清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信

清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信

~人は言葉により励まされ、癒され、自分の世界を築いていく~

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 どのような職業について自分の人生を表現するかという準備の大切なスタートの時を迎えました。

 その記念すべき瞬間において、多くのご来賓の皆様、保護者の方々をお迎えし、平成二十四年度入学式を挙行できますことを感謝申し上げます。
 


 ただいま、理学療法学科昼間コース83名、同じく夜間コース37名、作業療法学科42名、計162名の皆様に入学を許可をいたしました。



 今日まで、そしてこれからを物心両面で、皆さんを側面から支えて行かれる方々のご恩に報いるために、本日、4月4日は、セラピストに成りたいという願望を、ならなければならないという意志を確認する大切な日です。



 与えられた時間は、皆さんに平等に与えられています。


 「いたずらに時を過ごさないように」と若者を諭したのは明治維新に大きく関わった吉田松陰でした。


 次の舞台への誰にも平等に与えられた時間を、深く使ってください。



 今年の選抜高校野球選手権は、本日この時間に決勝戦が重なっていますが、選手宣誓は「東日本大震災から1年、日本は復興の真っ最中です。被災された方々の中には苦しくて心の整理が付かず、今も当時のことや亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。人は、誰でも答えのない悲しみを受け容れることは苦しくて、つらいことです。しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることが出来れば、その先に必ずや大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして、笑顔。見せましょう、日本の底力、絆を。われわれ高校球児ができること、それは全力で戦い抜き、最後まであきらめないことです。今野球が出来ることに感謝し、全身全霊で正々堂々プレーすることを誓います。」という宣誓でした。



 その言葉に重ねますと、今、この舞台に立っていることに感謝し、全力で学び抜き、国家試験合格まであきらめないで頑張ることを心の中で誓い、全身全霊で学業に全うすることを誓ってください。みせましょう、皆さんの中に目覚めようとしている底力、絆を。



 理学療法士、作業療法士の国家試験に叶う力に変化させることは並大抵ではないことは十分認識されていると思います。


 専門学校だから何とか資格を取って就職も何とかなるだろうと、努力しないで打算的な考えでは医療系の専門学校では通用しません。


 全国の医療系の専門学校でどれほど多くの学生が、甘えと努力不足で挫折しているかを思いますと相当の覚悟が必要です。


 幸いなことは、競争試験と違って資格試験です。競争試験は相当頑張っても、それ以上の人がいれば選ばれませんが、資格試験は自分との闘いです。



「努力したからといって成功するとは限らない。しかし、成功した人は間違いなく努力している」という言葉がありますが、私どもにとって力強いのは、理学療法士、作業療法士の国家試験への準備については、努力した人は間違いなく資格を取っているという現実です。



 皆さんの人生において学院での3年間、夜間コースにおいては4年間ほど厳しい努力をしたことはなかったと、自分をほめてあげるような実績を作らない限り、進むべき道が遠のいてしまいます。



 自分の人生のドラマの主人公は自分自身、その主人公を演ずるための経済的な支えを得るための学びでもありますから、その頑張りで半世紀ほどを生きる資格を得なければ成りません。



 自分で頑張りきれなかったり、努力不足を他人の責任にして心を癒すのでは、いつまでも壁は乗り切れません。自分の努力不足として、自分の責任として受けとめるからこそ、エネルギーが湧いてきます。



 『努力する者は希望を語り、怠ける者は不満を語る』~私の恩師の口癖でしたが、全国の津々浦々で一隅を照らす存在をライフワークとして取材しながら、その人たちに共通なことは、夢、目標を持っているという生き方、他人の責任にしない、いいわけをしない自分の責任として受け止める強い心を持った姿勢、どんな厳しさにも自分を成長させてくれる優しさだと感謝する姿勢でした。



 フィリピンから来日して、日本の看護士の国家試験の合格者エバー・ガメッド・ラリンさんは、全く初めての日本語の勉強から初めて、書き上げたノートは1年足らずで百冊にも及びました。「スーパーへ行く以外はすべて勉強でした」と涙ながらに語られました。母国に残してきた子供に日本のすばらしい教育を受けさせたい、何が何でもの思いでした。


