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Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 自分は山下達郎のファンです。シュガーベイブ時代から聴き続けてきました。特に、シュガーベイブの唯一のアルバム『SONGS』と、初ソロ『CIRCUS TOWN』の2枚のアルバムを愛聴しています。明るいポップス感いっぱいの『SONGS』から一転、海外録音『CIRCUS TOWN』のエッジのきいた達郎サウンドにも痺れたものです。

 

 山下達郎は、半世紀以上にわたり音楽活動を続けてきましたが、『CIRCUS TOWN』の制作において出会ったのが、レコード会社のディレクター小杉理宇造氏です。そして後に山下達郎は妻となる竹内まりやと巡り会います。山下達郎は、自らとこの二人との関係性を「運命共同体」「トライアングル」と称しました。音楽人生のみならず、人生そのものにおいて欠くべからざる存在ということでしょう。

 山下達郎の、このそれぞれの出会いにおいて関わった人物がいます。音楽プロデューサーの牧村憲一氏です。氏は『CIRCUS TOWN』制作にあたって山下達郎と小杉理宇造氏を引き合わせ、竹内まりやの場合は当人をデビューさせ、結果として竹内まりやは山下達郎との結婚に至りました。

 拙文はその偶然性に着目し、これらの経緯について深掘りしたものです。牧村憲一氏の著書など、いくつかの資料を読み解き、推測も交えて構成しました。牧村憲一氏なくして、山下達郎は二人と巡り会いうことはなかったことがご理解いただけると思います。



参考および引用資料


「ヒットソングの作りかた」牧村憲一著
「小山田圭吾 炎上の嘘 東京五輪騒動の知られざる真相」中原一歩著
「BRUTUS」 山下達郎の音楽履歴書 2022年7月号
「週刊文春」 1994年7月21日号
「ぴあ 山下達郎超大特集」(2012年9月)P42
「小杉理宇造インタビュー記事」https://www.musicman.co.jp/interview/19480 

 他

(以下、敬称は略させていただきます)

 

 

 

 

『CIRCUS TOWN』

 

 

 

小杉理宇造

 山下達郎は1973年、大貫妙子らと結成した伝説的バンド、「シュガーベイブ」でデビューした。地道なライブ活動を続け、75年にアルバム『SONGS』をリリースした。だが人気を得るには至らず、結成から3年後、解散となった。

 解散時、シュガーベイブの制作や宣伝の活動を担っていたのは、後に音楽プロデューサーとなる牧村憲一であった。牧村はこの以前にはテレビCMの仕事に携わり、大瀧詠一の初CMソング『サイダー'73』の誕生は、発案者たる牧村を抜きに語ることはできない。後年は、坂本龍一と忌野清志郎のCMソング『い・け・な・い ルージュマジック』を制作している。アルバム作品の制作においては、音楽プロデューサーとして加藤和彦、大貫妙子らを手掛け、数々の名作を世に送り出した。

 シュガーベイブの解散が決まる前、牧村はセカンドアルバムを出すレコード会社を探していた。『SONGS』を出したエレックレコードが倒産したためだった。本来であれば『SONGS』と同様、エレックと組んでいた大瀧詠一のナイアガラ・レーベルで制作するべきなのだが、山下にはナイアガラの対応に不信感があった。このため牧村は山下と一緒に大瀧に会い、「シュガーベイブをナイアガラから抜けさせてください」と懇請している。

 牧村は早稲田大学の音楽サークル、グリークラブの出身であり、その同期がCBSソニーの邦楽部にいることから、同社からセカンドアルバムの話が持ち込まれてきた。だが、あろうことか、肝心のシュガーベイブの解散が決まってしまう。落胆した牧村だったが、山下にソロアルバムの制作を持ちかける。それもアメリカでの録音を提案した。
 

「ヒットソングの作りかた」牧村憲一著

 

 シュガーベイブのセカンドアルバム制作が突然の解散により白紙になったことで、僕は途方に暮れました。そこで頭を切り替えて、解散コンサートの頃、山下達郎さんと大貫妙子さんそれぞれに「解散後の話だけれど、これまでのレパートリーも含めて、ソロアルバムを作らないか」という提案をしました。


