【ヘッセン大公国】ヘッセン大公国エリーザベト大公女 | Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *

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Princess Elisabeth of Hesse and by Rhine (1895–1903)
ヘッセン大公国エリーザベト大公女

ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とその妃でイギリス女王ヴィクトリアの娘であるアリス・モード・メアリの間の長男(第4子)エルンスト・ルートヴィヒ(1892年第5大公に)と1894年4月19日に結婚したザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの娘で母方の従妹にあたるヴィクトリア・メリタは通の共通の祖母ヴィクトリア女王の祝福を受け結婚。2人には、エリーザベト大公女が生まれました。大公夫妻は、大公が同性愛者で浮気が激しかったことなどが原因で1901年12月21日に離婚。一人娘エリーザベトは母に捨てられたと思い、その後は半年ずつ両親の元で暮らすことになりました。

 

 

Princess Elisabeth of Hesse and her mother Princess Victoria Melita, Grand Duchess of Hesse in 1898.

Princess Elisabeth of Hesse, ca. 1901.

 

1903年10月6日、初代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンとその妻であるヘッセン大公女ヴィクトリアの長女アリス・オブ・バッテンバーグとギリシャ王子アンドレアスとの結婚式がダルムシュタットのヘッセン大公家で行われます。(フィリップ殿下の両親)

エリーザベト大公女は父方の叔母アレクサンドラ皇后らと、ポーランドのスパラにあるロシア皇族らの狩猟用の宮殿で、いとこのオリガやタチアナとともに過ごしていましたが同1903年に腸チフスで急死しました。8歳でした。

いとこのロシア オルガ皇女、タチアナ皇女と

 

父エルンストの幼年時代には、親族の死が続きました。ヨーロッパの王室ではヘッセン大公家には不幸な出来事が、悲惨な死を遂げた者 がわずか100年ほどの間に続出したことから、婚姻関係を結ぶのは不吉を呼ぶといわれるほどでした。血友病はイギリス王室からヘッセン大公家と、傍系のバッテンベルグ家を通じロシア、スペイン王室へも遺伝していきました。

 

エルンストが5歳の時、一緒に母アリスの寝室で遊んでいた2歳の弟フリードリヒが、窓から6メートル下へ誤って落ち最初は打撲だけで済んだかと思われるも遺伝性の血友病患者であったうえ、脳内出血でその日のうちに死亡。

彼は深い悲しみに沈み、『僕が死んだら、みんな一緒に僕と死んでよ。なんでみんなで一緒に死ねないの? フリードリヒみたいに、僕はひとりぼっちで死にたくない。』と、乳母に言い母アリスには、『天国で神様にお願いするんだ、またフリードリヒに会わせてくださいって。』と言ったという。幼い弟の墓は、やがて一家の巡礼地となり、そのことがますます彼にとって一人で死ぬことの強迫観念となっていきます。

1878年、ダルムシュタットをジフテリアの大流行が襲い親族と過ごすため宮殿にいなかったエリーザベト(のちのエリザヴェータ・フョードロヴナをのぞく、子供たち全員と大公が感染。

母アリス大公妃は家族を看病し続けるも、11月15日に末妹マリーが亡くなりアリスは、マリーを可愛がっていたエルンストにそのことを知らせまいとしたが、エルンストは姉にマリーの死を知らされ、病床で泣き伏し、母は彼を慰めようとしたが、彼女自身が感染し、12月4日に急逝した。母の死は、彼にとって生涯の重荷となりました。

 

【ヘッセン家の子女】

ヴィクトリアは(1863年 - 1950年) - 1884年、バッテンベルク公子ルートヴィヒ・アレクサンダーと結婚ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人となり、子孫は繁栄。

・長女アリス(1885年 - 1969年) は ギリシャ王子アンドレアス妃。エディンバラ公フィリップの母。

・ルイーズ(1889年 - 1965年) - スウェーデン王グスタフ6世アドルフ妃。

・ジョージ(1892年 - 1938年) - 第2代ミルフォード=ヘイヴン侯爵。ナデジダ・ミハイロヴナ・ド・トービーと結婚。

・ルイス(1900年 - 1979年) - 初代マウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵。エドウィナ・シンシア・アシュレイと結婚。

