89年(43歳) デジタル・サウンド
89年、アルバム『ひまわり』を発表。タイトルの由来を聞かれて、「いや、意味なんてないんだ。コンピューターに打ち込む時にファイル名がいるのね。それでヒマな時に曲を作ったから、ヒマ1、ヒマ2と入れてたわけ。で、最後にタイトルがつかない曲があってヒマ、ヒマと言ってたら『ひまわり』になったんだ」
『ひまわり』は異質だった。コンピュータへの傾斜を強めていた拓郎が、前年の『MUCHBETTER』から引き続き打ちこみで作りあげた。コンピュータで作品化する。この試みが世間に受け入れられたとは言い難かった。吉田拓郎の音楽と、デジタルなビートの無機質感とには不整合を感じざるを得なかった。
2月と3月、アルバム『ひまわり』のツアーを行った。資料によると、3月の初の東京ドーム公演は5万人を動員したとある。だが、とある個人サイトには定価割れのチケットで入場し、二階席には空席が目立ったと記されている。またこの日は『ひまわり』の曲が中心だった。これら新曲よりも、かつての曲に熱い反応が返ってきたという。田家秀樹もこう書いている。「彼らはステージで次々と新曲が披露されることに明らかに不満の色を浮かべ、ある者はアンコールを待たずに席を立った」
この年の11月と12月のツアー・タイトルは「人間なんて」と銘打たれ、古い歌中心のセットリストが組まれた。歌詞を書き換えての『人間なんて』や、『イメージの詩』『今日までそして明日から』『ハイライト』『高円寺』『リンゴ』『落陽』『襟裳岬』が歌われた。これら春先の『ひまわり』ツアーとは異なった選曲は、その反省を踏まえたものだったのだろうか。
90年(44歳) 観客動員不振
1月、アルバム『176.5』を発表。自身の身長をタイトルとした。虚像ではなく、等身大を意味するという。70年代におけるパブリック・イメージの払拭を願ったのか。拓郎は80年代に「吉田拓郎の敵は吉田拓郎」と幾度か洩らしたことがある。そう著書に書いた音楽評論家・田家秀樹は、『176.5』の収録曲『俺を許してくれ』が懺悔録のように聴こえたという。
同作は、全曲のベーシック・トラックが拓郎の自宅のコンピュータで作られ、セルフカバー『落陽』と『祭りのあと』も収録された。『落陽』ではイントロが変わり、『祭りのあと』は印象的なハーモニカがなくなった。翌91年、まだ駆け出しのフリーライターであった重松清は、雑誌の取材で拓郎にインタビューした際、思わずファンの立場で両曲ともオリジナルの方がよかったと洩らしてしまう。後に失言として後悔したというが、図らずも70年代ファンの声を代弁したように思える。
拓郎は後に、この時期のコンサート・ツアーを振り返っている。「90年代の初め頃かな。長野に行った時、僕は妻と行ってたんだ。でも、チケットが思ったほど売れてなくて。一階席の後ろの方が何列か空席なのがステージから見えるわけ。僕の中でも燃えるものもなくなっていたし、バンドも納得しきれてなかったし、妻に、もう止めちゃおうかと言ったことはあるよ」。
91年(45歳) 楽曲注文絶える
この年から8年後となる99年、阿川佐和子との対談で、「45歳から50歳までの5年間ほどは、(他の歌手に提供する曲の)注文がなかったですよ。特に小室哲哉が出始めてからは、時代がものすごく変わって、全然発注がなくなりましたね」
その危機意識だろうか、「こうなったら何でもやるよ」と、この年発売のアルバム『デタント』およびコンサートツアーのため、ラジオ出演、雑誌取材やプロモーションビデオ撮影など、キャンペーン活動を精力的に行った。あの吉田拓郎が自ら販促とは、と思わざるを得ない。
PRも異例なら、ツアーの本数45も異例だった。「歳の数だけやる」と、6月から11月まで全国45会場を精力的に回った。前年までの3年間は20本台にとどまり、十年前の82年の50本まで遡らないと40本台はない。
それは強行軍だった。最も多い10月には13本。2日連続のコンサートが全体で8回あった。何度か体調を崩し、急遽帰京する局面もあった。しかもこの年も観客動員は振るわなかった。「(引用注:8月の東北公演と思われる)前の晩、みんなで飲んでたら、明日、チケットが売れてないとイベンターが言った。『LOVE LOVE』をやる前までは、東北は結構大変だった。札幌も危なくて2階席が空いてるのが見えたりすることもあった。『LOVE LOVE』の後からだね。また変わったのは」
東北といえば、ブレイクした20年前、72年(73年か)のツアーにおいて、青森で公演があった。吉田拓郎絶頂期であり、コンサート終了後、いわゆる出待ちが会場だけではおさまらず、ファンの女子の長い列が、拓郎が宿泊するホテルまでの道中にずらりと並んだ。拓郎はまるで優勝パレードのように手を振りながらホテルに入ったという。歳月が身にしみる話だ。
『デタント』のアルバムジャケットに写る拓郎は、長い髪をばっさり切っている。『結婚しようよ』のシンボル・フレーズ、「僕の髪が肩まで伸びて」の長い髪が消滅した。前出の重松清もインタビューにおいて触れざるをえない。「いつまでも長髪でもないでしょう」と拓郎は苦笑し答えた。自著では、美容室で髪を切った際の様子を克明に記していて、それなりの思いがあったことが窺える。
イラストレーターのみうらじゅんは京都から上京後、『高円寺』に住み着いたほどの熱烈な拓郎ファンだった。だが80年あたりに拓郎の髪がアフロ・ヘアに変わると、熱は醒めたという。俳優・中村雅俊もファンの一人であり、97年にテレビ番組で、髪を短く切って久しい拓郎と対談した際、「もう髪は伸ばさないんですか」と、カリスマのかつての長い髪に未練ありげに問いかけている。70年代のファンにとって、吉田拓郎の長髪は重要なアイコンであった。
