吉田拓郎ヒストリー  ~初恋の人から『結婚しようよ』とささやいた三人の妻まで~ その女性遍歴物語 | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

二ヶ月ほど前、テレビに浅田美代子が出ていた。
これまでの半生をふりかえる番組で、深い親交のあった樹木希林の話がメインだった。
元夫である吉田拓郎についても語っていた。
ふたりが別れてから、もう三十余年がたつ。

 

吉田拓郎は、二回目の浅田を含め三回結婚をしている。
デビュー前である大学生のころから、派手な恋愛をくりひろげてきたらしい。
数多くの女性を泣かせてきたのかもしれない。
いらぬお節介だが、彼の生い立ちから始まる、その女性遍歴をたどってみることにした。

ブログ筆者はかつて、拓郎ファンだった。
その歌を聴くようになったのは、大ヒット曲『結婚しようよ』から。
地味なフォークソングではない、華やかなメロディに魅せられた。
彼はまさにこの時期、最初の結婚をしている。


だが三年あまりで別れてしまった。
これを機に自分のファン心理は、徐々にフェードアウトしていった。
離婚に際しての、その身勝手な言動行動に違和感を覚え始めたからだった。

以下でもそのことに触れている。
結構キツく書いている。
一方で、彼の歌を今も聴くことがある。
iTunesには、初期のがいっぱい入っている。
青春期の甘酸っぱい思い出に浸るには、拓郎が一番いい。
そんな者の手による、複雑な一文となる。

彼の恋愛歴や結婚歴を、これほど詳述したものは他にないと思う。
拓郎ファンならすこしは興味を示してもらえるかも。
ご笑読いただければありがたい。



参考引用資料

『気ままな絵日記』吉田拓郎著

『明日に向かって走れ』吉田拓郎著
『俺だけダルセーニョ』吉田拓郎著
『自分の事は棚に上げて』吉田拓郎著
『吉田拓郎 終わりなき日々』田家秀樹著
『豊かなる日々』田家秀樹著
『誰も知らなかったよしだ拓郎』山本コウタロー著

『ぼくらの祭りは終ったのか』富沢一誠著
『準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響』歌詞

『週刊明星』1975年10月
『週刊平凡』1975年10月
『婦人倶楽部』1975年11月
『婦人倶楽部』1977年11月
『週間サンケイ』1984年8月
『週刊明星』1984年8月

『婦人公論』2005年10月
『週刊文春』2008年6月

『すばる』2010年3月

吉田拓郎をめぐる複雑な人間関係
など

 

 





誕生から中学校時代

吉田拓郎は1946年4月5日、現在の鹿児島県伊佐市に生まれた。年の離れた兄と姉がいる。

53年、一家は谷山町(現在の鹿児島市)に移り、拓郎は谷山小学校に入学した。担任は宮崎静子といい、女の子と相撲をとり拓郎が投げ飛ばされると、宮崎先生が医務室までおぶってくれた。そのふくよかな背中に拓郎は淡い恋を感じた。長じてつくった名作『夏休み』の「姉さん先生」は、宮崎先生をモデルとしている。

55年、母は故郷である、広島の盲学校の栄養士兼お茶の先生として働くことになった。このため一家は広島市に移り住んだ。父だけは鹿児島に残り、以来家族とともに暮らすことなく亡くなっている。のちに拓郎はテレビ番組で鹿児島を訪れた際、父にはこの地に女がいたのだろうと語り、自著では兄も相当なプレイボーイだったとしている。

母はやがて栄養士の職を辞し、自宅で茶道教室を開いた。父親不在の家で、兄もすでに東京へ出ていたため、拓郎は同居する祖母、母、姉、そしてお茶の教え子ら、女性たちに囲まれ育った。マザコンの甘えん坊であり、のちの『アキラ』の一節である、「あいつは姉さんともお風呂に入っている」は、中学2年までの自分をモデルとしている。

音楽との出会いは中学2年のときだった。ラジオのヒットパレード番組にかじりつくようになる。中尾ミエにはファンレターを出した。色気づいた拓郎は女優の若尾文子にも憧れた。のちに若尾とドラマでチョイ役で共演することになったが、そのときの照れようは、視ているこちらが恥ずかしくなるほどであった。

同じ中学2年のとき、拓郎は初恋を経験した。同じクラスの子を好きになった。口すらきけぬほどの秘めた恋だった。だがこの思いは別の女の子に見破られてしまい、問い詰められているうちに拓郎は、その子も好きになってしまう。詰問した子は東京からの転校生で垢抜けていた。のちにコンテストでミス・ハイティーンに選ばれたほど可愛かった。姉御肌な性格も拓郎の好みであった。

話すこともなかった初恋の子とは、大学生になってから再会している。一緒にお酒を呑んだ。彼女がチャンスをくれたのだ。しかし拓郎は酔いつぶれてしまい、初恋は成就することなく消え去った。拓郎は「姉御」とも、有名になってから再会している。彼女も東京で水商売を営んでいて、拓郎はその店に何度も足を運んだという。



準ちゃん

話を戻す。拓郎は進学校、県立皆実高校に入学する。母がお祝いにとウクレレを買ってくれた。しかし学校にポピュラー音楽のクラブはなく、写真部に入った。ギターも買ってもらい、中学の同級生らとバンドを結成。文化祭などでビートルズ・ナンバーを披露した。

