23歳のダイアナ妃がヘンリー王子を出産した際、女の子を欲していた チャールズ皇太子からかけられた第一声が「男か、しかも赤毛じゃないか」で、ねぎらいもなく部屋を立ち去られた...スコットランド地方の実家スペンサー伯爵家の特徴を否定され傷ついた話は有名です(この髪の色はスコットランド、アイルランドに多いと言われています。)
(赤毛というほど生えていないのに!失礼だわ!)
「王室メンバーには赤毛はいない」なんて意味を含んでいると聞きますが、王位継承権を否定しかねない間違い発言かも?と思ってしまいます。
1000年近い歴史を持つ英国王室では、【1701年の英国王位継承法】により「王位は、ジェームズ1世の孫娘であるハノーヴァー選帝侯妃ソフィーの直系で、プロテスタントである子孫に継承される」と定められていますが、エリザベス1世の次代の王であるジェームズ1世の母、スコットランド女王メアリー・スチュアートは美しい赤毛でスコットランドにある王家の城に髪の毛が残っています。
16世紀には現在の英国連合の形はなく、南部にロンドンを首都とする新教(現在のプロテスタント)のイングランド、北部に旧教(カトリック)のスコットランドとよばれる二つの王国が宗教や領土をめぐり争っていました。
ヘンリー7世は娘マーガレットをスコットランド王ジェームス4世に嫁がせイングランドとスコットランドの和平を実現しました。 エリザベス1世はヘンリー7世の孫。メアリー・スチュアートはひ孫。ジェームズ1世は玄孫。メアリー・スチュアートはスコットランド女王でもあり、イングランドのヘンリー8世の妹であるマーガレット・テューダー王女の孫、またフランス王妃。
生後7カ月でスコットランド女王として即位したメアリー・スチュアートは未来のフランス皇太子妃として5才でフランスに渡ります。 9歳年上のエリザベス1世は2歳8ケ月で母アン・ブーリンが父ヘンリー8世によって処刑され、身分を庶子に落とされ成長していきました。エリザベスは庶子の身分が回復されないままにヘンリー8世が亡くなったためメアリー・スチュアートはエリザベスのことをのことを「ヘンリー8世(エリザベスの父)の庶子」として王位継承を認めず、さらに「ヘンリー7世の曾孫にあたるメアリー女王こそがイングランド王にふさわしい」と考えました。
(メアリー女王 メアリー・スチュアート5歳)
(フランソワ2世と王妃メアリー)
スコットランドの女王にして未来のフランス王妃であるメアリーはフランスの宮廷で大事に育てられました。1558年4月、パリのノートルダム寺院で200年ぶりの王太子の結婚式、メアリー15歳と王太子フランソワ14歳の結婚式が予定通り行われました。翌1559年7月国王アンリ2世の事故死で、王太子はフランソワ2世として即位。
イングランド議会は改めて議決し、エリザベスを嫡出と認めたため、エリザベスはメアリーを危険なライバルとみなします。メアリーの夫フランソワ2世は過度の運動が身体を蝕むことを心配する妻や母のカトリーヌ・ド・メディチの止めも聞き入れず1560年16歳でなくなりました。
(エリザベス1世13歳)
18才の若さで未亡人になったメアリーはフランソワの死から半年足らずで母のマリー・ド・ギーズが亡くなり、義弟で、フランス王位を継いだシャルル9世の求婚を拒み、帰国せざるをえませんでした。1561年イギリスのエリザベスが待ち受ける中、フランスから船で命がけでスコットランドに帰国。13年ぶりに帰国したスコットランドは新教と旧教の対立が激化し、国民のほとんどが新教徒となっていました。メアリーの信仰はゆらがず、180㎝の長身、美貌で優雅な立ち振る舞いの未亡人という立場も国民の感情も同情的なものに変化していき、女王メアリーは歓迎されます。
しばらくは若い未亡人のスコットランド女王をめぐって、全ヨーロッパの王家は激烈な争奪戦を展開。スペイン皇太子との再婚話、デンマーク王、スウェーデン王、フェルラーラ公、ヌムール公。フランスのブルボン家やのオーストリアのハプスブルグ家は正式に縁談の代理人をたてて交渉。
エリザベス1世は自分の寵臣や英国貴族を押しましたが、22歳のメアリーは1565年同じスチュアート家の王位継承権を持っている4才年下のダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと結婚し世界も驚かせました。しかし夫との関係は結婚後すぐ悪くなります。
