松任谷正隆ヒストリー ~ 誕生から結婚まで ~  マンタ&ユーミン夫妻の独白録 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

音楽プロデューサーの松任谷正隆といえば、やはり松任谷由実の顔が浮かんできます。おそらく世間も、「ユーミンの夫」としての印象が強いはずです。ですが、彼女の今日のスーパースターとしての地位は、陰に陽に支えてきた、彼の存在あってこそといいます。

松任谷正隆こと通称マンタは、最初から裏方だったわけではありません。かつてはミュージシャンとしてソロアルバムを出したことがあります。ユーミンとの結婚直後に出した、『夜の旅人』です。ブログ筆者はこのアルバムが好きで、当時よく聴いていました。すべての曲はマンタが、詞はユーミンが書いていて、なかなか味わい深い佳品がそろっています。

 

そのなかの一曲『荒涼』は、沈んだ声調の、大貫妙子とのデュエットが聴かせます。『もう二度と』は、ユーミンの『晩夏』を思い起こさせる、切なくていい歌です。ともに失恋のときに、ぴったりです(笑)。あまり上手とはいえないボーカルなのですが、それがかえって、歌に真実味を感じさせてくれます。下の本文中にも記したのですが、タレントの小堺一機もこのアルバムがお気に入りだそうです。正直なところ、さほどセールスも良くなかっただろうこのアルバムを、自分と同世代である小堺も聴いていたことをうれしく思います。

 

さてこの一文は、マンタの誕生からミュージシャンとしてデビューするまでの物語です。彼は幾冊かの著書、あるいはネット上で、自分の生い立ちなりや性格などを、オープンに語っています。温厚そうな外見とは異なるその人となりは、とてもユニークなものです。あちこちに書かれてある、本人自らが語るエピソードをあつめてみました。そして、世間の一番の関心事であろう、ユーミンとの出会いから結婚への経緯も詳述しました。

 

さらには、数年前の、とある週刊誌の記事を引用させてもらいました。このなかでマンタユーミン夫妻は、それぞれに相手への思いを、赤裸々に語っています。新婚当初のギクシャクしていた時期を乗り越え、音楽界の頂点に達したあと、その夫婦の関係はいったいどのようなものになったのか。相互の深い愛情を感じることができる一方、危うい微妙な空気をも窺い知ることができる、とても貴重な資料です。

自分は以前、『荒井由実ヒストリー』なるものをアップしています。彼女のデビュー時の苦闘を描いたつもりです。結婚後も、さらなる高みに登りつめるまでの苦悩は、より壮絶だったいいます。そのような彼女を支え続けてきた夫とは、いかなる人なのか。拙稿はその一端に触れているはずです。多くのユーミンファンに読んでいただければ幸いです。

 

 


参考および引用させていただいた文献とサイト
『僕の散財日記』松任谷正隆著

『松任谷正隆の素』松任谷正隆著

『マンタの天ぷら』松任谷正隆著

『僕の音楽キャリア全部話します』松任谷正隆著
『聞き上手話し上手』佐藤可士和対談集
『劇的クリエイティブ講座』対談集
『僕の音楽物語』平野肇著
『愛国とノーサイド』延江浩著
『日本経済新聞夕刊』2016年10月25日

『週刊アエラ』2015年1月12日

『週刊文春』2016年12月8日

文春オンライン

松任谷正隆×阿部雅士(同級生対談)

松任谷正隆さん、私を「兄貴」と呼んだ父

松任谷由実ブレーク直後の22歳で松任谷正隆と結婚

松任谷愛介 PROFILE

松任谷 正隆 氏 音楽プロデューサー/モータージャーナリスト
 

 

 

 

『松任谷正隆の素』裏表紙から

 

 


父の系譜

松任谷正隆は、1951年11月19日に生まれた。住まいは東京都杉並区上高井戸で、父方の祖父松任谷喜三郎の家。喜三郎は大地主であり、多大なる不動産収入があった。環八沿いの、現在は佃公園となっている三百数十坪もの広大な敷地のその家には、池やテニスコートもあった。正隆の部屋も十二畳あり、相当なおぼっちゃまとして育った。

喜三郎の子である、正隆の父の功三郎は、横浜正金銀行に入行し、東京銀行(現・三菱UFJ銀行)取締役横浜支店長をつとめた。おとなしい性格で、若いころは物書きを目指していたという。退職後は、「今後一切の人付き合いはしません。年賀状もお断り」と自室にこもり、墨絵で絵物語を描いていた。音楽の道へ進む息子を案じていたが、その成功を父は喜んだ。一方で父子は、年に一度ほどしか会わなかったらしい。89歳で亡くなるまで、正隆との間には微妙な距離があったようだ。それでも父は正隆がアレンジした、松任谷由実の『春よ、来い』を気に入っていた。息子は葬儀のとき、この歌を斎場に流している。



母の系譜

正隆の母方の祖父は安達貞市といい、造園業からゴルフ場の設計・施工・経営に転じ、軽井沢、川奈、小金井などの名門コースを手がけていた。名士となり、遊び方も粋な人だった。茶道、華道、陶芸にも通じていた。日本人離れしたハンサムな容姿は、俳優のシャルル・ポワイエ似といわれた。貞市は還暦を過ぎてから、京都の別宅で愛人と住むようになる。残された祖母は、娘である正隆の母を連れ、銀座のデパートやフランス料理の名店へ足繁く通った。小学生だった正隆や弟の愛介も付きあわされた。お抱え運転手が運転する車中では、祖母が母に、祖父への愚痴をこぼし続けていた。