2年生のとき拓郎は恋をしている。相手は島田準子という1年生で、テニス部のマドンナ的存在だった。彼女にはボーイフレンドがいたのだが、拓郎はかまわずアプローチしている。写真のモデルになってほしいと、部活を悪用して近づいた。しかしいざ撮影となっても、無言でシャッターを押すだけ。暗室で二人きりにもなったが、熱い胸の内を明かすことはなかった。ただただ恥ずかしかった。

それでも燃える恋心から、初めての自作の歌『準ちゃん』をつくった。そして本人に録音テープを聴かせた。しかし「おかしな歌ですね」と言われフラれてしまう。あきらめきれない拓郎は、以降つくった8曲目までがすべて彼女の歌であった。のちにはボブ・ディランのメロディをパクった、『準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響』も書いた。この歌詞には、彼女と会わなければ歌をつくることはなく、歌手にもならなかったとある。それほど準ちゃんの存在は大きかった。古い拓郎ファンにとっても忘れられない伝説の女性である。

準ちゃんに失恋した拓郎は、次々と標的を換えていった。拓郎は気が多くて惚れっぽく醒めやすい。好みは不良っぽい子が多かった。だが結局高校時代は、特定の子と深くつきあわなかった。やはり準ちゃんが一番好きだった。

地元の広島商科大学に入学すると、中学時代の友人らと新しいバンドを組んだ。するとまたたく間に人気が出て、単独公演を開くまでになった。自らの才能に目覚めた拓郎は、東京への進出を試みた。有楽町の渡辺プロダクションに押しかけたり、コンテストに入賞し、レコードデビュー寸前までいったこともある。そして大学を休学して千葉のお寺に居候し、半年もの間、東京の芸能プロに日参を繰り返した。しかしこれらの努力も実ることはなかった。

それでも拓郎は、広島に帰って新バンドを組めば、すぐご当地スターに復帰。大学は経済系のため女子学生は少なくモテなかったが、バンドには親衛隊が結成されるなど、学外の女の子と親密になった。不良女子高生がたむろする場にも頻繁に呼ばれるなど、派手な女性関係を展開している。

まじめなつきあいもあった。市内の有名デパートの、マックスファクターの美容部員とは結婚まで意識した。だが拓郎の母の反対であっけなく終わってしまう。国立の広島大生ともいい線までいったものの、これもダメになった。ほかにも広島商大の同級生、広島女子大生、放送局のアナウンサー、母のお茶の教え子などなど、十指に余る交際を重ねていたという。拓郎はギター教室の講師でもあったが、教え子の女子高生から、「タクローさんは病気ですね」と呆れられている。母はお茶の生徒と結婚させて、嫁に教室を継がせたかった。

以上の情報は拓郎の自著から拾ったものだ。これら恋愛の数は、信じられないほど多い。だが恋の結末はほとんど書かれていない。一方、彼の別の本には、「若いときは日夜恋愛してたね。でも失恋の連続だった」とある。フルのではなく、フラれてばかりだったようだ。拓郎に何か問題があったのか。彼女たちは、他の女性にすぐ目移りする拓郎にあきれて去っていたのかもしれない。学内でモテなかったということは、普段の彼には魅力がなかったのかもしれない。歌う拓郎を好きになっても、恋人としては物足らなかったのかもしれない。


広島での失恋エピソードをひとつ紹介する。ある年のクリスマス・イブのこと、拓郎はある女子大生と喫茶店にいた。そしてよからぬことを企んでいた。これから映画でも観て、お酒を呑んで、それから…と。だが拓郎はコーヒーが飲めない。オレンジジュースしか飲めない。だからデートの雰囲気が出ない。すると彼女が言った。「私、今夜は男の友だちとパーティするから、帰る」。彼女はいきなり立ちあがり去っていった。ひとり残された拓郎は呆然となった。店の外を見ると、一台のクルマが止まり、彼女がひらりと乗りこんでいる。そしてそのクルマ、トヨタマークⅡは走り去っていった。この体験は、デビュー曲『マークⅡ』の元ネタとなった。下心を見抜かれるという、これも拓郎の失恋パターンのひとつだったのだろう。

さて、さきに触れた『準ちゃんが今日の〜』の詞には、彼女との再会シーンが歌われている。拓郎が大学2年の春、ジャズ喫茶で演奏していたときのこと、準ちゃんが突然店に現れたのだ。この日は拓郎の二十歳の誕生日で、彼女はお祝いの花束を手にしていた。歌詞には「ただふたりだけの朝を待つ」とあり、一夜をともにしたことが示唆されている。しかし彼女とは呑み明かしただけで、実際にはなにもなかったらしい。

それから三十余年も後、拓郎はまた彼女との再会を果たしている。テレビの収録で母校皆実高校を訪れていたときのこと。教室に突然準ちゃんが現われたのだ。むろん番組に呼ばれてのことで、拓郎にとってはサプライズだった。拓郎はただ口を開け、呆然としていた。

ブログ筆者はこの放送を見ていた。『準ちゃんが今日の〜』が好きだったから、自分にとっても衝撃シーンだった。準ちゃんのイメージを勝手に膨らませてもいたのだが、しかし画面に映った準ちゃんはいささか強烈だった。