この年、アマチュア時代のバンド、ダウンタウンズの再結成ライブが広島で催された。四半世紀ぶりの復活であった。拓郎は頻繁に広島に通い、長年ブランクのあるメンバーと練習を共にした。当日の彼らの演奏は心許なく、ライブの収支もスタジオ代などで大赤字となったが、拓郎は誰よりも楽しそうだったという。この動きが翌年における、過去への回帰につながったとみることができる。
92年(46歳)父の受容
アルバム『吉田町の唄』は、新潟県吉田町の有志が、町起こしのため全国6つの吉田町から成る“吉田町サミット”を提案し、テーマ・ソングを同姓のよしみで依頼された。拓郎は「20年以上やってきて、いろんな企画が持ち込まれたが、こんな素晴らしい企画はない」と引き受けた。この反応にスタッフは驚いた。
この制作後、拓郎はビデオで映画『フィールド・オブ・ドリームス』を観た。吉田の姓を改めて意識したあと、父と子の絆を描く映画に感銘した。涙が止まらなくなった。『吉田町の唄』の中で歌ったのは、幼年期を過ごした鹿児島の風景だった。父の面影を訪ねるため、それまで私的に訪れることはなかった鹿児島の土を踏んだ。父の仕事場だった県庁や図書館を訪ね、かつての住まいの地にも足を向けた。思い出が唯一残っていたのは、『夏休み』の舞台となった谷山小学校だけだった。
夏のコンサートツアーは当初、六大都市の大ホールで行なう予定だった。だが拓郎は急に「バンドはイヤだ。ギター一本でやる」と言いだす。「鹿児島に行ったら、お袋の遺言を思い出してさ。7年前にお袋が死んだ時、ぼくの親友の枕元に立ったって言うんだよ。“いつかギター一本のコンサートが聴きたかった”って」。『吉田町の唄』に触発され、父親と自分を見つめ直したことが、このコンサートを誘発した。チケットの払い戻しが始まった。会場も千人規模の会場を二十カ所、新たに確保することになった。8月に始まった「アローンツアー」は全編弾き語りによるコンサートとなった。
この5年後の97年、拓郎は自らのTBSの番組『お喋り道楽』に大友康平を招いている。「(拓郎さんは)今日、気分がのらねえんだ、このツアーやめようって、いきなりツアーをやめたことがあるって。おれ、信じられねぇですよ。自分で計算しちゃいますもんね。ああ、宣伝費とか会場に渡した前渡し金とか、これをまた回収するのが大変だなとか」
ツアーでバックをつとめていた松任谷正隆も、東京駅で待ち合わせた拓郎が突然「気分が乗らないから帰る」と、そのコンサートが突然中止になったとラジオで語ったことがある。妻の松任谷由実は今日に至るまで、コンサートを飛ばしたことは一度もないという。吉田拓郎という人の人となりの一端が垣間見える逸話だ。
この年は過去回帰の年であった。年の暮れにかけてミニバンドツアーが行なわれた。ミニバンドとは、およそ二十年前、71年のマンスリーコンサートでバックを務めた、田辺和博と井口喜典の2人組みバンドである。広島の後輩にあたる彼らを復活させ全国をまわりたい。「将来に向けてやりたいことがある。そのために過去を確認したかった。鹿児島に行ったのも同じこと。振り返りは今年で終わる。(来年からは)新しいことをやる」。
だが田辺は獣医師、井口も大きな家具店の経営者として多忙を極める。そもそも音楽はアマチュアである。断るつもりが拓郎の熱意に負け、広島を含む6大都市で『夏休み』、『ある雨の日の情景』、『ともだち』など懐かしいナンバーを披露した。この顛末はドキュメンタリー番組として放送された。練習合宿では田辺が過労で倒れるなど、二人は相当なプレッシャー下で拓郎の願いを叶えた。
これから7年後、アルバム『みんな大好き』を出した際、拓郎はインタビューでこう話している。「(『みんな大好き』は)コンピュータを使って作業しました。昔に比べてこっちのほうが全然いい。(ギター一本で弾き語りするのは)大嫌いなんです。飽きちゃうんですよ、単調な音に」。デビュー当時のフォークソングに回帰したこの年の動きは、拓郎らしい気まぐれなイベントだったようだ。
93年(47歳) テレビ司会者
4月、TBS系ドキュメンタリー番組『地球ジグザグ』の3代目司会者となる。翌年3月まで1年間務めた。かつてテレビを敵視していた男が、得意のトーク力を生かし、新境地を開こうとしたのか。あの吉田拓郎が司会と、驚いたファンは大勢いただろう。だが出演の動機は単純だった。腰痛になり、コンサートやアルバムをやる気になれなかった。そこの司会の話が転がり込んできた。好きな番組だったことから飛びついた。司会なら座ってやれる。事務所もまさかやるとは思わなかった。この年に対談した小田和正が同番組について尋ねると、「テレビ・タレントの道、あるんだよね。おそらくスターになるな。大橋巨泉を凌ぐだろう」と返している。案外、本音であったのかもしれない。
10月の、NHKスタジオ・ライヴ・レコーディングを行なう。100名の観客を前に、レコーディングとライヴとオンエアを同時におこなった。同年夏の鹿児島で大水害が発生し、そのチャリティでもあった。拓郎にとって初めてのチャリティ・アルバム『TRAVELLIN’MAN』で、売上は全額、鹿児島県吉田町に寄付された。
94年(48歳) 紅白歌合戦初出場
3月、長崎市公会堂での泉谷しげるの声かけによる、チャリティ「日本をすくえ」に出演。泉谷、拓郎、小田和正が軸となり、井上陽水、泉谷しげる、小田和正、忌野清志郎。伊勢正三、南こうせつ、浜田省吾。大友康平、さだまさし、という豪華バンド「スーパーバンド」が結成された。わがままな一匹狼の面々であり、舞台裏は混乱したが、小田や拓郎の努力もあり成功裏に終わった。
8月には日本武道館にステージを移し、小田和正、泉谷しげる。財津和夫、大友康平、稲垣潤一、山本潤子、坂崎幸之助、渡辺美里らと第2スーパーバンドを結成。この「日本をすくえ’94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜」はテレビ放送された。