 まず山下さんには、ナイアガラ・レコードからデビューしたとき以上のインパクトを出すために、思い切ってアメリカ録音しないかと提案し、ついてはプロデューサーや、一緒にやりたいミュージシャンを選んでほしいと依頼しました。すると、ほどなくその候補を挙げてくれました。


     (中略)
 

 山下さんにアメリカ録音を提案したのには、理由がありました。それまでも自分の音楽的ルーツとみなされた場所に行ってレコーディングをするという手法はありました。ただ、それはルーツ探し以上に、売れているアーティストとスタッフにボーナスを出す、という意味合いが強かったのです。


 でも、このときの僕らは真剣勝負でした。山下さんの豊かな才能をもっと前面に出したい、メロディ-メイカーとしての資質を証明したい。そうであるならばナイアガラがやらなかったこと、やれなかったことをやろうという思いで、海外レコーディングへと向かったのです。


 このような状況下で、76年3月31日と4月1日、シュガーベイブの解散ライブが東京・荻窪のライブハウスで行なわれることになった。その日が間近に迫った頃、牧村にRCAレコードのディレクター・小杉理宇造から依頼が舞い込んできた。ロック系の新人を探している。誰か紹介してほしいという。

 小杉はグループサウンズの時代、ブルー・シャルムというバンドのドラマーだった。解散後は、武者修行のため渡米して人脈を形成。帰国後は日音(旧 日本音楽出版)で2年勤務し、75年にRCAレコード(RVC株式会社と同義 以下RCAとRVCの混在記述は資料ママ)に入社する。歌謡曲を担当したあと、ロック系の新人アーティスト発掘を試みる。そのため小杉は業界に詳しい関係者に接触を図る。その一人が牧村であった。
 

小杉理宇造インタビュー

 

 牧村さんにもあるアーティストを紹介してもらうことになったんです。それで牧村さんと荻窪ロフトのシュガーベイブ解散コンサートに行ったんですよ。山下君を見たのはそれが初めてで、ものすごく感動したんです。牧村さんは他のアーティストを紹介してくれるって言ってくれたんだけど、僕はシュガーベイブを見て、山下達郎はすごい、ぜひやりたいと思ったんです。でも彼はその時もうほとんどソニーと契約が決まってたんです。でも正式にはしてないらしい」

 

 牧村は著書「ヒットソングの作りかた」において、前述のように、シュガーベイブのセカンドアルバムはCBSソニーから誘いがあったと記している。だが、山下の初ソロアルバムのレコード会社については触れていない。シュガーベイブからの流れで、山下の初ソロアルバムを同社に引き続き依頼するのは自然なことだったが、結局は破談になった配慮から書かなかったと思われる。それが、小杉のインタビュー記事の「もうほとんどソニーと契約が決まってた」であきらかになった。

 つまりは、牧村としては、あくまでCBSソニーとの話を優先しなければならない。小杉に山下を新人アーティストとして紹介するわけにはいかない状況だった。だが小杉にしても、逸材を目の当たりにした以上、引き下がるわけにいかない。CBSソニーと正式な契約がなされていないならまだ可能性はある。小杉は山下の初ソロアルバムを自社RCAで制作させるべく画策することになる。

 

 小杉理宇造インタビュー

 

 とにかく本人に会いたい、と伝えてもらって、山下君が吉田美奈子のインタビューのときにRCAに遊びに来てくれたんです。それで二人きりになって「君をやりたいんだけど」って申し出たんです。でも最初はなんか理屈っぽいことをいろいろ言ってたんですよ。でも話しているうちに、ニューヨークレコーディングをやりたいから、そのお膳立てをしてくれたらやってもいいって事になったんですよ。それから自分のフェイバリットプロデューサーは、チャーリー・カレロで、ベーシストはウィル・リーで、ギターは誰、サックスは誰、ドラムは、と全部指定するんです。僕は全然知らなかったけど、これを用意したらやってくれるっていう答案用紙が出てきちゃったんだから、それをすればいいんだ、じゃあ楽だなと思ったんですよ。

 