(メアリーとダーンリー卿ヘンリー・スチュアート)
メアリーは魅力的な人だったようですが、男運の悪さ、男選びの悪さはその後の人生を崩壊に導いてしまいました。詩人にストーカーされ(目の前で切り殺される)、夫が嫉妬に狂い妊娠6か月で側近を目の前で殺したり、親類マリ伯のクーデター、権力争いで大貴族や周囲が混乱する中、メアリーはダーンリーともどもホーリールード宮殿を脱出、身重の身で50キロの道を馬で疾走しエジンバラで息子を出産...。
しかし夫は息子ジェームズ(生後8カ月)のとき暗殺されます。その後スコットランド女王にもかかわらず、夫の暗殺犯として見られていたプロテスタントのボスウェルと3か月後結婚、その結果、同年6月15日逮捕、ロッホリーベン城に移され、廃位と息子ジェームスへの王位継承を強要されてやむなく同意。王位を息子ジェームズ1歳に渡しました。(名付け親はエリザベス1世。)
1年後メアリーは25才。囚われの女王に恋した城主の親族ジョージ・ダグラスの手引きで逃亡し、6000人の兵士を集めて復位を計画するも敗れ、1568年5月、エリザベス1世にすがるようにイングランドに逃れました。
(白を基調としたシンプルファッションを好んだメアリー女王)
(抑えつけられた幼少期の反動か、エリザベスカーラーを代表とする華美な装いを好んだエリザベス女王。赤毛に近い赤みがかったブロンドで、かつらも愛用していたとか)
ふたりはイングランドの王位をめぐって宿敵の立場にありましたが、血のつながりもあり、この問題では窮地に立たされました。スコットランドに送り返すのは非難の的となるからです。メアリーはエリザベスによって幽閉されて25才から44才という人生の18年間、北部や中部の城を囚人客人として転々としました。メアリーはスコットランド王位を奪回するために、エリザベスの突き付けた全ての条件を飲み、手紙を送り続けましたが、結局見捨てられ、断頭台で処刑されます。
真紅のビロードで縁取りした黒絹の下衣に繻子の上衣を纏い、カトリックであることを示す象牙の十字架を頸にさげ、うしろに6人の従者をしたがえたメアリの姿が刑場にあらわれたそう。
ジェームズ1世は幼子の時に母と引き離され、エリザベスにイングランドの王位継承権をちらつかされ、プロタスタントの貴族たちには母親への憎しみを注ぎこまれつつ成長していました。
メアリーは死の数年前に「わが終わりにわが始まりあり」との謎の言葉を、手のこんだ刺繍細工の中に縫いこんでいました。この予言はやがて実現されることになりました。
エリザベス1世の血が途絶え、メアリーの息子ジェームス1世即位すると、彼は現在の英国、イングランドとスコットランドを一つに結び、ブリテン島に住む人々の悲願であった連合王国が出現しました。
ジェームス1世は、国王就任後の1612年、母の遺体を母の仇であるエリザベス1世も安置されたロンドンのウエストミンスター寺院の地下墓地に移しました。メアリの最期の地となった刑場フォザーリンゲー城はジェイムズの命により、跡形も名残も残さず破壊されました。
ウエストミンスター寺院の立派なエリザベス1世墓の反対側に位置されたメアリー女王の墓はもっと装飾が立派に作られています。また、エリザベス1世の墓の下には姉のメアリ1世(ブラッディ・メアリ)が埋葬されてい ます。ここは代々の王が戴冠式を行った場所で、ダイアナ妃の葬儀が行われ、ウィリアム王子とキャサリン后もここで結婚式を行いました。
ジェームス1世は【王権神授説・・・王権は神から授かったもので、人民によって左右されない。王は何をやっても人民は反抗できない】という思想を唱えたことでも有名です。
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~系譜イングランド王国~
【ウェセックス朝】
【デーン朝】
【ウェセックス朝】
【デーン朝】
【ウェセックス朝】
【ノルマン朝】
ウィリアム一世 1066-1087
征服王 征服の権利
ウィリアム二世 1087-1100 第1回十字軍遠征、1世の息子
赤毛のひげだったため「赤顔王」(Ruddy Face)と呼ばれた
ヘンリー1世 1100-1135
ウィリアム1世の息子、娘のマティルダを次の王に定め死去。
【ブロワ朝】
ステイーヴン 1135-1154
