駅に最近はもう自動改札しかありませんな。それはまあいいんですが、自動改札も、人の通行料に応じて、入り口なんか出口なんかわからんようになってるものが最近は多くて、その中で一番困るんは、両方から通れるようになっとるやつですな。

お互いに邪魔するつもりもないんですが、電車から降りて改札出てくる人と、これから乗ろうとおもって改札入る人が同じ改札機を使おうとして、つい早いもん勝ちになってしまう瞬間というんはどうにも気まずい。正面から来る相手を邪魔するために急いでるように見えてしまうんですな。しかも自分の後ろにも人が続いてるような場合には、自分が負けたら後ろの人にも迷惑かかるんちゃうか、と思って余計にせかされる感じがするんですわ。

ああいうんは、駅の方で「この改札は今はどっち向き」かというのを、はっきり決めといてもらえませんかね。特にJRの渋谷駅のハチ公口、なんとかなりませんか?

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富樫倫太郎の「陰陽寮」シリーズが完結したときに、最終巻を読んであまりの読後感の物足りなさに、しばらく富樫作品は読まないことにしようかと思ったのだが、あわせて買ってあったこの1冊はとりあえずもったいないと思い読了した。

結果は、「陰陽寮」最終巻よりもはるかに読み応えがあった。

実は「清明百物語」と書いてあるが、直接「陰陽寮」に関連付けられた物語はほとんどない短編集である。安倍清明が現れる物語自体が少ないので、全体を「清明百物語」と名づけるのさえはばかられるものなのだが。

全体を通す縦軸の設定は意外にも、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンである。近代日本と清明にどのようなかかわりがあるのか、というのは実際に読んでいただいた方がいいと思うが、一見無関係そうな取り合わせで、日本史上のさまざまな人物を結びつけて、その接点を大胆に膨らます、というのはこの作家のもっとも得意とする作劇手法である。あまり細かい事実関係の整合性にはこだわらないダイナミズム、と言うのは北海道のようなおおらかで骨太な風土だから培われたのかもしれない。

短編それぞれは、清明の時代から、信長・秀吉の天下統一を経て明治維新のころまで、縦横無尽。題材も親子の情愛を中心に、人間のさまざまな欲望をきっかけとする物語が続く。中には「果心居士」のように、もっと膨らませて中・長編にしても面白かったかも、と思わせるものもあるが、物語の主人公を一人に絞って一気呵成に書き下ろした勢いがそのまま物語のドライブとして機能している。主人公を乱立させすぎて収集し切れなかった「陰陽寮」とは対照的である。

エンディングでは、一見無関係に見えた「陰陽寮」シリーズとの意外な接点も明かされ、我慢して読破した読者には何がしかの慰めにもなっている。

通勤の電車の中でも読めるほど、佳作ぞろいの小品集、お勧めします。
体調が悪い子がいて、どうもいろいろと聞いてみると泌尿器科に行った方がいいらしい。周りがすぐに医者に行けとアドバイスするのをはたで聞いていて、ふと知り合いに一人医者がいるのを思い出した。確か泌尿器かじゃなかったかと思って携帯にかけてみると留守電。メッセージを吹き込んで連絡を待っていた。

そのうち体調の悪い子は自分で医者に行き、どうも膀胱炎だったことが判明したのだが、そのころになって知り合いの医者から電話が帰ってきて聞いてみたところ、おなじ「ひ」でも皮膚科だったことが判明。間違って紹介していたら有無を言わさず玉のお肌にされるところだった。とりあえずめでたしめでたし。

それにしても女性同士のこういう病気の体験談ってあけすけね。はたで聞いていて赤面した。
これは革命的な?理論なのでお読みいただく方だけにお話するのですが。ある現象を説明するための理論を開発しましたので公開しましょう。

たとえば目覚まし時計をかけて寝たとしましょう。みなさんこんな経験はおありじゃないですか。
・目覚ましをセットしたちょっと前に目が覚めて、しばらくしたら目覚まし時計が鳴ったので起きて、そのまま仕事なり学校なりにでかけた。
・今日のような地震の日、地震が起きるちょっと前に目が覚めて、地震とともにあわてて飛び起きた。

こういうのはたまたま起きたことなんでしょうか。それにしては自分にはしょっちゅうこういうことが起きる、と思っていませんか?