大晦日にはNHK紅白歌合戦に初出場。バックにはジャズ界の重鎮である日野皓正や、渡辺香津美、大西順子らそうそうたるミュージシャンが並んだ。当初は断るつもりでこれらのメンバーの出演を条件にしたところ、皆が快諾し、拓郎は驚いた。そのせいか当日『外は白い雪の夜』を歌う姿は落ち着きがなく、終えるとそそくさと舞台を去った。シャイな拓郎らしいが、舞台裏では一転、上手くいったと大はしゃぎしたという。
このバンドをきっかけに、テレビ番組が生まれることになった。「オレはさぁ、テレビが嫌いなわけじゃないんだよ。たとえばスーパーバンドみたいな編成で、ちょこちょこ世間に発信できる場があったら楽しいと思うよ」。このことばをフジテレビの音楽プロデューサーきくち伸は聞き逃さなかった。きくちは熱烈な拓郎ファンである。2年後に始まる、『LOVE LOVEあいしてる』がここに萌芽することになった。
95年(49歳) 40代最後
4月、拓郎は40代最後のアルバムのためバハマに向かった。70年代に憧れたロスのミュージシャンをあつめ、寝食を共にする合宿で収録がおこなわれた。外国での生活は苦手な拓郎が、自身がプロデューサーとなり、いまも現役で活躍している同世代とセッションすることで、音楽への情熱を呼び戻したい願いを込めた。6月に発売された『ロングタイムノーシー』は、久しぶりの意味。オリジナル・アルバムとしては、92年の『吉田町の唄』以来丸3年ぶりで、80年のロサンゼルス、85年のニューヨーク録音に次ぐ3回目の海外レコーディングとなった。
バハマに同行していた田家秀樹は、拓郎がホテルの部屋で大粒の涙を流すのを目撃している。憧れのミュージシャンと地球の反対側で念願だったレコーディングを実現させたことへの万感の想いと、同時に、過去2回の海外収録がどこか人任せにしていた悔恨や無念。40代を終えようとしている音楽人生。いくつもの複雑な感情の高まりが言葉にならないまま押し寄せているようだった。「お前らには分からない」と、辺りをはばからず男泣きした。田家は、吉田拓郎というアーティストが背負っている人知れぬ、業のようなものを見せられた気がした。一方で田家は、「50歳を機にテレビに出たりしなければ、どうなっていたのだろう」と述懐している。拓郎は追い詰められていた。
9月から始まったこの年のツアーは7会場のみだった。ツアータイトルは、アルバム『ロングタイムノーシー』と、そのキャッチ・コピー「放っておいてくれて、ありがとう」であった。この意味するところは何だったのだろう。
ちなみに、とあるサイトの記述として、アルバム『ロングタイムノーシー』発売当時、宇田川オフィスは閉めていたとある。前年の94年1月に宇田川オフィスから単行本、『吉田拓郎ヒストリー1970~1993』が出ているから、発刊後に事務所を閉めたと思われる。このためか95年は拓郎にはマネージャーもなく、自宅で仕事のファックスを受けていたという。96年には再始動に向けスタッフとともに動き始めているから、一時的な状況だったはずだが、苦境の一端を象徴しているように思われる。
96年(50歳) 『LOVE LOVEあいしてる』
前年95年の春、拓郎はスタッフに思いもかけぬ提案を行った。50歳の誕生日をハワイでファンと共に過ごしたいという。アーティストがファンクラブのメンバーとツアーを組んでの海外旅行は珍しくない。だが、ファンとの距離には人一倍神経質な吉田拓郎が、しかも記念すべき50歳の誕生日の夜を共に過ごそうという。「ファンは嫌いだ」と公言していたカリスマが変わった瞬間だった。
参加条件はカップルであること。応募したリスナーは千名を数えた。拓郎自ら選考に加わり、選ばれたのは22組。ツアーは96年4月に4泊6日で組まれ、到着した参加者の前に拓郎は姿を姿を見せ、満面に笑みをたたえながら、こう挨拶した。「東京で誕生パーティをやると、業界の人とかが沢山来てくれるでしょうけど、その日だけ来て乾杯とか言って心にもないメッセージを残して帰って行って、次の日からは知らんぷりという芸能人とかも多かったりするわけで。そういう人たちに50歳を祝って欲しくない。だったらファンの方がいいや、と」
自らがバスガイドとなるバスツアーでは、マイクを持ってハワイ案内を行い、笑顔でサインに応じた。ホノルルのハレクラニ・ホテルでは誕生パーティが開催され、歌わないと言っていた拓郎が密かに用意していたのは、ハワイで買ったウクレレだった。参加者全員が拓郎を囲む形となり、『旅の宿』を口ずさみ『ガラスの言葉』を歌った。ウクレレは母が買ってくれた、最初に触れた楽器だった。参加者はおそらく70年代前半からのファンなのだろう。だからこその『旅の宿』であり、『ガラスの言葉』だったのだろう。
10月、フジテレビ「LOVE LOVEあいしてる」の司会に就いた。半ば世に忘れられていた吉田拓郎が再び認知されることになった。この番組は当初、玉置浩二がキャスティングされていた。だが松下電器(現パナソニック)の一社提供のため、玉置のソニーレコード在籍が問題化した。松下とソニーは家電メーカーとしてライバル関係にあった。玉置は長いキャリアの中でこの時期だけソニーに属していた。すこし前後していたら、拓郎の出演はなかったことになる。
前述のとおり、同番組はフジテレビ音楽プロデューサーきくち伸がかかわっていた。きくちは会議で玉置の代案として吉田拓郎の名を出し、出演が決まった。もっとも拓郎は自分中心の音楽番組がやりたかった。キンキキッズとかいう年端もいかない若者と共演するなどまっぴらごめんだった。だがテレビは視聴率が至上命題である。拓郎が「僕では(視聴率は)とれないね」と訊くと、きくちは「はい」と即答した。
