サファイアのブログ -17ページ目

サファイアのブログ

スピリットの成長と日々の変化を日記にしていきます。
                       進化する魂







           中国より日了法皇に贈られし
【南朝天皇御璽】


三菩薩像壁画

妙宗院様が久原房之助氏より譲与された大谷探検隊招来の伝敦煌壁画
(鑑定の結果、最低一億元 【150億円】 以上の価格と評価されました)



            ※ 妙宗院 

小野寺教授の御父上


※ 久原房之助

日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として
「鉱山王」の異名をとった。又、政界にも進出し、逓信大臣、立憲政友会(久原派)
総裁を歴任した。義兄に鮎川義介(実業家・政治家・日産コンツェルンの創設者)がいる。
正統天皇と日蓮―ついに明かされる王仏冥合の真実/小野寺 直

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慶応四年、即ち明治元年に我が国に二人の天皇がいた事は当時の
ニューヨークタイムズが全世界に報道しましたが今日までその実態
は秘められ謎とされて来ました。

しかし明治以降、今日に至る我が国の政治の混乱や対外戦争はこの
真実を国民に隠す為に故意に行われて来たものなのであり今、初め
てその真実が後醍醐天皇正統御子孫に依って明らかにされました。






ISBN 4-900747-34-3 C0036
判型 A5判/上製
頁数 240頁
価格 一冊 1905円 +税(5%)
十冊 18600円+税(5%)


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法律に基づく表示

菊の御紋について

創建当時の大石寺は消滅していた







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胡錦濤中国国家主席
より日了法皇に贈られし書



四川大学客体教授招聘証書


記念メダル



壁画鑑定結果



本門正宗要義之管見
前、精華大學・北京大學 楊教授



小野寺教授写真集






   
中国より日了法皇に贈られし
【南朝天皇御璽】



収蔵證書


小野寺教授寄贈敦煌壁画


四川大學学長補佐
李 小北氏書翰文


四川大學小野寺教授著書





小野寺教授略歴


歴史が証明する事実
  
━─━─━─━─━─     ━─━─━─━─━─    ━─━─━─━─━─




「小野寺教授略歴」 以下参照




 1945年1月


1868年(慶応四年)6月15日即位の通称東武皇帝(後醍醐天皇の正裔)の
曾孫として降誕。


 1963年6月


株式会社実業の世界社より創価学会対策出版物発行の為、編集スタッフと
して招請されるが編集方針の相違に依り五ヶ月で辞退。


1964年4月


東横重工業株式会社社長小野寺象治秘書、1965年退職。


1965年4月


         國學院大學第三十一回学術講座課程修了


1966年3月


財団法人芸能文化研究所代表理事有賀武夫元海軍少将の招聘により、同法人
理事に就任、理事に高柳健次郎氏・土岐善麿氏・山田耕作氏・堀内敬三氏・
吉村繁俊氏等在職。

同時、小野寺育徳会主宰秘蔵宝物展開催、テレビ・新聞で報道される。


1967年4月


秦国政府より中野三郎氏とソンクラ県サバヨイ村2400平方キロの森林を所得
し、三幸国際有限公司を設立、常務取締役就任、秦国経済に寄与。
後、プラバート元帥の失脚で活動停止。


1967年6月


橋本政刀氏(中野正剛氏塾頭)懇請に依り向井定利事務所の役員となる。


1968年6月


亀井貫一朗氏(住友商事顧問)の招聘で財団法人産業経済研究所の役員に
就任、経営理論環境問題担当、後、亀井事務所の於いて美国ウェスチング
社より導入の原子炉技術を基礎の開発された純国産高速増殖炉に「もんじゅ」の
名称を提案、採用される。


1969年


韓国政府よりベトナム和平後の韓国運営の相談を受け、住友電工がサウジ
アラビア政府より受注のケーブル施設工事に、ベトナム派兵から帰国の韓国
兵を使用することを住友に提案、採用される。