 小杉はかつて渡米していた。早速ニューヨークに飛び、大物音楽プロデューサ・チャーリー・カレロとの交渉を成功させ、収録時の実務も引き受け、山下は『CIRCUS TOWN』(76年12月)をリリースすることができた。

 牧村にとっても無事責任を果たすことができたことになる。だがそもそも牧村は他のアーティストを紹介するはずだった。なぜ解散コンサートに小杉を誘ったのだろう。紹介するアーティストが解散コンサートの前座として出演することになっていたのだろうか。そうなら納得できるが、シュガーベイブを観たことがないと言う小杉を軽い気持ちで誘っただけなのだろうか。CBSソニーからデビューすることがほぼ決まっているのに、山下を見せてしまっては「「トンビに油揚げ」ではないか。

 これはあくまで推測だが、牧村は自らが提案したアメリカ録音をCBSソニーにすでに打診していたのではないか。だがよい感触を得られなかったのではないか。牧村は自著でこう綴っている。

 

「ヒットソングの作りかた」牧村憲一著

 

 売れるかどうかもわからないのに海外レコーディングを行い、海外のプロデューサーやアーティストと組むという条件を飲んでくれるレコード会社を探すのは困難に思えました。 しかも山下さんがあげている名前は一流の人たちですから、ギャラも高い。

 

 一般論として述べてはいるものの、CBSソニーとの交渉が難航していたことを示唆しているのは間違いないだろう。そのようなときにRCAの小杉が現れた。あるいは彼ならアメリカ録音を引き受けてくれるかもしれない。だが仁義上、牧村は山下を紹介するわけにはいかない。ならば山下を直接小杉に見せよう。牧村はそう”策略”したのではないか。後のプロデュース活動において、牧村自身が語った”傍証”がある。

 この76年から13年後のこと、牧村は音楽プロデューサーとして小山田圭吾と小沢健二らが結成したフリッパーズ・ギターをデビューさせている。そのポリスターレコードにおいて、レコードの企画制作、プロモーション、そして販促までも仕切ったのが牧村であった。フリッパーズ・ギターは当初はロリポック・ソニックというアマチュアバンドだった。彼らの演奏テープを初めて聴いた印象を牧村が語っている。

 

「小山田圭吾 炎上の嘘  東京五輪騒動の知られざる真相」中原一歩 著

 牧村憲一 談

 

 瞬間的に「これは新しい音」だと思いました。たしかに演奏はつたなく粗削りだった。彼らのことをもっと知りたい。そう思った私は彼らをレコーディングスタジオに招きました。こちらはアーティストの才能を見抜く商売なのですが、一番手っ取り早いのは、そのアーティストがどんな顔をして演奏をしているか。どのように音楽と向き合っているかを直接、見ることでした。

 

 プロデューサーやディレクターは「アーティストを直接見る」ことで才能を見抜くことができると牧村は言う。山下を小杉に見せれば、魅入られることが牧村にはわかっていた。だから解散コンサートに誘った。

 シュガーベイブ解散後はステージ上でその姿を見せることはできなくなる。フォーク歌手ならギター一本で歌えるが、バンドなくして山下の音楽は成立しない。「アーティストがどんな顔をして演奏をしているか。どのように音楽と向き合っているかを直接見せる」ことは今しかないと、解散コンサートに小杉を誘ったのではないか。そして目論見通り、小杉は山下にほれ込み、見事に大仕事をやってのけてくれた。


 だが一方ではこうも思う。ここまであれこれと推測、いや、憶測を述べてきたが、牧村にこのような意図はなかったかもしれない。単純に軽い気持ちで誘っただけだったとも思う。しかしたとえそうであったとしても、そもそもの原点は、牧村がアメリカ録音を勧めたことにあった。国内での収録であれば多額のコストは要らない。山下とCBSソニーとの契約はすんなり成立に至っていたことだろう。そうなれば小杉の出る幕はハナからなかった。

 実際は、小杉は山下に食い込むことができた。これも牧村が山下にアメリカ録音を勧めた、その下地があったからこそだった。小杉は山下からその願いを直接聞き出すや、小躍りするが如く、自らの渡米経験を最大限に生かし説き伏せたことだろう。CBSソニーより優位に立つ強力なアドバンテージを小杉は持っていたのだ。それも牧村の提案あってこそだった。やはり、山下達郎と小杉理宇造の運命において、牧村が果たした役割は決定的だったと思えてならない。

