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サファイアのブログ

スピリットの成長と日々の変化を日記にしていきます。
                       進化する魂

                 (過去記事から)



テーマ:戦争と勇気 知ってほしい真実

一昼夜がたち、朝日がさすころには領事館内の生存者はわずか28名
になっていました
弾薬も底をついてしまう
残った一同はまず子供を殺しました
そして、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました

一夜が明けたとき尼港に残る日本人は河本中将率いる別働隊と
領事館に非難し無かった民間人121名だけとなりました

抵抗を続ける日本人に対しこれを強いと見た共産パルチザンは
策を弄しました


山田旅団長の停戦命令を偽造したのです


河本中将はこれは「怪しい」と思ったそうです
けれど、もし停戦命令に従わなかったことが後日国際上の問題となれば
それは軍記を守る皇軍として取り返しがつかないことです

なぜなら、軍はあくまで上官の命令によって動くものだからです

河本中尉は命令を受け入れました

生き残った121名は全員武装解除に応じたのです
そして全員が投獄されたあせる

牢獄ではろくに食事も与えられず日本の救援軍に対する防衛陣地構築のための
”土方仕事”にかりだされました

零下30度

極寒の地

凍てついた大地に土嚢を積み上げ陣地の構築をしたのですあせる



そして”陣地構築が終わると



             てのひらに



             太い針金を



             突き刺し通して



             後ろ手に縛られ


             凍るアドミラル河の氷の穴から


             生きたまま共産軍によって


             次々と放り込まれ

             殺されてしまいました



春になって  ようやく  旭川第7師団の  多門支隊が   現地の救援に


やってきたのです










 目

そこで彼ら救援隊が見たもの それは  まさに地獄絵図


焼け野原と化した尼港には死臭が漂い  

そこには

「いったん撤退するが再び来て 日本人を征服し尽くす  覚悟せよ」


と記した共産パルチザンの声明文が残されていました



日本の 救援部隊来着近し の報を受けた共産パルチザンは5月14日

シナ人の妻、妾 となっていた14名の日本人女性以外

生き残った日本人全員を殺害していたのです



シナ人の妻 妾 となっていた女性たちの証言から

1月29日から5月14日までの106日間の尼港の模様が明らかになりました



           生きたまま両目をえぐられ


           5本の指をバラバラに切り落とし


           死ぬまで何度も刺されていた



           金歯がある者は生きたまま

           あごから顔面を切り裂かれ

           金歯を抜き取られた



           女は裸にされ凌辱されたうえで
           股を裂かれ乳房や陰部を快り取られ殺された




獄舎の壁には 血痕 毛のついた皮膚 などこびりついていたそうです

               (過去記事から)

シベリアで何があった  共産パルチザンの残虐は悪魔以上だ  つづきをどうぞ




2013-12-26 12:37:48
テーマ:戦争と勇気 知ってほしい真実

              そして事件はおこった



雪深い尼港(にこう)は共産パルチザンも なりをひそめ
比較的静かな状態だ

そこへ、大正9年(1920年)1月29日
突然現れたのがロシアのトリピ―チンを首領とする約4千人のパルチザンでした
彼らはいきなり尼港市街を包囲した

守備していたのは ”石川少佐率いる二個中隊二百六十名と無線電信隊の四十名
それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)
合計約三百五十名たらずでした

つまり、守備隊の10倍以上もの武装した暴徒が町を取り囲んだのです゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆

町を包囲した共産パルチザンは「自分たちには敵意はない、食料と補給に

協力をしてほしいだけだ」と称して市内に入り込んできた゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚



             ところが


市内に入るやいなや
ロシア白衛軍の将兵を捕え
これを、全員虐殺しました


さらに、一般市民の中から
「有産智識階級」とおもしき市民を虐殺し
家内の家財、財宝 を強奪しました

そして、ユダヤ人を選び出し婦女子に至るまで
その全員を強姦し虐殺したのです


               その内容

共産パルチザンたちは、銃剣で突き刺して殺害したロシア人やユダヤ人たちを
国龍江の結氷を破ってつくった穴から凍る流れに次々と放りこみました


              こうして

たった一晩で尼港ではロシア人とユダヤ人約2500人が虐殺された



この事態を前に次の日、尼港の穏健な石田副領事はパルチザンに対して

           「誠に遺憾」 と

厳重抗議を行いました


            けれど


共産パルチザンたちはもとよりそんな口先だけの「抗議」 など
受け入れるはずもなく

それどころか、パルチザンたちは日本副領事の抗議に対し


           「武装解除」 を  要求してきたのです


日本兵が武装解除すればそのあと何をされるかは日を見るより明らかです
なにせ、その前日に彼らは(やつらは)2500人もの人を問答無用で
虐殺しているからです

現地の日本軍部隊は日本に急を知らせる電文を打ちました

けれど、日本からの救援隊は  ”小樽”  からの発進です
真冬の寒い時期です
海面は凍結しています
すぐには動きようがありません


満州にいる他の部隊も一番近い部隊で陸路になり陸路で到着するには
40日かかります

尼港から撤退するにも周囲は凍っているし尼港の町自体が共産パルチザンにメラメラパンチ!よって、アリの這い出る隙もないほど包囲されている
援軍もなし撤退も不可能、尼港の駐留軍は極寒のシベリアに孤立していたのです
座して死を待つくらいなら勇敢に戦って死のう


白人たちの惨殺を目のあたりにしていた日本人部隊は義勇軍を募りました
そして、百十名で武装パルチザンの本拠地を急襲しました
しかしながら、(シュウエン敵セズ) 駐留部隊指揮官石川少佐以下の多数が
瞬く間に戦死してしまう


義勇隊に参加しなかった軍人軍属と婦女子たち600名は
義勇隊の奮戦のさなかに、日本領事館に退避しました
けれど、領事館に集まることがで来たのはわずか250名でした


逃げ遅れた人たちは武装した共産パルチザンの手にかかったのです━─━─━─━─━─◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


何が起こったか


            事後の調査記録がここにあります
            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


*****************************************
  サファイアの感想

 この辺から、記事を書いていてあまりの残虐さに手が止まりました
      すべてを読むうちにその時の光景が想像してもあまりにもむごい

      胸が詰まって先に進めなくて
しかし、この真実を皆様に日本のみんなに読んでほしいからと記事を書いています
ぜひ最後まで読んでみてくださいね

*****************************************


               *続けます*


調査記録によると

子供を見つけると二人がかりで手足をもって、石壁にたたきつけ
て殺し、女とみれば老若問わず強姦し面白半分に両足を二頭の馬に結び付け
股を引き裂いて殺しています


こうしてまたたくまに

義勇隊百十名と逃げ遅れた日本人約100名が犠牲となりました

日本領事館に逃げ込んだ人たちも決して安穏としていられたわけではありませんでした


領事館を襲おうとする共産パルチザンたちと領事館に立てこもった日本軍との間で
戦闘は”丸一昼夜つづきました


            これはとんでもなく大変なこと


実際、徴兵となって世界の戦場を転々と駆け巡った人から直接聞いた話ですが
   一般に銃を打ち合う戦闘というものはほんの数分で決着がつくものです

   銃撃戦が10分も続いたら「きょうの戦闘はむちゃくちゃ激しかったな」
   などと、後々まで話題になったのです


   それだけ、銃撃戦というものは戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を
   もたらすのです

   

それが、尼港の日本領事館では丸丸一昼夜です

立てこもる日本人兵たちの緊張感 後方で震えていた日本人の婦女子たちの
恐怖は想像するにあまりあります
(以前載せた記事です)





歴史の真実  ロシア革命と日本軍と共産党パルチザンとは



2013-12-25 22:31:32
テーマ:戦争と勇気 知ってほしい真実

1920年「大正9年5月24日午後12時忘ルナ」


と書かれたこの文字は一体何か?