1970年4月


宗教法人太平教団(旧大日本帝国法王庁)代表理事代務者に就任。


1972年4月


学校法人北九州学院再建の為、理事及び同短期大学教授就任、1977年12月
辞任。


1977年9月


財団法人芸能文化研究所理事兼代表理事代務者を辞任。


1975年11月


ソビエト政府通商代表部を通し日ソ友好親善の工作依頼を受ける。


1978年4月

社会福祉法人厚生福祉事業団理事長川村秀文氏(川村学園理事長)の招聘
に依り、同法人の理事に就任、理事長代行として老人福祉に関わる。
1982年辞任。


1991年9月


太平教団代表理事に就任。


2006年7月


中国四川大学の招聘に依り客員教授に就任。


2006年8月


四川大学百十周年を慶祝し大谷探検隊招来の石窟壁画南北朝晩期
(中国文物報、同年十月十八日記事)同大学に寄贈。


2007年11月


中国四川大学名誉教授就任。



著書に『日目上人伝』・『小野小町二人考』・『小野寺氏1200年史』

   『日蓮大聖人の御遺命』・『一閻浮提の大本尊立つ』・

   『正統天皇と日蓮』・『東武皇帝の真実』・他経済論・文化評論多数。






          
昨日の続きです


            明治政府を襲った新たな「黄金伝説」


それもこれも「天皇はひとり」
というフィクションを定着させ壮大な歴史の書き換えを完成させるためであった



              そして

それはかなりの部分で成功した


明治という時代は「天皇はひとり」という虚構を
仕上げるために費やされたといっても過言ではない

政府は45年という長い年月をかけて自らに都合のいい
「天皇制」を定着させた

             が


そこには大きな落とし穴があった


それは、とてつもなく深い暗い落とし穴であった




            南朝皇統の莫大な財宝禁止


戌辰戦争が始まる前、大政天皇は武器調達のために相当な費用を
東武官軍へ用立てていた

前章でも述べたように

その軍資金は海外武器商人たちの格好の餌食となった


             
                 早い話が



騙(だまされる)された挙句むしりとられたのである



               彼らはこれに味を占め


「日本のミカドは莫大な金、銀を隠し持っている」


これが、貪欲な海外武器商人たちの秘密の合言葉となった


黄金の光に引き寄せられるように海外商人たちが海を渡ってきた



               開国したばかりの日本に


欧米の名だたる大物資本家が殺到した

かつての大航海の時代、黄金の国ジパング」伝説に魅入られた王族貴族

たちは、船乗りを雇い大船団を率いて西をめざした


いま、それが繰り返されようとしていた



黄金伝説にかわる新しい伝説とともに



               新たな伝説とは???


                そう、天皇の金魂である




      8-2       「海外列強の目的は日本の黄金を奪うこと」




困惑したのは明治政府と天皇である

各国の政府及びその背後にいる資本家たちは

「ミカドは莫大な金、銀財宝を所持している」ことを前提に様々な交渉事を

言ってくる


                 早い話が


「吹っかけられる」わけです





明治政府はそう簡単に「いや」とは言えない

「そんなかねはもっていない」

とは言えないのです


あれだけ必死になって「天皇はひとり」というだまし絵を描き

続けてきた以上、いまさら「あの金はもう一人の天皇が所持しておりまして、、、」


とは


口が裂けても言えません



開国したばかりの日本は押し寄せてきた列強諸国から

さまざまな不平等条約を押し付けられた

それを解消するためにその後の日本は大変な苦労を強いられるのだが

外国からしてみれば不平等だと思っていない


「お前は山のような金、銀を隠し持っているのだから

              このくらいはいいだろう」


というわけでして




             明治37年(1904)


             から始まる

日露戦争では天文学的な数字に達する軍事費が日本を苦しめる

その額およそ、18億円


これは当時の日本の国家予算の6年分に四摘する

そしてそのほとんどは、武器調達費として海外へ流れていった


この時もまた、

「日本のミカドは山のような金銀財宝を持っている」と

思い込んでいる外国資本家たちに法外な価格を要求され

暴利をむさぼられた


価値の高い美術品や骨董、すべてが奪い去られ、ひそかに日本へ

運び込まれた



日本が近代国家として生まれ変わるプロセスの中で

どのようにして「天皇の金魂」 が産み出され

それが日本社会にどのような影響を与えたのかについては


({天皇の金魂}学研パブリッシング刊でおよみください)



