そろそろ半袖で歩いている人を見かけることが多くなってきました。

先週26,27日に三重県で伊勢・志摩G7サミットが開かれました。
その後、27日夕方に、現職アメリカ大統領としては初めてバラク・オバマ大統領が広島を訪れ、献花して追悼のスピーチを行いました。

2009年4月(就任後約3か月)のチェコ・プラハでの核と平和についての大演説から7年後、二期目の終わりを控え、原爆慰霊碑の前で少数の参列者の前で詩の朗読のように追悼のスピーチを行いました。

この訪問の意義を全くの戦後派のわたしが考察するのは難しいことです。
しいて言えば清新さを武器にして大統領になったオバマ氏も、老練とさへ言える政治家になった、ということでしょうか。

 2009年4月5日  プラハでの演説
 https://www.youtube.com/watch?v=_lcpg6yQ0Yw

 

 2016年5月27日  広島市でのスピーチ 
  https://www.youtube.com/watch?v=tNzt7gVz56c

日本語訳(毎日新聞電子版より)
 71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界が変わりました。閃光(せんこう)と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示しました。

 私たちはなぜここ広島に来るのでしょうか。それほど遠くない過去に恐ろしい力が解き放たれたことを考えるために来ます。また、10万人を超える日本の男性、女性、子ども、多数の朝鮮半島出身者、12人の米国人捕虜の死者を悼むために来ます。その魂がもっと心の内を見て私たちは何者なのか、私たちはどのようになれるのか、振り返るよう語りかけてきます。

 広島を際立たせているのは戦争という事実ではありません。人間が作った道具は暴力的な紛争が古くから行われてきたことを教えてくれます。私たちの先祖は石から刃物を、木から槍(やり)を作ってきました。これらの道具はただ単に狩りをするためでなく、人間に対しても使われてきました。どの大陸においても文明の歴史は戦争に満ちています。食料不足や黄金への渇望、民族主義的、宗教的な熱狂から戦争が起こり、帝国が台頭し、衰退してきました。そして、人々は支配され、解放されてきました。その時々で数えきれない犠牲者が出て罪のない人々が苦しみ、犠牲者の名前は時とともに忘れ去られました。

 広島と長崎で残虐的な終わりを迎えた世界大戦は、最も豊かで強い国々の間で戦われました。その文明は世界にすばらしい都市や美術を生み出してきました。そして、思想家は正義や調和、真実という進んだ考えを見いだしてきました。しかし、最も単純な部族同士の紛争の原因のように、支配、征服を欲する本能という同じ根本から戦争は起きてきました。つまり、古いパターンが制約が働くことなく、新しい能力により増幅されてきました。ほんの数年間で6000万人が亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと全く変わらない人たちです。銃で撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、拘束され、飢餓に苦しみ、毒ガスにより、亡くなりました。

 世界にはこの戦争を記録している施設がたくさんあります。記念碑は勇ましさや英雄的な物語を伝え、墓地や収容所の跡は言い表せないほどの恐ろしい行為がなされたことを示しています。しかし、この空に上がったキノコ雲の姿は、最も明確に人類が抱える矛盾を想起させます。思想、想像、言語、道具作りなど、人類が自然界から離れ、自然を従わせることができると示す能力は、同時に、比類のない破壊力も生み出したのです。

 物質的な進歩や社会の革新が、どのくらいこうした真実を隠してしまっているでしょうか。私たちはどれだけ簡単に、暴力を崇高な理由によって正当化してしまっているでしょうか。すべての偉大な宗教は、愛や平和、公正さにいたる道を説いていますが、どの宗教も信仰の名のもとに人を殺す信者を抱えることを避けられません。

 国は犠牲や協力によって人々が団結するという物語を語り、台頭して偉大な成果を生みました。その同じ物語は、自分とは違う他者を虐げたり、非人間的に扱ったりすることに使われてきました。

 私たちは科学によって海を越えてコミュニケーションできますし、雲の上を飛ぶこともできます。病気の治療や宇宙の解明もできます。しかし、そうした発見が、効率的に人を殺す機械になり得るのです。

 近年の戦争は私たちにこうした真実を伝えています。広島も同じ真実を伝えています。技術のみの発展だけでなく、同様に人間社会が進歩しなければ、我々を破滅させる可能性があります。原子を分裂させた科学の革命は私たちに道徳的な進歩も要求しています。
 これが私たちが広島を訪れる理由です。

 この広島の中心に立つと、爆弾が投下された瞬間を想像させられます。混乱した子供たちが抱いた恐怖感を感じ、声にならない叫びを聞きます。むごたらしい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起こるかもしれない戦争による、罪のない犠牲者に思いをはせます。言葉だけでは、このような苦しみを表すことはできません。しかし、私たちは正面からこの歴史に向き合い、このような苦しみを再び繰り返さないためにできることを問う責任を共有してきました。

