森鴎外の恋人エリス発見への軌跡 ~六草いちか著『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』ダイジェスト版~ | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

ご存じ小説『舞姫』は、明治の文豪、森鴎外の処女作です。主人公のモデルは鴎外自身で、恋人のエリスも実在の人とされます。鴎外のベルリン留学の際、恋仲となったドイツ人女性です。

彼女は帰国する鴎外のあとを追い、来日しています。東の果ての、異国の地で添いとげるためです。しかし鴎外の家族は驚き結婚に猛反対します。哀れな彼女はひとり、ドイツへ送り返されてしまいました。この悲劇の女性はいかなる人だったのか。幾多の「鴎外研究者」たちが長年にわたり、その素性をあきらかにすべく努力を重ねてきました。しかし決定的な説は生まれませんでした。

ところがいまから8年前、ベルリン在住の日本人女性により、その謎が解き明かされました。『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の著者である、六草いちか氏です。氏は雑誌や専門誌へ寄稿する、ライターを職業としています。いわばプロの物書きなのですが、エリス探しは偶然のきっかけから始めました。そして持ち前の粘り強い調査力で、みごとその女性にたどりついたのです。

ブログ筆者はこの本を、さしたる期待もなく手に取りました。しかし読み進めるにつれ、そのおもしろさにぐいぐいと惹きこまれてしまいました。緻密な推理の積み重ねは、あたかも上質のサスペンス小説のようです。一方、いくつもの幸運が舞い降りてくる展開は、とてもドラマチックです。また、女性をめぐり右往左往する、鴎外の親族らの人間模様も読み応えがあります。


ただ自分は、鴎外の知識がほとんどありませんでした。そのため一読しただけでは、内容を充分に理解したとは言えず、よって再読の際は、メモをとりながらの読み込みとなりました。以下の拙文はそれを文章化したものです。いわばダイジェスト版となります。

むろん本書には遠く及ばない代物です。単なるあらすじに、すこしボリュームアップを施した程度のものです。本書の随所にちりばめられている、魅力的なサイドエピソードも、すべて割愛しています。それでも六草氏がたどった探求の道筋だけは、できるかぎり織り込んだつもりです。エリスや鴎外に興味のある方なら、すこしはお楽しみいただけると思います。お暇つぶしにご一読いただければ幸いです。



(補足 本書は一人称で書かれていますが、ここでは三人称に改めています)

 

 

 

 

 

 

プロローグ

森鴎外こと森林太郞は、1862年、現在の島根県津和野町に生まれた。幼きころから神童の誉れ高く、年齢を偽り、11歳で東京医学校(東大医学部)に入学。19歳のとき、二十代の同級生をしのぐトップクラスの成績で卒業し、陸軍省に入省した。軍医となった林太郞は1884年、派遣留学生としてドイツへ旅立つ。ベルリンなどに4年滞在したのち帰朝した。以降、軍医として勤務のかたわら文芸活動も始め、森鴎外として名が知られてゆく。『舞姫』では、法律を学ぶ日本人留学生と踊り子の悲恋話を描いた。

 

舞台はベルリン。留学して三年の月日が経ったある日の夕方、主人公である太田豊太郎は下宿へ帰る途中、閉ざされた教会の扉にすがり涙に暮れる少女エリスに出会う。家が貧しく父の葬儀代にも困窮したエリスを助けたことで、二人の交際が始まる。これが同胞の妬みを買い、豊太郎は免官へと追いやられる。そこへ母の訃報が舞い込み、母ひとり子ひとりで育った豊太郎は、故郷によりどころを失いベルリンに残ることを決意。親友の伝で新聞記者の仕事を得て、エリスと暮らし始める。二人の暮らしは、踊り子であるエリスの薄給を足して何とか成り立つ生活。それでも最初の頃は楽しい日々だった。しかし学問から遠ざかる苦悩が豊太郎の精神を荒廃させる。さらにはエリスが妊娠して踊れなくなった生活苦が、二人を追い詰める。そこに日本から洋行してきた親友によって転機がもたらされ、このチャンスに豊太郎は思わず乗り、日本へ帰っていく。発狂したエリスを置き去りにして。

 

『舞姫』は発表されるや、大きな反響を呼んだ。しかし小説ゆえ、実際の鴎外とは無関係のはずであった。ところが鴎外にはドイツで知り合った恋人がいた。彼女は鴎外帰朝の4日後、別の船で横浜港に降り立ったのだ。鴎外の家族は大いに驚いた。親族や友人も巻きこむ騒動となり、約一ヶ月の後、女性は追い立てられるように日本を去っていった。鴎外はほどなく日本人女性と結婚し子ももうけたが、彼女への恋慕の思いは終生変わらなかったとされる。

この悲劇のドイツ人女性の名が判明したのは1981年のこと。明治期に、横浜では英字新聞が発行されていて、その記事の海外航路乗船名簿が発見されたのだ。女性が来日していた月日は、鴎外の義弟の日記などより判明していたことから、明らかになった。その名は「Elise Wiegert/エリーゼ・ヴィーゲルト」。舞姫でのエリス・ワイゲルトと酷似してることからも、この女性がエリスのモデルであるとされる。