 

着物姿で、いくぶんふっくらとしていて、そして妖艶さをも漂わせる、どこか玄人筋を感じさる人だった。自分が想像していた準ちゃんは、可憐でスレンダーな美少女であった。しかしこれは、のちの拓郎の結婚相手を逆投影していたようだ。

 

さてこの再会は、拓郎にとってもしあわせだったのだろうか。作られた再会劇でもある。思い出は心の隅にそっと残しておきたかったように思えるのだが。



ブレイク前の恋愛

拓郎は先に触れたように、大学在学中に数回プロデビューを図っていた。だがすべて失敗に終わっていた。拓郎はやむなく地元広島での就職の道を選ぶ。ところが突然レコーディングの話が舞い込んできた。これを機に音楽の世界へ再度の挑戦を決意。東京での下積み期を経て、拓郎はスターダムにのし上がっていく。ここではそのブレイク前、上京後の恋愛エピソードを紹介する。

拓郎はある大手出版社の女性編集者と親しくなった。洗練された美しい人で、一緒に街を歩くだけで男たちの嫉妬を感じたという。彼女はひとりでマンション暮らしをしていて、拓郎は週に一度は彼女の部屋を訪れていた。そんなある深夜のこと、部屋に電話がかかってきた。恋人からだった。彼女は話を切り上げようとする。しかし相手は拓郎の気配に気づいた。拓郎は音を立て存在を誇示する。すると男は嫉妬に狂って泣きだした。女のほうもなぜか電話を切らない。深夜のマンションの一室は修羅場と化した。これが後年つくられた歌『あいつの部屋には男がいる』の元ネタである。

駆け出しの頃の拓郎は、曲をかけてもらうため、地方のラジオ局をめぐっていた。そのなかに岩手放送があった。この局には女性のディレクターがいて、彼女は番組が終わると毎回、「拓郎くん、ちょっと呑む?」と岩手の街へ誘ってくれた。すこし年上の人だった。音楽のことなどを語りあい、元旦の午前3時まで呑み明かしたこともあった。この女性をモデルに書いた歌が『雪』だった。歌詞には、雪の夜をふたりで歩く、年上の人への憧れが描かれている。

あの『走れコウタロー』の大ヒットをとばしたのは山本コウタローだが、彼の妻(事実婚)はコウタローと一緒になる前、拓郎に思いを告白しフラれている。この女性はラジオDJや映画評論を仕事としていた。上記のふたりの女性も知的な職業である。拓郎はこの種の女性から好かれるタイプだったのだろうか。アイドル好きの本人とすれば、本意でないモテ方だったかもしれない。

そのせいか本人に言わせると、広島と同様、東京でも女性関係はさっぱりだったという。下記は彼が五十代前半に書いた『もういらない』からの引用である。

 

東京に出てきたら田舎者扱いされた。ちやほやされたことなんてあまりない。やっとこさレコードが売れたりとかして、フォークの何とか(ブログ注:フォーク界のプリンス)と言われただろうけど、ちやほやしてくれたのは俺のファンだけだったからさ。俺の方から女の人に「イヤだ」と言うよりも、むしろ俺の方がいっぱい言われた。「あんな男サイテー」とか「売れているか知らないけれど鼻っ柱だけ強くてヤな男」とか。俺のことをそういう風に言う女が、いっぱいいたと思う。あんまり好かれなかったね。やっぱり、ローカル育ちと言うのはハンディがあるんだよ。東京の女は誇り高いから。俺ってね、東京で成功した後も、女の人にモテモテの環境はゼロなの。周りがそういう環境に置かせてくれない。幸か不幸かわからないんだけど、実に不自由だった。

 

 

 

四角佳子

さてそうは言うものの、拓郎は人気が出る前、最初の伴侶となる四角佳子と出会っている。四角はフォークグループ六文銭のメンバーであり、コンサート会場で拓郎と初めて顔を会わせた。四角はその日が、六文銭に加入して初めての仕事の日だった。前年までアイドル歌手だったのだが、六文銭のリーダー小室等に声をかけられ、フォークの世界に入っていた。

四角の、初対面の拓郎の印象はよくなかった。東京の水にまだなじめない、拓郎の不愛想な態度が原因だった。しかしそれは一目で惚れた思いの裏返しだった。ふたりが恋人関係に進展したのは、拓郎が街中での喧嘩で殴られて血を流し、四角が介抱したことによる。以来仲は急速に深まり、72年6月、軽井沢の聖パウロ教会での結婚式をあげた。

新居は東京・高円寺の2DKのアパートだった。人気に火がついたとはいえ収入は少なく、まだ贅沢な暮らしはできなかった。拓郎は離婚後にこの当時を振りかえっている。「高円寺のころが一番よかった。あのころまでだったな」。蜜月は長くはなかったのだ。

拓郎は結婚前にも相性の違和感を感じてはいたが、四角の女としての魅力が勝っていた。だが一緒に暮らすとなると話は別だった。いわゆる性格の不一致である。ささいなことからケンカが絶えなくなり、拓郎は結婚から半年で離婚を意識したという。亭主関白な夫と、それに反発する妻。ふだんは家で過ごしたい夫と、外出好きな妻。食事の嗜好まで、なにかにつけてふたりは衝突を繰り返した。

