真実の歴史    日本軍と共産パルチザン   (1) | サファイアのブログ

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(以前載せた記事です)





歴史の真実  ロシア革命と日本軍と共産党パルチザンとは



2013-12-25 22:31:32
テーマ:戦争と勇気 知ってほしい真実

1920年「大正9年5月24日午後12時忘ルナ」


と書かれたこの文字は一体何か?


通化事件といいこの尼港事件(にこうじけん)といい
すさまじき日本軍の戦い

読んでください
(数回に分けて載せます、ぜひ終りまで読んでみてください)━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─○●○●○●○●○●━─━─━─━─━─


文字が書かれた場所はロシア極東部ハバロフスク地方のニコライエフスクの建物
の中

黒竜江アムール川の河口から20キロ地点
ロシアの太平洋側
樺太の北端に近い場所


昔はここを尼港市と呼んでいました


日本居留民   約   700名
白系ロシア人  約1万5000名
中国人     約  1000名
朝鮮人     約   500名


日本人700名というのは日本陸軍の2個歩兵中隊の約260名と
その家族の婦女子440名です

どうしてここに日本陸軍が駐屯していたのか
侵略???
いえそうではありません
理由があるのです
今からそのお話をしましょう

きっかけは、大正6年(1917年)に起こった帝政ロシアにおけるレーニンに
指揮された「ロシア革命」です

今から真実を語りましょう

ロシア革命といえば何やらロシアがレーニン達共産主義者によってただちに
ソビエト連邦共和国となりロシア全体が夢と希望に満ちた共産主義国家になった
か のように印象操作されていますが事実はそんな簡単なものではありません

レーニンはロシア皇帝を引き摺り下ろして政権を奪ったのだけれど
まだ、その時点 つまり ロシア革命成立当時は世界中どこの国の政府も
レーニンのこのソ連という名の革命政権を「国家」として承認して居なかったのです

むしろ、過激派によるテロ行為として警戒していました
あたりまえです

それまで、国際舞台で活躍していた旧ロシア帝国の貴族や政府の要人たちを片っ端から
殺しまくったのです

警戒しないほうがどうかしてます


厄介なことに


この革命によって旧ロシア国内の各地が無政府状態になってしまった


とりわけここが大事な点叫びドクロドクロ
たくさんの囚人たちが幽閉されていたシベリアの刑務所
から
「シベリア送り」となっていた
凶悪犯罪者たちが牢屋から出され
自称「共産パルチザン」を名乗り
各地で無法な殺戮を繰り返していた!!


すこし考えればわかることですが

牢屋から出されただけでは、食料も武器もありませんよね

凶悪犯たちは単に牢から出されただけでなく
社会の破壊と混乱を目的とする共産党から
豊富な武器や弾薬を無償で提供されていたのです


基地外に刃物とはよく言ったものです


凶悪犯たちは民家を襲い食べ物や財物を奪いました

さらに徒党を組み組織化されたゲリラ集団となり
シベリア各地を荒らしまわったのです

そして、各地でロシア人たちだけでなく外国人に対して
襲撃をして回っていたのです叫び


ロシア革命成立当時はそれでもまだシベリア方面では
保守派のロシア極東総督である「ロザノフ中将やコルチック提督」などが
健在でした

彼らは帝政ロシアの正規軍を用いパルチザン化した凶悪犯たちと
戦ってくれていたのです


しかし、馬台風

大正8年(1919)になると
シベリアオムスクにあったロシア総督府が武装パルチザンの攻撃によって
皆殺しにされたのです


このとき


英  米  日  の三国は無法地帯化したロシアでの市民の安全確保のため
その前年の大正7年(1918)8月からシベリアに国際共同歩調として
出兵していました


日本の軍人がここに(尼港)駐屯していた事情と背景があるのです


ところが、軍を派遣した翌年には上に述べたように


ロシアのシベリア総督府が崩壊してしまったのです


そして


身の危険を感じた 米  英国はシベリアから早々に撤兵してしまった


(日本軍は帰らなかったのね)━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


この続きはまたね               




                 ねずさんのひとりごとから抜粋