愛介はのちに慶応の経済を卒業し、父の職業を継ぐように横浜銀行に入った。父の喜びようは、大変なものだった。愛介は金融の本場・ロンドンの駐在となり、その後投資銀行ギネス・マーンへ転じ、副会長など要職を歴任した。97年に金融界を引退後は、「表現者兼プロデューサー」の道を歩んでいる。銀行マンは不向きだった。銀行はカネを右から左に移すだけで利益を生む。その対極にあるのが文化だ。父が定年後、それまでの職場の人間関係を一切断ったのを反面教師とし、我が道を歩むことにした。ちなみに正隆の「隆」は西郷隆盛からで、愛介の「愛」は、西郷の「敬天愛人=天を敬い、人を愛す」から、父がつけた。


正隆の母和子は、料理が下手だった。カレーはとくにひどく、家族のだれも食べなかった。正隆は小学校時代、カメラが大好きで、母の兄のペンタックスを欲しくなった。叔父は一万円で譲ってやろうと言う。こづかいやお年玉を必死で貯めた。しかしそんな贅沢なものを子供が持ってどうすると、母に止められた。

正隆はこの悔しさが忘れられず、2005年の自著『僕の散財日記』に、「この件でいまだ母親には優しくなれない」と記している。2010年のネット記事インタビューでも、「お袋は僕を怖がってましたからね。家庭内暴力はないですけれど」と語っている。母親への「暴力」とは尋常ではない言葉だ。正隆の著書には父に関する記述も少なく、疎遠な関係性を窺わせる。母への言葉なども併せて考えると、両親とはあまりうまくいっていなかったようだ。妻となった松任谷由実も、義父母は自然と遠い存在だったかもしれない。

母にはゴルフ場を経営する弟がいた。子供がいないせいか正隆を可愛がり、会社を継がせたかったという。正隆も、お洒落で気の合う叔父が好きだった。そのせいだろう、父とは異なり、自著では叔父について多くの頁を割いている。叔父は偏屈で口が悪かった。多くの人から嫌われていた。正隆が結婚したときも新居に遊びに来て、「ふうん、へんてこな家だな」と毒を吐いている。由実の機嫌がとたんに悪くなった。



わがままでうそつき

母は正隆に、4歳からクラシックピアノを習わせた。IQが高く、幼稚舎から慶應に入った正隆は、耳で聞いたメロディーをピアノで即座に弾けるようになる。だがピアノ教室は大嫌いで、地道な練習はまっぴらだった。好き放題に鍵盤を叩き、ルールのない音を弾いた。

正隆は嘘つき少年だった。嘘の作文を書いて、毎日小学生新聞で特選をもらったことがある。「電車にお年寄りが乗ってきて僕の席の前に立ちました。譲りたいけど勇気が出ない、どうしようって迷い、結局勇気を出して譲りました」と書いた。だが実際は寝たふりをしていた。女の子にモテたい一心で「フットボールをやっている」とか、あるいは「指揮を習っている」と嘘をつき、学校のオーケストラの指揮台に上がったりもした。大人になり、モータージャーナリストとも呼ばれるようになったが、じつは専門知識はあまりない。大人になったらタクシーの運転手になりたかった。

正隆はわがまま少年だった。おもちゃ屋の前で欲しいものがあると、大の字に寝てテコでも動かなかった。小学校低学年のとき、今でいうパニック障害にかかってしまう。都電に乗って学校へ通っていたが、車内で気分が悪くなり苦しんだ。途中で駅長室で休んだり、学校もイヤで登校を拒否したこともある。団体行動も苦手で、中学と高校の修学旅行は全部さぼった。

そんな正隆が曲がりなりにも通学ができたのは、電車の中でひとり妄想に浸っていたから。大ピアニストになって、客席の大喝采を浴びるという仮想の世界の快楽が、正隆の頭のなかで渦巻いた。妻となった由実も自著『ルージュの伝言』で、同様な癖を語っている。「私の子供のころって、空想癖がすごかったみたい。空想しはじめると、日がな一日どこかに坐っていた」。



中学 高校 大学

東京オリンピック開催の1964年、正隆は日吉の普通部(中学校)に入る。部活は強制で、どこかに所属しないといけない。テニス部に2年生までいたが、ほとんど球拾いばかりで終わった。

小学校の卒業まで、音楽といえばクラシックだった。好きではなかったものの、クラシック以外の音楽は汚いものだと思っていた。しかし小学校のかつての同級生たちの、ヘタなカレッジ・フォークを見て刺激を受ける。何でもないやつらが、女子を相手に演奏している姿にカルチャーショックを受け、同時に腹が立った。自分は絶対音感をもっている。こんな連中にできるなら、自分はもっとできるはずだ。正隆はクラシック以外のレコードを初めて買い、そして友だちとフォークバンドをつくった。しかし勉強がおろそかになり、落第寸前となって親に止められた。

