ここしばらく続いている日航機事故関連の報道や、ネット上のトラフィックの増加について考えた。

事故から20年経ったという節目とはいえ、ここまで話がふくらむというのはやや不思議なことにも思える。特にマスコミが好んで喧伝しているようにも見える。メリット・デメリット問わず、その影響・理由を考えた。

1)終戦の日に対する注目を避ける効果がある。
アジアの他の国々に対して効果があるかどうかはわからないが、少なくとも首相を初めとするいろんな政治家の誰が靖国に行くか(あるいは行かないのか)、国民からはあまり注目されなかった。結果、「靖国参拝すべし」と主張するタカ派の有権者を封じ込めることができ、結果として他のアジアの諸国は今年の日本の終戦の日の態度に対して強く非難はしないであろう。これは小泉に有利にはたらくやも?案外これを仕掛けた影の黒幕がいる、に一票。

2)航空機事故をきっかけにして、みんなが自分の思い出を語り始めた。
実は、こういう事故というのは、規模の大きさから一つのモニュメンタルな出来事としてこの事件が選ばれただけで、飛行機事故は決してこれ1件ではない。それでも何かを言いたい気にさせる事件だったのである。年齢も、場所も超越して「あの日、あの時自分は…していた」と語れる共有体験という意味では、浅間山荘事件、東京オリンピック、大阪万博などと同義かも知れない。自分にも耳の痛い話だが、遺族にとって、20年経ったから決着がつく、というものでもあるまい。死んだものが帰ってこないのは事件が起きた当時と同じである。いまわれわれが何らかの思いを語るとすれば、それは自分のためにするのだ。

3)実際のところ、事故がなくなるわけではない。
キプロス航空の事件はまた不幸なタイミングで起きてしまったが、われわれが今、20年前のことを思いだしたからといって、これを何かの教訓に、という風に締めくくることにはなにがしかの欺瞞があるような気がする。われわれは航空機のテクノロジーについての専門家ではないし、かりにそうであったとしても、本当に事故がなぜ起こったか、は一概にはいえない。「圧力隔壁が壊れた」は一現象に過ぎないし、その遠因もまた然り。検査の回数を増やすことは出来るだろうが、今後絶対に事故を起こさない方法の開発は不可能だろう。

4)すべての「事故」は「人災」になる可能性がある。
ただはっきりと分かっているのは、以前は大きな事故が起きても「仕方がない」として済ませてきたことが、少しずつ「人災」の範疇に分類されるようになってきたことである。事故の原因は一つではない。「あの時ああしていれば」を積み重ねれば、いくらでも事故は人のせいになりうる。これも平和な時の一つの特徴なのだが、どんな不幸が起きた時も、人は誰かを責めたくなるのだ。日本航空しっかりしろ、と言うのは簡単だが、どうしっかりしても事故は起きる時は起きる。起きるから「事故」なのだ。手抜き工事のようなことが行われていたらそれは犯罪だが、そうでない以上、「事故は仕方がない」のである。

おそらく、直接事故に関わった遺族の方にとっては、そういう意味で事故は20年前に決着が着いている。怒るべき相手を見つけても坂本九は戻ってこない。決着をつけられないのは、事故とは無関係に生きている我々の方である。だから何かしらの理由をつけて言いたくなるのだ。

だから、自戒を込めて祈ろうと思う。このような不幸が起こりませんように。