昨日4月1日昼前、次の元号が発表されました

      令和 REIWA

 

 今回は日本最古の歌集「万葉集」(8世紀末成立?)が出典だそうで、従来の漢籍、特に四書五経(1世紀初め頃成立?)由来からの変更だそうです。

文字を持たなかった古代日本人が西方の文明中華圏の文字を借りて通信・記録に使用しました。漢字・漢文は支配層、教養層には必須アイテムでした。

本家の大陸中国では簡体字に移行したり、一時は孔子を否定した時もあったりで、古代の漢字文化の精華はむしろ日本で受け継がれているのでは?、と見る向きもあるようです。

 

 万葉集は「やまとことば」を漢字で表記したもので、編纂者たちは漢文を身に着けた人たちでした。

人文分野に完全な独創(オリジナル)などありうるはずも無く、作品に過去や他者の影響が見えても、その独創性の価値が減ずるものではないと思います。

 

 

 新元号が決まって今上天皇陛下もほっと一息なさっているかもしれませんね。

「天皇としての旅」から平穏のうちに帰着なさることを皆祈っていることでしょう。

 

 これからは新天皇即位の方に力点が移るのでしょうか。

全くの平和の時代に誕生した新・徳仁天皇はどのような足跡を残していかれることになるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ごぶさたです

  前回の記事アップから2か月も経ってしまいました

 

先月に日本文学研究者のドナルド・キーン氏(1922~2019.2.24)が亡くなったとの報がありました。

生年1922年は和暦で大正11年で、若い人たちにとっては、大昔の人のような気がするかもしれませんね。

 

「日本のことを学問的に研究する人」を英語では ジャパノロジスト(Japanologist) と呼びますが、その草分けともいうべき人物です。

現代ではアニメやニンジャのようなサブカルチャーの分野にまで日本好き・日本通の外国人が大勢いて外貨獲得の一助となっているようですが、こういう現象は最近のことでしょう。

 

キーン氏が本格的に日本・日本語に関わることになったのは、第二次大戦・対日戦争の時にアメリカ海軍日本語通訳官として養成されたからでした。新潟県柏崎市にあるドナルド・キーンセンターのサイトには、ご本人あいさつが載っていますが、その一節に次のように書かれています。

 

・・・・日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生ー特に或る外国語を習得した学生ーを選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。

一方もとの学生の一割位は日本語を忘れないで、なにかの形で日本と関係のある仕事を見つけました。私はその一人でした。コロンビア大学で、角田柳作先生の許で古典文学と思想史を勉強しました。他は日本の美術、近代史、経済、政治などの研究に力を入れました。かれらは海外の日本研究の最初の世代でした。現在孫弟子が活躍しています。・・・・

 

戦争は気分ではできません。特にアメリカは手段を徹底的に研究する国なので、日本語を理解できる情報士官を戦略的に養成しました。

戦後、その多くは‟日本語では飯を食っていけない”ということで離れていったわけです。

(日本研究に携わった最初はキリスト教布教者たちではないか、という疑問もあるかもしれない。ただ、短期間に集中的に現代日本を研究できる若者を養成したのはこれが最初であるかもしれない)

 

キーン氏は情報士官として、アッツ島玉砕や沖縄地上戦も実体験しました。そうした中で、日本軍の将兵が詳細な日記を残すのを意外に感じます。なぜなら、防諜という意味で戦地の軍人が日記を書くのは好ましくないこととされていたからです。

この時の経験が後に「百代の過客」という日本人日記の研究書として実を結ぶことになりました。

 

戦後キーン氏が日本文学研究者としての基礎を固めた後に留学生として日本に来た時(1953年~31歳)、川端康成や三島由紀夫など大作家たちに大事にされました。やがて自分たちの文学を海外に紹介してくれるかもしれない有能な青年だと思ったのかもしれません。

 

さて、当然のことながら、外国人といえども日本語原典を読み、普通の日本人には難しい文語文や草書体を読みこなした後に、英語で論を展開していくのです。

氏の著作はたいがい外国発表用に英語で書いたものを日本人翻訳家が日本語に翻訳するという形をとっているようです。綿密なすり合わせを経た後に発表されるのでしょう。

 