 いつの日か、証言をする被爆者の声を聞くことができなくなります。しかし、1945年8月6日朝の記憶は決して消してはいけません。その記憶があるからこそ、我々は現状に満足せず、道義的な想像力の向上が促され、変われるのです。
 あの運命の日以来、私たちは希望をもたらす選択を行ってきました。米国と日本は同盟を築いただけでなく、友情をはぐくんできました。それは戦争よりもはるかに人々にとって有益でした。

 欧州の国々は貿易と民主主義の結びつきによって戦場に代わって連合を作りました。抑圧された人々や国家は自由を勝ち取ってきました。国際社会は戦争を避け、そして核兵器を規制、削減し、最終的には廃絶することを求めた機構や条約を設けてきました。

 しかし、私たちが世界で目にする、すべての国家間の侵略行為やテロ行為、腐敗、残虐行為、そして抑圧は、私たちの仕事がまだ終わっていないことを示しています。

 私たちは悪を行う人類の能力をなくすことはできないかもしれません。だから、私たちが築いた国家や同盟は、私たち自身を守る手段を持たなければなりません。しかし、我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません。私が生きているうちに、この目標を達成することはできないかもしれませんが、たゆまない努力で破滅の可能性を少なくすることはできます。

 私たちはこれらの核兵器をなくす道のりを描くことができます。私たちは新たな(核兵器の)拡散を止め、狂信者から核物質を守ることができます。これだけでは十分ではありません。なぜならば、原始的なライフルや「たる爆弾」ですら、非常に大きな規模での暴力をもたらせるからです。

 私たちは戦争自体に対する考え方を変えなければいけません。外交を通じて紛争を防ぎ、始まってしまった紛争を終わらせる努力をする。相互依存が深まっていることを、暴力的な競争ではなく、平和的な協力の名分にする。国家を、破壊する能力ではなく、何を築けるかで定義する。そして何よりまして、私たちは人類の一員としてお互いのつながりを再び想起しなければなりません。このつながりこそが我々を人類たるものにしているからです。

 私たちは過去の失敗を繰り返すよう遺伝子で決められているわけではありません。私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。子どもたちに違う方法を伝えることができます。共通する人間性を説明し、戦争が起こりにくく、残虐性が簡単には受け入れられないようにする物語です。被爆者の方たちの話から、それらが分かります。原爆を落とした爆撃機を操縦したパイロットを許した女性がいました。それは彼女が、自分が本当に嫌悪しているのは戦争そのものだと気付いたからです。広島で殺された米国人の家族を捜し出した男性がいました。なぜなら彼は、その米国人たちの喪失感は彼自身のものと同じだと確信していたからです

 私の国の物語は(独立宣言の)簡単な言葉で始まります。「すべての人類は平等に創造され、創造主によって奪うことのできない権利を与えられている。それは生命、自由、幸福追求の権利である」。しかしその理想を実現することは、米国内や米国民の間であっても、決して簡単ではありません。しかし、その物語にあくまでも忠実であろうとすることに価値があります。それは努力しなくてはならない理想であり、大陸と海をまたぐ理想です。

 全ての人のかけがえのない価値です。全ての人命は貴重であるということです。私たちは一つの家族の一部であるという根源的で不可欠な考え方です。それが私たちが伝えていかなくてはならない物語です。
 だからこそ私たちは広島に来るのです。それによって、私たちは、愛する人たちに思いをはせます。朝一番の子供たちの笑顔。食卓での配偶者との優しい触れ合い。親の心地よい抱擁。そうしたことを思い、そうしたかけがえのない瞬間が71年前のここにもあったのだと考えることができます。亡くなった方々は私たちと全く変わらない人たちでした。

 普通の方々はこうしたことを理解できると思います。彼らの誰もがこれ以上、戦争を望んでいません。むしろ科学の驚異を、命を奪うのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立ててほしいと考えています。

 国家が選択をするとき、国家の指導者がこのシンプルな英知をかえりみて選択すれば、広島から教訓を得られたと言えるでしょう。

 世界はここで永遠に変わってしまいました。しかし、広島の子供たちは平和に日々を送っていくでしょう。なんと価値のあることでしょうか。それこそが守り、そして全ての子供たちに広げていく価値があることなのです。

 これこそが、私たちが選択できる未来です。広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりであるべきです。