無事に進んだ慶応高校では、また音楽熱が復活してしまう。祖母から借金して高価なバンジョーを買い、大学生とバンドを組んだ。そして音楽漬けの日々となる。まだ楽譜が市販されていない時代で、採譜ができる正隆は仲間から重宝がられた。結局また勉強がお留守になり、成績はビリから2番目まで落ちてしまう。大学へ内部進学できるとすれば文学部しかない。しかしそれも危うくなった。親は家庭教師を5人も付けた。学校から帰ると、玄関には毎日ちがう靴が脱いであった。

どうにか慶応の文学部には入ったものの、パニック障害が続いていたため、普通の会社員にはなれそうにもない。長い休みのある、学校の先生にでもなろうと考えた。音楽の才能の自負もあった。しかし自分を受け入れてくれるところがあるのだろうか。



音楽への道

高校時代からの、菅節和という友人がいた。自称シンガーソングライターで、いつもギターを抱え、何千枚ものレコードを持っていた。青春期特有の絶望を慰めてくれたのは、菅のレコードと音楽談義だったかもしれない。正隆が菅の部屋にいたある日、電話が鳴った。話しぶりで女の子だとわかった。音楽の話のようだ。ビートルズが、プロコル・ハルムがどうかとか、バンド名が聞こえてくる。菅は受話器を置くと言った。「この子はちょっとした有名人でね。まだ中学生なんだけれど、新宿や六本木の店に出没し、作曲もするんだ」。正隆が、荒井由実の名を初めて聞いた瞬間だった。

林立夫という仲間もできた。青山の骨董屋の息子で、青山学院に通っていた。林が初めて正隆の家に遊びに行ったときのこと。音楽の話で盛りあがった。林は階下の電話を借り、旧知の細野晴臣に、「いいキーボーディストが見つかった」と伝えた。するとうしろから肩を叩かれた。正隆の母が睨んでいた。「うちの息子を変な世界に誘わないでちょうだい」。正隆はこの林ともうひとり、加藤和彦がいたからこそ、プロのミュージシャンになれた。加藤との出会いは、こうだった。

はたちになっていた正隆は、渋谷東急本店屋上でピアノを弾いていた。菅がアマチュアコンテストに出場し、そのバックをつとめていたのだ。客はまばらで拍手もなかったが、ダントツで優勝した。片づけを終え帰ろうとすると、審査員のひとりが、正隆とドラムの林に声をかけてきた。それが加藤和彦だった。すでにフォーク・クルセダーズで有名だった加藤が、ふたりの腕を見込んだのだ。

しかし正隆は困った。加藤は自分たちのメインである菅には目もくれなかった。菅こそがミュージシャンになりたかったのに。正隆は演奏が上手くないと自己分析しているが、加藤独特の嗅覚だったのだろうか。このときの誘いの意味を、加藤の生前に訊くことができなかったのが心残りだという。じつは初めて買ったクラシック以外のレコードは、フォークルの『帰ってきたヨッパライ』だった。加藤が得意としていたバンジョーに入れ込んだのも、その影響か、あるいは運命的なものだったのかもしれない。



プロデビュー

加藤が依頼した仕事は、ステレオのコマーシャル音楽だった。スタジオに正隆と林は呼ばれ、レコーディングに参加した。一時間ピアノを弾いて一万三千円ももらった。夢のようだった。好きなピアノを弾いてギャラがもらえた。その一週間ののちに、今度は吉田拓郎と会うことになった。加藤が拓郎の『結婚しようよ』のアレンジをしていて、正隆を呼んだのだ。正隆はオルガンとバンジョーを演った。まだミュージシャンとして生きていくとも思っていない、右も左もわからないスタジオだったが、その場にいるだけで楽しかった。正隆は大学生ながらプロダクションに属し、月給制でプロの道を歩みだした。

 

拓郎は当時、最初の妻となる四角佳子とつきあっていた。彼女が青山通りにあるユアーズというスーパーで、抱えきれないほどのハンバーガーを買ってくると、スタジオの皆がぱくついた。正隆の音楽人生の最初の思い出となった。

正隆は『結婚しようよ』以降も、拓郎の多くの作品に参画している。しかしじつは当初正隆は不安だった。拓郎はタイプも考え方も違いすぎる気がした。だが杞憂だった。豪放に見えながらも繊細で人に気をつかうやさしい男だった。信頼されていることもわかった。正隆はフォークはあまり聴かないが、アコースティックな音を演奏することは好きだった。拓郎のライヴでは、バンドリーダーも務めるようになった。

加藤とはその後も節目節目では会ったが、レコーディングは『結婚しようよ』以降なかった。2009年、正隆は由実のアルバム曲のアレンジを加藤に頼み、そのツアーでもゲストで出てもらった。しかし招いたその月に加藤は亡くなってしまう。大勢の前でパフォーマンスをした最後だったという。正隆は自分をプロの道に誘ってくれた恩人の、最後の舞台に携われたことに感慨を覚えた。

 

「加藤さんがいなかったら、僕はどんな職業に就いていたんだろう。それくらいお世話になりました。加藤さんは、僕らの先陣を切っていろんなことにトライし、いろんなことを教えてくれた。でも、それを恩に着せることは決してなかった」



バンド活動

正隆は林に誘われ、『フォージョーハーフ』なるバンドに入る。リーダーの小坂忠は埼玉の狭山にある、通称米軍ハウスに住んでいたが、メンバーもその近くで共同生活することになった。集団生活が苦手な正隆は、ほとんど毎日実家から通った。バンドは音楽をやればいい。寝食をともにする必要はないのだと。