きっかけ

ベルリンに住む六草いちかは、知人のそのまた知人にさそわれ、「射撃訓練の会」に参加した。射撃の名手による催しで、いわば素人ピストル体験会だった。著述家の六草はピストルになぞ興味はない。しかし知人には仕事での恩義があり、やむなく出かけた。「訓練」は無事終わり、その流れで参加者たちは、近くのビール酒場に立ち寄ることになった。

その店はかつて存在し、第二次世界大戦の爆撃で崩壊した、アンハルタ―という駅のすぐ近くにあった。にぎわう店内には、当時をしのぶ駅舎の写真があった。するとひとりが「あの鴎外もこの店に来たことがあるんですよ」と、森鴎外の『舞姫』を口にした。そしてしばしの舞姫談義が始まった。

そのとき六草のとなりには、同じ会に参加していた若いドイツ人男性が座っていた。舞姫の話がひと段落すると、彼が六草にささやいた。「オーガイという軍医、その人の恋人は、僕のおばあちゃんの踊りの先生だった」と。祖母はバレエのダンサーで、教えてもらっていた先生が昔日本人軍医とつきあっていて、日本に行ったことがあるというのだ。


六草は開いた口がふさがらなかった。幾多の「鴎外研究者」が探し求めていた、あのエリスがいきなり目の前に現れたのだ。じつは六草は二年ほど前、鴎外に関する「マイブーム」があった。小説はもとより、鴎外に関する研究書や、エリス関連の本などを読み込んでいた。

半信半疑ながらも六草は、日をあらためて彼と会うことにした。くわしく聞きたかった。だが話が要領を得ない。そこで彼の祖母などの出生証明書をとりよせたり、墓地までも出かけて調べた。結果、彼の思い違いだということがわかった。しかし六草はこれをきっかけとし、本格的にエリス探しを始めることとなる。何ら当てはなかったが、六草にはこれまでの研究者にはない、ドイツ在住歴二十年の強みがあった。



エリスの教会と劇場をさがす

六草はまず、豊太郎とエリスがはじめて出会った教会を探ることにした。『舞姫』の登場人物名は林太郎を豊太郎に置き換えるなど、似せてはあるが実名ではない。一方地名などは、実在の名が使われている。だがエリスがいた教会の名は書かれていない。六草は数ある候補から、聖マリア教会が条件に合うと考えた。

一方、エリスはヴィクトリア座の踊り子と書かれている。鴎外の時代、ベルリンには「ヴィクトリア劇場」が実在していた。エリーゼは、実際にこの劇場で踊っていたのかもしれない。六草は作中の描写と当時の地図から、鴎外の下宿と聖マリア教会とヴィクトリア劇場の位置関係を検討した。しかし劇場の位置が描写と合わない。すると地図には条件に合う、「ヴァリエテ劇場」なる別の建物があった。調べる価値があるかもしれない。六草は劇場資料の閲覧が可能かどうか、市立博物館に問い合わせのメールを送った。



エリスを住所帳でさがす

次に六草は、鴎外の時代の「住所帳」をあたることとした。ベルリンの多くの公的資料は戦火で失われているが、住所帳は現存していた。さらに現在はインターネットでの閲覧が可能になっている。だが住所帳には、家屋の所有者および賃貸契約者のみが掲載され、扶養家族は掲載されない。エリーゼの扶養者であろう父親の存在を信じ、ヴィーゲルト姓を探すことにした。

まずは住所帳の、1888年版を開いた。エリーゼが来日した年である。するとヴィーゲルト姓は一件のみの掲載で、その職業はシュナイダーとあった。エリスの父の生業は仕立物師となっている。つまりシュナイダーは仕立物師なのだ。いきなり興味深い記録に出会った。

しかし実はこの調査はすでに先人がおこなっていた。植木哲の著書『森鴎外 舞姫のエリス』にこの記述があった。植木はこのヴィーゲルトの娘にあたるルイーゼなる少女を発見し、エリーゼ=ルイーゼ説を打ち出していたのだ。だがエリスはエリーゼであることから、この説は支持されなかった。



帽子会社

六草は、鴎外の妹喜美子が書いた、『森於菟に』という一文に着目した。森於菟とは、エリーゼの帰国後に、鴎外が日本人女性と結婚してできた長男である。喜美子は鴎外の死の12年後に、甥である於菟にあてた形で、亡兄の帰国後の騒動について雑誌に寄稿していた。六草はその一節が気になった。

鴎外とエリーゼは、彼女が帰国してからも手紙を取り交わしていた。手紙は公にされることなく、鴎外が晩年、すべてを焼却してしまっていた。しかし喜美子は鴎外から、その内容を打ち明けられていたらしい。エリーゼの帰国後の様子と思われる一節が、喜美子の寄稿文のなかにあった。

 

…帰って帽子会社の意匠部に勤める…

 

この前後にも、むろん文は続いている。だが文意がはっきりしない。六草は仔細をかまわず、エリーゼが帰国後、帽子会社に勤め始めたとした。ならば自ら生計を立て始めたことになる。賃貸契約をして、どこかに住んでいるはずだ。帰国の十年後なら、下宿人や間借り人としてではなく、エリーゼ自身が世帯主として登録されているかもしれない。六草はパソコンの住所帳をふたたび開いた。1898年版の住所録からヴィーゲルト姓の欄を探した。

アルファベットのW…Wi…Wie…Wiegert

E.,Schneiderin,O Blumenstr.18 IV

 

思わず息を呑んだ。ヴィーゲルト姓の最後尾に、ファーストネームの頭文字が「E」で始まる名があった。そして「Schneiderin」という職業名の語尾変化は、女性名詞であることを表している。なによりもこの職業はなんと「仕立物師」だった。縫製の仕事に就いているということだ。帽子も縫って作るから縫製業といえる。しかしファーストネームがEだけでわからない。そこで翌年である、1899年版を開いた。あった! 思わず声が漏れた。

 

Elise,Schneiderin,O Blumenstr. 18 IV.

