月並みな事やけど、最近ほんま1年が早く感じる。
一年前の三月なんかついこの前みたいやのに・・・時間の長さは同じやのに、何でこんなに早く感じるんやろ?
自分なりに早く感じる理由を考えてみた。
小さい頃はどうして一日が長く感じたのか?
・見る物全てが新鮮。一日一日が真新しい事で、どの一日も存在感がある。
・カレンダーやスケジュールという概念がない。過去を遡ったり、未来を考えたり、過去、未来から相対的に今という物を捉えていない。常に今が全て。
・記憶の総量が少ない。よく言われるのが小さい頃の記憶(例えば10歳の頃の記憶)を1/10とすると、大人になってからの記憶(30歳ぐらい?)は1/30だから一つの重みが違う。でもこれに関して僕が思うのは、1/10の方が母数が少ない分、一つの記憶を見つけるのが早く出来るはずで、記憶を過去に遡るのも早く出来るはず。逆に1/30の方が過去まで遡るのに、色んな記憶をかき分けていかないといけないから、大変なはずである。それに記憶というのは忘れていくように出来ている。記憶の「数」の問題ではないと僕は思う。
という事はやはり、質か?
まぁ、それは一旦置いておいて、
今度は、大人はどうして一日が早く感じるのか?の立場から考えてみる。
・毎日が単純作業の繰り返し。うーん、これはどうやろ??
・カレンダー、スケジュールという概念が出来る。さっきの子供との逆。
おお、これは中々面白い仮説が立てられそう。
カレンダーの概念が頭に出来るというのはどういう事かを考えてみる。
カレンダーの概念が頭に出来ると、一ヶ月単位、半期単位、季節単位、一年単位で考えるようになる。例えば季節単位で考えると一年は4つに分類できるし、行事単位だったら、行事がある日とそれ以外の日常に分ける事が出来る。
これは個人によって違う事だと思うが、もしかするとこのように無意識に脳が記憶をカテゴライズしているんじゃないか?
子供の頃はカレンダーという概念がない。横並びに散らかった記憶。
大人になり、カレンダーの概念が出来、一年を無意識にカテゴライズし始める。
横並びに蓄積されていた記憶が、ある区間で区切られ、立体的に構築されるようになる。
よくありがちな、25歳を過ぎてから一年が物凄く早くなったわー。って言うのは、その人にとっては何か仕事や習慣的な物が定着し25歳ぐらいにカテゴライズを終え、縦の蓄積の段階に入ったのではないか?
例えば・・・
それまでは、お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき、お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき、お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき・・・と横にずっと続いていたが、カテゴライズをすると
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
お花見、お盆、クリスマス、正月、豆まき
と、縦に蓄積される。見やすい。
縦に蓄積されると、正月が来ると、頭は「正月フォルダ」にいる。「正月フォルダ」の記憶は正月ばかりだから、縦に遡り、一年前の正月は昨日の事のように感じる。二年前の正月は一昨日の事のように感じる。横にある他の「フォルダ」からの干渉を受けにくくなる。
人間が合理的な考えを身につければつける程、脳は無意識にこのカテゴライズをしているように思う。
そしてこれは、カレンダーだけじゃなく色んな事を脳が無意識にカテゴライズしている可能性がある。
「大人は頭が堅いが、子供は発想が柔軟で突飛なアイデアが出てくる」なんてよく言われているのはこの部分が原因なんじゃないか?
カテゴライズされていない方が、頭の中で色んな物事がリンクして、より大胆な発想やアイデアが生まれるんじゃないか?
ただ、横並びの記憶は量が増えれば増える程、収集がつかなくなるから、記憶量がまだ少ない子供の特権なのかもしれない。情報量が増えれば脳は必ずカテゴライズする必要が出てくるんだろう。
カテゴライズされても子供のように自由な発想や脳内リンクを生む方法ってあるのかって考えてみた。
そこで、今僕が実践中の事がある。
メモをまとめずに乱雑に取る事。
僕は考え事をしていても、「頭で考えるだけ」ではどんどん色んな方向に考えが枝分かれしていき、最終的には収集がつかなくなるので、すぐにメモを取るようにしている。
一日の中で思いついた事や、考えた事を、iphoneのメモにどんどん書いていく。
それも下にどんどん付け足していく。途中で話が変わっても構わない。
次の日は新規メモを作り、またどんどん書いていく。
そうすると、流れてくる映像も一時停止して見てみると見える部分があるように、メモとして、考えを一時停止して外から見てみる事で、自分なりに熟考出来る。
練習の事や、音楽の事、日常の悩み、全部同じページに思った順番のまま書いていく。全部いっしょくた。
後で見ると、全然関係のない話に急に飛んでいたり、急に戻っていたり、支離滅裂だ。でも奇麗にカテゴライズしないからこそ意味があるんだと思う。
僕のメモは僕の経験と記憶、そして人格から構成されている。
そういう意味では、「僕」一つのものだ。
奇麗に整頓していないから、僕を構成している、経験、記憶、人格が相互に干渉しあえる。そこから僕だけの意見が生まれる。
まだ実践中だけど、何かヒントがあるんじゃないかって思っている。
というより、試行錯誤というか、自分で考えた事を試してみたい。
って、日が経つのが早く感じるという話から、話がえらい変わりよう(笑)
これはいい兆候かも!じゃこの辺で。