しかし正隆には、ミュージシャンとして致命的な「三重苦」があった。ひとつはライブレコーディングで異常に緊張すること。弾いている最中気が狂いそうになり、逃げ出そうとさえ思った。ふたつめはコンサートツアーが大嫌いだったこと。飛行機がダメで、宿泊する宿の劣悪な環境も輪をかけた。外食もイヤだった。三つめは自分の意見が採用されない組織に耐えられなかった。小坂は正隆を信頼してくれなかった。小坂の音楽も当時は理解できなかった。正隆は祖父や祖母が亡くなったとウソをつき、ツアーのキャンセルをくりかえした。しかし三人目の祖母を殺してしまい、バレた。温厚な林もさすがに怒った。かくてフォージョーハーフは空中分解となった。

林は細野が新バンドのキーボード奏者を探していると聞き、正隆を誘う。怒っていた林の怒りもおさまっていた。こうして結成されたのが「キャラメル・ママ」だった。だが正隆には不本意な活動だった。アルバムもつくったが、職人的なバンドで、皆の気持ちがバラバラだった。このころの正隆は、自分の音楽の方向性が見えていなかった。苦しかった。月八万円の給料はどんなに忙しくても同じだった。このさき音楽で食べていけるかを自問していた。フォージョーハーフにしてもキャラメル・ママにしても、自分の肌には合わなかった。大学に入り直し、教職課程を取って音楽教師になろうとまじめに考えた。



女性関係

ここですこし、正隆の女性関係について触れたい。青春期の、むろん荒井由実と出会うまでの話であるが、その「遍歴」がいかなるものであったのか、彼の著書などから探っていきたい。

まずはいまから2年前の、2017年に出た『松任谷正隆の素』という本についてである。そこには、こう書かれている。「さすがに高校生になるとガールフレンドができた。これが笑っちゃうぐらい清純なつきあいだった。会うのは行きの通学の電車のなかだけ。そして何週間かに一度、日曜日に渋谷駅近くにあるパーラーのようなところで数時間話をするだけ」とある。正隆は幼いころから、外食が大の苦手だった。そのためデートはうまくいかず、結局はフられたという。

別の話題のところには、こんなことも書かれている。「大学でも一応ガールフレンドはできた。そのガールフレンドとも一度だけレストランに行って、別れた。今のかみさんとつきあようになったのは、大学の3年くらいだったか。ようやくちゃんとしたガールフレンドができたというわけである」とある。

これらを額面通りに受けとめるならば、結婚までの正隆の恋愛経験は、きわめて乏しかったことになる。一方で同著には、オナニーを初めて知ったときの体験談や、排泄にまつわる話など、恥ずかしいエピソードが隠し立てすることなく語られている。ならば女性関係についても、正直な告白が綴られているように思える。

だが一方で正隆は、女性に大層モテたといわれている。180センチ近い長身の、資産家でハンサムな慶応ボーイを、女性たちは放っておかなかった。同時進行で二人、三人とつきあう正隆は、「マンタ」と呼ばれるようになる。この名は林がつけた。「マサタカ」の語感もあろうが、艶福家という意味のスラングである。林は正隆の派手な女性関係を間近で見ていた。そしてその奔放さ、節操の無さを、あだ名で表現した。

正隆は、この名をどう思っていたのか。彼は1997年にも自著、『マンタの天ぷら』を出しているのだが、そのあとがきには、こう綴ってある。

「今回タイトルを決めるにあたって、二玄社(出版社)は、『マンタ』というのに特にこだわったみたいだ。僕は幾度となく反対したにもかかわらず、最後の最後まで譲らなかった。きっとニックネームの由来を知らないからだろう。(中略)僕の『マンタ』は『マン』が『タ』なのだ。これ以上言わせないで欲しい。本が出なくなっても知らないぞ。今ごろ、担当者たちはさぞ後悔しているだろう。なんで最初に説明してくれなかったんだ、って怒っているかもしれない。けど、こんな恥ずかしいこと誰が言えるっていうんだ。あれだけ反対していたときに察するべきだ」

マンタとつけられたタイトルを嫌がる一方、このあとがきでは、あだ名の由来を否定していない。つまりマンタと名付けられた根拠を、正隆自身が認めているのだ。その名は彼の女性関係の実態を、的確に表現していることになる。なのにこの本から20年たった新著では、まるで自分は聖人君子かのように書いている。少年のころの虚言癖が、またぞろ顔をのぞかせたのであろうか。より向上した社会的地位が、筆を曲げさせたのか。その真意はわからない。



荒井由実

さてそんな詮索はともかく、話は運命の人、荒井由実との出会いにうつる。

正隆が由実とはじめて出会ったのは、彼女のファースト・アルバム『ひこうき雲」のときだった。バックバンドにキャラメル・ママが起用されたのだ。正隆は大学の3年生、由実は多摩美術大学の1年生のときだった。

初対面の印象は、お互いよくなかった。正隆は由実を、「アングラ」だと思った。「まっ黒い服を着ていて、近寄りたくない感じだった」。由実はディオールを身につけていたのだが、正隆はそれを知らない。由実が14歳のころから足繁く通っていた派手な世界も、正隆にとって異質で怖かった。芸術家の集うレストランのキャンティなど、行ったことがなかった。正隆は清楚な女性がタイプだった。そして由実のピアノの腕前は、スタジオ・ミュージシャン級である。同じキーボードの正隆は、「僕、やることあるんですか?」とすねた。