これを説明するために一つの仮説を立てました。それは、
「人間は体内時計が非常に正確で、セットした目覚ましの時間が近くなると自動的に目が覚める、また、地震などを予知する能力があるので、ちょっと前に目が覚める」
というものです。本当にこの通りならば、確かに説明がつくのですが、ちょっとこじつけっぽくないでしょうか。

実は、これよりもちゃんとした説明がつくのです。その仮説とは
「人間は、寝ていない」
ということなんです。ちょっと極端な言い方をしました。もうすこし穏やかにいうならば、
「人間は寝ているとされるほとんどの時間は、起きているとも言えるような、浅い眠りの中にいて、万が一そういう時に起きるためのきっかけが与えられると、ちょっと時間をさかのぼって、その眠りの時間も、目を覚ましている時間として事後に認識するようになる」ということなんです。たぶんそういうような時間帯は寝返りをうったり、薄目を開けたりして、なんとなく周りの状況は見えてるんでしょうな。

この半分目の覚めた状態、というのが、いわゆる起床時間までのバッファーの役割を果たしている、みたいな考えなんですが、納得いただけますかな。

この理論を元に、もっとスゴイ仮説もあるんですが、それはまた後の機会に。
今日の地震でも、壁のCD棚は倒れずに無事。でも、つっかい棒はそうとうずれてましたな。
それにしてもね毎回この規模の地震のたびに肝を冷やすのはそろそろ卒業したいもんですな。なんかいい固定の方法はないもんでしょうか。

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あの広岡達朗さんが、星野仙一さんが巨人の監督を引き受けるなら、巨人のOB辞める、言うとるそうですな。あの人西武のOBやなかったんですかいな、というのは冗談ですが、まあ、あまり巨人OBの代表という感じもしませんな、正直な話。巨人出身の実力派野球人、という感じはありますがな。

まあ、長嶋さんが倒れてから、OB会と現役との連絡があまりスムーズでない、というのも事実でしょうが、球団が何でもかんでもOBの意向を気にせないかん、というのもどうなんでしょ。多分、広岡さんが西武の監督やらはった時代に、西鉄時代のOBがいろいろと文句つけてたら広岡さんもやりにくかったんと違いますか。

それに、巨人を追われるように退団して、「非巨人」になってからのほうがあの人は生き生きしてはったから、あまり今更「巨人OB代表」みたいな顔されてもちょっと戸惑いますな。そういう広岡さんを応援する気にもなりにくいいうか。

素朴な疑問として、OBに辞めるも何もあるんでしょうか。過去にタイムマシンで戻って退団とかするわけにもいきませんでしょうが。
大変な地震でしたな。職場がビルの9階なもので、大分大きく揺れましてな、しかもビルの中に入ってる鉄骨がきしみよるんですわ。東北の方ということで、震源は近くなかったんですが、遠くから伝わってくる分だけ、長い周期でゆっくりと大きく揺れた感じがして、2分ほども揺れとりましたかな。もう、船酔いの気分でしたわ。

幸いと言うたら、実際の被害にあった人には申し訳ないようですが、ビルなどの倒壊は起きなかったようで、この規模の地震の結果としては何よりでしたな。

と言っても今実家にいまして、これから家に帰るんですが、壁のCDラックが倒れてないか、こればかりは心配です。

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これはその、あれですな。「レアチーズクレープ(ストロベリー)」とありますな。

最近プリンだのなんだの、どんなものでもクレープでまいてしまえ、という風潮がありますが、一度なんか、ハンバーグを巻いたクレープを食べたことがありましてな、ほとんどおかずですな、ありゃ。