通化事件といいこの尼港事件(にこうじけん)といい
すさまじき日本軍の戦い

読んでください
(数回に分けて載せます、ぜひ終りまで読んでみてください)━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─○●○●○●○●○●━─━─━─━─━─


文字が書かれた場所はロシア極東部ハバロフスク地方のニコライエフスクの建物
の中

黒竜江アムール川の河口から20キロ地点
ロシアの太平洋側
樺太の北端に近い場所


昔はここを尼港市と呼んでいました


日本居留民   約   700名
白系ロシア人  約1万5000名
中国人     約  1000名
朝鮮人     約   500名


日本人700名というのは日本陸軍の2個歩兵中隊の約260名と
その家族の婦女子440名です

どうしてここに日本陸軍が駐屯していたのか
侵略???
いえそうではありません
理由があるのです
今からそのお話をしましょう

きっかけは、大正6年(1917年)に起こった帝政ロシアにおけるレーニンに
指揮された「ロシア革命」です

今から真実を語りましょう

ロシア革命といえば何やらロシアがレーニン達共産主義者によってただちに
ソビエト連邦共和国となりロシア全体が夢と希望に満ちた共産主義国家になった
か のように印象操作されていますが事実はそんな簡単なものではありません

レーニンはロシア皇帝を引き摺り下ろして政権を奪ったのだけれど
まだ、その時点 つまり ロシア革命成立当時は世界中どこの国の政府も
レーニンのこのソ連という名の革命政権を「国家」として承認して居なかったのです

むしろ、過激派によるテロ行為として警戒していました
あたりまえです

それまで、国際舞台で活躍していた旧ロシア帝国の貴族や政府の要人たちを片っ端から
殺しまくったのです

警戒しないほうがどうかしてます


厄介なことに


この革命によって旧ロシア国内の各地が無政府状態になってしまった


とりわけここが大事な点叫びドクロドクロ
たくさんの囚人たちが幽閉されていたシベリアの刑務所
から
「シベリア送り」となっていた
凶悪犯罪者たちが牢屋から出され
自称「共産パルチザン」を名乗り
各地で無法な殺戮を繰り返していた!!


すこし考えればわかることですが

牢屋から出されただけでは、食料も武器もありませんよね

凶悪犯たちは単に牢から出されただけでなく
社会の破壊と混乱を目的とする共産党から
豊富な武器や弾薬を無償で提供されていたのです


基地外に刃物とはよく言ったものです


凶悪犯たちは民家を襲い食べ物や財物を奪いました

さらに徒党を組み組織化されたゲリラ集団となり
シベリア各地を荒らしまわったのです

そして、各地でロシア人たちだけでなく外国人に対して
襲撃をして回っていたのです叫び


ロシア革命成立当時はそれでもまだシベリア方面では
保守派のロシア極東総督である「ロザノフ中将やコルチック提督」などが
健在でした

彼らは帝政ロシアの正規軍を用いパルチザン化した凶悪犯たちと
戦ってくれていたのです


しかし、馬台風

大正8年(1919)になると
シベリアオムスクにあったロシア総督府が武装パルチザンの攻撃によって
皆殺しにされたのです


このとき


英  米  日  の三国は無法地帯化したロシアでの市民の安全確保のため
その前年の大正7年(1918)8月からシベリアに国際共同歩調として
出兵していました


日本の軍人がここに(尼港)駐屯していた事情と背景があるのです


ところが、軍を派遣した翌年には上に述べたように


ロシアのシベリア総督府が崩壊してしまったのです


そして


身の危険を感じた 米  英国はシベリアから早々に撤兵してしまった


(日本軍は帰らなかったのね)━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


この続きはまたね               




                 ねずさんのひとりごとから抜粋



字で説明するより、動画のほうが早いので載せます


この方、父が官僚出身
戦前から、内務省に入る父の影響下
1946年から東京杉並に在住する

内務省とは今は廃止

どんなところかというと「特別ケイサツ」らしいですよ

大変な権力を持っていた場所だそうです

国防動員法がどんな力を持つのか

中国人200万人が日本国内にいます

この人々が「国防動員法発令」されると

ゲリラ活動を開始します

日本国と衝突になると怖いですね


自衛隊の幕僚長は「何の権限も与えられず」カヤの外

こんなんで、大丈夫なわけがない









愛知県幡豆郡三ヶ根山 三河湾国定公園

近くにグリーンホテルがあります


ここから見えるものは、「殉国七士の墓」がよく見えます


殉国七士、、、東京裁判にて処刑されました墓碑の見える地

昭和54年5月26日
天皇陛下、植樹祭にて愛知県豊田市内へ行かれる
しかしながら、宿泊地に不便なグリーンホテルを希望され
お泊りになられる

ここグリーンホテルから「殉国七士」のお墓は良く見えるのだそうです
朝の6時ごろ、天皇陛下お夫妻は大きな窓から殉国七士のお墓に向かい
直立でお立ちになり、15分以上黙禱されていたという