キンキキッズは必ず売れる。番組のブレイクも間違いない。そう説得された。十代の若者とうまくからめるのか。共演する篠原ともえとも打ち合わせで初めて顔を合わせた。そのふるまいに逃げ出したくなった。一回目のゲストは安室奈美恵だった。話がかみ合わない。拓郎は借りてきた猫だった。ホストでありながら、かたくなに心を閉ざした。
収録のたびに「降りる!」を繰り返した。きくちに辞表を何度も出した。妻には「行きたくない」と駄々をこねた。変わったのは三、四か月経ったころ、番組のバンド・メンバーとの打ち上げの場にキンキの二人が加わり、一気に打ち解けた。番組開始半年後のハワイロケでは和気あいあいの間柄となった。
しかし、この番組を見た拓郎ファンはどう思ったのだろう。忘れていた青春の記憶がよみがえっただろうが、同時に若いタレントとからむカリスマに違和感をおぼえた人も多かったのではないか。最初期からの拓郎ファンである明石家さんまと所ジョージも、番組に招いた拓郎に異を唱えた。年端もいかないキンキキッズと何をやっているのですかと、70年代ファンの思いを代弁した。
97年(51歳) 『みんな大好き』
前年、吉田拓郎本人のみならず、内外の不安を抱えてスタートした「LOVE LOVEあいしてる」は、当初の予想を覆して5年近く続くことになった。茶目っ気たっぷりに笑うその姿は、近寄りがたかった孤高のカリスマを、世代を超えた人気者へとイメージを変えた。キンキキッズや篠原ともえらと共演する拓郎は、生来の明るさを取り戻していった。50代になって吉田拓郎は変わった。
この年から13年経った2010年、64歳の拓郎はこう語っている。「妻によくいわれることなんだけど、あなたは50歳くらいから若返って来たって。ちょうどテレビの番組をやったりするころから急に若返って来た。結婚(86年、40歳)して50歳の時くらいまでが僕はとても老けていたって。20代30代に、多くのものに挑戦して、その中である種の勝利感も昧わって、今度は勝つことによるプレッシャーとか、勝った者が敗者になってはいけないという気持ちを持ち続けていたから疲れてたんだね。だからその時期にコンサートツアーをやってはいたけど、何をやってたか思い出せないくらいなのね。一緒にやった連中には失礼だけど、どんなバンドだったかなとか、どんな曲をやっていたんだろうとか、どのくらいツアーやったかなという記憶がない、惰性でやってたんだと思う。あの頃は微妙に老成してたんだな」
中学時代からの親友・大野光一も同様のコメントをしている。「中学の時のイメージをずっと抱いてきてましたから、30代、40代の拓郎は、鎧のような重いものを背負ってきたんだなという印象を受けました。昔の中学時代の彼とは別人かと思うような印象を受けました」
11月に発売された、「LOVE LOVEあいしてる」のバンドと制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』は、拓郎のCDアルバムの中で最大のセールスを記録した。7月発売の週刊誌の対談で拓郎は「世間での認知度はものすごくなった。道行くオバサンたちが僕を指さす回数が圧倒的に増えました」と語っている。開催コンサートも、以前は簡単に手に入ったチケットが入手困難になった。オールドファンも吉田拓郎の存在を思い出し、コンサートに足を運ぶようになった。
98年(52歳) オールドファン
週刊誌のサンデー毎日に、毎週さまざまなテーマを俎上に挙げ語り合う座談会コーナー「日本崖っぷち大賞」があった。「審査員」は、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇の四人。98年の4月12日号のテーマは「吉田拓郎」であった。
彼らはみな自分とほぼ同世代であり、同時期に拓郎ファンになったようだ。座談会で四人が語る曲名でそれは明らかだ。すべてを列挙すると、『青春の詩』『イメージの詩』『準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響』『人間なんて』『マークⅡ』『結婚しようよ』『春だったね』『夏休み』『たどりついたらいつも雨降り』『高円寺』『リンゴ』『旅の宿』『落陽』『ペニーレーンでバーボン』と、これらすべて70年から74年の曲ばかりである。
一方、97年に発売されたセルフカバー・アルバム『みんな大好き』の収録曲は、「LOVE LOVEあいしてる」のテーマソング『全部だきしめて』一曲を除き、すべてが74年までの曲となっている。つまりはみうらじゅんらが語った作品群の時期と重なる。最も分厚いマーケットをターゲットとすれば当然の選択だろう。だが逆にいえば、70年代後半以降の曲は営業政策的に却下されたことになる。かつて古い歌は歌わない宣言をした吉田拓郎からすれば、不本意なことであったのではないか。
この年は、とんねるずやダウンタウンなどのテレビ番組に頻繁に出演している。「LOVE LOVEあいしてる」でタガが外れてしまったのか、かつてのテレビ嫌いのスタンスなぞ跡形もなく消え失せてしまった。青春のカリスマがお笑いタレントにいじられる。70年代のファンは心の底から笑って見ていたのだろうか。
99年(53歳) 準ちゃん
「LOVE2ALLSTARS」のツアーは、99年と00年の二度にわたって行われた。資料としては確認できないが、二年連続のツアー実施は好評を裏付けるものといえる。
7月、テレビ番組「吉田拓郎&中村雅俊 甦れ青春シッチャカメッチャカ広島の旅!」には、『たくろう オン・ステージ第二集』の名曲、『準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた偉大なる影響』の「準ちゃん」がサプライズで登場した。この元カノの出演は拓郎本人はもとより、70年代のファン、少なくとも自分にとっては衝撃だった。準ちゃん、よくぞ出てきてくれたと大いに感激したものだ。また、広島時代の数々のエピソードに触れ、とても興味深い番組であった。