 小杉はその後もRVCにおいて山下を担当。資料にそれは「二人三脚」と表現されている。だが山下にとって苦闘の年月となった。初ソロ『CIRCUS TOWN』は当時の音楽シーンには受け入れられず、出すアルバムの売上はどれも低迷し、山下は作曲家などの転身も考えている。しかし80年のシングル『『RIDE ON TIME』が大ヒット。一気にスターダムにのし上がることになった。



竹内まりや

 牧村はその後、ライブハウスのロフトがビクターレコードにレーベルを設けたことから、その運営を任されることになった。音楽プロデューサーとして、ロフトに出演する凄腕ミュージシャンと新人女性シンガーを組み合わせ、新人歌手の登竜門とし、セッション・アルバム『ロフト・セッションズ』(78年)を制作。その後、起用した4人の女性シンガーはそれぞれソロアルバムを出している。

 ここで牧村が抜擢した一人が竹内まりやだった。「杉真理のバンドでコーラスをやってる子がいる」との情報を得て、そのライブ録音を聴いた。カセットテープは音質が悪かったが、ワンコーラス聴いただけで探していたシンガーだと直感、本人に接触した。まだ大学生だったが、企画を説明するとその場で竹内は了承する。プロになるつもりはなかったが、このアルバムはアマチュアとして参加できる。竹内は二曲を歌い、オリジナル曲に大貫妙子が詞を書き下ろした『ハリウッド・カフェ』と、鈴木茂の『八分音符の詩』をカバーしている。

 牧村はこの歌声を世に広めたいと、同アルバム販売元のビクターレコードに相談する。だが返ってきたのは「どこがいいの?」だった。そもそもビクターはこのアルバム自体に理解はなく、宣伝もろくに行わず、ニューミュージックの支持層に届くことはなかった。当時はまだ歌謡曲が力を持ち、大手芸能プロの後ろ盾がなければ新人の売り出しは難しかった。以降、牧村はビクターとは疎遠になったが、後年ビクターの別セクション担当者にこのいきさつを話すと、「なんということをした」と残念がったという。

 一方、牧村はかねがねRVCレコードの担当者から、「カレン・カーペンターのような声を持つシンガーはいませんか?」と、新人歌手の発掘を求められていた。「カレン、日本にもいるよ」と竹内の声を聴かせると、すぐ「会わせてほしい」と、たちまち話がまとまった。

 だが問題は竹内だった。本人はプロになるとは言っていない。牧村は事務所近くにある青山三丁目の喫茶店で、「それだけの声とセンスがあるなら」と説得にかかった。すると店の窓越しに通りかかったのが大貫妙子だった。「何をしているんですか」と、入ってきた大貫に説明すると、即座に「(デビューは)やめたほうがいい。いいことなんか何一つない」と笑いながらも忠告した。大貫はシュガーベイブ解散後、山下と同様ソロデビューしたものの、これまた売れずにいた。

 このやりとりは78年のことである。大貫は3枚目のソロアルバムも売上不振に陥っていた。このため80年まで活動休止に追い込まれている。牧村は大貫のソロファーストアルバムから関わり続けていたが、その80年、新機軸の”ヨーロッパ路線”を勧める。牧村がプロデューサをつとめたアルバム『ロマンティーク』、『アヴァンチュール』、『クリシェ』はヨーロッパ三部作と呼ばれ、大貫は見事成功を収めることになった。

 さて、苦境にあった大貫からシビアな現実を聞いた竹内だったが、後日「この人たちにデビュー曲を書いてもらえたら」と牧村にリストを見せた。加藤和彦、山下達郎、細野晴臣、杉真理など、大物の名が書き連ねられていた。あるいは断る口実だったかもしれない。だがすべて牧村が知る親しい名ばかりだった。こうして竹内まりやのファーストアルバム『BEGINNING』(78年)が完成。79年にはシングル『SEPTEMBER』がヒットし、人気シンガーとなった。