それは派手な言い合いではなかった。口をきかなくなる、陰湿なケンカだった。おたがいののしりあえばまだよかったと、拓郎は離婚を公にした深夜放送で語っている。しかしその2年後、雑誌『婦人倶楽部』で語った四角の話は異なる。「盛大な夫婦喧嘩も何回もありました。男の人は、一方的に殴られるときの怖さというのは、絶対に分からないんじゃないかしら」と、暴力を受けたと告白している。

結婚の翌年、大阪の実家に四角が帰ってしまうと、仲人である小室等が迎えに行ったこともあった。同年5月、拓郎は突然、婦女暴行容疑で警察に逮捕されてしまう。公演先で起きた、いわゆる金沢事件である。結局これは被害を訴えた女性の虚偽申告であり、嫌疑は晴れたものの、この事件も夫婦関係に影響を与えたとされる。

大きな波乱があったこの年、四角は妊娠をしている。これについて拓郎は、離婚後に石原信一著『挽歌を撃て』のなかで語っている。「子供は絶対に欲しかったね。子供が生まれたらお互いが変わって、うまくいくと思った」。夫婦は新しい命に一縷の望みを託したのだ。そして長女が生まれると、子はかすがいの言葉通り、お互いが自制するなど、夫婦仲は持ちなおしたようだ。

このころ拓郎は収入が大幅に増え、一気に長者番付に名を連ねるまでになっている。住まいも渋谷区恵比寿にある豪華マンションに移った。しかし経済的に恵まれるようになると、ふたりは浪費を重ねるようになる。こころの隙間を物質欲で満たそうとした。そして75年春、別れ話が具体化し始めた。この時期に表面化した、拓郎と浅田美代子との仲が原因とされる。ふたりは前年に、作曲家と歌手の関係で知りあっていた。

ちなみに拓郎は後年、アイドルへの曲提供についてこう振りかえっている。「それはもう、すっごく楽しかったです。東京へ出てきてから音楽活動で何が楽しかったって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って作業する。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう」。これは2010年、作家の重松清との雑誌対談からの引用である。六十を過ぎてからの、この歓びあふれる口調には、ホントにこの人はアイドルが心底好きだったのだと感心してしまう。

さて交際が発覚した浅田だが、週刊誌に対し、「拓郎さんが好きです。奥さんや子供さんがいてもかまいません。誰が何と言おうと交際をやめません」と臆面もなく語っている。「拓郎さんの奥さんと子供に会ってみたい」と挑発的な言葉も発した。一方の拓郎は、「恋愛感情はない。妹のような存在」と否定した。

しかし同年9月、拓郎はラジオで離婚を発表する。約3年半の結婚生活だった。放送では性格の不一致を強調し、ここでも浅田は無関係とした。だが翌年出た拓郎の自著には、こんな言葉が並んでいる。「僕にとっては、いつも女と恋をしていることこそが、生きている上で最も重要なこと。(中略)かつて久しい間、恋のコの字もしていなかった時期があった。結婚してちょうど二年ほどたった頃だった。それは自分にはカミさんがいるんだから、恋をしてはいけないという潜在意識があったせいかもしれない。そんなこんなで結婚生活そのものに対する疑問も次々に生まれてきた」

かように本音が吐露されているのだが、歌手たるもの、愛や恋を歌うのが仕事であるし、ましてや自らを題材とするシンガーソングライターであることも理解できる。ミュージシャンに一般規範を求めること自体が誤りなのかもしれない。しかし「カミさんがいるけど恋をしたかった」と本にまで書くのは、やはり度を超している。

離婚時まだ幼子だった長女は四角が引き取った。その後彼女は自立するため、東京でブティックを開いた。そしてその際に支援してくれた服飾デザイナーと79年に再婚した。彼は80年代のDCブランドブームではその立役者となり、パリやロンドンなどヨーロッパのファッション界でも活躍したほどの人物である。四角が再婚を決めたのは、その温厚な人柄と、長女が懐いたことが大きかったという。ふたりの間には長男も生まれている。

 

しかし2000年、四角が歌手として復帰したころ、別れがあったようだ。ふたたび歌うことは、前夫の世界に戻ることでもある。これが別離の理由だったのかもしれない。つらい決断だったろうが、現在昔の仲間と元気に歌う姿は、いまが一番しあわせのようにも思えてくる。




浅田美代子

四角と別れた翌々年である77年、案の定というべきだろう、拓郎は浅田美代子と再婚した。ハワイ・ワイキキの教会で式を挙げ、浅田は芸能界を引退し家庭に入った。だが7年後、この結婚も破綻してしまう。拓郎にとって二度目となったこの結婚生活はどのような状況だったのだろうか。

浅田との離婚に至ったあと、拓郎が明石家さんまに洩らした言葉がある。「あいつとはさ、最初の一年は楽しかったんだよ。でもね、二年目からはさ、頭がおかしくなりそうになったんだよ。その気持ち、さんまちゃんならわかるよねぇ」。飽き性の拓郎にとっては四角のときと同様、一年が限界だったのだろうか。だが「頭がおかしくなる」とはどういう意味なのか。