 東京、山谷で看取りの仕事をされる山本雅基、美恵子ご夫妻は、現代のマザーテレサと称讃されていますが、最初の頃は、年寄りをだまして金儲けをしていると誹謗中傷を浴びます。私の気持ちが本物かどうか試しているのでしょうと語られるた言葉に畏敬の念を抱きました。心の決定者は自分自身です。


 世界理美容選手権で、技術、芸術など史上初の四冠に輝かれた田中トシオさんは、勤務が終わった後からの特訓は深夜にも及ぶこと数年、何度も挫折しかけた体験から紡ぎ出された言葉は『夢は逃げない、自分が夢から逃げるだけ』『言い訳なんてすぐに用意できる』。


 芥川龍之介の侏儒の言葉のなかに『運命はその人の性格の中にあり』という、実に的を得た言葉がありますが、私は、変え難い性格に加えて、その人が生きる中で培った人間力、正義感、倫理観、他者への寛容、そして自己研鑽の鍛錬から形成された人格に運命はありと確信しています。人は試練を経て力強く成長していくように仕組まれています。


 今を力一杯目標に向かって生きる。私が生きているのは、今のこの一瞬しかない。この積み重ねがそれぞれの人生となっていきます。


 医療系の学校で学ぶことは困難を伴いますが、国家試験の合格は大学を卒業するのと異なり将来が約束されています。物作りと違って、人の人生に関わる尊い天職への準備です。


 経済的には大変だけれども、あんなに頑張っているから応援してあげようという雰囲気を生みだし、自分が多くの人に支えられ、応援されていることを受けとめ、感謝する気持ちが、自分の力をより引き出させると思います。


 私ども教職員は、かくも、この学院で学ぶことは、人間を成長させるのかという形で、ご臨席の保護者の方々と卒業式を共にしたいという思いで一杯です。
 失敗とはあきらめること、成功とは意志を持ち続けることだと言いますが、成功とは意志を行動に移して続けることです。


 一生懸命な姿に、人は優しく手をさしのべたくなるものです。私ども教職員一同熱い思いを持って皆さんの理学療法士、作業療法士を天職として社会に貢献されることへの関わり、飛び立つ環境作りを、精一杯させていただきます。



 ノーベル賞に最も近いと言われる村上和雄先生も取材したお一人ですが『こころと遺伝子』(実業之日本社)によれば、こころの働きは遺伝子の働きであり、良い遺伝子を鍛え、悪い遺伝子を抑えることが大切であることが述べられています。良い遺伝子を働かせることは時間と忍耐を要しますが、悪い遺伝子は実に容易に成長します。


 世界的に著名な細胞生物学者ブルース・リプトン博士の『思考のすごい力』(PHP出版)では、この遺伝子を動かすのは、環境と教育であると結んでいます。


 福岡保健学院の教育理念である『手に高い技術、頭に高度な知識、人には温かい愛を』を心して、最高の環境を持った本学院と熱い思いの教職員の指導をしっかり受けとめて頑張ってください。 



 教職員一同、皆さんがこの学院を選んで良かったという思いを抱いていただくために、時にはかわいそうだという気持ちを振り切って、厳しい言葉もかけますが、何事もプラス思考で受けとめて、強い人間力を育んでください。素直に受けとめ、頑張ることで、この学院を選んで良かったという感激に浸ります。



 結びに、京セラ創業者稲盛和夫さんが色紙に好んで書かれる「良いことをすれば良い結果が出る、悪いことをすれば悪い結果が出る~人生の因果の法則」という言葉を贈ります。



 終わりになりましたが、保護者の方々におかれましては、くれぐれも健康にご留意され、ご子息の理学療法士、作業療法士資格取得の最大の応援者として関わっていただきたくお願いして式辞といたします。

東日本大震災からまもなく1年が経とうとしています。
犠牲者の方々のご冥福をお祈りし、被災者の方々に心からお見舞い申し上げます。

発生からまもなくして、新聞紙上に掲載された福島市天神町、大和伊助さん、89才の一言に大変支えられました。


「みなさんに助けられているから、不便だけれど苦痛じゃないですよ。年の割には元気だって言われます。たいした病気をしていないからね。ただ、団体生活は初めてだから、早く家に帰って自分の好きなものを食べたいね。被災地以外のあなた方こそ、元気で頑張ってください」