キャラメル・ママはアメリカ趣向のバンドである。「きっとこいつら、私のことを気に入らないんだろう」と、ヨーロッパ音楽が好きな由実は警戒した。正隆のアメリカンなファッションも気に入らなかった。だが正隆のキーボードというパートは、レコーディングに参加する時間が長い。由実は正隆に意見を求め、その意見に耳を貸すようになる。会話も自然と多くなり、正隆の役割は大きくなっていった。

しかしレコーディング自体は難航した。一年もかかった。由実の歌にディレクターがOKを出さなかった。由実の声には微妙なヴィブラートがかかっていたからだ。正隆は、ヴィブラートのままのほうが魅力的だと感じていた。無理矢理取ると無機質になる。深みもなくなる。シンガーのもつ情緒を取りのぞくのは良くないと主張したが、正隆の立場は単なるミュージシャン。意見は通らなかった。

『ひこうき雲』の有名なエピソードとして、一輪のダリアの話がある。何回歌ってもうまくいかず、レコーディングの日も残り少なくなってきた。そんなとき、正隆の家の近くの井の頭公園をふたりで散歩しているとき、好きな花の話題になった。由実はダリアと答えた。その翌日、由実がスタジオを訪れると、ピアノの上に、牛乳瓶にさした一輪のダリアがあった。正隆だった。その日無事に録り終えたのが『雨の街を』だった。約四十年後に開かれた、正隆のサプライズ還暦祝いのステージ・ピアノの上には、牛乳瓶に挿したダリアが置かれていた。由実はピアノの前に座り、『雨の街を』歌った。

こうして正隆は、由実のレコーディングに深くかかわり、彼女の才能を認識するようになる。才能に惚れたといっていい。だが正隆自身は音楽で食べていけると感じたことは一度もない。それは高校のころからわかっていた。ピアノで独り立ちするほどの才能がないことも自覚していた。由実に会ったころは、「大学卒業後の自分は、社会に適応できないままドロップアウトしてしまうのではないか」という恐怖心に苛まれていた。ギリギリのところで由実に出会った。由実と、由実の音楽に救ってもらった。ようやく自分のやりたい音楽が見つかって、砂漠の中でオアシスを見つけたような思いがした。由実と正隆は、公私ともに必要不可欠なパートナーとなっていく。

就職せずに、音楽の道で行こうと思ったそのころには、反対していた父母もあきらめてくれた。ただ卒業だけはしたかった。由実とふたりで祈りながら、三田キャンパスの学生課に問い合わせに行ったこともある。大学は音楽活動のため、まったく行っていなかったのだ。見かねた友人がノートを自宅に送ってくれ、試験ではカンニングさせてくれるようになる。しかしその友人が肝臓を悪くし、半年入院することになった。病院に見舞うと、黄疸が出た顔で次の試験も心配するなと言う。当日教室には友人の彼女が座っていた。そして同じように答案をそっと見せてくれた。ふたりがいなければ、正隆は卒業できなかった。このクラスメートはのちに結婚した宮本富生という夫妻で、富生はメットライフ生命の社長をつとめた。

正隆が音楽で充実感を感じたのは、ハイ・ファイ・セットのアレンジをつとめたときのこと。メンバーとは相性もよく、正隆は彼女らを家族のように感じた。音楽的にも人間的にもかみ合う存在だった。なによりも、これで音楽で食べていけると実感した。銀行に振り込まれた300万円のギャラで、欲しくてたまらなかったアウディを買った。足りない分は由実に100万円借りた。結婚の2年前のことで、富士銀行が閉まる土曜日の午後3時前、由実とふたりでATMから、一回10万円の限度額を、由実の口座から繰り返し引き出した。振りかえると長蛇の列ができていた。

じつは正隆には恋のライバルがいた。キャラメル・ママのマネージャーも、由実にアプローチしていたのだ。あせった正隆は起死回生すべく、ダリアを生けた。このマネージャーと正隆は気が合わず、仕事面でもなにかにつけ衝突していた。音楽業界から抹殺してやるとまで、正隆は言われている。この苦い思い出はいつまでも忘れられないようで、最近のテレビ番組でも、しみじみと妻の前で語っていた。

由実のデビュー時、ライブの演奏は、パパ・レモンというバンドがつとめていた。キャラメル・ママより力量が劣るこのバンドを選んだのは正隆だった。理由は彼らが大学の同級生で、気心が知れていたからだった。そのバンドリーダーだった平野肇が著書『僕の音楽物語』で、正隆の言葉を明かしている。「ほかのミュージシャンと一緒にツアーをまわるのが心配なんだよね」。由実をほかの男にとられたくなかった。

ふたりの仲は関係者の間でうわさになり、75年3月には交際報道が流れた。このころには正隆は、由実を両親に紹介していた。正隆の父は「息子はどうも楽隊屋らしいのですが、ほんとに良いんでしょうか」と、由実の顔を覗き込むように言った。同席していた弟の愛介は思った。「この子で決まりだ。由実さんはそれまで兄貴が連れてきたどんな女の子とも違って見えた」(=やはり正隆には彼女が大勢いたのだ)。愛介は、正隆がピアノを習わせられたように、バイオリンが弾けた。由実のサードアルバム収録の、『チャイニーズ・スープ』のイントロのバイオリンは、愛介の演奏による。