さんま絡みで考えてみる。のちに浅田はさんまのバラエティ番組で「天然ぶり」を発揮しているが、このキャラは素であるようだ。しかしテレビだけならいい。実生活の伴侶に、日々天然を繰り返されては、夫としては笑えない話となる。拓郎の言葉の真意は、案外こんなところかもしれない。

吉田拓郎という人は、女性関係はともかく、生活習慣は結構まじめなのだと聞く。身辺の整理整頓は常に行き届いているという。かたや美代子はそうではないらしい。こんなところからも、夫婦関係の軋みが始まったのかもしれない。

しかし一方で拓郎は、やはり破天荒な人であった。コンサートツアーが終わって東京に帰ってきても、その足で仲間と銀座へ直行するなど、相変わらず自分勝手な行動を常としていた。華やかな芸能界から引退した、それも二十代前半の妻としては、やはり我慢できないことであったろう。

当時の拓郎は、激動の時期でもあった。フォーライフ・レコードの社長に就き、潰れかけた会社の立てなおしに奔走していた。自身のアーティスト活動においても、最盛期は過ぎていた。若くして頂点に達した者が堕ちてゆく恐怖は、耐えがたいことであったろう。四角が絶頂期の拓郎をうまく御しきれなかったと同様、美代子も苦しむ夫を支えきれなかったと思われる。

浅田の両親はこの結婚に猛反対していた。しかし浅田と親しい女優樹木希林らの説得に翻意し、父はハワイの結婚式では感涙にむせんでいた。しかし杞憂は当たってしまった。娘が離婚となったとき、父はそれまでにも危機があったと週刊誌に洩らしている。拓郎には幾度となく女性の噂が立っていた。浅田はいわば略奪婚だったゆえ、因果応報の報いでもあるのだが。

83年6月、拓郎は女優の森下愛子とのデート現場をテレビ局に直撃される。このとき拓郎は「男と女のことだ。先のことはわからない」と開き直った。直後、浅田は芸能界に復帰。そして仕事のためと称し、ひとり横浜の家を出て、六本木のマンションでの別居生活を始めた。出演が決まったテレビドラマのタイトルは『もういちど結婚』という、意味深なものだった。そして翌年7月、離婚となった。

離婚発表の記者会見には拓郎がひとりで臨んだ。「離婚しないですむ方法はないかと真剣に話し合った。子供をつくったら、ということも考えたが」「いい家もあるし、いい女房もいる。不満はないはずなのに、結局わがままなんですよ」「家庭におさまるには自分は若造すぎる」「最近いい曲も書けんし、もの作りするには家庭があってはいかんと思った。これからお互い自由に気兼ねなく会いたい。離婚したあとはいい曲が書けそうだ」

そして同年の自著では、「僕は恋をしたいと思います。やはり恋をしたいのです。いつでも、どこでもです。そのまま狂って死ぬなら、これはまた本望であります」。このときの拓郎は38歳である。年齢からして、会見を含むこれらの言葉に共感できる人がいるとは思えない。再々婚してからの、五十代に至ってからの自著でもこう綴っている。

 

俺は女のことに関しては、ルーズだよ。非常に決めらんない。他のことはしっかりするけれど、女に関してはダメだね。それこそ、そのときの流れで「え~い結婚だ、結婚!」つて。寂しがり屋だからね、常にそばにパートナーがいて欲しいんだよね。それが恋人でもいいし。俺は「すぐ結婚しちゃえ!」になるんだよね。病気。病気だと思うよ。俺は結婚式が好き(笑)。

結婚ってのは不動産を買うのと一緒で、そのときやんないと終わっちゃうんだよな。つまり、買いどきとか、時期があると思うんだ。旬だね。ただ単に「このマンション買うか」「結婚するか」って、あまり意味がなくてね。たぶん、そのぐらいのことだと思う。大きな意味はない。大きな意味を持ってくるのは、一緒に過ごした時間が何時間あるか、何年続くかってことでしょ? マンション買っても、そこでずっと暮らせるか?ってことでしょ。同じじゃないかな、不動産と。ちょっと極論だけどな。

 

極論と断りながらも、結婚と不動産購入が同義と言うのだからすごい。拓郎はモテなかったと自嘲しているが、こういう軽い考えや本性を女性は見抜いていたのだろう。



森下愛子

86年、40歳の拓郎は28歳の森下愛子と再々婚した。それから早33年が過ぎ、現在に至っている。二年にわたり続き、今年終了したラジオ番組『ラジオでナイト』で、拓郎は再三にわたり妻のことを話題にしていた。仲睦まじいご様子は何よりで、波瀾万丈であった前半生から一転、穏やかな日々を過ごしているようだ。さすがの女癖もいまや影も形もないようである。むしろ妻の方が、サッカーの遠藤保仁、あるいは米津玄師にご執心だとこぼすなど、守勢が逆転した様相には思わず笑ってしまった。

さて果たしてこの歳月、ふたりはどのような夫婦生活をおくってきたのか。結婚から約20年経った2005年の時点ではあるが、森下は雑誌『婦人公論』に手記を寄せている。ふたりの出会いから始まり、当初は不協和音があったこと、そして自身の不調、拓郎の肺がんの闘病など、夫婦の内情が語られている。