               戻します

日本の歩みをゆがめた「天皇の金魂」は

もとをたどれば明治政府が「もう一人の天皇」の存在を無理に消そうとしたことから

始まります



逆に言えば、この秘密を完全に解明し

日本近代の歩みを検証するために、南朝皇統が今も存在している


ことを



世間に認知させ


「もう一人の天皇」を歴史の表舞台に再登場させることが


必要ということになる




                消されたはずの歴史が



長い歳月を経て現在によみがえろうとしている





                その生き証人は


                小野寺直氏だ



                小野寺直氏だ



                小野寺直氏だ



           正当な南朝皇統の血を受け継ぐ



                生き証人だ




小野寺氏との対話を通じて、筆者は自ら追い続ける「天皇の金魂」の真実







日本という国の “正体 ”を明らかにしてゆきたい(´□`。)(w_-;クラッカー音譜



        長い間お付き合いありがとうございました
        本日でこのお話は終わります

        ムー雑誌や飛鳥昭雄さんたちの情報は
        今もこれからも続きます

        どうぞ、真実の情報をこれからもお見逃しなく






           日本も世界も変化している







           さようなら
南朝の運命を決定づけた榎本の声明文



慶応4(1868)年9月22日
最後まで必死の抵抗を続けていた会津藩も
圧倒的な武力を護する西軍を前に敗れ去った

いうならば、戊辰戦争の実質的な
戦闘はもうこの時に終了したといってもいい


           ただこのころ
榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府海軍の残党は船で
蝦夷地へとむかい(えぞち)、最後の決戦の砦を築こうとしていた
そして、10月26日 函館五稜郭を占領した後

