデミー賞(Academy Awards)の主演女優賞を受賞した際にもジバンシィが手掛けたドレスを着用。
オードリーの映画でジバンシィが衣装を担当した映画は、8本にもわたります。
その後オードリー・ヘップバーンはプライベートでも着用しました。「オードリーのスタイルは他とは違うシルエットで、その時代らしいものだった」と、彼女が1993年に亡くなるまで衣装を担当したジバンシィは語ります。ジバンシィは、「彼女が好きで着るもの」以外の服を着るように説得したことはないと話しました。
映画「ティファニーで朝食を」の冒頭シーンでヘプバーンが着ている黒いドレスは、ジバンシィ氏の最も有名な作品の一つ。 「おしゃれ泥棒」といった代表作の衣装製作も手掛けます。
オードリーはかつて、「私自身でいられる服はジバンシィのものだけ。彼はクチュリエ以上の人で、パーソナリティーのクリエイター」なのだと、亡くなる直前まで彼女の側にいた友人に「服飾デザイナーを超えた個性の創作家」と彼について話していました。ジバンシィはヘプバーンの晩年、彼女にネイビーのキルト風コートを渡し、こう伝えました。「悲しい時はこれを着て。そうすれば勇気を貰えるから」
63歳で余命3カ月の宣告を受け彼女が望んでいたのは、スイスでクリスマスを過ごすことでした。その願いを叶えたのは、ジバンシィだったのです。健康状態を考えると、それを実現するには命に関わる危険がありました。オードリーの10年来のパートナーであるロバート・ウォルダーズが『People』誌に語ったところによると、ジバンシィがメロン財閥当主のポール・メロンの妻であるレイチェル・“バニー”・ランバート・メロンに相談しプライベートジェットを手配し、ヘップバーンをアメリカから、19世紀に建てられたスイスの自宅まで、細心の注意を払って運ぶ手はずを整え、オードリーは大好きなスイスの家で1993年1月20日、オードリー・ヘップバーンが63歳で亡くなりました。
ロバートは「ロサンゼルスからのフライトでしたが、途中で息を引き取ることも考えられました。だから私たちはプライベートジェットに乗ってもらうようにしたのです。飛行機は、彼女の親友でデザイナーのユベール・ド・ジバンシィと、友人のバニー・メロンが手配してくれました。機内の気圧が急変しないよう、パイロットが降下に細心の注意を払ってくれました。彼女はほとんど生命維持装置につながれている状態だったのです」とそのサポートを語っています。
1950年代、ロングドレスを試着するヘプバーンとジバンシィ氏
ジバンシィ氏は2010年のインタビューで「黒のミニドレスはシンプルにまとめなければいけないから、一番形にするのが難しい」と語りました。
Audrey Hepburn Givenchy coat
2009年12月36着のオードリーのアイテムがオークションに出されました。その中にはジバンシーのものが多く含まれました。
ユベールが考える「エレガンス」は、ファッションアイテムで「エレガンス」を表現するのではなく、自分自身でチョイスして身につけることが「エレガンス」と説いています。ジバンシィのコンセプトの「エレガンス」の主体は、アイテムではなく自分であることを主張しています。
ジバンシィ氏は1995/96年秋冬コレクションで43年のデザイナー人生に幕を下ろしましたがこのファッションショーの直前、「服を作るのはやめるが、発見することはやめない。人生は本のようなもの。いつページをめくるかわきまえていないと」と友人に語ったそう。
ファッションを介した友情が以後、仕事の上でも個人的にも親交を深め40年近く続いたことについて2015年ジバンシィは、その関係を称して“一種の結婚のようなもの”だった、と英紙『Telegraph』に語りました。
完璧なカップルにも見える二人
大好きな写真の一つ
オードリー・ヘップバーン ジバンシーとの親愛 Hubert de Givenchy→●
ジバンシィがオードリーのためにスケッチした150もの厳選されたスタイル
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