市川市 国府台・国分 ~国府台編~ | MAM ・ MOM ー TAT・ TOT

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市川市 国府台・国分 
~国府台編~
 
 
 
 
 
市川市 国府台・国分?
市川市と言えば
 
メインエリアは

市川駅、本八幡駅周辺です
 
国府台・国分は

市川市の北部にあります
 
(国府台の地形地図)
 
国府台は江戸川沿いで
 
高台になっている地形にです
 
これまでは

三郷南ICまでだった外環道が
 
2018年6月に 

松戸IC や 京葉市川IC
 
そして
 
東関東自動車道の高谷JCT まで

伸びました
 
(高谷JCT は千鳥町の辺りです)
 
京葉道路、東関東自動車から
 
埼玉方面へ行くのはもちろん
 
埼玉方面から外環道で
 
京葉道路、東関東自動車道が

利用可能となり
 
飛躍的に便利になりました
 
JR市川駅から

京成銑鉄 国府台駅はすぐ近く
 
市川市のメイン道路である

国道14号線
 
市川駅近くの国道14号線から
 
松戸街道(市川‐松戸線)を通り
 
① 国府台駅から学園都市
 
② 国立国際医療センター 国府台病院
 
③ 里見公園へ
 
ちなみに
 
松戸街道は国府台を過ぎると

松戸矢切に入ります
 
国府台駅
 
和洋学園
 
和洋学園には
 
和洋女子大学

和洋国府台女子中学高等学校
 
があります
 
和洋学園と言えば
 
18階建てのシンボルタワー

(東館)
 
 国府台という高台に建てられ
 
国府台駅周辺からだけでなく
 
江戸川の向こう側の

東京都からも
 
一際目立つ建物です
 
県立国府台高校
 
東京医科歯科大学 教養部
 
東京医科歯科大学 

教養部キャンパス
 
近くには千葉商科大学もあり
 
国府台は学園都市としても

知られています
 
 
次いで
国立国際医療研究センター 

国府台病院
 
国府台病院 外観
 
戦前は国府台陸軍病院
 
終戦して国立国府台病院となり
 
1987年  
国立精神・神経センター  国府台病院
 
2010年 
国立国際医療研究センター  
 
と改称されています
 
 
次いで
里見公園へ
 
里見公園には

国府台城跡があります
 
里見公園
 
国府台城跡
 
国府台城跡の碑
 
房総の魅力500選
 
国府台城跡のある
 
里見公園は普通の公園です
 
この国府台城跡で
 
戦国時代に

一体何があったのでしょう

市立市川歴史博物館


《国府台合戦》

戦国時代に
下総国の国府台城一帯で
北条氏と里見氏が戦った合戦
 
①天文7年(1538年)
第一次合戦
 
②永禄6・7年 (1563・1564年)
第二次合戦
 
 
◎同じ頃の戦国時代の出来事
1534年 織田信長誕生
1536年 豊臣秀吉誕生
1542年 徳川家康誕生
 
1543年 鉄砲伝来
1549年 
フランシスコ・ザビエルが
キリスト教を宣教
1560年 桶狭間の戦い
 
 
《第一次国府台合戦》
○勝ち
北条氏綱
北条氏康
北条幻庵
 
●負け
足利義明 (戦死)
里見義堯
真里谷信応
 
足利家の一門である
『足利義明 』は
下総国で勢力を広げていた
 
一方で
『北条氏綱』が
鎌倉や武蔵江戸城を占領
 
『足利義明』と『北条氏綱』
の関係は緊張
 
1537年12月に
『千葉昌胤(千葉氏24代当主)』
が『足利義明』から離反
 
1538年2月『北条氏綱』が
武蔵・下総の国境にあった
葛西城を攻める
 
『里見義堯』は『北条氏綱』
と決別し
『足利義明』に付いた


ついに
『足利義明』と『北条氏綱』が
戦う事になる
 
1538年10月
足利義明
里見義堯・真里谷信応の
連合軍が軍1万を従えて
国府台城に入る
 
一方、北条氏綱は
嫡男  北条氏康
弟の北条長綱ら
2万の軍を率いて江戸城に入る
 
「足利義明・里見義堯の軍」は
江戸川を渡河する
北条軍を討つ事では合意
だが、『足利義明』は自ら出陣
自らが上陸して敵を討つと主張
『里見義堯』の戦略は却下され
これでは勝利はないと考えた
『里見義堯』は
『足利義明』の敗戦を予知し
主戦場になる松戸方面ではなく
裏道である市川側からの
挟撃に備えた
 