76年の春、由実が多摩美を卒業するころ正隆は、「今年結婚しないと長い春になっちゃうね」とプロポーズをする。この言葉はレコーディング帰りの、由実を家まで送るクルマのなかだった。由実が歌にもした『中央フリーウェイ』を、途中の府中で出ると、由実のお気に入りの景色があった。その道すがら、正隆が求婚した。そのときの思いを由実は自著『ルージュの伝言』に、こう記している。「大恋愛だった。長い大恋愛だった」

由実は結婚前、誕生日プレゼントとして、正隆にマフラーを編んでいる。正隆はうれしかった。それから3年後、由実のコンサートがあり、アトラクションとしてオークションをやったのだが、正隆は何を血迷ったのか、そのマフラーを出品してしまう。そして七万円という高額がつき、落札された。取り返しがつかないことをしたと気づいたのは、それから数年もたった後のこと。事情を知った周囲は、正隆を「人でなし」と非難した。正隆は懺悔し、反省の言葉を方々で口にした。それを伝え聞いた落札者が、マフラーを送り返してくれた。



結婚

76年11月、3年の長い春にピリオドを打ち、正隆は由実と結婚した。よくデートした横浜にある、山手カトリック教会で式を挙げた。結婚後の由実は語っている。「婚約してから、途中で複雑な気持ちにもなった。若いみそらで花を散らせてなるものかと、開き直ってみせたり、やっぱり結婚してよかったと思ったり」

披露宴は、山下公園前のホテルニューグランドでおこなわれた。まず親類縁者50人のパーティーがあり、二部には大勢の音楽仲間が駆けつけた。かまやつひろし、加藤和彦、山下達郎、細野晴臣らが出席し、宇崎竜童の司会で盛大に繰りひろげられた。新婚旅行は正隆が飛行機恐怖症のため海外に行けず、愛車アウディに乗って、婚前旅行をした箱根へ行った。そして由実の親族が営む熱海の旅館にも泊まった。するとここにかまやつや吉田拓郎らが押しかけてきて、夜が明けるまでのドンチャン騒ぎの大宴会となった。

毎年の結婚記念日には、披露宴があった横浜のホテルで、友人たちと食事会をしている。だが2000年の当日出かける前、ささいなことで大喧嘩となり、怒った正隆は食事会をすっぽかしてしまう。そのため夫抜きの結婚記念日となってしまった。正隆の性格を知る由実は、このことを責めはしなかった。しかし正隆は気になっている。「この日はどういう雰囲気の会になったのだろうか」と、自著『僕の散財日記』に記している。

 

 

 

 

 

『夜の旅人』

77年、正隆は自分のソロアルバム『夜の旅人』をつくった。しかしこれは本意ではなく、レコード会社との契約で仕方なくつくった。そんないきさつだったが、一年以上かけてじっくりと仕上げた。歌が上手くないことはわかっていたが、それなりに着地しようと最後の最後まで粘った。近年まれにみる制作費がかかったと、レコード会社に嫌みを言われた。

『夜の旅人』が完成したとき思った。自分の名前でアルバムをつくるのは苦手ということ。表にでると、世間の風当たりが強くなる。耐えられないと思った。自分は叩かれるのはだめだとよくわかった。だから、プロデュースやアレンジの道に進んだ。客観性がもてない作品が嫌だということにも気づいた。自分以外の作品は、俯瞰して見ることができる。自分名義だと客観視できない。頭の中に整理されていない曲が、整理されないままに目の前に並んでいる。それが耐えられないとわかった。

そんなアルバムだったが、ラジオ番組でタレントの小堺一機と一緒になったとき、『夜の旅人』が好きだと話してくれた。しかも「ずっと聴いている」という。正隆は驚いた。一時期は恥ずかしくて廃盤にしてくれと、正隆はレコード会社に頼んでいた。冷静に聴けるようになったのは最近のことだという。

 

 

 

 

 

2015年 正隆と由実

話は一挙に飛ぶ。正隆と由実の結婚から38年経った2015年、週刊アエラに、ふたりの記事が載った。それぞれが独白のかたちで、その夫婦関係について縦横に語っている。
 

 

正隆は2011年、由実は2014年、還暦を迎えたが、その際におたがい、ビッグなサプライズパーティーを仕掛けた。

正隆 「自分のときは、完全にだまされましたね。お返しをするにしても、彼女を祝うのにふさわしい演出を考えるのもひと苦労しました。結果的に、彼女がうれしかったと言うのだからサプライズとしては成功だったと思うけれど、僕としては『もっとやれたかもしれない』という思いは残っていますね。普段、人を楽しませる仕事をしているはずなのに、自分のかみさんを喜ばせるのは一番難しいと痛感しましたね。そもそも夫婦なんて、長年連れ添っても、わかり合えないもので、彼女のことだっていまだに全然わかりきれていない。いつも言うんだけど、自分が知っている自分の顔は鏡に映った自分で、人から見た顔の左右逆なんだよね。だから、自分のことだってよくわかっていない。相手も然りで、見えている姿と、実際に感じていることは違うはず。夫婦は『お互いにわかっていない』ことをわかり合って成り立つ存在だと思いますね」