昭和23年12月23日、七士は処刑され、その日には火葬されています
御遺骨はGHQによって 海に投げられる  が  そうはさせないと
いろいろ動いたのが元戦犯の弁護士、お寺の住職、
まあ、聞いて読んでください
日本人は東京裁判においての判決は納得してませんから
このような行動に出るのも当たり前です


板垣征四郎

松井 石根

東條 英機

木村 兵太郎

土肥原 賢二

広田 弘毅

武藤 章

(七名のお名前)━─━─━─━─━─















そしてこの三ヶ根山の山頂に、日本人なら忘れてはならない大切なところがあります。

「殉国七士廟」です。


殉国七士廟
殉国七士廟


この「殉国七士廟」に祀られているのは、先の東京裁判で、日本を背負って殉職された、板垣征四郎・木村兵太郎・東条英機・土肥原賢二・広田弘毅・松井石根・武藤章の七名です。

そうです。いわゆるA級戦犯といわれた方々です。

東京裁判は、大東亜戦争の戦争責任を追及する裁判として、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国が判事を出して行なわれた裁判でした。

起訴は昭和21(1946)年4月29日に行なわれました。
4月29日といえば、昭和天皇の誕生日です。
それだけみても意図的な報復裁判であることがあきらかです。

さらにいうと、27億円の裁判費用は、日本政府が全額供出させられています。
当時の日本が、終戦直後で、全土が焼け野原、世界の最貧国同然だったにもかかわらず、です。

東京裁判は、昭和23(1948)年11月4日に、判決の言渡が始まり、11月12日に判決言渡が終了しました。

判決は、法治社会にあってはならない事後法(事件のあとで作られた法、法律には不遡及の原則があり、法のできる前の事件は裁けないのが原則)に基づく一方的なものでした。

そして、次の七士が、A級戦犯として絞首刑の判決を受けました。

板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)
木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)
土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)
広田弘毅(文民、内閣総理大臣)
松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)
武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)
(名前五十音順)

死刑の執行は、判決の翌月である昭和23(1948)年12月23日です。
この日は、当時皇太子殿下であられた今上陛下のお誕生日です。
ここにも意図的な報復を感じます。

裁判の開廷の日、刑の執行日に、我が国のもっとも大切な陛下のお誕生日をそれぞれ宛てる。
この裁判が、いかに異常な報復行動であったかを象徴しています。

絞首刑となった七士は、即日火葬に付されています。

実は、七士の各担当弁護士たちは、刑の執行のあと、せめてご遺体を家族に引き渡そうと、マッカーサー司令部に請願していたのです。
しかしGHQは、まるで受け付けませんでした。

このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に戻されることはありません。

そこで数名の有志たちが、無法とも思える計画を立案します。
その時の模様が、「天皇と東条英機の苦悩 (知的生きかた文庫)」に書かれていますので引用します。

~~~~~~~~~~
全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。

窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。

このため骨壷は米兵の手もとへ移った。

米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。
それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。
それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。
遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。

骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。
そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。

この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。
台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。

A級戦犯の遺骨を奪う計画は、小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。
三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。

ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。

三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。
市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。
三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。
彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。

市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。
市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。

今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。
次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。

これを盗み出すのは12月25日の夜と決めた。
米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。

暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。

三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。
七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。
遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。

そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。
これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。
~~~~~~~~~~~~~

横浜市久保山火葬場で火葬に付されたお骨を、米兵は鉄製の鉢の中に入れて、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕いたのです。
信じられない行為です。

そして寒風吹き荒む真夜中に、三文宇正平弁護士と市川伊男(これお)住職のお二人が、ありあわせの黒装束で、飛田火葬場長の案内で目的地に出向いたのです。

場所は、火葬場の共同骨捨て場の穴の中です。
真夜中で、暗くて、灯も物音も絶対禁物です。
見張り員に見つかったら、その場で射殺され、二度と七士のご遺骨は手に入らない。

こうして取得したご遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中にご安置しました。

これが昭和23(1948)年の暮れの出来事です。

日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約を締結しました。
これにより「連合国統治領日本」となっていた日本というエリアは、ようやく独立した国家としての「日本国」となりました。

