70年(24歳)デビュー
東京へはクルマで出立したと手持ちの資料にある。一方、ウィキペディアには広島駅で仲間に万歳三唱され寝台特急に乗り込こんだとある。どちらが真実かわからない。ここではクルマ説に従う。伊藤の所有と思われる、トヨタのおんぼろコロナの後部座席に、布団やポータブルステレオ、ボブ・ディランなどのアルバムを詰め込み出発した。ようやく着いた東京では、六本木の交差点で停め、タクシーの運転手にバカヤローと怒鳴られた。住まいは泉岳寺の高輪マンションにある、フィーチャーズ・サービスの事務所に居候をすることになった。
こうして吉田拓郎は70年3月、エレック・レコードに入った。エレックとは、元々は教育教材の通販会社で、社長、専務、女子事務員、営業マンなど数名の小さな会社である。拓郎はタレントではあるものの、給料(3万5千円ともされる)をもらう社員として入社し、右も左もわからないミュージシャン人生を歩き始めた。
時期をほぼ同じくして、フューチャーズ・サービスとエレック共同制作の、LP『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売された。広島フォーク村名義のオムニバス・アルバムである。フォーク村メンバーの歌の他、拓郎の『イメージの詩』が収められている。このアルバムには日大全共闘のアジ演説も混じり、音楽界の常識や定型を無視したその長いタイトルも、アングラ・レコードであることを象徴している。これは拓郎が望んだデビューではなかった。フィーチャーズ・サービスに居候していた半年ほどの間、政治に無関心な拓郎は、上智大全共闘崩れの彼らの、「マルクス、レーニン」と口角泡飛ばす熱い政治論議に閉口した。
プロになったとはいえ、拓郎に仕事らしい仕事はほとんどなかった。事務所で一日中電話番をする無聊の日々を送った。音楽界に伝手がないエレックはまともな仕事は取ってこない。アルバム『古い船をいま~』発売後は、自らその荷作りや運搬の手伝いをし、毎日時間を持て余した。
しかし単に座していたわけではない。『古い船をいま~』とギターをひっさげ、ラジオ関東(現ラジオ日本)の横浜スタジオに向かった。音楽番組収録中の担当をつかまえ、「歌を聴いてほしい」と訴えた。断られても「聴いてくれるまで帰らない」と居座った。根負けしたスタッフが『イメージの詩』を聴くと、個性的なリズム・独自性に驚き、急遽内容を変更し拓郎の曲を流すことになった。他の在京ラジオ局にも同様の売り込みをかけたと思われる。
6月、デビューシングルとなる『イメージの詩/マークⅡ』発売。『イメージの詩』はシングルとしては異例の7分弱の長尺である。拓郎は深夜放送宛てにリクエスト・カードを大量に書き、電話で繰り返し自身のデビュー曲をリクエストした。
この月の27日、拓郎は、東京でコンサートに出演した。といっても、拓郎の”東京進出”を記念した、エレック主催の広島フォーク村のコンサートである。新宿厚生年金会館で開催されたが、客はほとんどいなかった。はしだのりひこの応援出演を得たものの、拓郎の他は全員アマチュアであった。
72年以降は、テレビを拒否することとなる吉田拓郎だが、70年から71年の間はいくつものテレビに出演している。売れるために必死だった。TBSの「ヤング720」、はしだのりひこの「Ohフリー」、土居まさるの「セイ・ヤング」、芥川也寸志の「奥様土曜ショー」などに出て、広島では拓郎を知る人びとが大騒ぎで観た。野末陳平司会の子供番組で歌った『イメージの詩』は「むずかしくてわからない」と子供たちにそっぽを向かれた。NHKでは番組出演のオーディションがあり、審査する藤山一郎に落とされた。
70年に出演した、TBS「プラチナポップ・ショー」では、司会の布施明に罵声を浴びせられた。『マークⅡ』のバック演奏が短くアレンジされたことを、事前に聞いていたマネージャーが拓郎に伝えていなかった。知らずに歌いはじると、歌と伴奏が合わなくなった。オーケストラをバックで歌ったのも初めてだった。「何やってんだ、バカヤロー。ワン・ハーフだろう。サビだよ。サビ!」と布施に怒鳴られた。拓郎は深く傷つき、以降、この屈辱をことあるごとに語るようになった。
70年の初夏から秋にかけて、拓郎はアマチュア時代に出ていた、ライト・ミュージックコンテストにゲスト出演することになり、関東甲信越各地の予選会場17カ所を転々とした。自身の売り込みのためであり、ノーギャラであった。この時期と重なる10月と11月には、音響機器メーカー、パイオニアのステレオ新製品の全国キャンペーンで、そのアトラクション歌手として、全国15ヶ所をまわっている。拓郎は機械の前座だと自嘲した。
一方、秋には杉並堀之内・妙法寺すぐ近くの堀之内ハウジングに引っ越した。家賃は分不相応だったが、社長の家の近くであり、食いっぱぐれがないと踏んだ。人恋しさで、妙法寺の三のつく日の縁日によくでかけた。2枚目のアルバム『人間なんて』のジャケットに写る階段は、この堀之内ハウジングである。余談ながら、自分は昨年遅まきながらここを訪れている。半世紀前は東京出張の折に高円寺の駅前にただ立ちつくしただけだったが、今回は地図アプリのおかげで到達できた。階段を眺めながら、このアパートであの『高円寺』が作られたのかと、聖地現存の感慨に浸った。
