ごぶさたです
前回の記事アップから2か月も経ってしまいました
先月に日本文学研究者のドナルド・キーン氏(1922~2019.2.24)が亡くなったとの報がありました。
生年1922年は和暦で大正11年で、若い人たちにとっては、大昔の人のような気がするかもしれませんね。
「日本のことを学問的に研究する人」を英語では ジャパノロジスト(Japanologist) と呼びますが、その草分けともいうべき人物です。
現代ではアニメやニンジャのようなサブカルチャーの分野にまで日本好き・日本通の外国人が大勢いて外貨獲得の一助となっているようですが、こういう現象は最近のことでしょう。
キーン氏が本格的に日本・日本語に関わることになったのは、第二次大戦・対日戦争の時にアメリカ海軍日本語通訳官として養成されたからでした。新潟県柏崎市にあるドナルド・キーンセンターのサイトには、ご本人あいさつが載っていますが、その一節に次のように書かれています。
・・・・日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生ー特に或る外国語を習得した学生ーを選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。
一方もとの学生の一割位は日本語を忘れないで、なにかの形で日本と関係のある仕事を見つけました。私はその一人でした。コロンビア大学で、角田柳作先生の許で古典文学と思想史を勉強しました。他は日本の美術、近代史、経済、政治などの研究に力を入れました。かれらは海外の日本研究の最初の世代でした。現在孫弟子が活躍しています。・・・・
戦争は気分ではできません。特にアメリカは手段を徹底的に研究する国なので、日本語を理解できる情報士官を戦略的に養成しました。
戦後、その多くは‟日本語では飯を食っていけない”ということで離れていったわけです。
(日本研究に携わった最初はキリスト教布教者たちではないか、という疑問もあるかもしれない。ただ、短期間に集中的に現代日本を研究できる若者を養成したのはこれが最初であるかもしれない)
キーン氏は情報士官として、アッツ島玉砕や沖縄地上戦も実体験しました。そうした中で、日本軍の将兵が詳細な日記を残すのを意外に感じます。なぜなら、防諜という意味で戦地の軍人が日記を書くのは好ましくないこととされていたからです。
この時の経験が後に「百代の過客」という日本人日記の研究書として実を結ぶことになりました。
戦後キーン氏が日本文学研究者としての基礎を固めた後に留学生として日本に来た時(1953年~31歳)、川端康成や三島由紀夫など大作家たちに大事にされました。やがて自分たちの文学を海外に紹介してくれるかもしれない有能な青年だと思ったのかもしれません。
さて、当然のことながら、外国人といえども日本語原典を読み、普通の日本人には難しい文語文や草書体を読みこなした後に、英語で論を展開していくのです。
氏の著作はたいがい外国発表用に英語で書いたものを日本人翻訳家が日本語に翻訳するという形をとっているようです。綿密なすり合わせを経た後に発表されるのでしょう。
あまり日本人でも手を付けない論題にも挑戦しました。
日本文学通史を試みたり、明治天皇の評伝や石川啄木の研究書などを書いたり。
「石川啄木」(2016年刊)では、明治時代に生まれてほとんど無名のまま26歳で没した青年について、詳細な注釈付きの370ページにわたる評伝を成功させています。
啄木が死後は廃棄せよと遺言した日記遺稿が函館図書館に保存された経緯を詳述するとともに、こう述べています。
・・・・啄木は、千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ。日記を単に天候を書き留めたり日々の出来事を記録するものとしてだけでなく、自分の知的かつ感情的生活の「自伝」として使ったのだった。啄木が日記で我々に示したのは、極めて個性的でありながら奇跡的に我々自身でもある一人の人間の肖像である。啄木は、「最初の現代日本人」と呼ばれるにふさわしい。・・・・
キーン氏が最晩年に啄木を論じた意味は何だったのか、と考えてみるのも面白いかもしれません。