01年(55歳) フォーライフ脱退
2001年、75年の設立以来所属していたフォーライフレコードを辞め、テイチクノインペリアルレコードに移籍した。資料にある、フォーライフを離れた理由を要約すると、会社が企画モノを作りたがる、新しい曲よりも古い曲を焼き直しを求める、自分で作った会社だから断ることができない。そういう状況から逃れたかったからだという。
吉田拓郎がフォーライフを辞める。あの70年代半ばの大騒動を知っている者からすれば、大きなニュースになってもおかしくなかったはずだ。だがこの01年当時、少なくとも自分はこの報に接した覚えはない。目にしたならば、それなりの感慨を覚えただろう。だが世間は何も反応しなかったようだ。
その新天地でリリースされたのが、アルバム『こんにちわ』。拓郎が大好きなハワイで撮影されたジャケット写真からはリラックス感が漂い、明るい前向きな曲が多いという。「LOVE LOVE あいしてる」効果と、過去の呪縛であったフォーライフからの解放感もあったのだろうか。だが、この作品が発売される直前、拓郎にある通告がなされた。
3月、4年半続いた「LOVE LOVE あいしてる」が終了した。視聴率はもとより、現場の雰囲気も良好だったのだが、突然終了が決まった。上層部の決定であり、プロデューサーのきくち伸すら真相を知らない。それでも出演者に終了を告げるのはきくちの役目であった。「最後の収録の前日、リハーサルの前に拓郎さんから順に一人ずつ呼んで『今回で最後です』と言いました。拓郎さんは何とも言えない表情をしていました」
きくちは、後年拓郎がうつ病を訴えるほど気弱になったのは、この番組が終わったことと無縁ではないと言う。泉谷しげるも、拓郎が「オレは終わった」と語ったと人づてながら聞いている。
02年(56歳)『Oldies』
3月、インペリアルレコードからセルフカバー・アルバム『Oldies』発売。97年にフォーライフから出たセルフカバー・アルバム『みんな大好き』と同様、またほとんどが70年代前半の曲で占められている。セルフカバー2作連続で80年代以降の曲はほぼなかったことになる。フォーライフ脱退の理由が「新しい曲のよりも、古い曲を焼き直しを求められる」だったことからすれば、新天地でも何も変わらなかった。
03年(57歳) 肺がん
3月、作詞家・岡本おさみとのコンビ復活となるアルバム『月夜のカヌー』発売。
その前月、拓郎は2月上旬から中旬にかけ、ラジオ番組「セイ!ヤング」収録のため、聴取者とハワイに行くことになっていた。出発前、風邪気味のためかかりつけ医にかかったところ、レントゲンに影が映った。医者は最悪でも結核だろうと言う。楽観して出発し、当地では葉巻をくゆらせていた。だが、帰国後の再検査でがんを告知される。4月5日、57歳の誕生日だった。
人間ドッグに入るなど、定期的な検診を受けてきた。大病になる可能性はないと信じ込んでいた。手術を前に「しくしく泣いたな。情けねぇとか思うけど、泣いちゃうんだな。さびしくて悲しくて」。4月9日、3時間にわたる内視鏡手術で肺を5分の1切除した。
当初予定していたツアーは延期となった。医者は「もう一度歌える」とお墨付きをくれた。肺の一部はなくなったが、リハビリを積めば大丈夫だという。最初は歌うどころか声も出なかったが、努力を重ね、開催の目途が立った。チケットが発売されるや15分で完売した。若いファンの多いアーティストのチケットは即日完売が多い。だが大人の聴き手が多い場合の15分の完売は異例のことだった。
初日となった10月19日の東京有楽町の東京国際フォーラムでは、昼夜の2回公演をやり通し、復活を印象づけた。大阪公演が行われたのは11月2日。MCでは東京に出てきてからの青春時代を語り、歌い始めたのが『サマータイムブルースが聴こえる』。そのツーコーラス目、「ギターケース抱えて~」と歌い始めたが、声が絶えた。歌おうとしたものの、天を仰いでやめてしまった。客席にいた田家秀樹は数多くのステージを体験してきたが、感極まって歌えなくなった拓郎を初めて観た。
体調が案じられたツアーだったが、最終日の12月5日、仙台サンプラザまでの8公演(内3会場は昼夜2回)を完走した。肺がんの手術をした50代後半のアーティストの復活だった。
04年(58歳) 『一瞬の夏』
前年に肺がんを手術し、健康状態が案ぜられた拓郎だったが、7月からツアーに出た。初日のつま恋ホールでは、3時間半の長丁場を乗り切った。だが8月3日の中野サンプラザでは、貧血で30分間の中断を余儀なくされるも、椅子に座りやり通した。4日後の山梨公演も延期となったが、これは会場に向かう高速道路が渋滞し、拓郎がやる気を失ったからだった。これら、ファンや関係者をやきもきさせることもあったが、延期された11月の山梨まで、全国20公演をこなした。このツアーでは『おやじの唄』と『まにあうかもしれない』が歌われ、観客の反応が大きかった。吉田拓郎の人気がもっとも高かった時期にファンになり、老親を送る世代となった実感がそうさせた。
この年のツアーはCDやDVD化がなされなかった。何も残らないのは惜しいと、スタッフやミュージシャンの要望で、観客のいないスタジオライブ形式でレコーディングされ、05年3月に『一瞬の夏』として発売された。このジャケット・デザインは、熱烈な拓郎ファンであるイラストレーター・江口寿司の手によるものである。
05年(59歳) 理想のバンド