 

そこには「Elise=エリーゼ」と、はっきり記されていた。帽子デザイナーとは書かれていないが、喜美子の記述は合っていたのかもしれない。



ルーツィ? モーディスティン?

六草はさらなる確証を得ようと、1899年以降の住所帳も開いていった。すると戸惑うような記述に出会うことになった。1900年版のエリーゼは、住所も姓も変わらぬまま、名前だけが突然「Lucy=ルーツィ」に変わっていたのだ。そして職業も「Modistin=モーディスティン」に変わっていた。さらに1904年には名前がまたエリーゼに戻り、ついには1905年、エリーゼの記載は消えてしまった。

他の町に引っ越したのか。結婚したのか。それよりもなぜ一時期、名前がルーツィを名乗ったのか。モーディスティンという職業に関係があるのか。そもそもモーディスティンとは何なのか。



Wiegert姓

錯綜する情報にとまどう六草は、再度住所帳にあたることにした。作中ではエリスの父親が亡くなって、その葬儀が1885年とされていることから、この年を起点とし、以降の年の住所帳からすべての Wiegert姓を確認することにした。

とはいえ、データは画像である。Wiegert と入力して検索できるわけではない。六草はスキャン画像を一枚一枚めくり、髭文字を解読していった。すると1941年で、ふたたびエリーゼの名が出てきた。しかし職業は仕立物師ではなく、飲食店経営者とある。このまるで異なる職業をもつエリーゼは、同一人物なのか。

六草は手がかりを求めて、ベルリン州公文書館を訪れた。そしてこの仕立物師と飲食店経営者の素性をあきらかにできないかと相談した。公文書館には、戦火による焼失を免れたベルリン市の住民票が保管されている。ただし照会申請には尋ね人の生年月日が必要という。だがエリーゼの生年月日なぞ知るよしもない。それこそが目的なのに。しかし親切な係員は姓名と職業だけの調査依頼を受け入れてくれた。ただし結果が出るには、数週間はかかるという。

この間に六草は、日本から届いた鴎外研究者の本を読み込んだ。すると思いもかけぬ記述があった。六草と同じく、飲食店経営者のエリーゼに着目した先人がいたのだ。さらにはその研究者は、まだ調査当時存在していた飲食店を訪れ、取材までしていた。その結果、経営者の生年月日も判明していた。飲食店のエリーゼは1898年1月21日生まれで、同姓同名のまったくの別人だった。

六草はおおいに落胆した。ここまでの3か月努力を重ねてきたが、一気にすべてが馬鹿らしく思えてきた。飲食店のエリーゼが別人なら、仕立物師のエリーゼも単なる同姓同名かもしれない。



帽子職人

六草は調査をやめることにした。許可が出ていた、ヴァリエテ劇場の資料閲覧をキャンセルしよう。だがそれでは失礼だと思いなおし、まだ調べている体を装い、博物館に車を走らせた。そして職員が用意してくれていた劇場関係の資料に目を通した。やはりそこにエリーゼの名を見つけることはできなかった。

「じゃあ、モーディスティンとは一体どういうことなの?!」と、六草は思わず呟いた。これまでの鬱憤が、つい口に出てしまった。同席してくれていた職員は、いきなり飛び出した関係のない言葉に驚いている。あわてて六草は取りつくろった。「いや、ふと思い出したことがあって…」。すると職員はこう言った。「モーディスティンは帽子を作る人のことよ」。どれくらい時間が経ったのか、六草がやっと口にした言葉は、日本語で「うそ…」だった。

まさかエリーゼの職業が、本当に帽子職人だったとは。ということは、ルーツィとはエリーゼのアトリエの屋号かもしれない。こうして偶然ではあったが、喜美子の証言「…帰って帽子会社の意匠部に勤める…」に一致するエリーゼが、1898~1904年にベルリンに住んでいたことが確認できた。



住民票

一方、数日後ベルリン州公文書館から、照会の結果が届いた。「仕立物師と飲食店経営者のふたりのエリーゼ」が、同一人物かどうかとの依頼であった。しかし飲食店経営者が別人とわかった今、意味のない通知であった。はたしてその回答欄には、「エリーゼ・ヴィーゲルトの記録は見つからなかった」と書かれていた。

六草は思った。この意味は微妙である。ふたつの職業をもつエリーゼ・ヴィーゲルトはいない。あるいは、そもそもエリーゼ・ヴィーゲルトという人は存在しないともとれる。もし前者であれば、帽子職人、あるいは裁縫師などの職業で再申請すれば、今度はヒットするかもしれない。