これは表の写真の部分を見ますと、ちょっとミルクレープ風に見えるんですが、実際の大きさはそれほどではありませんな。直径にして12センチぐらいですからCDのサイズぐらいですか。でも中身はちゃんとチーズケーキの味してます。もたれるほどのボリュームもないんで、まあ、手ごろと申しますか。お勧めできる逸品ですな。製造元は山崎パンですわ。
ここしばらく続いている日航機事故関連の報道や、ネット上のトラフィックの増加について考えた。

事故から20年経ったという節目とはいえ、ここまで話がふくらむというのはやや不思議なことにも思える。特にマスコミが好んで喧伝しているようにも見える。メリット・デメリット問わず、その影響・理由を考えた。

1)終戦の日に対する注目を避ける効果がある。
アジアの他の国々に対して効果があるかどうかはわからないが、少なくとも首相を初めとするいろんな政治家の誰が靖国に行くか(あるいは行かないのか)、国民からはあまり注目されなかった。結果、「靖国参拝すべし」と主張するタカ派の有権者を封じ込めることができ、結果として他のアジアの諸国は今年の日本の終戦の日の態度に対して強く非難はしないであろう。これは小泉に有利にはたらくやも?案外これを仕掛けた影の黒幕がいる、に一票。

2)航空機事故をきっかけにして、みんなが自分の思い出を語り始めた。
実は、こういう事故というのは、規模の大きさから一つのモニュメンタルな出来事としてこの事件が選ばれただけで、飛行機事故は決してこれ1件ではない。それでも何かを言いたい気にさせる事件だったのである。年齢も、場所も超越して「あの日、あの時自分は…していた」と語れる共有体験という意味では、浅間山荘事件、東京オリンピック、大阪万博などと同義かも知れない。自分にも耳の痛い話だが、遺族にとって、20年経ったから決着がつく、というものでもあるまい。死んだものが帰ってこないのは事件が起きた当時と同じである。いまわれわれが何らかの思いを語るとすれば、それは自分のためにするのだ。

3)実際のところ、事故がなくなるわけではない。
キプロス航空の事件はまた不幸なタイミングで起きてしまったが、われわれが今、20年前のことを思いだしたからといって、これを何かの教訓に、という風に締めくくることにはなにがしかの欺瞞があるような気がする。われわれは航空機のテクノロジーについての専門家ではないし、かりにそうであったとしても、本当に事故がなぜ起こったか、は一概にはいえない。「圧力隔壁が壊れた」は一現象に過ぎないし、その遠因もまた然り。検査の回数を増やすことは出来るだろうが、今後絶対に事故を起こさない方法の開発は不可能だろう。

4)すべての「事故」は「人災」になる可能性がある。
ただはっきりと分かっているのは、以前は大きな事故が起きても「仕方がない」として済ませてきたことが、少しずつ「人災」の範疇に分類されるようになってきたことである。事故の原因は一つではない。「あの時ああしていれば」を積み重ねれば、いくらでも事故は人のせいになりうる。これも平和な時の一つの特徴なのだが、どんな不幸が起きた時も、人は誰かを責めたくなるのだ。日本航空しっかりしろ、と言うのは簡単だが、どうしっかりしても事故は起きる時は起きる。起きるから「事故」なのだ。手抜き工事のようなことが行われていたらそれは犯罪だが、そうでない以上、「事故は仕方がない」のである。

おそらく、直接事故に関わった遺族の方にとっては、そういう意味で事故は20年前に決着が着いている。怒るべき相手を見つけても坂本九は戻ってこない。決着をつけられないのは、事故とは無関係に生きている我々の方である。だから何かしらの理由をつけて言いたくなるのだ。

だから、自戒を込めて祈ろうと思う。このような不幸が起こりませんように。
人気のドラマだそうである。「女王の教室」。このスポンサーが名前の表示を遠慮していると聞く。なぜなら、ドラマに対する批判が強いからだそうである。しかし名前を表示しなくてもドラマの合間にはコマーシャルは流れる。それが広告料を払っている意味だからだ。そこで企業名が流れるならば同じことではないか。これを「頭隠して尻隠さず」という。出資していることを恥じねばならないようなドラマになぜ金を出す必要があるのか。