これによると、森下が23歳のとき、拓郎のラジオの番組に招かれたのが初対面だったという。浅田との結婚期間6年のうちの3年目のことで、例によって、拓郎の下心いっぱいのオファーだったのだろう。森下も周囲から忠告されたという。拓郎も警戒心を抱かせないためか、スタジオには小室等を同席させていた。

前述の通り、小室は拓郎にとって、四角と出会うきっかけをつくった人であり、仲人でもあった。そして拓郎は浅田を酒の席に初めて誘ったとき、「小室さんも一緒だから」とウソをつき安心させている。加えて森下のときも、同じパターンで小室をダシに使ったことになる。つまり小室は結果的にだが、拓郎のすべての結婚に関わってしまったのだ。最初の仲人にこのような役回りをさせる拓郎という人は、やはり普通ではない。

一方の小室はどうだろう。浅田のときは勝手に名前を使われただけだが、森下のときは拓郎の狙いを承知のうえで同席したのかもしれない。愛弟子といっていい四角との結婚を破綻させた、浅田への意趣返しだったとは、深読みが過ぎるだろうか。

話を戻す。ラジオに出演してから2年後のこと、森下は拓郎と偶然美容院で再会した。拓郎は頭にカールを巻いていて、森下はスッピンだったが、ふたりの仲は一気に深まることとなった。拓郎にはまだ浅田という妻がいたのだが、手記で森下はそのことにスルーしながらも、こう言い訳している。

 

(美容院で)レコーディングに誘われました。普通なら絶対に行きませんが、当時はお互いさびしい時期だったようで、つい行っちゃたんです。それがきっかけで会うようになりましたが、友達のような関係の時期が長くて……

 

やがてふたりは結婚。だがそれは平穏なスタートではなかったようだ。育った環境も違えば好みも違ったと森下は言う。年齢差のギャップも大きく、驚いたりぶつかったりの連続だった。おまけに森下は感情をストレートに出すタイプで、よく拓郎に当たり散らした。

森下の精神状態はさらに悪化する。結婚後仕事をやめた彼女は専業主婦の生活に耐えられなくなり、一種のうつ状態に陥ってしまったのだ。薬を飲んでも効かない。結局医者のすすめもあり、住んでいた逗子から東京に引っ越し、森下は仕事に復帰した。すると体調は劇的に回復することとなった。仕事が唯一のクスリだった。

森下のこの不調は実に十年にも及んでいた。つまり拓郎は結婚してからずっと、彼女の生来の性格に加え、心の病とも相対していたことになる。だが拓郎は逃げも怒りもせず、真正面から森下を受け止めたという。いや、まったく逃げなかったわけではないが、森下が追いかけ、そうはさせなかった。拓郎も辛抱強くなったものだ。これを性格が変わったとみるべきか、加齢がそうさせたのか、森下ともダメなら三回もの失敗になってしまうから、じっと耐え、我慢に我慢を重ねたのか。

森下の手記は、タイトルが「吉田拓郎と20年、今が一番アツい二人です」となっている。つまり当初からキツい状況が続いたものの、拓郎が罹った肺がんの闘病も乗り越え、とても仲のいい夫婦になったという、のろけ話が基調となっている。円満だからこそ書かれた手記である。だが一方で森下は、拓郎を尻に敷いていることも強調している。

 

夫に言わせると、私は年々強くなっているようです。よく「お前こんなに恐かったか?」なんて言ってますから(笑)。新婚当時と立場が逆転したみたいですが、好きな仕事も再開したし、「前みたいに彼に合わせるのはやめた。元の私で行こう!」つて開き直っちゃったら、どんどんパワーがつきました。やっぱり、私、強くなったのかしら?たとえケンカしても、明るいというか……。うちも、いまだに衝突はします。私はたまに「もう、大嫌い!」と思うときがあるし、あっちだって、いつだったか私のこと「首、絞めたくなる」って言ってました。(笑)

 

拓郎が森下について言及した活字も紹介しておく。結婚から4年目の自著に、初めて彼女と出会ったころの印象が記されている。

 

森下愛子という女優は、そりゃあ神秘的だった。口数も少なく、そばに置いておくだけで充分と思えたものだ。それ以後のことはもう言わない。言えることは、今でも当時のイメージを追い求めているという現実だ。

 

結婚から14年後の拓郎の本では、上の言葉よりさらに「深化」した、一種の達観ともいうべき言葉が並んでいる。

 

うちの奥さんがベストパートナーと思えた瞬間ってのは、もしかするといまかもしれない。あの人がいないと困るね。単純に愛妻家とか、そういうのじゃないんだけど。いまは恋愛時代の熱いものとは無関係の時代に入っちゃったからね。結婚生活はふたりの作品だから。ふたりで「日常」という作品を作ってるから、何年何十年とね。日一日作っていくわけでしよ、日常ってヤツをテーマにして。

 

どこかあきらめともとれる、しかし穏やかな日々をも感じさせる一節だ。だがこの本が出た翌年から、病魔が拓郎を次々と襲うことになる。03年に肺がんの手術をおこない、肺の3分の1を切除。07年からは長期に及ぶ体調不良に陥り、同年および09年は公演を中止する事態となった。そして今年3月の『ラジオでナイト』では、14年に咽頭がんに罹っていたことを明らかにした。