六草はこの点を確認するため、公文書館に出かけた。調査を担当してくれた女性職員は突然の訪問にも関わらず対応してくれた。疑問を尋ねると結果は、後者の「住民票のなかにエリーゼ・ヴィーゲルトは見つからなかった」だった。聞くと、同館が管理しているデータは、85年間に及ぶ280万件であるという。だが1931年のベルリンだけでも、人口は430万人いた。つまり戦火により、記録のほとんどが失われているのだ。尋ね人を見つけること自体が、奇跡的ということになる。



洗礼記録

がっかりして帰ろうとする六草に、職員がひとりごとのようにつぶやいた。「あとは教会簿ぐらいね…」。キリスト教徒は生まれると、教会で洗礼を受ける。豊太郎とエリスが初めて出会ったのは教会である。ならば教会簿に、エリーゼの洗礼記録が残っているかもしれない。また無駄になるかもしれないが、探さない手はない。

六草はエリスがいた教会を、聖マリア教会だと考えている。聖マリアはプロテスタントであるから、教会簿を調べるならプロテスタント教会公文書館となる。六草は問い合わせのメールを出した。「尋ね人はエリーゼ・ヴィーゲルト、1862~72年の生まれている。出生地は不明。1887年から1904年まではベルリン在住」と書いた。エリーゼの生年はわからないが、この範囲に生まれたなら、鴎外と会った1888年の時点で16~26歳となり、結婚適齢期といえる。しかし返ってきた結果には、ベルリンで洗礼を受けた該当者はいないと書かれていた。

返答には他の調査方法として、婚姻や埋葬の記録を調べることができるとあった。その際には、尋ね人の明確な住所が必要という。六草はエリーゼが住んでいた、ブルーメン通り18番地を書き添え、閲覧申請を出した。この調査は、ネットやメールではできない。公文書館に出向かなければならない。二週間後、許可が下りた。エリーゼの軌跡を求めてここに足を運んだ研究者は、過去にいなっかたという。



婚姻記録 埋葬記録

六草は当日窓口で、ブルーメン通りの管轄教会である、聖マルクス教会のマイクロフィルムシートを借り閲覧を始めた。1898年から1904年の婚姻簿である。慣れぬ機械操作と見にくいモニター画面で、疲労が一気に高まった。一種の船酔い状態になりトイレに駆け込んだ。しかし苦闘の甲斐なく、エリーゼの名を見つけることはできなかった。

次の可能性は葬儀の記録である。エリーゼがブルーメン通りから消えた、1904年前後のシートを借りた。彼女の生年を1860年代後半として、もし1904年の記録に彼女の名が出てきたなら、三十代半ばで亡くなったことになる。そんな若さで死んでいてほしくないと思う。とはいえ死亡記録を探しているのだ。高まる疲労のなか、複雑な気持ちが交差する作業を続けた。しかしエリーゼの名はなかった。

閉館まではまだ時間がある。粘ろう。今度は洗礼記録を調べることにした。洗礼に関しては、すでに該当者なしとのメールをもらっていたが、この目で確かめておきたい。記録にあるヴィーゲルト姓はきわめて少なく、エリーゼと同年代の出生は、わずか三人だけだった。一人は死産した男児で、一人は生後二日で亡くなった女児の記録だった。この二人の記録は文字の判読が難しく詳細がわからない。残りの一人は1868年生まれの、アンナ・アルヴィーネ・クララと書かれていた。これら三人の赤ん坊の記録が、のちにエリーゼ発見のきっかけとなるのだが、むろんこのときの六草には知るよしもなかった。



ガルニゾン教会

六草は視点を変えることにした。鴎外は留学中、下宿を三回変えているのだが、第三の下宿の大家である、ルーシュ夫人が気になりだしたのだ。ルーシュ夫人は当初、鴎外の第二の下宿の近くに住んでいて、洗濯屋を営んでいた。そこに客として来ていた鴎外と知り合い、他の部屋を探していた鴎外に、下宿屋も営む彼女が自室を紹介したとされる。エリス研究者の植木哲は、彼女が鴎外の恋人ではないかとの説を打ち出していた。

六草はルーシュ夫人の住まいを起点に手がかりを得ようと、当時の地図を取り出した。判明している鴎外の第二の下宿から道を辿ると、植木の著書に記された、ルーシュ夫人宅の「ノイエ・フリードリッヒ通り45番地」があった。六草はその周辺に焦点をあわせた。すると45番地のすぐ隣に、ひとつの教会があった。その建物は、周辺の建物にきっちりと、嵌めこまれたように建っている。これを見た六草は、豊太郎とエリスが初めて出会ったシーンを思い出した。エリスが門扉にすがって泣いていた教会は、こう描写されている。

 

クロステル巷の古寺の前に来ぬ。(中略)凹字の形に引籠みて立てられたる、(中略)鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。

 

じつはこの記述は草稿の段階では、「凹字の形に横に引籠みて立てられたる」であった。鴎外はこの「横に」を、最終稿では割愛していたのだが、六草は草稿を研究者の本で知っていた。六草が目にしている地図の教会は、「道を平行に横長」に建っていた。鴎外とエリーゼの教会はここだ! 六草はその名であるガルニゾン教会の名を、興奮気味に書きとめた。