来日前に、ベトナムを訪れています。
かつてベトナム戦争を戦ってアメリカが苦い敗北を喫した国。
前任のブッシュ氏に続いて二人目の現職大統領の訪問。
東南・南西アジア重視の姿勢の表明でしょうか。
ここで、若者相手の集会を催しています。
 2016年5月25日 President Obama Holds a YSEALI Town Hall
  https://www.youtube.com/watch?v=XP-ymNEwZUU

 YSEALI というのは the Young Southeast Asian Leaders Initiative
の略語。南東アジア新リーダー構想とでも訳せましょうか。
会場の若者たち、皆元気はつらつとしていると思いませんか。



ほとんどコピペで作った記事だが
久しぶりなので大いに疲れたのでありました。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 ごきげんいかがですか

しばらく記事アップをしていませんでしたが、
わたし、不覚にも、3月末に交通事故で救急搬送されて入院していました。
かなりの重傷で、約2カ月の病院生活を送りましたが、ひととおりの治療は終わり退院の運びとなりました。
今後数カ月間は自宅療養、リハビリに努めることになります。

他にすることもないので、今後もブログ記述は続けていく予定です。

 とりあえずの報告です。







 もうすぐ桜の季節
 冬来たりなば春遠からじ・・・を過ぎて
 日本中にソメイヨシノをはじめ多種のサクラが咲き、
 花見に興ずる姿は、 外国人にも興味深く映るらしく、
 これを目当てに訪日するむきも増えているとか・・・。


 先日の「5年後の3.11」にはどのような感慨を抱きましたか?
ようやく、本格的に復旧・復興の端緒につき始めたといった感じでしょうか。
応急の復旧からやっと次の段階へ。
とは言いながら、地域により、世帯により、個々人により事情は様々なんだろうと思います。

さて、
3.11のもう一つの大問題は
原発事故の後始末です。
・放射性廃棄物の処置(中間貯蔵施設の問題)
・廃炉(燃料デブリ除去の問題)
・汚染水(なぜ汚染水が出続けるかの問題)
・事故避難者の生活(今後の人生という問題)
etc.

以上の問題はわたし個人が語るには大き過ぎるので、
もう少し身近な話をします。
だいぶ前に記事にしましたが、現在では原発事故強制避難地域のど真ん中を通れるようになっています。
太平洋岸に沿うように国道6号線と常磐自動車道を一般車両が通行できるようになっています。

★原発事故当初の避難指示地域 (2011422日指定) wikimediaより

旧名称 警戒区域計画的避難区域緊急時避難準備区域


★現在~20159月5日避難指示区域再編後 
(福島民友新聞より)

避難指示区域の概念図と各区域の人口および世帯数

(人口、世帯数は本来ならばこれだけ人が住んでいるはずという数字)

国道6号線(陸前浜街道)の通行再開(一般国道)
  2014年9月15日
常磐自動車道全線開通(高速道路)
  2015年3月1日

高速道路は人家の無い所を通過するだけの無味乾燥な道路ですが、一般道は人里の中を通っているのでいろいろなことが観察できます。
もちろん、国道以外のところを許可なくズカズカ入っていくことはできません。

位置関係を関東方面から見ていくと、
水戸市からいわき市(福島県の東南端)中心部まで約100km。
<いわき市には避難者・事故対応関係者が2万数千人居住しているそうだ。>
そこから広野(ひろの)町、楢葉(ならは)町を通って、富岡(とみおか)町から現在の強制避難地域に入ります。ここまで30数km。
<広野町は事故後約1年で避難解除して住民の約半数が帰還して、その他原発作業員が多く居住しているらしい。楢葉町は昨年避難解除したが帰還した住民は数%でまだ暗中模索状態とか。>
富岡町以北、大熊(おおくま)町、双葉(ふたば)町、浪江(なみえ)町、南相馬(みなみ・そうま)市南部までが強制避難地域で、その距離約40km。<富岡、大熊、双葉、浪江は現在も全町避難で、南相馬市は一部が避難対象。>
これより北方の南相馬市中北部、相馬(そうま)市、新地(しんち)町までが福島県域。
宮城県に入って、山元(やまもと)町、亘理(わたり)町、岩沼(いわぬま)市、名取(なとり)市、仙台市に至ります。約40km。

国道6号線が避難対象地域に入ると、警察官が立ち番していたり、放射線計測機があったり、沿道の家屋が朽ちかけていたり、何よりひと気がありません。ただし、ぼんやり気分で走行していれば、今自分が特殊な地域を通っているのだということに気が付かないかもしれませんね。
対象地域以外のところでも「津波浸水地域」の表示があったり、JR常磐線の復旧工事をしているところがあったり、他地区では見られない光景があります。

数度クルマで通って得た表面的経験からの報告です。
個人的感想は控えめにしておきます。

今月はブログ更新予定はありません。
よい新年度をお迎えください。