音楽をやっていると練習うんぬんの問題ではない部分にぶちあたる。それはその個人だけにしか出来ない部分だったり「才能」とひとくくりにされがちな部分だったりする。
元々音楽自体、自分を表現する知的生産の一部だから、誰にも真似できない自分にしか出来ない音楽をする事に意味があり、誰かのコピーになっていたり、誰かのモノマネをやっていては意味がないと思う。
僕にしかできない演奏をしたい。そう言う風に昔から強く思っている。
じゃあ自分にしか演奏できない演奏って何なのか?
そもそも知的生産というのは、
・入ってきた情報(インプット)を
・自分の頭で考えて
・自分の解釈を加えて人に伝える(アウトプット)事。
である。
今はツイッターやSNSの普及で沢山の個人が、入ってきた情報を自分なりの解釈を加えて発信している。
「あそこのお店美味しかった」とか「今話題のあれを使ってみたけどイマイチだった」とか、そんな何気ない感想も全て知的生産だ。
肝心なのは自分のフィルターを通っているかどうか。
そしてそのフィルターは自分の記憶力や体験に大きく関係している。
自分の知的生産が相手にとって価値あるものになるには、自分にしか出来ない知的生産を行う事が重要だ。
自分にしか出来ない知的生産とは、自分の記憶力・体験のフィルターを通らないと出てこないようなアウトプットの事だ。
例えば、昔読んだ本を今改めて読んでみるとその感想は全く違ったものになる。
これは自分の中の記憶・体験が増えたからである。
本が「記憶力の索引」になっているのである。
一つ一つの言葉から膨らむ想像というのは、自分の記憶に起因している。
体験した事や記憶が増える事によって、自分の感じ方が変わる。そこに自分だけの価値が加わる。
沢山色んな経験をし、自分の頭で考えたり、色んな感情を経験したりしないと、幾らいいインプットが入ってきていても理解できないのだ。
そしてこれは音楽でも同じだ。
逆に言うとある人の演奏を聴けば、普段どんな風に音楽が聴こえているのかが分かったりする。
例えば、ニュアンスやアーティキュレーションに乏しい演奏をする人は、実はどんなに歌心溢れるダイナミズムに富んだ演奏を聴いても、そう言う部分は聴こえていないのである。
これは裏を返せば、耳がよくなれば上達するという事だ。
そして、耳がうまくならないと、幾ら練習してもうまくならないという事でもある。
耳がよくなるというのは「記憶力の索引が増える事」によって理解できるようになる事でもある。
繊細に物事を感じ、経験を増やす事が大事なのだ。
経験や記憶が感性を磨いていく事につながる。
そして自分のフィルターが充実し、知的生産の量が増えると、さらに知的生産が増える。
知的生産が知的生産を生むのだ。
勝手に「メタ知的生産」って名前つけとこ。
このメタ知的生産は木が森になるのと同じように、「木を見て森を見る」という事につながる。
「木を見て森を見ず」ではなく、「木を見て森を見る」
一つ一つの木を見てきた上での森を見る事。これが将棋の羽生さんの言う所の「大局観」なのではないかと思う。
羽生さんはこう言っていた。
「体力や手を読む力は、年齢が若い棋士の方が上だが、大局観を使うと、”いかに読まないか”の心境になる。」
何が大事で何が大事でないかが経験により分かるようになる。
この大局観は本質を見抜く力となるのではないかと僕は思う。
ライト兄弟は鳥のように羽ばたく機械を作って空を飛んだのではない。
電車のようにレールを走る動物は自然界にはいない。
「飛ぶ事」を目的としたから飛べるようになり、「速く走る事」を目的としたから速く走れるようになったのである。
ジャコやウェスが天才と言われるのはどうしてなのか。
音使いや音列を「研究」していては「ジャコ」にはなれないのである。
僕がミュージシャンであるという事をもう一度よく考えてみた。
僕も木を見て森を見れるように、今の僕が感じた事を、今の僕の記憶による味付けで、今の僕の意見としてアウトプットしていこうと思う。
ジャコやウェスのように、いつか僕にしか弾かれへんベースで多くの人を感動させたいなぁ。。。