不満不平を抑えて相手を気遣う生き方に、奮えるような、湧き出る力をいただいた思いでした。そのような思いを込めて、式辞を贈ります。



式辞


誰にも平等に与えられている時間に『卒業式』という時を刻むときに、皆さんは新たな舞台に向かって旅立ちの時を迎えました。


本日、ここに平成23年度福岡和白リハビリテーション学院の卒業証書授与式を挙行するにあたり、ご来賓、保護者の多数のご臨席を賜り、卒業生の輝く前途を祝していただきますことは、卒業生はもとより、卒業生の旅立ちの場に関を同じくしています私ども教職員一同感無量の思いでございます。


ただいま、理学療法学科78名、うち夜間コース18名、作業療法学科20名の皆さんに卒業証書を授与いたしました。


拙い墨書で恐縮ですが、一人一人の患者様にとってかけがえのないセラピストとして活躍して欲しいという思いを込めて書かせていただきました。



卒業生の皆さん、卒業、本当におめでとうございます。



その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが劇的に変わることをパラダイムシフトと言いますが、皆さんにとっての本日の卒業式は、人生におけるパラダイムシフト~すなわち、いままで、保護者様を含めていろいろな人に「してもらった時代」から、「してあげる時代」への変換です。


皆さんが生きる平成という時代の「平成」という年号は、中国の古典『史記』のなかにある「内平らかに外成る」から引用されたもので、自分自身の心の内側をしっかり磨くことで、自分に関わる全体、すなわち自分の外側が順調に行くという願いが込められています。


自分の失敗や、自分ができないことを外に原因を求めて、責任を転嫁する弱さを克服して、自分の成長と人間としての深さを作り上げる「真の生きる力」を身につけてください。


「良いことをすれば良い結果が出る。悪いことをすれば悪い結果が出る~人生の因果の法則ですが、今日の卒業式に心の中に2本の記念樹を植えてください。


その2本の、してはいけないことをしない勇気の気(木)と、しなければいけないことを心楽しくする勇気の気(木)そして、その木の根をしっかりはって、これからの星霜の風雪に耐えてください。


開式前に流れていました曲は、ローマ法王の前で演奏した唯一の日本人西村直記さんの作曲したジョン万次郎をモチーフにした『漂流~ジョンズドリーム』です。


高知県の貧しい漁師の家に生まれた万次郎は、14歳の時に漁師の手伝いで漁に出たあと、遭難して、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着、アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号に仲間とともに救われます。


救われた大人たちはハワイで降ろされますが、船長ホイットフィールドに好感を持たれた万次郎は、本人の希望もあってそのまま航海に出ます。ボストンから車で十分ほどのヘア・ヘーブンというところで3年間、英語、数学、測量、造船技術などを学び、仲間の推薦で副船長までなります。

万次郎はアメリカで自由な民主主義を目のあたりにし、何とか伝えようとます。帰国を果たしますが、ペリー来航の2年前の鎖国の状況で、処刑が当然の風潮の中、厳しい長期間の尋問を受けるもなんとかふるさと土佐に帰ります。


ペリーの来航で開国を迫られた日本は自由と民主主義の素晴らしさを説いた万次郎のアメリカでの経験を聞き、開国に踏み切ったといわれています。


思わぬ困難に遭遇しても、その状況を素直に受け入れ、一生懸命に前向きに生きたことが激動の幕末の重要人物として歴史上の人物になっています。



順調な人生などあり得ないことは皆さんも承知のことと思います。


不運や困難を嘆くのではなく、どんなことも受け入れて、そこからよりよい生き方を選択してくださいという思いを込めて曲を選択いたしました。



憶測で誹謗中傷も浴びます。私の人生を根幹から変えた出会いは、松本サリン事件第1通報者河野義行さんでした。


犯人と報道されたとき、それも神の意志なら受け容れよう。必要とされるならば救われるだろうと泰然とされました。支えは真実。


犯人を憎んでいますかという私の卑近な質問に、そのエネルギーがあれば家内の看病に使います~と語られた一言に、人生を味わうために時間とお金の無駄遣いは避けられないが、心の無駄遣いを慎もうと思いました。


奈良駅から歩いて十分ほどの元興寺の門をくぐって、右側に少し行きますと、僧侶が読んだ歌が刻まれた石碑があります。


白珠は人に知られず、知らずともよし。人に知らずとも、我し知ららば知らずともよし


自分の生きた人生は他者が知らなくても自分が背負っていきます。


卒業生の皆さんが、これからのセラピストとしての過ごされる中での、心の持ちようとして、常にプラス思考でという思いを込めてニューヨ-ク州立大学病院リハビリセンターラスク研究所の受付の壁に掲揚されている詩を贈ります。