あまり日本人でも手を付けない論題にも挑戦しました。

日本文学通史を試みたり、明治天皇の評伝や石川啄木の研究書などを書いたり。

「石川啄木」(2016年刊)では、明治時代に生まれてほとんど無名のまま26歳で没した青年について、詳細な注釈付きの370ページにわたる評伝を成功させています。

啄木が死後は廃棄せよと遺言した日記遺稿が函館図書館に保存された経緯を詳述するとともに、こう述べています。

・・・・啄木は、千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ。日記を単に天候を書き留めたり日々の出来事を記録するものとしてだけでなく、自分の知的かつ感情的生活の「自伝」として使ったのだった。啄木が日記で我々に示したのは、極めて個性的でありながら奇跡的に我々自身でもある一人の人間の肖像である。啄木は、「最初の現代日本人」と呼ばれるにふさわしい。・・・・

キーン氏が最晩年に啄木を論じた意味は何だったのか、と考えてみるのも面白いかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   昨年11月に木下杢太郎(太田正雄)の記事をアップしましたが、

  その続編を少し・・・

 

 太田の研究者としての心情がかいまみえるエピソードがあります

 

 1938年に小川正子の手記「小島の春」が出版されました。

小川は瀬戸内海の長島愛生園というハンセン病療養所の勤務医で、高知の奥地に患者の収容に赴いた時の様子を描きました。その悲痛な内容と短歌を交えた美しい田園描写は多くの人を引き付けてベストセラーになりました。

太田は文学としてこれを高く評価し、ハンセン病の実態を知らせる宣伝にもなると評しています(1939年)。

 

この作品は1940年(昭和15年)7月には映画化上映されて、太田は翌月の医事新報に映画評を寄せました。

(この全文を載せようと思ったのですが、私はタイピングが得意ではないので断念しました。治せる病気となった現在から見ると、とても感慨深い内容です。)

 

 一部を紹介します。

 ・・・・

 この動画にはわざとらしさや誇張や嬌態がない。陰惨な人生悲劇の問題を描いて観客の心を打つ。

病人はなぜ自分の家で養生できないか。それは強力なる権威がそれを不可能だと判断するからである。人々はこの病気は治療できないものとあきらめている。それ故隔離が唯一の根絶策だと考える。

この動画は徹頭徹尾あきらめの動画である・・・・

として、最後に以下のように太田の私見を述べています。

 

 癩は不治の病であろうか。それは実際今まではそうであった。然し今までは、この病を医療によって治癒せしむべき十分な努力が尽くされていたとは言えないのである。殊に我国においては、殆どその方向に考慮が費やされていなかったと言ってよい。そして早くも不治、不可治とあきらめてしまっている。したがって患者の間にも、それを看護する医師の間にも、これを管理する有司の間にも感傷主義があふれみなぎっているのである。明石海人の歌は絶望の花である。北條民雄の作は怨恨の焔である。而して「小島の春」及びその動画はこの感傷主義が世におくった最上の芸術である。

 誰か夕雲に翼を輝かす遠つ鳥の影を見ては、この身もまた碧空を翔ろうと願わないものがあろう。しかしヘルムホルツが裁断したようにそれは人間にとっては不可能の事であった。夕鳥の翼はロマンチックの詩歌の裡に人の惝怳(しょうこう)を載せて飛翔している。いづくんぞ知らん、今は幾百トンの重荷を負うて巨大の飛行機は大洋の上を天馳せている。

 癩根絶の最上策はその化学的治療に在る。そしてその事は不可能では無い。「小島の春」をして早くこの「感傷時代」の最終記念作品たらしめなければならない。

 この事はまさに「小島の春」を読み、またその動画を観て心を痛ましむる見物のみならず、また敬虔な長い勤務に身を痛めて病の床に臥すその作者にも告げたい。ここに新しい道が有る。その開拓は困難であるが、感傷主義に萎えた心がその企図によって再び限りない勇気を得るであろう。そのような熱烈な魂が、またこの癩根絶策の正道の上にも必要であるのである。

 ( 注:旧字体は新字体に変えてあります )

 

 彼が何を目指していたかがわかりますね。

実際に、大風子油というハンセン病の唯一の対症療法薬から有効成分だけを取り出して製剤化する研究も行っていたらしいですが詳しいことはわかりません。

 前にも書いた通り、太田の死後ほどなく抗生物質の時代が到来して、彼が望んだ「化学的治療」が実現することになります。