 

②エリーザベト(エリザヴェータ・フョードロヴナ(1864年 - 1918年) - 1884年、ロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチと結婚。1917年、ロシア革命の翌1918年3月20日に赤軍によりアパラエスク郊外の鉱山に送られ廃坑へ突き落され、手榴弾を投げ込まれて殺害されました。

 

③イレーネ(1866年 - 1953年) - 1888年、プロイセン王子ハインリヒと結婚。長男と三男は血友病患者であった。

 

④エルンスト・ルートヴィヒ(1868年 - 1937年) - ヘッセン大公

死後、妻と息子が飛行機事故死。母アリスが嫁ぐ際、ヴィクトリア女王からダイアモンドをちりばめたティアラが贈られこのティアラは、アリスの死後、長男エルンスト・ルートヴィヒの妃エレオノーレに引き継がれました。1937年に起こったオーステンデでの飛行機墜落事故の際、乗客だったエレオノーレらヘッセン大公家の家族は事故死するも鉄製の専用ボックスに入れられていたティアラは、奇跡的に無傷で見つかり現在このティアラは、ヘッセン財団に保管されています。

 

 

⑤フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・ヴィクトル・レオポルト・ルートヴィヒ(1870年 - 1873年)、兄のエルンスト・ルートヴィヒと母親アリスの寝室で遊んでいたところ、転落し血友病で死去。2歳。

 

⑥ヴィクトリエ・アリックス(アレクサンドラ・フョードロヴナ)(1872年 - 1918年) - 1894年、ロシア皇帝ニコライ2世と結婚。皇后アリックスはロシア革命で殺害される。

 

⑦マリー・ヴィクトリア・フェオドレ・レオポルディーネ(1874年 - 1878年)祖母のヴィクトリア女王が55歳の誕生日を迎えた日に誕生。ジフテリアの大流行で4歳で呼吸困難に苦しみながら死去。ヘッセン大公家の墓廟には、イギリス王室お抱えの彫刻家ジョゼフ・ベームにより、マリーを胸に抱いたアリス大公妃の姿を彫った墓石が安置。

 

母アリスの葬儀の際の写真(ヴィクトリア女王と)

 

1909年頃に皇室ヨット『スタンダルト』号にて姪のオリガ皇女(ロシア)と

 

1927年には私立探偵を雇って、姪でボリシェヴィキに殺害されたアナスタシアだと名乗ったアンナ・アンダーソンの正体がポーランド人フランツィスカ・シャンツコフスカであると発表した(この主張は、彼女の死後のDNA鑑定により事実だと立証された)。

エルンスト・ルートヴィヒ(5代)の死から間もない1937年11月16日、ロンドンで予定されていた(2番目の妻との)次男ルートヴィヒの結婚式に出席するため、大公妃エレオノーレ、長男ゲオルクの一家を乗せてダルムシュタットを出発した飛行機が、ベルギーで墜落。

乗員・乗客は全員死亡。幼いため結婚式に欠席していた孫娘ヨハンナだけが生き残り、ルートヴィヒ夫妻に引き取られた。しかし事故から18ヶ月後、ヨハンナも3歳になる前に病死。

1968年のルートヴィヒの死により、ヘッセン=ダルムシュタット家は断絶。

 

第2代ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の四男アレクサンダーとその妻ユリア・ハウケの子供たちはヘッセン家から分かれ、両親の隠遁地バッテンベルクにちなみバッテンベルク家となり、バッテンベルク家はヨーロッパ各国の王家と結婚により結ばれています。

イギリスへ移ったアレクサンダーの長男ルイスは家名をバッテンバーグ家、そしてマウントバッテン家と改めルイスの娘アリスの長男はエリザベス2世の王配フィリップに。

イギリスでは1960年に女王とフィリップの間の子孫はマウントバッテン=ウィンザー家(Mountbatten-Windsor)とする勅令が出ています。

 

 

 

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ナデジダ・マウントバッテン (ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人)Nadejda Mountbatten, Marchioness of Milford Haven(1896年3月28日- 1963年1月22日)