 詩の朗読は、脳梗塞から奇跡的な回復をされ、すばらしい人生の指南書をたくさん出されている作家神渡良平先生、シンセサイザー演奏は先ほど紹介いたしました西村直記さんです。



大きなことをなし遂げるために

力を与えて欲しい、神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった

より偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに

よりよきことが出来るようにと、病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに

賢明であるようにと 貧困を授かった

世の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに

得意にならないようにと 失敗を授かった

人生を楽しもうと たくさんのものを求めたのに

むしろ人生を味わうようにと シンプルな生活を与えられた

求めたものは何一つ与えられなかったが

願いはすべて届けられていた

私は あらゆる人のなかでもっとも豊かに祝福されていたのだ 



 

この詩をCDにして卒業記念品にいたしました。皆様に贈った宮沢賢治の『雨にもマケズ』の文鎮と原版のコピーの詩は、セラピストとして大切な心構えです。


どんな困難も、前向きに生きる姿が他者を感動に誘います。


最後になりましたが、保護者のみなさまに一言お礼申し上げます。


みなさまのご子息は、いま、ここ学院を後にして、穏やかな入り江から大海に向かって船出します。学院生活のなかでたくさんの仲間を得て頼もしく成長しました。


私ども、教職員はそんな素晴らしいご子弟に出会えて、魂を通わす時間をもてましたことを、大変光栄で幸せに思います。


今日まで、陰になって支えていただきました保護者の方々の暖かい本学院へのご支援とご協力ありがとうございました。心より感謝申し上げます。今後とも本学院の更なる発展のためにご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げて、式辞とさせていただきます。   


平成24年3月日福岡和白リハビリテーション学院  学院長  長瀬泰信

『道徳的に良い行いをしなければ真の勝利者にはなれない』
~ミュンヘン五輪百平泳ぎ金メダリスト・田口信教さん~


皆さんが挑む国家試験もスポーツの世界と同様に、真の勝利者になるためには絶対に道徳的に悪いことをしないという姿勢が、自分の心の支えになります。

自分の行動は他人に知られていないことでも、自分が背負って生きていきます。こんなに一生懸命に力強く正しく生きてきたという支えは、自分にとって最高の応援者です。



 今回は、そのことを最も強調されるミュンヘン五輪で百メートル平泳ぎで金メダリストに輝かれ、現在は鹿屋体育大学に勤めておられる田口信教さんを取り上げました。



話がそれますが、東福岡高校がラグビー高校選手権大会で3連覇の偉業を達成して、その根底にあるものが田口先生との語らいで教えていただいたことに共通していました。

 東福岡高校では、ヘッドキャップやマウスピースを忘れると、例え主力選手でも試合には出さないという厳しい規律が精神力を育んでおり、トイレ掃除も課せられ実にトイレがきれいで、部室やグランド横には用具が整然として置かれ、関わる全ての人々に「ありがとう」と感謝する姿勢は、うまくいかないことを他者の責任にしない、強く生きる姿勢があります。

 20年ほど前に、監督の谷崎重幸先生とお話ししましたが、その時からぶれていないなあと感心しています。


 田口さんに戻ります。田口さんが競泳の平泳ぎ日本一になった経緯については、「兄が水泳やっていて一緒にやっていたんですが、中学時代に参加者の少なかった平泳ぎで四国1位になり、本気になってやってみようと思いました。

当時、尾道高校では朝5時半頃起きて早朝練習2時間、放課後に2時間ほどの練習を続けたら日本一になってしまった。365日毎日ではなかったんです。大体3日やって1日休むという感じで3年目にして日本一になってしまったんです。当時としては珍しい温水プールがあり、いつでも泳げるという環境があっったことも幸いでした」と語られています。



 皆さんでも、国家試験に向かってやろうとすれば出来る環境にありませんか?出来ないことの理由なんてすぐ見つかります。でも、そうすれば自分を弱くしてしまいます。



第61代横綱北勝海(ほくとうみ)は稽古の量で横綱になったと言われていますが、横綱の言葉に「何が嫌いかというと、稽古ほどつらくて嫌なものはない。でもこの体で稽古しなければ勝てないから」という言葉に通じます。