ベッドに入っても思わぬ発見で眠れない。六草はパソコンに向かった。そして往時のガルニゾン教会の画像を検索した。エリスが泣きすがっていたのは教会の扉ではなく、寺門、つまり門扉だった。門扉がガルニゾン教会に存在すれば、なお確実になる。はたして画像には、門扉があった。

 

 

 

 

両親

六草はふたたびプロテスタント教会公文書館に出向いた。むろんガルニゾン教会を調べるためである。この教会ならエリーゼの洗礼記録があるかもしれない。六草は教会別のファイルからガルニゾンを探した。だが見当たらない。職員に訊くと、ここにはガルニゾンの資料はなく、あるのはプロシャ王室古文書館だという。

六草は日を改めそのプロシャ王室古文書館に出向むき、ガルニゾン教会を調べ始めた。エリーゼが生まれたであろう、1860年からの記録を探した。しかし二日もかけたが見つからない。またしても徒労に終わるのか。三日目は気を取りなおし、エリーゼの両親の結婚記録を探すことにした。両親が結婚後、他所からベルリンに移ってきたなら、ガルニゾンに記録があるわけはないのだが、いまはこの教会での結婚に賭けるしかない。

するとわずか十数分経ったときのこと。2枚目をモニターに挿入し、レバーをしばらく動かしたところで「ヴィーゲルト」の姓が目に飛び込んできた。あまりにも突然、いとも簡単に姿を現したヴィーゲルト夫妻の婚礼記録だった。その記録は、『舞姫』の要素を兼ね備えた、エリーゼの両親の婚姻と確信するにふさわしい内容だった。

 

新郎 ヨハン・フリードリッヒ・ヴィーゲルト
1839年2月15日オーバーヴィーツコ生まれ

新婦 ラウラ・アンナ・マリー・キークヘーフェル
1845年4月8日シュチェチン生まれ

新婦の両親
母親 アンネ・マリー・クリスティーネ・キークヘーフェル

 

新郎と新婦のふたりは、1866年5月21日にガルニゾン教会で婚礼を挙げていた。もしふたりの初めての子がエリーゼであったとして、結婚の翌年に生まれたとして、1867年生まれとなるから、1888年の時点で21歳である。鴎外の恋人として十分に考えうることになる。

そして目を見張ったのは、新婦ラウラ・アンナ・マリーが、シュチェチン出身であることだ。『舞姫』にはエリスの母が「ステツチン(シュチェチン)あたりの農家に遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる」と語る場面がある。鴎外がこの地名を使ったのは、エリーゼの母親の実際の出身地だったからではないか。

さらには、鴎外の娘の名が思い出された(鴎外には三男二女がいる)。二人の娘は「茉莉」と「杏奴」と名づけられた。エリーゼの母親と思われるこの女性は「アンナ・マリー」 と、鴎外の娘に酷似した名をもち、その祖母においてはまさしく 「アンネ・マリー = 杏奴 茉莉」なのだ。鴎外はエリーゼの面影を、娘に託したのだろう。だが、肝心のエリーゼの洗礼記録がない。

 


 

 

 

姉妹
 
週が明けた月曜日、再びプロテスタント教会公文書館へ出向いた。なじみになった職員をつかまえる。そして興味深い発見が、教えてもらったガルニゾン教会にあったと伝えた。しかしその先に繋がらないとも訴えた。すると職員ははいとも簡単に、「それはあの教会が軍隊専用で、軍人や軍人の家族しか通わないからでしょう」と答えた。そして「あなたがガルニゾン教会と言ったから、それならプロシア王室古文書館だと答えただけで……」と言い訳した。

軍人は駐屯地としてその町に滞在するため、地元の教会には溶けこめない。そのための軍人専用教会が、ガルニゾン教会だった。どうやらエリーゼの父と思われる男性は軍隊に属していた。だからガルニゾンの教会簿にその名が載っていたのだ。しかし地図を見ていて偶然見つけた教会である。地域住民と関係のないこの事情を知っていたら、ガルニゾンを調べることはなかったかもしれない。ちょっとした行き違いが、エリーゼに近づく重要な糸口となってくれたことになる。これは何に感謝すべきか。

だがこの先何をどう調べればいいのか。はるばる一時間以上かけて来たのに、この言葉だけ聞いて帰るのは惜しい。そこでせめて氏名順に並んだ洗礼票を再度確認しておこう。初めてこの公文書館に出したメールの返事に「エリーゼ・ヴィーゲルトの名は認められませんでした」と書かれた、その典拠となった資料だ。1750年から1874年までの古ベルリン地区における洗礼の記録がまとめてある。すでに六草も自分の目でも確認してるが、わずか数枚でも「ヴィーゲルト」姓を見ることができる貴重な資料である。もう一度、その数枚を確認しておこうと思った。

1750年からの125年間でヴィーゲルト姓を持つ子供の出生数はわずか17人である。いかにヴィーゲルトという姓がベルリンで珍しいかがこの数からでもわかる。そしてエリーゼと同世代の出生数はたった三人を数えるのみだ。