正隆 「夫婦で一緒にいいものをつくる難しさはいつも感じています。ここまで続けてきたのは、性格の違いが大きいでしょうね。僕は子どもの頃から自分の手を汚すのが嫌なタイプ。彼女は、前に立つのが好きな、チョコレートパフェのサクランボになりたいタイプ。プロデューサーとアーティストという役割分担が成り立ったのは、性格の違いが大きいでしょう。あと、『怒り』の相性もよかった。僕はすぐに発火するタイプだけど、彼女は難燃性。どちらも即発火タイプだとやばかったですね。でも、夫婦は似てくるみたいで、最近どうも彼女も火がつきやすくなったみたいで、気をつけないといけない(笑)。2人にとって転機というか、僕にとって大きな意味を持っている時期というのはあります。1990年代の初め、彼女がアルバムを200万枚売った頃。CDの売り上げ枚数が更新されるたび、僕は『ここから先、落ちていくしかない彼女』を見ていたし、彼女もその先が上り坂でないことを知っていた。ピークと同時に味わう恐怖ですね。2人で恐怖の中に立ちながら、これから先をどう進んでいくべきかという話を毎日していました。その頃からかな。『戦友』という感覚が生まれてきたのは。そこから先は、結果的には予想したよりも谷底は深くなく、ダメージは最小限で済んだのだけど、間違いなく2人にとって分岐点だった。アーティストからすれば、ピーク時でパートナーを変えて新たな路線を開拓するという選択肢もある。僕も『プロデューサーを変えたらどうか』と彼女に何度か提案した。でも、彼女は変えなかった。そして、今も2人でやっている。 ピークから先の世界を夫婦でどう乗り越えるべきか。その答えは難しいけれど、相手が風邪を引いた時にはいたわるような気持ちが大事なのだろうと僕は思う。僕が風邪を引いた時、彼女が風邪を引いた時、2人で同時に風邪を引いた時。いい時にやさしくできるのは当たり前だけど、相手が弱った時に見放さずに助け合うことの大切さ。それを人生という大きな時間の中で感じることがあります。

由実 「夫婦の危機、何度もありました。特定の原因があるわけではなく、お互いのバイオリズムの重なりで生じるようなものですね。7年ほど前にも、もうダメかもしれないという時が訪れて、その時は私が何とか踏みとどまろうとしました。実際に別れるとなった時に話し合わなければいけない、会社や権利関係の決めごとを全部テーブルにのせてみたんです。そしたら、彼も途方もなく面倒に感じたみたいで無期延期になりました。夫婦で創作をするのって、ストレスですよ。でも、夫婦をつなぎとめるかすがいでもある。彼は私と違って細かい所まで完璧を求めるし、作品のクオリティーに対して執着するから、『それくらいいいじやない』と思うこともたまにあります。でも、音楽は人間である、つまり、人間のすべてが音楽に表れるという思いは出会った頃から変わらない共通認識なんです。それに、同じ問題は二度と起こらない。問題を一つクリアするたびに、夫婦のステージも少し上がっていくんです。特に、アルバム作りはお互いに自分をすべて出すような作業なので、これまで出したアルバム一枚一枚に、2人で成長してきた思い出が積み重なっています。ドキュメンタリーか何かで私たちの制作風景を見た人はわかるかもしれませんが、彼は人前で容赦なく私を叱ります。年齢的にも、立場的にも、伸びしろが少なくなってきた私にとっては、とてもありがたい。神は細部に宿るというけれど、彼が昔から執着してきた細かいことを積み上げる姿勢の価値が、今改めてわかります。彼が教えてくれたことが、今の私にとって前に進んでいくための力になっているんです。例えば2014年に帝国劇場で芝居と歌のコラボ公演をした時にも、私が最初の段階の立ち稽古から参加して本番と同じように歌ったことに役者の方々は驚いたみたいです。でも、声を出す筋肉を整えるためには地道な練習は必須。そして、それを当たり前と思える私に育てくれたのは松任谷さんです。私が感じる彼のやさしさは『厳しさ』で、心から感謝しています。囗にすると、涙が出ます。親は子を思うからこそ厳しい言葉をかけることがありますね。『早く寝なさい』とか『嫌いなものも残さず食べなさ』って。子どもはそれをうるさ感じるかもしれないけれど、あとからそれが愛情だって気づく。そんな愛情に近い厳しさを、彼から受け取ってきた気がします」

由実 「私にとって松任谷さんは『運命の人物』。それも、選び取ってきた運命。夫婦が歩む道には網の目のように分岐点があって、選択を繰り返しながら一緒にいる。私にとって、松任谷さんは選び取ってきた運命そのもの。1枚のアルバムを生み出す作業は、私たちにとってお産のようなものです。お互いにすべてを出し合って音楽に込める。最後のマスタリングをする彼を別室で待つ私は、まるで分娩室の外でわが子の誕生を待つ父親のような気分。苦しくても、また生み出したくなる衝動と欲望。それをずっと共有しながらやってこられたのは、本当に幸せなことだと思っています。とはいえ、2人の関係がうまくいく時ばかりではありません。自分だけが我慢しているような気もしますが、相手だって私とは違うところで何かを我慢しているかもしれない。夫婦は同じだけ我慢していると思えば、少しゆとりを持てるんです。負けず嫌いでストイックな彼のことをうっとうしいと思いながら、最近は自分にも同じようなストイックさを感じたりして夫婦って、結局は似た者同士なのかもしれないですね」