田口さんは、泳法についてもいろいろと工夫され、田口キックとしてミュンヘンでも遺憾なく発揮されました。田口さんが高校時代の監督から教えられたことのひとつに「カンニングをしても怒られないのがスポーツの技の世界だ」と言う言葉でした。身近にいるいい手本を見習う、誰にも許されるべき良い手本を盗むカンニングしながら自分の成長を期していくべきではないかと思います。



 田口さんは、日々実践すること、守るべき事を目の付くところに張って、忘れないようにされたそうです。「工事現場に注意が書いてあるのと同じです」と語られました。そして、『目指せオリンピック』と大きく書かれたものを張って頑張られたそうですが、皆さんも『目指せ国家試験突破!』と張られたらどうでしょうか。



 尾道高校卒業後広島修道大学に進学され、県の水泳関係者が広島県から逸材を失いたくないとの配慮から、郷里のフジタ工業に就職されますがここで、田口さんは標記の『道徳的に良い行いをしなければ真の勝利者になれない』という言葉を体験から紡いでいかれます。



ミュンヘン五輪の四百メートル個人メドレーで、優勝と2位の差が千分の2ミリであったことを例に、『運』の話をされた。千分の2ミリ、爪の長さの差ですが、「運も実力のうち」という考え方をされずに、運を掴むためには神を味方に付けることが大切で、神が味方する選手というのは道徳的に良いことを行う人であって、日々の行動が勝負の一瞬に問われていることを1位の選手の日々を例にとられて強調されました。



 田口さんがフジタ工業の仕事で、ある会社に取引で訪れた社長室で、待たされている間に、部屋の片隅にあったガラスの破片を片づけたそうですが、後で取引が成立したことの体験からも、「道徳的に良いと思われることを行え~その結果として運がついてくる」と確信されたそうです。



田口さんは、誰にでもやろうとすれば出来ることを、長く続けたことで世界一になられました。



「なりたい」と思い続ける人は多いが、「なれる」と確信してそのために成すべき事を続ける人は少ないと指摘されましたが、強い信念を持って自分の目標に挑みなさいと言う教えだと思います。



 時間とか希望はみんな平等に与えられていて、時間の使い方で時間の深さを知り、工夫をすることで独創を生んでいきます。スポーツの世界では常にプラス思考で、あらゆる場合において用心は必要ですが、不安は何一ついい結果を生みません。



田口さんは、厳しい練習の継続と強い信念で闘う精神力を身に付けることを強調されましたが、このことは理学療法士、作業療法士の国家試験に挑む皆さんの姿勢にも通じます。



また、田口さんから進められたのが手作りのカレンダーでした。「人生は、何かをしようとすると短い。1年単位で物事を考えないで、目標までのカレンダーを作るといいですよ。私はオリンピック代表決定までの3年余りのカレンダーを作りました」~皆さんも国家試験までのカレンダーを作ってみたらどうでしょうか。



現在、鹿屋体育大学で学生に話され、更衣室等に張っておくように命じられた言葉のいくつかを紹介しておきます。


*自らの未来の設計者は自ら自身である。


*人生とは自らの思いを実現することである~一生懸命やれば「運」は向こうからやってくる。


*自らの力でやりとげようとする人に、天は手をさしのべる。


*己れ自身を信じなければ、誰からも信じてもらえない。


*失敗は成功を教え、努力はしただけ報われ、信じる者に不可能はない。


*人間の評価は、苦境の時の処し方で決まる。


*苦しんだ後でなければ上達はない。偉業は、力ではなく、忍耐によってもたらされる~など、



まさに実践した人の言葉だからこそ、言葉に力を感じました。

脳梗塞で倒れ危機を脱出、失語症からの格闘の中で絵筆を握り感謝のメッセージを送られる、

フジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」にも出演

マスコミの注目も集められ、メディア取材が続いた河村武明さん


 河村さんは、3月25日、新3年生対象のオープンキャンパスで特別講演される予定です。河村さんの人生の一端に触れて見ませんか。


 退職する年の1月の土曜日、校長室の前に生徒からの一通の手紙が置いてありました。そのなかに、河村武明さんの紹介が書かれていて、
「校長先生、こんな人がいます。私はこの人に勇気づけられて生きてきました」と、言葉が添えてありました。