03年からこの05年(一部地域06年初まで)までのツアーは、ビッグバンドで行なわれた。『LIVE’73』を編成した瀬尾一三による、ホーン・セクションやストリングスの入った大編成をバックに従えてのツアーは、20代からの拓郎の念願だった。なぜこれまで実現しなかったのだろう。普通のバンド編成でしか採算が取れなかったのだろうか。「LOVE LOVE あいしてる」による人気復活で可能になっただろうか。04年の全公演が終わった後、田家秀樹のインタビューに拓郎はこう答えている。
「3時間も歌える。若い時よりも今の方が長く出来るっていうのは、それは田家さん、バンドがいいんですよ。バンドが5時間でも歌いたいようなバンドなんです。前はバンドで2時間ぐらい歌ったら、『もうお前ら帰れ、ばかやろう』って言いたくなった。若い時のバンドは2時間やれば十分でしょう、もう当分会いたくないというような演奏なんですよ。音楽の中に歌いながらしみじみ浸ったりできない。今のバンドは歌いながら気持ち良くて浸ってるもん。こんな幸せなことはないっていう。これなら5時間歌えるんです。二十何人いてくれる、後ろにフルオーケストラがついてるっていうことの音のリッチな感じっていうのは誰にも分かることではないですね。」
余談ながら、自分が吉田拓郎のライブ盤で最も好きなアルバムが『LIVE’73』。まさにこのバックも瀬尾一三が編成したバンドであり、『君去りし後』や『君が好き』など、ホーン・セクションが入ったサウンドは圧巻である。だから上記のことばはよく理解できる。一方で、過去のバンドを貶める発言はいかがなものか。吉田拓郎という人は、その時その時の心情を正直に吐露してきたのだとあらためて感じる。
06年(60歳) 3回目のつま恋
9月23日、3回目となるつま恋でコンサートを開催。この31年ぶりのつま恋を、NHKは午後1時から夜の9時半まで生中継した。
観客3万5千人。4月29日のチケット発売日に即日完売し、ホテルは予約開始日30分で満室となった。当日、朝8時半の開園時には数千人が並び、最初のつま恋を知るスタッフは「75年(の並んだ人数)より多いかもしれない」とつぶやいた。4月のチケット発売前、売り上げの見通しが案ぜられていた。冷ややかに動員を疑問視するマスコミや業界関係者も多く、拓郎自身、「本当に人は集まるのか」と不安を打ち明けることもしばしばだった。「大丈夫ですよ」というスタッフには、「調子の良いこと言うな」と不快感を示すこともあった。即日完売の見通しが立ったのは、発売数日前のことだった。
観客の平均年齢は49歳。70年代の前半、高校生でファンになった人たちが詰めかけたとすると、このあたりの歳になる。実際、75年のつま恋を体験した人たちの数多くいたはずで、当時のノスタルージーが再びこの地を踏ませたのだろう。
だが拓郎自身は違った。会場で販売するパンフレットに75年の写真を載せることを拒否した。「俺は今、これと戦っているんだ」と、スタッフが準備した校正刷りを没にさせた。今なお現役として歌うシンガーとしてステージに立ちたいのに、公式ブックがなぜ過去の幻影を再現するのかという思いだった。一方でファンは往時の吉田拓郎像を求めている。両者の思いに乖離があったように思える。
この年、兄を亡くす。兄は4年前にがんを手術していた。拓郎自身もその翌年に罹患が判明するとは夢にも思わず、「人ごとだった。軽くがんばれよ、という気持だった」。兄とは14歳も離れていた。兄弟の感覚も希薄で、他人のような関係性だった。だがその影響で弟は音楽を志すようになった。兄は若いころジャズピアニストを志し、「水木哲郎」の名でレコードを出すなど音楽の世界に足を踏み入れていた。その後は立教大学時代の仲間たちと空調機器関連の会社を立ち上げ、平凡な家庭人として一生を終えた。
07年(61歳)
うつ病
この年の4月、更年期障害およびうつ病を発症した。うつになったのは、がん再発の定期検診を恐れたためとの観測も流れたが、加齢から来るタイプと診断された。
開催が危ぶまれたツアーは8月にスタート。06年までの大編成バックとは一転した少人数ツアーは、8月21日の越谷皮切りにスタートした。だが、喘息性気管支炎のため、2本目の8月24日のパルテノン多摩を中止し、8公演が延期となった。9月30日の熊本公演から再開したものの、10月17日の瀬戸公演を終えた後、慢性気管支炎と腹膜炎の併発で、残る19公演を中止することになった。この気管支炎は、子どものときの喘息と関係するという。
08年(62歳) 歌碑
8月、母校の広島修道大学(旧広島商科大学)の「今日までそして明日から」歌碑除幕式に出席。直前までクルマの中で待機し、簡単な挨拶で3分ほどで姿を消した。夕刻からは広島フォーク村40周年同窓会に参加し、当時を「あんなにいい思いをした一、二年はなかった」と振り返ると、会場は大きな拍手に包まれた。
10月、最後のレコード会社としてエイベックスに移籍した。籍を置いていたテイチク・インペリアルの飯田久彦が同社に移ったことによる。そもそもフォーライフからインペリアルへの移籍も飯田の存在があり、拓郎のエイベックス入りも自然なことだった。だがエイベックスは、小室系ダンスミュージック一世を風靡し、浜崎あゆみや安室奈美恵、倖田來未などを擁して業界大手に上り詰めた会社である。翌年、拓郎はアルバムを発表するが、後にその収録をこう振り返っている。
「僕にとって得体の知れない大きな会社ですよ。一部上場企業の1000人くらい社員がいるなんてそんな大きなレコード会社見たことないから、そりゃ大変なことだというのがあって、それが逆にいい緊張感やプレッシャーを与えましたね。レコーディングはかなり緊張感のあるものになっていたと思います」
吉田拓郎が属したレコード会社は、エレックに始まり、CBSソニー、フォーライフ、インペリアル、エイベックスと変遷してきた。おそらく最後となるだろうエイベックスには、畏怖を抱きつつ入ったことになる。田家秀樹著「吉田拓郎 終わりなき日々」には、エイベックス本社会議室で、居並ぶ幹部に拓郎が挨拶するシーンが叙述されているのだが、そのことばにも緊張感が漂っている。三十余年前、フォーライフを設立し、音楽業界を震撼させたあの吉田拓郎とは別人のようである。