10月7日  
江戸川を越えた北条軍は
松戸城を経て
国府台の北側で衝突
次第に数で優勢な北条軍が
押し始める
 
ついに、『足利義明』が逆上
北条軍目がけて自ら突撃を図り
北条軍兵士の弓に当たって戦死
 
里見義堯は
「足利義明戦死」を聞き
結局一度も交戦することなく
戦場を離脱
 
この戦いの結果
北条氏の勢力は下総にまで浸透
一方、足利義明の戦死で
勢力地図が一変する
 
権力の空白域と化した
上総国南部には
この戦いでほとんど無傷の
里見義堯が進出し
久留里城・大多喜城などを占領
房総半島の大半を手中に収めた
 
 
《第二次国府台合戦》
(1563年・1564年)
 
結果:里見軍の退却
 
○勝ち
北条氏康
北条綱成
 
●負け
里見義堯
里見義弘
 
第一次合戦後
 
国府台は
小金城主『高城胤吉』の
所領になった
 そして
千葉昌胤』が
北条氏の傘下に入り
事実上北条領となる
 
永禄6年(1563年)
『北条氏康』『武田信玄』が
『上杉謙信』の
武蔵松山城を攻撃
 
『上杉謙信』から
援助の要請を受けた里見義堯が
嫡男『里見義弘』を救援に
向かわせた
 
この時に
国府台で阻止する北条軍と
里見軍が戦い
この時は里見群が
国府台城を納めた

同年の北条氏康の配下であった
江戸城の守将『太田康資』が
北条氏康への不満から
 上杉謙信への
寝返りを図るも失敗
 
同族の
『太田資正』の元へ逃れた
 
上杉謙信は里見義弘に
『太田資正・太田康資』
の救出を依頼する
 
里見義弘は
永禄7年早々に 
1万2千人の兵を率いてと
房総諸将を率いて出陣
1月4日国府台城に入る
 
北条氏康は
千葉昌胤らを援軍にして
北条軍も2万の兵を率いて出陣
 
1月7日に北条軍は江戸城を出て
里見軍を攻撃する

先陣の
『遠山綱景』『富永直勝』は
太田康資の離反を
察知できなかった責任を感じ
本隊の『北条綱成』よりも
先に突撃してしまう
現在の矢切の渡し付近を渡り
江戸川を越えて国府台を攻撃
しかし
里見軍の返り討ちに合い
遠山と富永は戦死した
北条軍は撤退
(したように見せかけた)
 
里見義弘は
北条軍を蹴散らかしたと
勘違いし
この勝利に気を良くした
出陣が正月早々でもあり
兵士たちに酒を振舞った
だが
主力を温存していた北条軍は
撤退したと見せかけ
 
1月8日未明に
再度江戸川を渡り
里見軍に夜襲をかけた!
酒宴後の里見軍は大混乱
 里見義弘は命からがら
戦場を脱出した
 
永禄7年の戦いの後
北条軍は一気に上総にまで進出
しかし
苦境に立った里見軍も対抗し
 北条軍に占拠された
佐貫城 (富津市) を奪還し
 三船山合戦
 (富津市と君津市の境) でも
里見軍は北条軍に勝利し
北条軍の安房遠征を
失敗に追い込み
両氏の戦況は
再び膠着するのでした
 
 
城の石垣が残っています
 
 
国府台城跡からの江戸川や東京側の景色
 
国府台が高台にあるのがよくわかります

この眺めから

江戸川を渡る敵軍を迎え討ったのでしょう

里見公園の下、江戸川沿い

車で通ると柵がなくて落ちそう
 

里見公園内には
 
 
 
 
 
現在の里見公園は
 
バラの時期にはバラの名所として
 
近隣住民に親しまれています




最後に
Open  Oven

食べログ 市川市 4位

パン百名店  2020  に選出

国府台駅から徒歩6~7分

Open  Oven 外界

ベーグルと惣菜パンが人気のパン屋さん

イートイン16席あり

8時開店で、朝食に訪れる方々がいました

全メニューがテイクアウト可能

オレンジ・ベーグル

一番人気だそうです

アボカドと海老のパン

女性に人気のお洒落な惣菜パンでした









学園都市の国府台駅周辺

国立国際医療研究センター 国府台病院

国府台城跡の里見公園

イートインのある人気のパン屋  Open  Oven

でした








今回もお付き合いいただき

ありがとうございました







おわり