三文字正平弁護士は、この講和条約の締結と同時に、殉国七士の墓碑を建造をしようと運動を開始します。
そして昭和35(1958)年4月28日、東京の日比谷で開かれた東京裁判弁護団解散記念会で、墓碑建造計画を発表しました。

すると、猛烈な反対運動が起こりました。

三文字正平弁護士の地元の形原町役場には、「明るく楽しい観光地におくとは何事だ。平和な三河山頂に、暗い恥ずかしい思い出につながる記念碑を建てるのは、許すことは出来ない」などといった投書が殺到したのです。

いまにしてみれば、そういうことは反日のプロ市民による行動とわかるけれど、当時はそんなことはわからない。
これが民意であると誤解する人々も多く現れます。

しかし三文字正平弁護士はあきらめませんでした。
七士のご遺族、政財界での賛同者を募り、各方面の有志たちと連携し、資金と場所の確保に奔走します。

そしてようやく愛知県幡豆(はず)郡幡豆町役場の好意を得て、三河湾国定公園三ケ根山頂に、七士の墓碑とご遺骨の埋葬を実現したのは、運動を開始してから8年後の昭和35(1960)年8月16日のことでした。

この日、三ヶ根山の「殉国七士廟」の前に、関係者とご遺族が列席し、初の慰霊祭が静かに執り行われたのです。


殉国七士廟入口にある塔
(書は岸信介元内閣総理大臣。力強く実に立派な書です)
殉国七士廟入口の塔


その日以来、毎年4月29日の昭和天皇御誕生日には、この地で慰霊祭が採り行われ、今日では七士廟の周辺に、大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並ぶようになりました。
いまでは、82の慰霊碑が建立され「殉国七士廟」とともに並んでいます。

平成22(2010)年4月29日、みどりの日と名付けられた元昭和天皇誕生日において、第五七回殉国七士慰霊祭が三ケ根山でおごそかに行われました。

この日、板垣正氏が挨拶に立たれました。
板垣正氏は、元参議院議員であり、現・日本遺族会事務局長、興亜観音を守る会会長であり、故・板垣征四郎氏の次男である片です。

氏は、この日、次のように語られた。

~~~~~~~~~~~~
昭和27年4月28日に日本が独立回復をしたとき、全国で4000万の署名が集まりました。

署名は国会を動かし、東京裁判で戦犯とされた人々が「日本にとっては戦犯ではない」と名誉回復を決められた。

なのにどうして、未だにA級だのB級だの揉めるのか。

どうして事情がわかっている自民党の議員ですら、はっきり説明出来ないのか。
~~~~~~~~~~~~

生前にどんな人であったとしても、亡くなられたら「仏さん」というのが日本の心です。
すくなくとも、遺骨を鉄の棒でぐちゃぐちゃにするような冷酷さは、日本人のものではありません。

戦後を生きた私たち日本人は、先の大戦の悲惨さから、なんとはなしに戦争や戦前の様々な事柄から目をそむけてきたような気がします。

事実を認識せずに、ただなんとなく、そこに薄いベールをかけて見ないようにしてきたといえるかもしれません。

それは、戦争の悲惨さに対する大きな反省でもあったでしょうし、子や孫に対して、二度とつらい思いをさせたくないという思いやりだったのかもしれません。
あるいは、戦前の辛さや、愛する者を失った辛さよりも、戦後の「復興」を大事にしたことの裏返しだったかもしれない。

しかし、そうやって国の復興を遂げてきた一方で、日本が忘れられていき、その反対側で、反日主義者たちによって、捏造された嘘の歴史観を刷り込まれ、多くの日本人は、日本人としての誇りや自信さえも失いかけているのが、こんにちの日本であるように思います。

日本を取り戻す。
そのためには、ほんとうのところ、当時何があったのか、正しい事実を謙虚に「学ぶ」という姿勢が、いまもっとも求められているのではないかと思います。

愛知県近郊にお住まいの方は、天気の良い日に、三ヶ根山にドライブに出かけてみられたらいかが?

そこで、きっと何かを感じることができるのではないかと思います。
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先帝陛下が殉国七士を親拝された事実-秘史を明らかに!




ねずさんのひとりごとから抜粋


(皆さんに知ってほしいこと)

いつも貴重な記事をお借りしております「ねず様、こちらからお礼申し上げます」