この中の三人のひとり、唯一名前が判読できたのは、アンナ・アルヴィーネ・クララという名の赤ちゃんだった。以前にこの洗礼票を閲覧した際には、エリーゼとの関わりを見いだすことができなかった。しかしその両親の氏名欄に記載されていたのは、なんとガルニゾン教会で婚礼を挙げた、エリーゼの両親と思われる二人の名だった。



アンナ・アルヴィーネ・クララ

アンナ・アルヴィーネ・クララ(以下アンナと表記)が、エリーゼの姉妹である可能性が高くなった。そこで洗礼者名簿で、アンナの記録を確かめた。アンナは1868年9月13日出生。両親の名は、先に記した結婚記録と同じ、ヨハン・フリードリッヒとラウラ・アンナ・マリーであった。

アンナは、1869年1月10日に聖ペトリ教会で洗礼を受けていた。そして洗礼の記録には、立会人として五人の名があった。洗礼立会人は、洗礼を受けた子が成人するまで、両親とともに成長を見守る役割を担う。アンナの記録のなかには、エルンストやエリーゼという名があった。アンナの姉妹であるはずのエリーゼは、この立会人から名付けられたのかもしれない。同様にエリスの父親の名も、このエルンストからもらったものと思えてくる。



墓地職員

六草は暇を見つけては教会公文書館に通った。仕事の都合上毎日は通えないし、二時間だけのため車で駆けつけたこともある。そしてエリーゼの洗礼をはじめ、結婚、出産の記録を求め、聖ペトリや聖マリア、聖エリザベスなど、教会を手当たり次第に調べていった。しかし新しい情報は出てこない。エリーゼはベルリンで生まれていないのなら無くても仕方がない。しかし両親と思われる結婚記録がベルリンで見つかったのだ。やはりエリーゼの記録は戦火で焼失してしまったのだろうか。

もう限界だ。肩を落とし公文書館を出ようとしたある日、エレベーターで女性と一緒になった。六十歳ぐらいの小柄な人で、一度話を交わしたことがある。「うまくいってる?」と聞かれ「さっぱり」と首を振ると、「そんな日もあるわよ。私なんてそれの繰り返しよ」と笑った。「何のご研究を?」と聞くと、「墓地」との答が返ってきた。墓地を調べる職員なのだろうか。

六草は彼女を近くの駅まで送ることになった。運転しながら「墓地職員」の仕事を聞いた。詳しくは理解できなかったが、遺産の相続人を探し出すのが仕事で、教会簿を主に調べるらしい。

彼女が「それで貴方は誰を探しているの?」と聞いてきた。「1800年代の終わりごろにベルリンに住んでいたある家族。娘が一人見つかったのに、もう一人が見つからない」と答えると、「どんな姓?」と聞く。「ヴィーゲルト」と言うと、「どうなるかしら」と独り言のようにつぶやいた。そして「家族の一人でも教会簿に見つかれば、その家族はその宗派よ。教会簿のどこかに必ず記録が残っているのよ」と早口で言い、「ここで!」と、いきなり車を停めさせ、「丁寧に……」と言いながら降り立つや、小走りに去って行った。



思わぬ発見

その後は仕事が混み合い、クリスマスの時期となってしまった。年の瀬も迫り、六草はここまでの調査を振り返ってみた。いま追っているあの家族がエリーゼの家族にちがいない。だが肝心のエリーゼの出生記録がない。きっとどこかの、燃えた教会簿の中なのだ。半年間探し求めてきたが、今年ももうすぐ終わる。エリーゼ探しは年内で終わることにしよう。

そこであとで後悔することがないよう、これまで書きとめてきたノートを読み返すことにした。公文書館などで写してきた記録にも目を通した。コピーをめくるうち、葬儀の記録が出てきた。ヴィーゲルト夫妻の死産だった息子と、二日だけ生きて死んでいった娘の記録だ。子を失う親の気持ちを思いやるといたたまれず、一度目を通したきり綴じ込んでいた。

息子の死産の記録をじっくり観察すると、名の前に何やら文字が書かれていることに気がついた。「故人は配偶者および「majorene」または「minorene」な子どもを遺したか」と書かれている。役所の書式であるのに、問う文章が妙な感じだ。「マヨレーネ」と「ミノレーネ」はドイツ語なのだろうか。聞き慣れない言葉だ。

そして「2……」とあるが、「2」しか読み取れない。そこでスキャナで読みとり、パソコン画面で拡大表示してみた。すると「Sch」 と読み取れた。他の人の項目を見ると「Bru」と始まる文字が見える。これは「Schwester=シュヴェスター」と「Bruder=ブラザー」ではないだろうか。つまり「姉妹」「兄弟」ではないかと。とすると、ヴィーゲルト夫妻の場合、1870年に死産した男児には二人の姉妹がいたということになる……!

そこで1872年の女児の死亡記録も同じように拡大してみると、やはり「シュヴェスター」の綴りに見える。「2」と「シュヴェスター」の間ははっきりとは読み取れないが、 miで始まっていることだけは見てとれる。ということは「ミノレーネ」だ。ミノレーネな姉妹が二人……。

そこで辞書を引く「 minorene」はラテン語として、「小さい方の」といった訳が付けられていた。一方「majorene」は「大きい方の」などの訳があった。生まれたばかりの子どもが「妹」を遺して他界することはありえないから、この場合の「姉妹」が「姉」であるのは確かだ。死んだ子たちには二人の姉がいたということだ。ヴイーゲルト夫妻には、アンナだけでなく、もう一人の娘がいる……!