 個展が北九州で開かれていますと案内がしてありました。翌日までの個展を訪れ、笑顔で迎えられ、河村さんとの筆談に恵まれ、更に2月に京都で再会しました。


 必死に生きている河村さんの存在を生徒に教えられ、失われたものを悔やむより残された可能性に光を見出して生きる姿に奮えるような感動を覚えました。



退職後、体力的にももう静かに過ごしたいという思いで人生設計をしていました。河村さんに出会って、「こんなに厳しい状況の中で一生懸命生きている人がいるのに、あなたはそれでいいんですか?」と問われたようで、年齢と体力を理由に逃げていた私は翼をいただいたようにも思います。


 国民教育の父森信三先生の言葉に「人は会うべき人には必ず会える。それは一瞬早過ぎもせず、一瞬遅すぎもせず」と言うのがありますが、その重みをかみしめました。
 この日は、福岡県高野連会長の仕事で長崎に行っていて、直接帰宅する予定でしたが、センター試験を間近に控えた生徒は、午後まで勉強になっていました。
 一言、声をかけて帰ろうと、帰宅降りる予定の笹原駅を通り過ぎて、香椎まで行ったことが、翌日の日曜日までの個展に結びつきました。


 河村さんは、1976年、徳島県生まれ。高校時代より音楽活動を始められ、30歳の時には京都でアコースッティック・デュオ「たけかめ」を結成、ヴォ-カルとギターを担当、四条のライブハウスのレギュラー出演などライブ活動も多くなり、CDの売り上げも伸びるなど順調な音楽活動でした。ところが、2001年10月、突然脳梗塞で倒れ、しかも48時間後に発見救出されるという不遇が重なり、失語症と言語障害(言葉が出てこない、話す、聴くことが出来ず、書く、読むことが少し難しい)、右手麻痺という後遺症が残りました。直後の発見で有れば、そこまでの障害は背負わなかったかも知れません。


 一瞬にして、音楽を聴く耳と歌を歌う声も奪われ、ギターを弾く右手の自由を奪われ、詩を語る言葉さえも失ってしまいました。小便はチューブ、大便はオムツの中、食事は鼻からチューブでの闘病生活の中、34歳で人生は終わった。「もう死んだほうがましだ」と、繰り返し絶望が襲います。


 そのような状況下で、河村さんはどうやって立ち直っていったのでしょうか。


 そのプロフィールを読んで、次の部分が私の心に遺りました。


 「天地に風雨(ふうう)あるが如(ごと)く、人生また順逆(じゅんぎゃく)を免(まぬが)れず、順にして驕(おご)らず、逆にして尚その逆たることを感謝し、己の生業(なりわい)に精励(せいれい)努力せよ。必ず天の導き有り、神の助(たすけ)あり」


 自然界に雨や風があるように、人生でも良いことも悪いこともある。良い時期に驕ることなく、悪いときにそのできごとに感謝して、今目の前にある、やるべきことに努力せよ。すると天が導いてくれる。神が助けてくれる、という意味です。


 「なぜ、そんなに前向きに生きられるのですか?」と筆談で問いかけたとき、

 「乗り越えないともっと苦しい生き方を背負うから」と書かれたことに、奮えるような感動を覚えました。



 また、障害を背負って無理矢理に感謝の気持ちを持ち続けることで意識を変えていったと書かれました。

 困難に出会うと、人間的な成長が出来る絶好の機会と河村さんは受け止めています。「難」が「有る」から「有り難う」ですね。

 困難なときこそ「ありがとう」という意味で、自分を成長させてくれる絶好の機会ととらえています。


 「そう思わないと前に進まないではないですか。解決の道はそれしかないんです」と説明書きされました。助かったことを「ありがとう」と毎日、毎日、思い続けました。最初は心もこもっていなかったそうですが、闘病が二カ月に及ぶ頃、光が差し込んできたそうです。


 北野武さんの『HANA・BI』のなかで、ある刑事が半身不随になった後に絵を描き始めたシーンが思い出し、自分も残った左手で絵を描こうと決意されます。


 「喋ることもできない、耳もきこえにくい、言葉もなかなかでない、右手も知羽化得ない、心臓も弱い、仕事がない、金もない、住むところもない~」失ったものを数えていたらきりがありません。絵を描き始めて、自分の作品と生きる姿が関わる人に勇気を与えると感じられた河村さんは、「できること」は何かを考えるようになっていかれます。