第2回十字軍遠征、無政府時代。ウィリアム1世の外孫。1世娘の子。
【プランダジネット朝】
ヘンリー二世 1154-1189
ヘンリー1世の孫母マティルダの父がヘンリー1世
リチャード一世 1189-1199 (獅子王) 第3回十字軍遠征
ジョン 1199-1216 (失地王) 第4回十字軍遠征 ヘンリー2世の子
ヘンリー三世 1216-1272 第5、6、7回十字軍遠征
エドワード一世 1272-1307
エドワード二世 1307-1327 殺害される
エドワード三世 1327-1377
百年戦争(1337-1453)・ジャンヌ・ダルク
リチャード二世 1377-1399
エドワード3世孫。餓死させられた
【ランカスター朝】
ヘンリー四世 1399-1413
エドワード3世の孫。エドワード3世第3子とランカスター公次女の長男。
ヘンリー五世 1413-1422
ヘンリー六世 1422-1461 王位継承のバラ戦争勃発。
ヘンリー5世の息子。赤バラのランカスター家と白バラのヨーク家
皇太子は殺された
【ヨーク朝】
エドワード四世 1461-1470
エドワード3世の玄孫。王位継承者ヨーク公リチャードの次男
エドワード五世 1483
リチャード三世 1483-1485
バラ戦争 エドワード3世の玄孫
【チューダー朝】
ヘンリー七世 1485-1509 (コロンブス・新大陸発見)
エドワード3世の7代の孫ランカスター家の血を引く最後の男子。
リッチモンド伯エドマンド・テューダーと
ランカスター家傍系ボーフォート家の子
ヘンリー八世 1509-1547
王室史上最高のインテリ、アン・ブーリンをはじめとする8人の妃
エドワード六世 1547-1553
メアリー一世1553-1558
エリザベス1世1558-1603
【スチュアート朝】 ※スコットランド王が迎えられた
ジェームズ一世 1603-1625
ヘンリー7世の玄孫、スコットランド女王メアリーの第1子。
名付け親はエリザベス1世。
チャールズ一世 1625-1649 斬首刑
☆ ☆ ☆
チャールズ二世 1660-1685 王政復古
妃との子は3人全員死亡、14人の庶子
ジェームズ二世 1685-1688 チャールズ2世弟
メアリー2世1689-1694 ジェームス2世娘。
ウィリアム3世1689-1702
ジェームズ1世の曾孫、3人の子全員死亡
アン女王 1702-1714
ジェームス2世娘。17人の子全員夭折
【ハノーバー朝】
※ハノーファー選帝侯妃ゾフィーの遠縁の貴族が招かれた
ジョージ1世 1714-1727
ジェームズ1世の曾孫、ウィリアム3世、メアリー2世、アンの甥
ジョージ2世 1727-1760
ジョージ3世 1760-1820
ジョージ四世 1820-1830
ウィリアム四世 1830-1837 ジョージ3世第3子
ヴィクトリア女王 1837-1901 ウィリアム四世姪
【サクス=コバーグ=ゴータ朝】
エドワード7世 1901-1910
ジョージ5世 1910-1936
【ウィンザー朝】
エドワード8世 1936 王冠にかける恋で退位
ジョージ6世 1936-1952 エドワード8世弟
エリザベス2世 1952-現在
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エリザベス女王の母・アン・ブーリン
エリザベス女王の異母姉メアリー1世(ブラッディーメアリー)
美しく、教養豊かで情熱を持った、魅力的な女性であるとともに衝動的な行動もあり、悲劇の女王としても有名。
ダイアナ妃の弟チャールズ・スペンサー
スペンサー家はジェームズ一世の孫であるチャールズ二世 、ジェームス2世(兄弟)の血をひきます。294年振りにダイアナ妃を通じてこのジェームス2世の血筋はイギリス王室に甦りました。
現王家の祖先ハノーヴァー選帝侯妃ゾフィーはチャールズ2世・ジェームズ2世兄弟は母方の従兄に当たります。現代の王位継承法はゾフィーの子孫に限られています。
なお赤毛のセーラ元妃(チャールズ二世の子孫)とヨーク公アンドルーとの間に生まれたベアトリス王女とユージェニー王女もチャールズ2世の血を引くことに。
ダイアナ妃生家 スペンサー伯爵結婚式の写真、3世代比較→●
【英国王室】祖父‐父‐息子 (フィリップ‐チャールズ‐ハリー)&フィリップ殿下の家系図⇒●