「墓地職員」の彼女の言った、「丁寧」を実行したら今まで見えなかったものが見えてきた。やはり明日は公文書館を訪ねよう。これでエリーゼが出てくるわけではないが、「ミノレーネな姉」というのがどんな姉なのか、これだけは確かめてエリーゼ探しを終わりとしよう。2009年12月29日、年越しそばを食べて決意した夜のことだった。



エリーゼとの対面

12月30日、この日は友人夫婦の帰国の日でもあった。それで午前中は二人を空港まで見送り、それから公文書館に立ち寄った。閲覧室へ上がっていくと、窓口には顔なじみとなった職員が座っていた。かなりの人数の職員がおり、当番制で窓口業務をやっているようなのに、六草が質問を抱えているときは不思議なほどその職員の日に重なる。

そして「姉」を確かめようとしたときのこと、例の墓地職員の女性があらわれた。「あれからどうなった」との問いに「あきらめました」と答えると、「堅信礼の記録は見たの?」と言う。堅信礼とは、子供が12~3歳になると、自分の意思でクリスチャンとなる儀式である。六草も聖マリア教会の堅信礼を閲覧したことがある。しかしすべての教会の情報を、草の根式に調べることは不可能で、どの教会に的を絞っていいかわからず、聖マリア教会の記録に留めていた。

すると彼女は「ほらあれ、どこだっけ」と言い始めた。その意味がわからず困惑する六草に、「1880年の住所帳のMという女性、あれはヴィーゲルト夫人のことじゃないの? 彼女の夫、亡くなってるんじゃない?」とまくし立てた。1880年?、M?、亡くなった?、何のことだがまったく訳が分からない。彼女はあごで合図を送るや踵を返し、さっさと奥へ歩き出した。しかし質問のためだけに立ち寄った六草は、入館手続きを踏んでいない。職員を見ると小さく二度頷いたので、あわてて彼女の後を追った。

彼女は教会簿のファイルを手にするや、驚くほどの早さでページをめくり、貸出票に注文番号を書き付けたかと思うと、たちまちのうちにフィルムを取り出しモニターに向かった。「たしか洗礼票の、マリーと書いた名前の下に線が引いてあったでしょう。ということは、あれが呼び名よ」。そう言いながら、素早い操作で画面に洗礼票を走らせ、「ほら、ここ」と指さした。

映し出されているのは1870年の死産の記録で、本当に「マリー」に下線が引いてあった。ファーストネームの一つ目を呼び名に使っていない場合、呼び名に下線を引くのだそうだ。「へぇ~」と大いに感心する六草の横で、彼女はもう次の動作に入っていて、「だから彼女はマリー・ヴィーゲルト。1880年を見ただけだけれど…」と言いながら、手は次のパソコンを操作していて、また「ほらここ」と指をさした。

パソコン画面には、住所帳の1880年の「ヴィーゲルト」欄が映し出されていた。Mで始まる行を指し、「Frau が付いているから既婚女性よ。母親のマリーのことかもしれないわ。娘がいるって言ったわよね。堅信礼の記録にその子の名を探すのよ。この住所の管轄の教会で」。言う先から彼女は「アレクサンドリアン通り115番地」とメモに乱暴に書きなぐり、六草に突きつけた。有無を言わせぬ強引さにつられ、六草は捜査本部に配属になった新米刑事のような心境で、メモを手にファイル置き場まで駆け出した。そして住所別ファイルから管轄が聖ヤコブ教会であることを確認し、堅信礼を受ける平均年齢は十四歳くらい、生年が1862~72年として……。1877~85年までの堅信礼簿のフィルムを借りた。

あった……!

アンナだけでなく、エリーゼの名も、そこに、あった!

ぎっしりと書き込まれた帳面は、経年劣化のためかマイクロフィッシュ化の際に生じたものか、下部になるほど全体がくすんで字は滲み、ところどころかしか読み取れない状態だった。しかし名前の部分は難を逃れ、「エリーゼ」と「ヴィーゲルト」の文字だけは不思議なほど鮮やかなまま残されていたのだ。エリーゼ・ヴィーゲルト。『舞姫』に込められた名前の仕掛けとピタリと符合するエリーゼがそこにいた。ついに見つけたのだ!

 

 

 

 

洗礼簿

洗礼を授けた教会はシュロス教会となっている。あとはこの洗礼簿を調べればいい。シュロス教会ならケーペニックという地にあると職員が教えてくれた。六草はシュロス教会のファイルからエリーゼを探し始めた。しかしどうも違う。ケーベニックでエリーゼは生まれていない気がする。確信はなかったが手を止めて職員のところに戻り、エリーゼがいたであろう、ベルリン市内にシュロス教会はないのかと訊く。すると職員は、六草がさきほどコピーした堅信礼簿の内容を吟味しだした。そして「このシュロス教会は、ポーランドのシュチェチンにある教会ですね」と言った。六草は驚いた。「ポーランド……って」

