ベーシスト前垣篤志のブログ -213ページ目

4月9日は大阪です。一ヶ月ぶり。

4月9日は大阪に遊びにいきます。
ついでにライブもします。
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17時半 
伊丹のサロン・デ・サンスイというお店で (http://www.ac.auone-net.jp/~sansuihp/index.html)
もう8年ぐらいやってるバンド soul on のライブ。

\1,800(ワンドリンク付)
河野 裕太(guitar)、前垣 篤志(bass)、梅本 浩亘(drums)
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んで21時からは
西宮北口のカプリシカっていうお店でドラムのたなやんとジャズのライブ。

¥300
森下周央彌(guitar)、前垣 篤志(bass)、田中宏昭(drums)
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一日に二本ともギタートリオです。
よければ聴きに来てください。

生まれ変わりについての僕の勝手な想像

あ、最初に言っておくけど、僕は特に何か宗教をやっている訳ではない。
ただ、日本に生きる27歳の一個人として思う事である。
そんな僕は生まれ変わりっていうのは信じていない。
魂というのも基本的には信じていない。自分が生まれる前は何か別の人間として生きていたなんて信じられない。
なぜ信じていないのか僕なりに考えてみた。

自分が自分として感じられるのは、生まれてからと死ぬまでの間。
例えば僕の誕生日の1983年8月19日~2063年12月1日(死ぬつもりはないけど80まで生きたとして)が僕が僕として感じられる間である。
生まれ変わりと言われているのは、その部分以外の話である。
で、今の僕は生まれる前の記憶がない。そして死んだ後の記憶ももちろんないはずだ。という事は僕にとって、「僕の死」というものは存在しない。
僕にとっての「死」は必ず、「誰かの死」であって、「僕の死」というのは僕自身にとっては有り得ない話なのだ。
例えば、「友達の死」や「ペットの死」なんかは僕にとっては存在する「死」だ。でも僕にとって自分自身の「僕の死」というのは存在しない。
という事は僕が僕であり、僕が存在するという事を僕が証明するには僕は死んではいけないのである。
それを前提とした上で、ちょっと大胆な想像を膨らませてみる。

あ、これは勝手な僕の想像です。

僕が僕であり、こうして存在する事を証明するのに一番しっくり来るのは何か考えてみた。
それは、僕は1983年8月19日~2063年12月1日(死ぬつもりは無い)の間をずっとぐるぐる繰り返しているのではないか?という仮説である。
死んだらまた生まれた時に戻る。そしてまた死ぬまでの間、自分として生きる。それをずっと繰り返す。こう仮定すると僕の存在が確かにそこに確実性を持つ。

宇宙の時間の法則というのは僕は分からないし、パラレルワールドがあるのかどうかとか、そういうのは分からないけど、この想像で言えば、例えば織田信長は1534年6月23日~1582年6月21日をずっとぐるぐる繰り返しているし、坂本龍馬は1836年1月3日~1867年12月10日をずっとぐるぐる繰り返している。
そういう風に考えると、坂本龍馬の自己同一性は保たれるし、織田信長は織田信長であり続ける事が出来る。そしてあり続けているからこそ存在していたと言える。

彼ら自身にとっても死は存在していないのである。
だから当の本人である織田信長の意識に死は存在しない。
1534年6月23日~1582年6月21日の期間をずっと本人が生き続けなければ、「客観的に」存在しないのである。

織田信長は確実に存在した。いや、存在する。その存在する織田信長自身には死はない。
だから織田信長が「客観的に」存在するには、織田信長タイムを織田信長自身が「主観的に」繰り返すしかないのだ。
そして僕タイムにおいては、織田信長という人物は「客観的に」死んでいるし、過去の人物という事になっている。
これは客観的な立場と主観的な立場の両面から考えてる時に、ふと思った事です。
「死」を客観的に捉えた昔の人間が、客観的に捉えたままの状態で、自分に置き換えて考えるから「生まれ変わり」という考えが出てきたのではないかと思っています。そういう風に思うから、僕は生まれ変わりを信じていない。

ってまぁ、こういうのは確かめる事も出来ないし、勝手な僕の想像です。あ、ちょっと希望も入っています。笑

一年って早いなー、から僕が思う事。

月並みな事やけど、最近ほんま1年が早く感じる。
一年前の三月なんかついこの前みたいやのに・・・時間の長さは同じやのに、何でこんなに早く感じるんやろ?
自分なりに早く感じる理由を考えてみた。

小さい頃はどうして一日が長く感じたのか?
・見る物全てが新鮮。一日一日が真新しい事で、どの一日も存在感がある。
・カレンダーやスケジュールという概念がない。過去を遡ったり、未来を考えたり、過去、未来から相対的に今という物を捉えていない。常に今が全て。
・記憶の総量が少ない。よく言われるのが小さい頃の記憶(例えば10歳の頃の記憶)を1/10とすると、大人になってからの記憶(30歳ぐらい?)は1/30だから一つの重みが違う。でもこれに関して僕が思うのは、1/10の方が母数が少ない分、一つの記憶を見つけるのが早く出来るはずで、記憶を過去に遡るのも早く出来るはず。逆に1/30の方が過去まで遡るのに、色んな記憶をかき分けていかないといけないから、大変なはずである。それに記憶というのは忘れていくように出来ている。記憶の「数」の問題ではないと僕は思う。
という事はやはり、質か?