拓郎ファンにとってもエイベックスは馴染みがない。吉田拓郎のイメージからエイベックスは遠いところにあった。ファンからすれば、レコード会社がどこであろうと作品に変わりはないようにも思える。だが本人は、エレックに始まりエイベックスで終わる。それを自分の美学にしたいと、最後のレコード会社の会議室で拓郎はそう語ったという。
09年(63歳) ラストツアー
4月、エイベックスからの初のオリジナル・アルバム『午前中に・・・』をリリース。前作『月夜のカヌー』以来6年ぶりの新作で、25年ぶりに全曲すべてを作詞した。その意欲を反映してか、オリコンアルバムチャート初登場6位となった。21年ぶりのトップ10入りであり、63歳1ヶ月の史上最高齢という記録でもあった。
一方、コンサートツアーは今年を最後とすることを明らかにした。全10公演のチケットは瞬時に完売。6月21日、名古屋を皮切りに「最後の全国ツアー」が始まった。だが、7月8日の大阪公演は開始45分前、体調不良により中止となる。以降の福岡、広島、神戸の3公演も中止となった。7月23日、再開を期した移動の車中で体調が悪化。このつま恋エキシビジョンホールと8月のNHKホールライブも中止となった。吉田拓郎の「最後の全国ツアー」は終わった。
つま恋とNHKの中止は痛かった。つま恋のライブはエイベックスからDVDリリースが、NHKもドキュメントの放送が予定されていた。一昨年の07年のツアーも気管支炎で中止を余儀なくされたが、損害は保険でカバーした。だが今回はかけられなかった。その穴を埋めるべく、エイベックスからは、無事終えることができた7月4日の東京国際フォーラムでのライブ盤が、旧譜をもつソニー・ミュージックなどからもCDやDVDが発売された。全盛期を知る旧いファンが買ってくれた。
ツアーが実現しなかった街を中心に、「吉田拓郎展」が開催された。72年以来拓郎をとり続けてきた写真家・田村仁の作品が展示された。06年のつま恋のパンフレットで75年つま恋の写真掲載を拒否したように、拓郎は若い頃の写真が表に出ることを嫌っていた。「そのときの自分には勝てないから」が理由だった。にもかかわらず「吉田拓郎展」を許諾したのは、ファンへの、不本意な結末となったツアーの贖罪意識がそうさせたのか。
12年(66歳)
14年(68歳)
2014年。この年から5年経った19年、吉田拓郎はラジオで、14年に喉のがんが見つかり、闘病生活を送っていたことを明かした。正式名は語っていないが、喉頭がんとみられる。03年の肺がんから11年、二度目のがん罹患であった。
経緯としては、のどの声帯に白板症という異物が発見され、全身麻酔での手術がおこなわれた。異物は検査でがんと判明。以来、2ヶ月にわたる放射線治療が始まった。毎日病院に通い、放射線をのどにあてる日々が続いた。その後は半年間にわたり、治療の後遺症に苦しめられた。のどが強く痛み、食事がのどを通らない、声も出ないなど、苦痛の日々が続いたという。
この年は6月にアルバム『アゲイン』を発表し、6月末から7月中旬にかけ、首都圏5箇所でコンサートを行なっている。翌15年には表立った動きがないことから、発見および闘病はコンサート終了後の、夏以降のことと推察される。
16年(70歳) 関東近郊限定「LIVE 2016」
19年(73歳) 全国7都市7公演
22年(76歳)『ah-面白かった』
24年(78歳) ミニアルバム『ラジオの夢』
二度目のがん罹患も癒え、活動を再開した16年において、そして19年にも、地域限定ながらライブを各地で開催。22年には引退宣言とともに”ラスト”アルバム『ah-面白かった』を発表。24年11月には、引退撤回となるミニアルバム『ラジオの夢』をリリースした。
『ラジオの夢』の発売に先立ち始めたブログでは、過ぎ去りし思い出話を連日のように記している。とある日には、スペイン旅行に行ったときとされる、72年当時と思われる写真(下)を貼り付け、他の記事でも70年代の画像を多用している。60歳のつま恋のパンフレット制作において、「俺はこれと戦っているんだ」と若き日の写真掲載を拒否した吉田拓郎が自らその姿を公開したことになる。仔細なことながら、若き日の自身を肯定するその心境に至ったことにオールドファンとしてうれしく思う。
また拓郎はブログでは、「来春には某ビッグの作品が予定され・・今もデモテ-プ作り中です 音楽は永遠ですね?・・はい・・音楽は永遠です!」と、さらなる新作告知も行なっている。『ラジオの夢』と同様、22年の引退宣言なぞどこ吹く風である。オールドファンとしては、72年のスバル・レックスCMソング、「僕ら旅は果てしなく続く~」のフレーズを思いおこしてしまった。
吉田拓郎ヒストリー Ⅱ
誕生から"ラスト"アルバムまで
70年代前半偏愛史観
了
あとがき
拙文アップの直前、WOWOWで『ラジオの夢』の収録ドキュメンタリー番組が放送されました。幾多の病を乗り越え、レコーディングに励む拓郎さんは元気そのもので、老いてますます盛んな創作活動に一ファンとしてほっとする思いです。
さて、本文を補完する意味で、ある資料をご紹介させてください。お読みいただいたように、本文中では、吉田拓郎の全盛期は72年から76年までとしました。これは音楽評論家・富澤一誠氏の著書の記述に依るものです。自分も体感的にそう思います。さらにこの裏付けとなる他の資料はないものかと探したところ、あるサイトにアルバムの売上枚数推移が掲載されていました。その労に敬意を表しつつ、グラフ化させていただいたのが下の図となります。