ラジオでのこの告白では、彼のいつもの快活な口調が沈んでいた。手術のあとも闘病生活が半年にも及ぶこととなり、その治療は筆舌に尽くしがたい苦しいものであったという。それを支えてくれたのが森下であった。拓郎は声を詰まらせながら、妻への感謝を語っている。

 

多分、ぼくはその時、もう歌えない、というふうに何度も思いました。うちのやつが、かみさんがですね、黙々と日常生活を送りながら静かにぼくを支えてくれて、「必ず完治するから。1日、1日だから」と、ぼくを励ましてくれました。痛みで食べ物がのどを通らないので、毎日おかゆを作ってくれて・・・

 

ブログ筆者は、この病からの二年後、四十年ぶりかの拓郎のコンサートに行っている。だが知らぬ歌ばかりだった。もう彼を見ることはないだろうと思った。ところが今年、ダメ元のチケットがまた手に入り、遠路はるばる浜松まで出かけていった。ステージには老いたりとはいえ、二時間にもわたり立ちっぱなしで熱唱する拓郎の姿があった。新曲『運命のツイスト』では、文字通り軽やかにツイストをしていた。いい歌だ。そんな彼を拝むことができたのも、森下のおかげということになる。

結婚なんて愛や恋なんかじゃない、忍耐であるとは、我が友人が吐いた「名言」である。それはブログ筆者も身にしみて知っている。そして今は妻に感謝する日々である。人生の先輩に、わが青春のカリスマにたいへん失礼なのではあるが、拓郎サンもようやくその境地に達することができたことになる。長い波乱に満ちた、遠回りの歳月ではあったけれど。

さて今日の、この夫婦はどうような様子なのかも気になる。同じく『ラジオでナイト』での、拓郎の、七十代としての言葉も採録してみた。

 

うちの佳代(森下の本名)は料理をうまく作れないと、機嫌が悪くなる。むかし加藤和彦が家に遊びにきたとき、結婚前だったが、佳代がご飯を作りに来てくれた。そして鳥のももを焼いてくれたのだが、加藤が「拓郎、鳥ってこんなに赤いか?」と不審がった。あまり焼けてなかったのだ。うちのヤツはこういうことがあると、とたんに機嫌が悪くなる。ふくれる。うちの人はとても欠点が多い。それが直らない。すぐ怒る。短気。かんしゃくもち。家内のお母さんもかんしゃくもちだった。だから三人で逗子に住んでいた7年間、この親子喧嘩がはじまると、俺は二階に逃げた。仲裁に入ろうにも怖くて怖くて、あまりにも激しすぎる喧嘩だった。母娘でののしりあいが始まると、僕はただひたすら沈静化するのを待った。こういうときの吉田拓郎を想像してくれよ。あるとき、山下達郎が家内に説教してくれた。「あなたねぇ、あなたの旦那さんを、誰だと思ってるんですか。天下の吉田拓郎さんですよ」。

 

話自体はかなり以前のできごとのようだ。しかし直近の拓郎がかように「グチる」ということは、森下の性格は相変わらずということなのだろう。むろんこれらのような局面は、ふたりの関係性のごくごく一部ではあろうが、エキセントリックな森下に拓郎はよく耐えているものだと感心してしまう。同時に、音楽界の頂点にかつて君臨したスーパースターが、家の中で逃げ回っていたとは、笑えない、ちょっと悲しい話ではある。

森下愛子の本名佳代は、最初の結婚相手佳子と、二回目の美代子の字が重なる。おまけに佳代の母の名は美代子という。これは拓郎自身が発した自虐ネタ、「美代子の呪い」なのだが、吉田佳代という人に、四角佳子と浅田美代子が「憑依して意趣返し」しているとするならば、これはあまりにも出来過ぎである。

さて冗談はともかく、最期に、二度にもわたった自身の離婚に関して、拓郎が語った言葉を紹介させていただく。彼の若かりしころの軽すぎるそれらとは異なる、六十代前半における重い言葉である。2010年の田家秀樹著『吉田拓郎 終わりなき日々』からの引用である。

 

離婚の原因? なんで1回目が離婚になって、2回目も離婚になって、なんで3回目の奥さんと20年もやっていられるかって、それはやっぱり理由があるよ。離婚に関して原因を詳しく述べるのは相手がいることだから問題がある。ただそういうことによる、離婚やら何かによる自分の挫折感というような事は語ったことがないけど、心の中ではあるよ、いっぱい。人生の中で挫折はなんだっていったら、離婚だよ、僕は。がんの手術よりも、やっぱり離婚は挫折ですよ。あれは無いに越した事は無いですよ。何か挫折したことがあるかと言ったら。つまり、この人とはうまくやれなかったっていう、非常に問題点が残っているわけだな。自分の問題点と、自分の反省点とか、後悔とかが残っているわけですよね。で、2度もやっているわけだから、それは僕の人生の中では大きな負の要素だった。なきゃないで、こんなに良い事はないと思うんだけど、やっぱり大きな挫折を味わっているからね。そうすると、やっぱり3度目はうまくいくっていう。それは、その挫折によって勉強しているわけだから。

 

 