榎本氏は各国公使に対して一通の声明文を送っている



          その声明文は


「徳川の新領地を蝦夷地へ求める・
 徳川脱藩家臣は正当な権利を守るため武器を手にして
        防衛する交戦団体である

 諸外国は函館で戦争が起こったとしても局外中立をたもたれたし」



          などという条項に交じって

奇妙な一文が挟まれていた


そこにはなんと



「対外関係は明治政府に一任する」



と書かれていた



          はなはだ不自然な一文



この声明文が発表されたのは12月22日

実質的な戌辰戦争の戦闘が終結してからもう3か月が経過している

すでに東武官軍は散り散りとなり、もはや跡形もない

なのに


なぜわざわざ「対外関係は明治政府、、、」などと一文を入れなくてはいけないか




            おそらく


薩長同盟・・・勝海船・・・榎本武揚・・・のラインで

何らかの裏取引があり、その延長線上にこの一文が

押し込まれたのではないかと筆者は推測している



            というのも



国内における東武官軍の軍事的敗北はすでに動かしがたい事実であったが

対外的には「西のミカドと東のミカド」とのにんしきはまだ生き残っていた

明治政府にとってこれは非常にまずい

国内的にはもちろん国外に対しても


「天皇は一人」というフィックションをゆるぎなき

事実として広めねばならない


           そしてこの声明文が生まれた




           一方




諸外国の側にしてもこの声明文はある意味渡りに船であった
これから先、外交交渉は明治政府とだけやればいいことになる


           つまり



東武官軍との取引ですでに

先払いされていた莫大な金銀は

もう返さなくていい


           すべてチャラなのだ



           当然


武器商人たちはもろ手を挙げて榎本氏の声明文を歓迎したことだろう━─━─━─━─━─





        次は、「野に下った南朝天皇と明治政府の判断」


           というお題ですが冒頭のところ少しかきましょう━─━─━─━─━─





榎本氏の声明文が最後の一撃となり、南朝天皇は抵抗のすべを喪失する

自らの正統性を諸外国に訴えるという手段も断たれてしまった


結局、大政天皇は身を隠しのに下るしかなかった


かつて、笹置山の戦いにおいて鎌倉幕府に敗れ

わずか数名の手勢とともに山中に逃れた後醍醐天皇が

「さしてゆく笹置きのやまを出でしよりあめが下には隠れやもなし」




歌に詠んだ心境もかくやとおもわれる寂寥とした旅立ちであったろう



              一方



明治政府の追及の手は 厳しく 苛烈を極めた

大政天皇は敵の目を欺くため高輪東禅寺(たかなわとうぜんじ)に

自ら崩じたことにして陵墓をつくらせた


         が

明治政府の官憲たちはこの墓を暴き

徹底的に破壊しつくした




             小野寺氏によると


これは儒教思想で極刑とされる「剖棺斬屍」であり

その人の死後墓を暴いて再び 殺すことを意味します




             もう一人の天皇がいた


という


歴史的事実はどのような手段を使おうと

絶対に封じなければいけないのだ


一刻も早く暗黒の隅で塗りつぶさなければならぬ

誠に恐るべき 脅威であった



             そしてその脅威は


放置しておけば足の下から明治政府を揺るがす危険性が大大大であった




           冒頭「南朝北朝いずれに正統性ありや」明治22年ごろ


という本質的な議論が起き始めそれは世の中で静かに広がりをみせている




その議論は学問・教育の場にとどまらず

新聞・雑誌・

あるいは、弁論会などでも活発に行われるようになった



            時の政府は敏感に反応し


なんとか、議論が広まらないように苦心したが

うまくいかなかった




            非常にまずい事態である




このまま議論が進めばいずれ

南朝皇統の血が実際には

途絶えていなかったという事実が


浮かび上がる  いや浮かび上がるかも



しれない


             さらには



三種の神器は

ほんとうはどこにあるのだという声も出てくるかもしれない




             それは決して


             あってはならない



             由由しき事態だ






             皇統の最大のタブー


             なのだ




             暴かれてしまうかもしれぬ



そんなぎろんを強引に断ち切るため

明治天皇と政府は否応なく「南朝が正統」との


声明を出さざるを得なかったのである






━─━─━─━─━─いや~~冒頭だけにしようと思いきや━─━─━─━─━─
           全部書いちゃいました




     次回は「明治政府を襲った新たな黄金伝説」というお題です








            ちなみに「南朝から前金をうけとり武器を渡さなかった武器商人 
                 の名前はグラバー」


               聞いたことあるね
               長崎の有名な、、、n、、ん、、、

               代表的武器商人だよ、グラバーさん





    また次回お楽しみにね








 
               
               輪王寺宮の行動は、、、?


会津若松に入る 輪王寺宮


「官軍討つべし」


檄を飛ばすような暴挙に出たのか?