一目見ておわかりのように、3枚のアルバムが突出しています。ですが、90年代後半の『みんな大好き』はセルフカバー盤であり、そもそも番組の人気のおかげというものです。つまりアルバムの売上面で見るかぎり、72年の『元気です。』と74年の『今はまだ人生を語らず』までの3年間が吉田拓郎の全盛期間となるようです。
一方、下世話な見方になりますが、アルバムやコンサートなど、収入全体を人気のバロメーターとするとどうなるか。これも富澤一誠氏の著書に、ニューミュージック系アーティストの収入ランキングが示されていて、ここにおいて拓郎さんは、75年の1位をはじめとし、83年に至るまでほとんどベスト10内に入り続けていて、長い間人気を保っていたことになります。
この資料は84年以降は示されていないのですが、奇しくも84年の武道館コンサートで動員に陰りが見られたことから、拓郎さんの苦境はこのあたりから始まり、引退を口にするようになったとも思われます。「LOVELOVE あいしてる」のような番組に出るようになった拓郎さんには、自分としては違和感しかありませんでしたが、80年代半ば以降の閉塞状況を打開するには、あのような手段しかなかったのだと、あらためて感じます。
ちなみに、この富澤一誠氏による収入ランキングの表は、以前にアップした「吉田拓郎ヒストリー」に引用させていただいています。ご関心のある方はそちらをご覧ください。
そしてもう一点だけ、最後にその「吉田拓郎ヒストリー」に関しての余談を語らせてください。この拙文は拓郎さんの恋愛遍歴をまとめたものなのですが、お読みいただいたとある方からメッセージをいただきました。なんと、拓郎さんの広島時代の、元カノの子供さんからでした。内容は、母はかつて拓郎さんの恋人であり、拙文にそのことが書かれてあるので、出典の資料名を教えてほしいとの問い合わせでした。
驚きつつ、拓郎さんの自著である書名を送信すると、お礼を返していただきました。そこには拓郎さんに関するエピソードが書き添えてありました。拓郎さんは別れた後もその女性を気にかけ、広島公演と思われるツアー・チケットを開催の都度送り続けてくれていたというのです。しかし女性はついぞその席を埋めることなく、拓郎さんはステージから空席を見る度嘆いていたとのことです。
拓郎さんは広島時代、数多くの女性との付き合いがありました。とりわけこの女性との関係は特別であったようで、拓郎さんは「結婚もあり得た」とまでその本に記しています。まさに『結婚しようよ』です。結局は拓郎さんのお母さんの反対で悲恋に終わってしまったのですが、もしこの恋が成就していれば、拓郎さんはデビューすることなく、河合楽器に入り、平凡なサラリーマン人生を歩んでいたことでしょう。
もっとも、そのような歴史のイフに今更思いをはせても仕方がないことです。自分としては、自由奔放に生きてきたとしか思えぬ吉田拓郎が、別れた恋人にいつまでも温かい心配りしていたという、知られざる、貴重なエピソードを教えていただいたことがうれしかった。
そもそもアップした一文が、拓郎さんが結婚を意識した女性の子供さんの目にとまり、メッセージを送っていただき、お教えした本をお母さんが読まれ、当時を懐かしく回想していただいただろうことが、未だ信じられない思いです。女性の子供さん(ケメこと佐藤公彦さんのファンということですから娘さんでしょうか)、感謝します。ありがとうございました。
そして、拙文を最後までお読みいただいた拓郎ファンの方々にも、お礼申し上げます。ありがとうございました。
引用・参考とさせていただいた図書(発刊年順)
『気ままな絵日記』吉田拓郎著
『誰も知らなかったよしだ拓郎』山本コウタロー著
『吉田拓郎 挽歌を撃て』石原信一著
『俺だけダルセーニョ』吉田拓郎著
『ぼくらの祭りは終わったか』富沢一誠著
『自分の事は棚に上げて』吉田拓郎著
『HISTORY1970‐1993』ぴあBOOK
『ふたたび自分の事は棚に上げて』吉田拓郎著
『地球音楽ライブラリー 吉田拓郎』田家秀樹監修
『吉田拓郎のお喋り道楽』吉田拓郎著
『もういらない』吉田拓郎著
『いつも見ていた広島』田家秀樹著
『吉田拓郎 これが青春だ』ヤング・ギター・クロニクル
『吉田拓郎 読本』CDジャーナルムック
『吉田拓郎 疾風録伝』石田伸也著
『吉田拓郎 終わりなき日々』田家秀樹著
『評伝 朝鮮総督府官吏・吉田正廣とその時代』坂根嘉広著
『ユーミンの歌声はなぜ心を揺さぶるのか』武部聡志
引用・参考とさせていただいた週刊誌・月刊誌(発行順)
週刊平凡1972.8.31「シリーズおふくろ 吉田朝子さん」
平凡パンチ1984.3.19「吉田拓郎 男のライフスタイル」
週刊平凡1985.5.31「引退の噂にこたえて 吉田拓郎が激白」
週刊明星1985.11.7「吉田拓郎の母・朝子さんが逝去」
週刊文春1972.7.2「客に 帰れコール されて大人になった」
サンデー毎日1998.4.12「日本崖っぷち大賞」
週刊朝日1999.3.12「人間万歳ー吉田拓郎」
週刊文春1999.7.8「吉田拓郎 LOVEで変わったオレ」
週刊ポスト2003.7.4「闘病秘話 吉田拓郎」
週刊ポスト2004.12.24「吉田拓郎肺がんからの復活」
週刊新潮2006.12.14「吉田拓郎 出場辞退は布瀬明への恨み?」
サンデー毎日2007.9.23「全国ツアー中止で気になる吉田拓郎重病説の真偽」
週刊新潮2009.12.3「吉田拓郎 バーゲンセールはツアー中止で空いた穴埋め」
すばる2010.3「ロングインタビュー吉田拓郎」
引用・参考とさせていただいたサイト
多数
以上、深謝いたします。
小学校で同じクラスとなり、高校時代に共に拓郎ファンになり、1973年から2019年にかけて一緒にコンサートに行った、そして現在は、まもなく百歳になろうとするお母さんを介護する、友人のF君にこの一文を贈ります。