 「左手は使えるし、動けるじゃないか。自分の足で行けるところに行ける!」
そして、人との出会いが生まれ、その集大成をポストカードにされました。


 河村さんとの筆談で、感謝して生きる、生かされている事への感謝と、必死で生計を立てるために生きる姿にこそ人を感動させることを学びました。


 自分が発した言葉は、自分がした行為は自分が受け取ることになる。「ありがとう」をたくさん言っている人には、「ありがとう」と言いたくなることが次々へと起きてきます。私自身、失ったことに「ありがとう」と感謝し、今できることを一所懸命取り組んでみてわかりました、と書かれました。


 河村さんが描かれる絵に添えられる言葉には、頻繁に「ありがとう」が書かれています。「障害を背負ってから、出来ないことを悩むより出来ることを考える。そんな生き方を教えられました。だから感謝、ありがとう」
皆さんは、学ぼうという姿勢さえ持てば思う存分学ぶことが出来る環境にあり、私と違って充分な時間もあります。大切に深く使って、自分のよりよい人生を演出してください。

「人生は1回しかない」ことを、脳梗塞で倒れたときに骨の髄まで知らされ懸命なリハビリによって社会復帰され、人としての生き方を軸に作家活動を続けておられます。


歴代の首相である吉田茂、佐藤栄作、池田隼人さんらが指導を受け、経済界では経団連会長の平岩外四さん、住友生命相談役新井正明さんらが教えを受けられた安岡正篤さんの伝記『安岡正篤の世界』(同文社)を読み終えて、作者の神渡良平さん(千葉県佐倉市在住)に会いに行こうと手紙を書きました。


福岡で講演があるので前日は予定がないからそこで会いましょう、わざわざ足を運ぶには及びませんという返事に小躍りして、篠栗駅前の『夢屋』で食事を兼ねて、深夜まで語らいました。


作家・神渡良平さんは、昭和23年鹿児島県生まれで、九州大学医学部に入学されますが、学園紛争に巻き込まれ中退。ヨーロッパへ無銭旅行され7年間過ごし帰国後、出版社に勤務されますが38歳のときに脳梗塞で倒れ右半身不随となり、懸命なリハビリ生活が始まります。



神渡さん自身、仕事が順調にいき面白くなったときに、車椅子の生活を余儀なくされる状況に落ち込まれます。「人生は上り坂もあれば下り坂もある。もう一つまさかという坂がある」という言葉は一灯園の高僧石川洋先生の言葉ですが、まさに「まさか」との遭遇でした。



文字を書いて表現したいという思いから、ぶら下がって萎えた右手を懸命に使えるようにという訓練を経られたからこそ、人間としてこれほど深みのある魅力と、読者の琴線に触れる機微に溢れた言葉が文章の端々に醸し出されています。必死に回復を願うあせり、苦痛の中で「人生はたった一回きり、どんな優秀な人もそうでない人も、人生は等しく一回きり。大切に生きよう」と骨の髄まで教えられたと語られました。



まさしく、地球46億年の歴史のなかで、自分という存在は後にも先にも唯一の存在という言葉と重なり、いい時期に出会ったことを感謝することでした。



日本では古くから言葉は「言霊(ことだま)」と言われ、言葉が人々に働きかけ勇気、感動を与えてきました。安岡先生は「寸言(すんげん=短いが意味を含んだ言葉)こそ人を感奮・興起させる」という言葉を残されています。



理容技術を競う世界選手権3連覇の田中トシオさんとお会いしたとき、理容業が生涯の職かどうか迷っているときに、作家・武者小路実篤の『この道より我を生かす道なし この道を歩く』に出会って生涯の職として決意されます。「鋏のひとりごと」(叢文社)そして、世界一の栄冠に輝いて「夢は逃げない 自分が夢から逃げるだけ」という言葉を残されました。体験が生み出した言葉です。



神渡先生も安岡正篤先生の「人間は一隅を照らすだけの力量を誰にも与えられていて、この世の中に送られてきた。だから、この仕事を通じて自分の人生を築いていこうと心に決めたら、その一業に徹して5年、10年、15年経ちさえすれば誰もが追従できない領域までなっている。一業に徹し、一隅を照らそうと心がける生き方をいなければならない」という教えをしっかり受け止めて作家業に徹します。