まぁ、それは一旦置いておいて、
今度は、大人はどうして一日が早く感じるのか?の立場から考えてみる。
・毎日が単純作業の繰り返し。うーん、これはどうやろ??
・カレンダー、スケジュールという概念が出来る。さっきの子供との逆。
おお、これは中々面白い仮説が立てられそう。

カレンダーの概念が頭に出来るというのはどういう事かを考えてみる。
カレンダーの概念が頭に出来ると、一ヶ月単位、半期単位、季節単位、一年単位で考えるようになる。例えば季節単位で考えると一年は4つに分類できるし、行事単位だったら、行事がある日とそれ以外の日常に分ける事が出来る。

これは個人によって違う事だと思うが、もしかするとこのように無意識に脳が記憶をカテゴライズしているんじゃないか?
子供の頃はカレンダーという概念がない。横並びに散らかった記憶。
大人になり、カレンダーの概念が出来、一年を無意識にカテゴライズし始める。
横並びに蓄積されていた記憶が、ある区間で区切られ、立体的に構築されるようになる。
よくありがちな、25歳を過ぎてから一年が物凄く早くなったわー。って言うのは、その人にとっては何か仕事や習慣的な物が定着し25歳ぐらいにカテゴライズを終え、縦の蓄積の段階に入ったのではないか?
例えば・・・

それまでは、お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき、お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき、お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき・・・と横にずっと続いていたが、カテゴライズをすると

お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき

と、縦に蓄積される。見やすい。
縦に蓄積されると、正月が来ると、頭は「正月フォルダ」にいる。「正月フォルダ」の記憶は正月ばかりだから、縦に遡り、一年前の正月は昨日の事のように感じる。二年前の正月は一昨日の事のように感じる。横にある他の「フォルダ」からの干渉を受けにくくなる。
人間が合理的な考えを身につければつける程、脳は無意識にこのカテゴライズをしているように思う。

そしてこれは、カレンダーだけじゃなく色んな事を脳が無意識にカテゴライズしている可能性がある。
「大人は頭が堅いが、子供は発想が柔軟で突飛なアイデアが出てくる」なんてよく言われているのはこの部分が原因なんじゃないか?
カテゴライズされていない方が、頭の中で色んな物事がリンクして、より大胆な発想やアイデアが生まれるんじゃないか?
ただ、横並びの記憶は量が増えれば増える程、収集がつかなくなるから、記憶量がまだ少ない子供の特権なのかもしれない。情報量が増えれば脳は必ずカテゴライズする必要が出てくるんだろう。

カテゴライズされても子供のように自由な発想や脳内リンクを生む方法ってあるのかって考えてみた。
そこで、今僕が実践中の事がある。

メモをまとめずに乱雑に取る事。

僕は考え事をしていても、「頭で考えるだけ」ではどんどん色んな方向に考えが枝分かれしていき、最終的には収集がつかなくなるので、すぐにメモを取るようにしている。
一日の中で思いついた事や、考えた事を、iphoneのメモにどんどん書いていく。
それも下にどんどん付け足していく。途中で話が変わっても構わない。
次の日は新規メモを作り、またどんどん書いていく。
そうすると、流れてくる映像も一時停止して見てみると見える部分があるように、メモとして、考えを一時停止して外から見てみる事で、自分なりに熟考出来る。

練習の事や、音楽の事、日常の悩み、全部同じページに思った順番のまま書いていく。全部いっしょくた。
後で見ると、全然関係のない話に急に飛んでいたり、急に戻っていたり、支離滅裂だ。でも奇麗にカテゴライズしないからこそ意味があるんだと思う。
僕のメモは僕の経験と記憶、そして人格から構成されている。
そういう意味では、「僕」一つのものだ。
奇麗に整頓していないから、僕を構成している、経験、記憶、人格が相互に干渉しあえる。そこから僕だけの意見が生まれる。

まだ実践中だけど、何かヒントがあるんじゃないかって思っている。
というより、試行錯誤というか、自分で考えた事を試してみたい。


って、日が経つのが早く感じるという話から、話がえらい変わりよう(笑)
これはいい兆候かも!じゃこの辺で。