吉田拓郎ヒストリー

 

 

 

ブログ後記

当稿の冒頭で触れた浅田美代子だが、テレビ出演の際に彼女は、離婚後の経済的な苦境を告白していた。これを聞いて、吉田拓郎の女性遍歴を書こうと思い至った。すこし長くなるが、もうすこしだけお付き合いください。

 

 

番組で浅田が語っていた。当時の女優は離婚をすると薄幸のイメージがついてしまい、オファーがその類いに偏りがちになったという。彼女はこれを嫌い仕事を断り続けた。そのためついには、母親に家賃代まで借りることになってしまった。浅田は2008年の週刊誌の対談でも、「(離婚後)仕事は喉から手が出るほどほしかったけど、我慢しました。母親に借金してまで高い洋服を買っていた」と告白している。

じつは浅田の両親も、娘の婚姻中に離婚をしていた。父は東京麻布で祖父の代からの自動車修理工場を営んでいたから、母にはそれ相応の財産分与があったのだろう。だが家賃が払えぬほどの困窮とは尋常ではない。Wikipediaによると、浅田は芸能界に復帰後、長期にわたりさしたる仕事をしていない。さんまの『からくりテレビ』出演は92年から、映画『釣りバカ日誌』での役がヒットしたのは94年であるから、84年の離婚からの間に、蓄えを使い果たしてしまったようだ。

だが浅田は拓郎から多額の慰謝料をもらっていた。拓郎は離婚時の全財産を彼女にあげていたのだ。彼は五十代半ばの自著で、半ばワルぶりながらもこう綴っている。

 

離婚するときに全財産やっちゃって、次へ行く。それは、力ッコいいことじゃないんだよ。それは自分のためなんだ。自分の保身。自分を守るために「全財産あげる」と。それを半々にしちゃったら、自分が情けない。全部あげて「申し訳ありませんでした」と。とりあえずアポロジャイズ。許しを請うんだよ。離婚では俺もいっぱい勉強させてもらったよ。

 

下世話な話を続けて恐縮だが、当時の拓郎にはいかほどの財産があったのか。それを推し量る資料がある。音楽評論家の富沢一誠が84年に書いた『ぼくらの祭りは終ったのか』に、当時のミュージシャンたちの年収推移表が載っているのだ。今なら考えられない資料なのだが、当時は国税局から高額所得者番付が毎年発表されていたので、作成が可能だった。そしてこの表は、72年の四角との結婚から84年の浅田との離婚に至るまでの期間にほぼ対応している。

 

下にその表を数パターンに加工してアップしておいたが、ここでの拓郎のデータは興味深い。フォーク・ロック界の先陣を切って番付トップに躍り出て、その後は他のミュージシャンの後塵を拝することになっても、金額的にはトップであった年よりも多くなっている。そして十年以上も人気を保っていた。かたやわずか一年で消えていった者たちも多い。栄枯盛衰を絵に描いたような厳しい世界にあって、拓郎はこんなにもがんばっていたのかと今更ながら思う。(ただし拓郎の名は74年にはない。前年の金沢事件の余波だろうか。前後年がトップなのに、この点はすこし解せない表ではあるが・・)

それはさておき、この表の、浅田が結婚した77年から離婚の前年83年までを集計すれば、離婚時の拓郎の財産がおおよそ推定できることになる。支出や税金はわからぬが、総計のおよそ半分弱ほどが財産となり、これらの多くが浅田に渡ったのだろうか。

 

当時の週刊誌には、浅田は別居時の六本木のマンションも譲り受けたとあった。つまり浅田がのちに家賃にも困窮したことは、慰謝料を使い果たし、マンションまでも売り払っていたことになる。拓郎は「美代子には一生困らない程度の慰謝料をあげた」とも語っているのだが、浅田の仕事の選択方針と、女優の体面を保つ華奢な生活の前には、それらは跡形もなく消え去ってしまったようだ。

だがブログ筆者がここで言いたかったのは、浅田のことではない。吉田拓郎という人は女癖は悪かったものの、離婚という一大事においては、相手に最大限の補償をしていたということ。トップクラスを長年突っ走って築いた財産すべてを、惜しげもなく譲っていた。そのことが言いたかった。

さんざんその女性遍歴をあげつらっておいて、あるいはその人間性までをもあしざまに非難しておいて今さらなのではあるが、彼の最後の局面においての、その思いやり、男気だけは評価したいと思う。そうしなければ、あの『準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響』を聴いて心揺り動かされた、十代半ばの自分は何だったとさえ思ってしまう。

ブログ筆者のiTunes約千曲のなかには、『結婚しようよ』も入っている。だがランダム再生でこの歌が流れだしても、いつも心にひっかかりを感じてしまう。別れたおけいこと四角佳子に捧げられた歌だからだ。むろん削除してもいいのだが、拓郎の歌を初めて知った原点を消し去ることはやはりできない。本人も老境にいたり過去を悔いている。この歌を聴いて複雑な思いを抱くのは、彼の歌に魅せられた者にとって、ある意味当然のことだろう。おけいと拓郎の婚姻期間は自分の拓郎ファン期と重なる。おけいにもシンパシーに感じる者として、やはり『結婚しようよ』はこれからも聴き続けていくことになると思う。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。