山下達郎と竹内まりや

 では、結婚することになる、竹内と山下はどのようにして出会ったのか。そのいきさつを竹内自身が語っている。

 

「BRUTUS」山下達郎の音楽履歴書(2022年7月号)
  竹内まりや インタビュー

 

 大学1年の時、渋谷の楽器屋で店頭ライブをやっていたシュガーベイブを聴きに行ったのが、山下達郎を観客として見た最初なんですが、なにしろ第一印象は「暗い人」でした。あんなホップでおしゃれな音楽をやっているのに、ステージ上では表情も歌い方も妙に暗くて、のちのち本人に聞いたところによると、あの頃は世の中を恨んでたそうです(笑)

 

 数年後に、なんとも不思議な運命の導きというのか、大学のアマチュアバンドで歌っていた私が偶然にも彼と同じレコード会社からデビューすることになり、ボーカルチェックのための録音をする日に、たまたま銀座を歩いていたディレクターが達郎とばったり遭遇したので、「ちょうどよかった。君に曲を頼みたい新人が今日歌うからスタジオに来て」と言って連れてきたんですよ!

 

 その日歌う曲リストに彼の楽曲もあったから、めちゃくちゃ緊張して歌ったんですけど、ずっと黙ってていいとも悪いとも言わないし、こう歌いなさいとかのアドバイスもなくて、えらく無愛想だった。「暗い人」という私の第一印象はやっぱり当たってましたよね。これが私たちの実質的な初対面です。そ

 

 その後デビューアルバム用に「夏の恋人」という曲を書いていただいたので、お礼を伝えようと彼が出ていたライブ・イベントの楽屋にスタッフとお邪魔したんですね。「素敵な作品をありがとうございました。もし差し支えなければここに達郎さんのサインをいただいてもいいでしょうか?」と何気なくノートを出したら、そこでお説教が始まってしまって。「あなたもこれからプロとして歌っていく立場なんだから、同業者にサインを求めるなんてことはしちやいけない。僕はそういうの嫌いなんだよ」という厳しいお言葉が……。とっさに「うわ、や~な感じ」とは思ったけど、あとで考えれば、逆にその発言こそが、彼を「信用できるヤツだ」と私に思わせた最初の瞬間でもあったわけです。「ひょっとして、すっげ~いいこと言ってんじゃね?」っておRCAよね(笑)。これ、わりと有名なエピソードなんですけれども。

 

 ここで竹内は、「偶然にも彼と同じレコード会社からデビュー」したと、山下の同じRCAからのデビューを「不思議な運命の導き」と語っている。レコード会社選定まで牧村が関わったかは不明だが、もし関与していたなら、デビューのみならず、竹内と山下の結びつきに決定的な役割を演じたことになる。

 

 竹内と山下に関し、もう一遍、引用文をご紹介する。二人が互いに欠くべからざる存在であることがよくわかる。

 

 