上ばかりを見て、早く出世したい、スポットライトを浴びたいという気持ちが、いつも人の評価を気にして、人と見比べて一喜一憂を繰り返していたとき、安岡先生の本から「そんな生き方より足元から一遇を照らす存在になることが素晴らしい生き方」だと教えられたことを語られました。



近鉄奈良駅から徒歩で15分ほどのところに元興寺という寺があります。門をくぐって右の方の曲がり角に石碑があり



「白珠は人に知らえず、知られともよし、我れし知ららば、知らずともよし」

と刻んであります。万葉集に収められていますが、読み人は不明です。


この句の前にたたずみ、人の評価など気にせず足を地につけて生きようと心するために訪れました。(五重塔の近くです)



「有名無力。無名有力」も安岡先生の言葉ですが、神渡さんとの語らいで教えてもらいました。「マスコミにもてはやされ、この世的に有名になると、自分を蓄積する時間がだんだんなくなっていって、いつしか内容のない人間になってしまう。たとえ無名で世の中に知られなくても,あの人は!と言われるようないぶし銀の魅力を持った有力な人間をめざすように」と諭しているそうです。



東京の銭湯で半世紀以上背中流しをされている橘秀雪さん、球磨川無人駅の対岸で1日数名の橋渡しをされている求摩川八郎さん、北海道焼尻島でアザラシを観測される河野康雄さんらを訪ねながら、「有名無力、無名有力」を噛みしめることでした。



神渡さんは内観道場で精神修養をされていますが、私自身も研修会で内観について教えて頂いていましたので、興味深く伺いました。



内観道場では、わずか三畳ほどの小さなスペースのところで自分が座っているところは屏風で囲まれ、次の3点に集中して自分を振り返って自問自答していきます。



(1)してもらったこと、やっていただいたことは何だったか。(2)それに対して自分は何をして返しただろうか。(3)迷惑をかけたことは何だったか。



私たちは、思い出してみますと随分多くの人にお世話になっていることに気づかされます。オムツを替えてもらったことなど記憶にはありませんが、子育ての姿を見たときに自分もそうしてもらったと教えられます。学校の先生には私自身人生に必要なことのほとんどを教えていただいたように思います。



私は、本学院に学ぶ学生は、これまでの「してもらった時代(こども世代)」から「してあげる時代(おとな世代)」へのパラダイムシフトの時代だと思っています。歴史上最大のパラダイムシフトは一世紀かけての天動説から地動説への転換でした。どのような形で進路を決め、その実現に努力し、社会にお世話になった人に返す、どのようにして返すかを取り組む時代と位置づけています。



神渡さんの作品は、単なる物語ではなく社会に貢献したり、人のための作品になっているのは、内観道場で体感されたことが根底にあるのだろうと思いました。



語らいのなかで、野口雨情の話を聞かされました。学生時代から詩を書いていた野口雨情は、仲間が頭角を現していく中で、何もかもがうまくいかず、その混乱のなかで、生まれたばかりの一人娘が一週間の命で他界します。順調に行かないことを他人のせいにし酒浸りの日々、酒に酔っぱらって寝ていた雨情に、娘さんが涙を一杯ためて夢に出てきます。自分の人生に挑戦できず1週間しか生きながらえなかった娘に比べ、このまま娘と天国で会えないと一念発起、そんななかで異国の地に売られていった女の子の寂しさを歌った「赤い靴」、シャボン玉を飛ばしている子供達の情景を歌った「シャボン玉」、カラスのお母さんの愛情を歌った「七つの子」など数々の童謡を生み出していきます。



「シャボン玉」の歌詞を読みながら、命が与えられているあなたは、何故、自分の舞台でかけがえのない存在になるための努力をしないのかと叱責されているように感じました。



人間は、ある時、これではいけない、このままでいいのかという分岐点に遭遇したとき、言い訳をしたり、理屈をつけたり、面倒くさいとかで逃げたりしないで、行動を起こし、続ける、誰もが驚くほど続けることが大切だということを、野口雨情の話を伺いながら確信することでした。



有り難うございました、お陰様でと感謝しながら、行動が起こせる人は光り輝いていくのではないかと思いますと結びで語られた言葉が忘れられません




「私の願い」 

一隅を照らすもので私はありたい


私の受け持つ一隅がどんなに小さいみじめなはかないものであっても


悪びれず ひるまず いつもほのかに照らしていきたい