突然に

後先考えていない愚挙


              そこで

ささやかれているのが官軍の仕掛けた策略、謀略という説


この記事の1~6の中で紹介したように
この時期、外国の新聞記事にまで、「日本には西のミカドと東のミカドがいる」

と紹介されるほど

二人の天皇」の対立は広く知られるようになっていた




このままほおっておけば、幕末の南北朝動乱とでもいうべき
事態になるのは必至である

それを避けるためには、東の勢力を二分することが手っ取り早い



              おそらく


薩長方の何者かがそう考え、計略の絵図を書き上げた


              そして


その王芝居の大役として、輪王寺宮に白羽の矢が立った



              そう考えると

慶喜助命嘆願の名目で、京に入った輪王寺宮すぐに江戸に引き返したこと


              また

 上野山が攻撃されると待ってましたとばかりに会津若松へと
  逃げ出したことなど、


              一見


不振に見えた輪王寺宮の行動がピタリと絵図の中に納まるのです



また、維新後の輪王寺宮の不可解な遇されかたも、この仮説を裏ズける



           本来なら朝廷に弓引く逆賊である


大逆事件の主参謀として極刑に処せられても文句は言えない身である━─━─━─━─━─



諸外国の餌食になった南朝天皇の黄金━─━─━─━─━─



輪王寺宮の突然の出現は南朝皇統を載き官軍と対峠しようとしていた
仙台藩にとって、戦略上の大きな痛手



              しかし



奥羽越列藩同盟の敗北の原因はそればかりではない、、、と、、小野寺氏は
指摘する



「全国でも有数の石高を誇っていた仙台藩ですが、このころには台所事情が
 大変苦しい状態でした。
 文久から慶応にかけて飢饉や洪水などの天災が相次ぎ財政のひっ迫状態は
 誰の眼にも明らかでした。
 その窮状を救おうとして、大政天皇は自らのこうふな資金を戌辰戦争の
 軍資金として用立てます」




            しかし、これが裏目に出た



なにしろ、東北の金山からもたらされた黄金や糸割符の独占貿易で

得た膨大な利益などが数百年にわたって積み重なった資金である

その資金の膨大さに海外商人たちは仰天した


            そして目の色が変わった


目の前のまばゆい黄金の輝きが彼らの強欲に火が付いた



「海外商人との取引は、武器調達費の前払いということで進められました
  ですが、これが失敗のもとになる。
 膨大な量の金額を手に入れてしまった海外の武器商人はこう考えた。
 この先、西軍と東軍が戦い、もし西軍が勝って東部官軍が破れて
 消滅すれば取引を清算せずに金銀だけ手に入れることができる、、。

 そこで彼らは、意図的に西軍に肩入れするようになる、、なってしまったのです」




           海外の武器商人たちは一計を案じる



                 まず

西軍には当時の最新式の武器優先的に納入する

一方、東部官軍方には武器の納入を極力遅らせる

さんざん、引き伸ばした末にやっと引き渡した武器は驚くほど

旧式の極めて低性能なものであった━─━─━─━─━─



    7-2       「天皇の金魂が」決めた日本の運命」




          小野氏は語る


「たとえば、西軍には当時の最新式のミニエー銃が引き渡されました。

          しかし、東部官軍におさめられたもの

 それは、旧式のゲーブル銃でした。

 
*ミニエー銃は

  有効射程距離  800メートル
  200ヤードでの命中率  95%


*ケーブル銃は

  有効射程距離  200メートル
  200ヤードでの命中率  40%

              と実にお粗末なのです


東部官軍はほとんどスクラップに近いものを買わされた


しかも、)そのお粗末なものでさえなかなか渡そうとしなかった


戦う前から勝者は決まっている


           そして実際

東部官軍が敗れた後、海外の武器商人たちは取引の生産をしないまま

先払いされていた莫大な量の金銀をだまし取っていったのです」





           結局


武器商人たちの目論みは成功する

最新の武器を手にした西軍の圧倒的な武力を前に

東北諸藩は次々と白旗を掲げ同盟から脱落


そして、9月11日



同盟軍の盟王の座にあった

仙台藩も遂に降伏を決定


その10日後


果敢にも戦い抜いてきた会津若松藩が矢尽き倒れて陥落する

ことで、東北戦争は実質的な終結を迎える




         そしてこの二人の天皇の戦いは


たんに南朝皇統が敗れたという事象にとどまらず

そのあとの近代日本が歩む道程に大きな影響を及ぼすのである




         なぜなら海外の武器商人は知ってしまった




  何を なにを  何を  なにを????


膨大な膨大な 膨大な 金銀を天皇家が蓄えていることを


天皇家が金銀の膨大な資金を蓄えていることを





        

           そうなのである

           そういうことなのである


彼らは知ってしまった

「天皇の金魂」の存在を知ってしまった」


そして、目を付けた




           やがて


日本が近代国家として歩み始めるプロセスの中で

「天皇の金魂」は

国際的な金融シンジケートの謀略の中にいあおうなく

組み込まれていく運命をたどることとなる


 。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。( ̄へ  ̄ 凸━─━─━─━─━─








           続きはあとでね

           食事します  サファイア