週刊文春
( 1994年7月21日号)
竹内まりや×阿川佐和子対談

    
阿川 山下さんとの出会いは?
竹内 彼が当時やってたシュガーベイヴっていうバンドのファンだったんです。それで、78年にデビューする時に、彼に曲を書いてもらったんです、同じレコード会社だったという関係もあったみたい。
阿川 最初の印象は、お互いにあまり良くなかったとか(笑)。
竹内 悪かった。人に対して絶対に媚を売らない人で。愛想もなければ、お世辞を言うでもないから、なんか壁があったんですよ。向こうはバンドで苦労して必死に食べてる頃たったから、「慶応の学生が軽いノリでレコード出して喜んじゃって」という蔑みもあったんでしょうね(笑)。
阿川 ファンだったのにねえ(笑)。
竹内 音楽はすごく好きだったんですけれど、男として好みだったかどうかはちょっと分かんないな(笑)。初めて会った時、私、手帳を出して「山下さん、サインしていただけますか」って頼んだんです。そうしたら、いきなり怒られましてね。「あなたもプロなんだから、他のプロにサインなんか求めるな」って。
阿川 ますます印象が悪くなった?
竹内 いや、そういうこと言ってくれる入って初めてだったから、逆に心に残るものはあったみたい。
阿川 いつ頃、お互いに打ち解けたんですか。
竹内 決定的なのは、その2、3年後に、私がアン・ルイスに書いた曲のレコーディングを、彼が手伝ってくれた時ですね。初めていろんな話をして、音楽的な尊敬が人間的な尊敬に変わっていって、男として見るようになったんです。そうしたら、いいとこをいろいろ発見して……。(照れて)なぁ~に言ってるんだろう、私(笑)。
阿川 (羨ましそうに)そ~ですか、そ~ですか(笑)。まりやさんにとって山下さんは、ひたすら頼る相手だったんてすか。
竹内 うん。すごく頼もしい相手だった。もともと私はわがままというか自己主張が強い人間だから、それまでは、恋愛しても最終的には男の人を自分の言いなりに持っていっちゃってた。達郎は、それが逆転して、初めて私が言いなりになりたいという男の人だったんです。
阿川 (また羨ましそうに見つめて)フ~ン。
竹内 アハハ、そんなあ(笑)。付き合い始めて二、三ヵ月した頃、週刊誌に嗅ぎ付けられて「熱愛発覚みたいな報道になったんですけど、彼はそういうものと無縁なところで活動してましたから。週刊誌とかスポーツ紙に自分の名前が出るだけで、胃が痛くなっちゃうんですね。「本当のことが書いてあるんだから別にいいじゃない」って言っても、もう眠れないわけ。
阿川 まりやさんは平気だったの?
竹内 私は賞レースなんかで鍛えられてたから、週刊誌とかは全然怖くなくなっていて堂々としてた。向こうは私が自分にない強さを持っているのを見て頼もしかったんじゃないですか。
阿川 全然、全面的に頼ってないじゃないですか(笑)。
竹内 あ、そうか(笑)。弱い部分を補い合える相手だったのかもしれない。

 




山下達郎と小杉理宇造

 2019年、山下達郎は月刊誌のインタビューで、小杉理宇造を語っている。

 

文藝春秋(2019年4月号)

有働由美子対談 山下達郎


   僕には長年のビジネスパートナー(引用注:小杉理宇造)がいて、デビュー当時レコード会社の担当ディレクターだった彼から言われた一言は今でもよく覚えています。僕はソロデビューしてから三年ぐらいはずっと鳴かず飛ばずだったんです。当時のレコード会社は三年ぐらいは先行投資でいろいろプロモーションをやってくれるけど、それ以上たっても売れないと「もう君はいらない」という感じでした。廊下で会社の人に会うと「まだいたの?」と言われる。その時にいろいろ引き合いがあって、違うレコード会社にいこうかという話もあってね。僕がどうするか悩んでいた時に、彼が「金を儲けたいのか?」と。「儲けたいだけならすぐに年収一千万ぐらい稼げるよ。でも、君はそういうことをしたくて音楽を始めたんじゃないでしょう。自分の音楽をどう世に認めてもらいたいかが重要なんでしょう。だったらもう少し頑張ってみようよ」と言われたんです。人に説教された経験はほとんどなかったので、こたえましたよ。その後80年に出したシングル『RIDE ON TIME』がヒットして、82年に彼とレコード会社を設立して、以来四十年ずっと一緒にやっています。あの説教がなかったら、僕はたぶん別のレコード会社に移って、作曲家か何かをやっていたと思うんです。

 

 

運命共同体

 2012年、翌年にデビュー40周年を控えた山下達郎は、情報誌のインタビューにおいて、「これまでの人生において、もっとも運命的だったと思える分岐点は」と問われ、こう答えている。

 

ぴあ 山下達郎超大特集(2012年)

山下達郎インタビュー

 

36年一緒にやってるビジネス・パートナー(引用注:小杉理宇造)に会ったところと、うちの奥さんと結婚したところ。三十数年、3人のトライアングルでずっとやってきましたからね。運命共同体。このふたりとの出会いがなければ、僕の人生はまったく違うものになっていた。

 

 

 

山下達郎ヒストリー


音楽P牧村憲一が導いた

小杉理宇造・竹内まりやとの出会い