シュチェチンは、当時はドイツの一都市だったが、今はポーランドに属する。使用言語もポーランド語である。六草はポーランド語ができない。インターネットで調べることも、問い合わせも不可能だ。六草は絞り出すように言った。「シュチェチンの教会簿を調べる手立ては……」

すると職員は「ありますよ」と、いとも簡単に反応した。この教会公文書館には、当時のプロイセン全体の教会簿が所蔵されているという。助かった。おまけに職員は、本来利用者がやるべき手続きをおこなってくれた。ありがたくシュロス教会のフィルムを受け取り、六草はモニターに戻った。しかしこのプロセインの方でもエリーゼは出てこない。

職員が心配して覗きに来てくれた。見つからないと訴えると、職員は画面ページの上にある箇所を指差した。そこには「1804年以降、聖マリア教会はシュロス教会と統合」という注意書きが書かれていた。むろんベルリンの聖マリア教会とは別の教会であるが、この聖マリア教会の方にシュロスの記録が移っている可能性があるという。職員はまた自ら手続きをやってくれ、聖マリア教会のフィルムを渡してくれた。

六草は気が重くなった。堅信礼の記録にシュロス教会と書かれているのに、聖マリア教会に期待しても仕方がない。ここまでしてもらって出てこなければ、フィルムを返すとき、どんな顔で礼を言えばいいのか。だがそのとき、六草の目の前に突然エリーゼが現れた。

 

Eise Marie Caroline Wiegert
1866年9月15日、シュチェチン生まれ

 

フィルムを返すとき、六草の表情を見て職員はうれしそうに頷いた。決定的なアドバイスをくれたあの墓地職員の女性も、一緒に喜んでくれた。礼を述べると、「送ってくれたお礼よ」と笑った。彼女はあのとき「どうなるかしら」と言ったのは、調べるつもりでいてくれたのだ。今度いつ会うかわからない六草のために、というより、会わない可能性のほうがはるかに高かったのに、調べておいてくれたのだ。

 


 

 

エピローグ

六草はこのあとも記録を調べた。そこから判明した事実も含め、エリーゼの家族の履歴を簡単に記す。

母親のマリーがシュチェチンでエリーゼを出産した後、夫婦はベルリンに移った。夫のフリードリッヒは軍隊を除隊した後、ベルリンの銀行家の下で職を得た。エリーゼ誕生の二年後に、妹のアンナが生まれた。しかしエリーゼが14歳のころ、フリードリッヒが亡くなってしまう。以降マリーは、女手ひとつでふたりの娘を育てた。そして世帯主としてのマリーが住所録に載り、墓地職員こと、家計譜調査事務所の女性が発見してくれたことになる。

鴎外のドイツ留学中のベルリンにおける滞在期間は、1887年4月から88年7月であった。エリーゼは1866年9月の生まれであるから、鴎外と知り合ったときの年齢は、20歳から21歳にかけてだった。そして21歳で単身来日したことになる。



おわりに

偶然から始まったエリーゼ探しが、第一次資料に至るとは六草自身もつゆ思わなかった。これまでの先人の研究の中で、十分な調査が行われていなかったものとして、教会簿調査を挙げることができる。第二次世界大戦でほとんどの資料が焼失してしまったベルリンで、豊富な情報がそこに残っていたのだ。けれども六草はそれを知っていたわけではなかった。今回のエリーゼ探しのために六草が行ったのは、州立、連邦、王立、教会、市立の各公文書館のほか、ドイツ船舶博物館、ドイツ移民博物館、ハーパックロイド社、生物博物館、聖マリア教会、墓地管理局などへの電話および書面による問い合わせであり、国立図書館、フンボルト大学、ベルリン研究所、ベルリンエ科大学の各図書館には数えきれないほど足を運んだ。ときに無駄足に終わり、ときに予期せぬ発見が待っていた。教会簿の記録といってもエリーゼー家の場合、ベルリン市内だけでなくポーランドにまで及ぶ広範囲に記録が分散しており、それらの調査のどれが欠けても、また、どの順序が違っても、発見に至ることはなかったと六草は思う。

さらに六草は思う。あの夏の日の夕方、もし射撃の誘いを断っていたら(その後も誘われたが二度と行っていない)、もしあのビール酒場に立ち寄らなかったら(歩くに遠く、わざわざ車に分乗しての移動だった)、もし向かいの男性が鴎外という名を口にしなかったら(創業1909年で、鴎外来店の可能性がないことを後で知った)、もし他の人が六草の隣に座っていたら(最初は別のテーブルに違う配置で座ろうとしたところ、店主の配慮で移動したのだった)、もし市立博物館の史料館に行かなかったら(キャンセルし忘れたための訪問だった)、もし州立公文書館の窓口の女性職員が教会簿のことを口にしなかったら、もし植木氏がルーシュ夫人にこだわらなかったら、もし教会公文書館を訪問した日が他の職員の担当日だったら、もし「墓地職員」の女性に会わなかったら……。それらのどの一つが欠けてもエリーゼにたどり着くことはできなかった。今思い返しても不思議でならないと六草は感慨深く振り返る。

そして原稿を書き始めるとパソコンの中に深く入り込み、何を話しかけても反応しなくなってしまう母親を、呆れながら許してくれた子供たちと、巨大な置物と化した妻に代わって家事を手伝ってくれた夫に、六草は深く感謝している。