私はいつからか、気付いた時にこの世界にいた。


何がきっかけなのかさえ分からないし意味不明の状態だったのだと思う。


そして、最初は自分の意志など全く無い。


しかし、いつの間にか意識だけが『ポッ』と現れた。


それは、あらゆる欲求さえ感じない意識である。


なぜか、ただそこに存在し、何かを感じていた。


自分が何者かさえ分からず。


後に、背の高い二人の男女がいつも寄り添っていることに気が付く。


母親と父親の存在をその時に知ったのだと思う。


しかし、自分がなぜこの二人と一緒にいるのか等はその当時は知る由もない。


やがて、自分の姿を知覚するようになる。


それは、今まで撮ってきた写真を観て自分には姿があるのだと知る。


しかし、それを見せられたところで自分だと確証出来なかった。


それは、過ぎ去った過去のものであったからだ。


そもそもが、それ以前の記憶などは一切無いのだ。


本当の意味で自分の存在を認識出来たのは恐らく『鏡』の存在を知った時だろう。


『鏡』を通して観た自分は『今』の自分を写しだしてくれる。


そして、私は今でも鏡の前に立ち自分を感じる。


しかし、未だに、自分とはいえ一体何なんだと思う。


何故この意識と姿なのだと。


これは、自らが生まれる前に、自らが欲したものだったのだろうか?


それとも、ただ単に与えられたものなのであろうか?


それ以前に、私はこの世界に生まれたくて生まれたのか?


それとも、関係なく生まされたのか?




一つだけ言えるのが、


私が今までの人生で感じてきたことは、


『生まれたくて生まれたのではなかった。』


のだと思う。


私は、小さい頃からこの事を抱えていた。


しかし、こんな事は親の前では決して口が滑っても言えることではない。


かと言って、かッとなって言ってしまったこともある。


完全な親不孝者である。


だから、私が出来る最高の親孝行は人生を楽しむことである。


そして、いつかこう言いたい。


『生んでくれてありがとう。』


と。


心の底から言えるようになりたい。


その日を私は待ち焦がれている。
何を恐れてあなたは私に牙を剥く。



私があなたに何か害を加えようとでも言うのか。



私があなたに害を加える理由などあるものだろうか。



あなたが私に牙を剥けるのは私が何も持っていないからではないのか。



それなのに恐れている。



あなたはいつでも私を傷つけることが出来る。



それなのにあなたは恐れている。



あなたは私に傷を付ければ付けるほどあなた自身にも傷が付くことを知っている。



だから恐れている。



それなのにその牙に慣れ親しんでしまっている。



次第にあなたは私を避けるようになる。



そして、牙を持つ者に対して今までと同じように牙を剥け続ける。



牙を剥けられる前に、先に牙を剥けて傷付けてしまえば自分が傷つかなくてすむ。



牙を持つ者は牙を持つ者に対して、いざとなれば躊躇い無くそして容赦なく牙を向け傷付けることが出来る。
寂しさ・虚しさを我慢し抑えれば抑えるほど、人はその分心細くなりネガティブになり依存的になる。



そして、その寂しさ・虚しさを誤魔化せば誤魔化すほど心に角が立つ。



これを解消出来ない理由としては、劣等感と素直さに欠けることにある。



そのような状況と傾向にある人が、これを解消するには対象が必要になってくる。



そして、対象は自分にとって解消出来るものかジャッジされる。



そのような状態にある者が寂しさから解放されるには、ほとんどの場合『対象』に掛かっているのである 。



ここでの『対象』を『選択』する際の判断基準は非常に感覚的・直感的なものになってくる。



しかし、このように寂しい状態にあると感覚や直感が働く際の判断基準が危ういものとなっている。



と言うのも、同じ寂しさ・虚しさを共有しあえる者同士が引き寄せあう可能性が非常に高いからである。



そうなってしまうと、どう言うことが起きるかというと、



『傷の舐め合い』

『グチの言い合い』

『不満・陰口・噂話』



等が当然のように繰り広げられる。


このような事は、何を意味するのかというと、



『自分にもあるはずの劣等感を、他人の劣等感を棚に上げて嘲笑う事である。』



こうして、解消されたかと本人は錯覚を起こす。


その証拠に、『スッキリ』している。


これは、私自身も経験済みなので良く分かる。



しかし、真の解消はされておらず、又『寂しさ・虚しさ』は知らず知らずのうちに蓄積していく。



そして、偽りの解消が一種の中毒症状・快感となる。



中毒症状はどこかで絶たない限りは持続し続けるのである。



このような関係性は、みじかな場所では職場関係等で良く見受けられる。





そして、又別のケースとしては、依存心が強い状態にあるので非常に騙されやすく利用される危険性がある。


この場合は、同じような者同士が引き寄せ合い強い者が利用するケースである。


強い者が上手いこと弱い者に対して要求を飲んでもらう。



ここでの弱い者は、



『構ってもらえる』

『役に立っている』



と言うような思いを抱く。



しかし、これも利用されている限りすべて錯覚となる。



そして、強い者弱い者に関係なく、お互い都合の良いように利用するケースも存在する。


お互い都合の良い時だけ甘えて、都合の悪い時に冷たくあしらい、時には傷つけ合う。


変な仲間意識があり、どちらかが第三者の攻撃の対象となった時には最初は庇うのだが(もう一方が攻撃・否定されることによって自分にされていると感じるため、自己正当化をはかるため)都合が悪くなるといとも簡単に見捨てる傾向にある。


このような状態は進歩の無い


『共依存』


状態となる。


この関係性は、客観的に観た時に、非常に不気味な関係性に見えるのが特徴である。



ここで私が疑問に思うのが、そのような営みをいつまでつづけるのか?



と言う疑問である。



すべてを否定する気はない。そうなってしまうこともある。



そして、そこには真の信頼は無い。



何か都合が悪いと皆危険を察知して離れ合う関係性にある。


その先にいったい何があるのか考える必要がある。