正隆 「彼女から感じるやさしさを一言で表すならば、そうだな、オレンジ色のようなもの。トゲトゲしていない、マイルドな暖色。オレンジ色の空気をまとった彼女の存在自体が、僕が感じるやさしさだね。もめている時は、それがカチカチのシャーベットみたいなオレンジ色になるんだけどさ(笑)。最近、気に入っている習慣が、朝起きてすぐ、食事の前にお茶を飲む時間。2人でゆっくりと1時間くらい、いろんな話をする。そんな時の彼女は半分気体のようなオレンジ色で、僕にとって、朝のこの時間はとてもやさしい時間になっている。そういえば、結婚したばかりの頃、「年をとったら、いい茶飲み友達になっていたらいいね」なんてよく言い合っていたけれど、本当にそうなっちゃったんだな。ひとつ、確信しているのは、2人で重ねてきた時間の中で、今の2人が一番好きだということ。立ち位置とか関係性とか。それって僕たち夫婦にとって、すごく幸せなことかもしれない。『あの時はよかった』なんて過去を支えにするのは嫌だよね。20年後はどうなっているだろう。この先は体力も落ちてくるから考えたくないんだけど、今と変わらないままの2人でいられたらいいと思うね」

正隆 「25歳で結婚して、もう38年経ったなんて。そんなに長い時間が経ったとは感じないですね。僕たちの場合は仕事のパートナーでもあるから、『同志』『「戦友』という感覚に近いかもしれない。男女を超えた関係性。それは創作を通じていい時も悪い時も一緒に乗り越えてきたから、育まれたものだと思う。彼女にやさしくあるための心がけ? 何もしてません。むしろ、心がけなければならないほど無理をしてはいけないと僕は思いますね。ケンカをするときは、5日間口をきかないこともありますよ。でも、どちらかが『お茶にしよう』つて言い出して、いつもの時間が始まる。くだらない世間話から、仕事の深刻な話まで、彼女との会話は尽きることがないですね」

 

 

 

『松任谷正隆ヒストリー』

 

 

 

結婚42周年の松任谷正隆・由実夫妻

©時事通信

 

 

 

 

ブログ後記
余計なことながら…


以上が『松任谷正隆ヒストリ―』となります。最後のアエラからの記事引用のおかげで、いいかたちで終われたように思います。ですが以下に、それをいささか壊すような、余計なことを書きます。

正隆の浮気疑惑騒動です。上の「独白録」の翌年である2016年、週刊新潮に載った、「女性マネージャーとの手つなぎ写真」のことです。ユーミンファンならおそらくご存じでしょう。拙稿がこれに知らぬふりをするのも不自然です。要らぬことだと思いますが、すこし触れさせてください。

この騒動の顛末は、他のネット記事でご覧いただくとして、ここにご紹介するのは、正隆の「弁明」です。報道された直後正隆は、たまたま週刊文春での、対談の仕事が入っていました。世間からすれば、そして正隆からしても、絶妙なるタイミングとなりました。「無実」を訴える場となったからです。インタビュアーである阿川佐和子も、むろんこの機を逃さず、容赦なく正隆に切り込んでいます。下にその箇所を、引用させていただきました。

なおその前に、さらなる余計なことを付け加えます。上の本文にあるように正隆は、かつてウソつき少年でした。青年期にもイヤな仕事から逃れるため、三人目の祖母を亡くしたなど、虚言を弄しています。そして自著で、あだ名であるマンタの由来を肯定する一方、後発の著書では、若いころの女性関係は淡白なものだったと、真逆なことを活字にしています。これらを考えあわせると、以下の釈明がはたして真実なのかどうなのかと……

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。



阿川  最後の質問です。新著の『僕の音楽キャリア全部話します』は、松任谷さんの音楽観やユーミンさんの曲のエピソードなどが満載で、本当に面白かったんですけど、これ新潮社から発売された本じゃないですか。なのに、先日の『週刊新潮』で松任谷さん、マネージャー嬢と手を繋いでる写真が掲載されちゃって……。
松任谷 ああ、あれね。(同席している女性を指して)ここにいるマネージャーの彼女ですよ。
阿川  ええっ‼‥ こちらの方なんですか。失礼しました! それはそれは……
松任谷 びっくりしましたよね(笑)。でも本当にそういう疑われる関係でもなんでもないんですよ。あのときはすぐに由実さんに「掲載されるよ」と連絡しました。
阿川  どういう反応でした?
松任谷 由実さんも、マネージャーの彼女と僕がそういう関係じゃないのはわかってるから、なんということもなかったですね。
阿川  あ、そうなの? いや、もし写真を撮ったのが『週刊文春』だったら、ここにご登場していただけなかっただろうなって思ったもので。
松任谷 いやいや、スクープしたのが、『週刊文春』であっても僕は出たと思いますよ。
阿川  ホントですか⁉ どうしてまた?
松任谷 そうじゃなきや週刊誌は駄目でしょ。タイミング的に、ちょうど僕の本、由実さんのアルバム『宇宙図書館』のリリース、それに伴うツアーが始まるところだったから、多くの人はああこれのプロモーションだったんだなと思うんじゃないですか(笑)。
阿川  おっ、さすがフトコロが深い!