「人恋しさで妙法寺の縁日に」というように、この頃、拓郎は弱気になっていた。いつまでも売れないことから、「帰ってもいいか」と母に手紙を出している。友だちにも、俺の活躍する場所はどこにもないと嘆いている。俺の才能はこの程度かという思いだった。広島ではお山の大将だったから、落胆は大きかった。また生来のガンコさから、セールスのために人に頭を下げること、自説を曲げることを極端に嫌った。
11月、デビューアルバム『青春の詩』が発売された。初のオリジナル・アルバムである。しかし、後の吉田拓郎作品とは似ても似つかぬ代物である。バックはエレックが手配したジャズ畑のミュージシャンが演奏した。拓郎は譜面が書けないため、曲をギターで弾き伝えると、彼らはその旧い感覚でアレンジした。拓郎は従うしかなかった。自分は72年のアルバム『元気です。』でファンとなり、過去作品をさかのぼり聴いたが、『青春の詩』はあまりにテイストが異なり、違和感しかなかった。
しかし曲がりなりにもファーストアルバムは出た。これに呼応するように、あちこちのフォーク・コンサートから声がかかるようになった。他のアーティストと共演するコンサートである。岡林信康、高石友也、遠藤賢司、高田渡、加川良ら、フォークの主流メンバーの中に入ると、拓郎に対する客の反応は薄かった。
71年(25歳) ブレイク前夜
71年に入ると、拓郎は東京において初のワンマン・コンサートを開いた。「マンスリー・コンサート」と銘打ち、2月から4月にかけて月1回開催した。当初は5月までの予定が、持ち歌がなくなり3回で終わったが、デビュー翌年に単独コンサートにこぎ着けたことになる。
ただし会場は小さい。1回目が新宿の紀伊國屋ホールで、次が安田生命ホールと、200から300の客席しかなく、3回目の新宿厚生年金会館小ホールも400であった。東京で拓郎は無名であり、1回目のチケットはエレックが無料でばらまいた。だが客席からの反応は悪くなく、2回目は有料でさばけるようになった。3回目には大きな拍手がおき、「拓郎~!」との黄色い声が飛ぶまでになった。バックはミニ・バンドであり、この名は初期ファンに馴染み深いものとなった。
実はコンサートでは、エレックが対策を講じていた。拓郎は広島ではステージトークに定評があったのだが、上京後はからきしダメになっていた。広島弁を気にしていたのだ。スタッフは会場にサクラを入れ、拓郎のトークに笑い声や拍手で反応させた。拓郎は手応えを感じ、広島時代のような調子を取り戻していった。
6月、2枚目のアルバムとなる『たくろう・オン・ステージ!! ともだち』が発売された。マンスリー・コンサート実況録音盤である。拓郎の軽妙なトークが入ったこのライブ盤は、予想以上の売れ行きを見せはじめた。トークはアドリブではなく、ノートにみっしりと書き込み臨んでいた。売れるために必死であった。
7月には東京渋谷の小劇場ジャンジャンでライブを開いた。200人にも満たない小さな会場ながら、営業努力せずとも満員になった。72年に拓郎がCBSソニーに移籍した後、エレックはこの音源を『たくろう オン・ステージ第二集』として発売している。本人の反対にもかかわらず、72年の人気爆発に便乗した。
この『第二集』は、72年のブレイク後に拓郎ファンとなった者にとって、その魅力を知る貴重なアルバムとなった。一曲目の、高校時代の失恋を歌った『準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた偉大なる影響』をはじめ、魅力的な曲に満ちあふれている。叙情的、極私的な歌もあれば、R&Bの傑作『来てみた』など、それまでのフォーク・ソングにない多彩な音楽を感じることができる。
そして8月、吉田拓郎の存在をフォーク界に知らしめるコンサートが開催された。岐阜県中津川での『第3回全日本フォークジャンボリー』である。観客数3万人もの大規模コンサートで、岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、六文銭、加川良ら、フォークやロックの主なアーティストが勢揃いした。知名度が劣る拓郎はサブステージで歌った。すると音響が故障で切れてしまう。拓郎は酒で酔っていた勢いもあり、持ち歌『人間なんて』を1時間半以上歌い続けた。これに観客が熱狂し、拓郎は岡林信康に代わる新しい時代のシンボルとして、一躍フォーク界のヒーローに躍り出ることになった。だがこれは拓郎が望むような名声ではなかった。以降、この自らの虚像に苦しめられることになる。
一方、拓郎はエレックの処遇に不満が高まっていた。給料制で入ったが、音楽界には印税契約というものがあることを知った。71年に入ってから女子高生らのファンがつくと、社長は「売れる妨げになる」と”女人禁止令”を出した。これが決定打だったという。拓郎は移籍先を模索し、まずはシングル盤を先行し、7月にCBSソニーから『今日までそして明日から』を出している。
11月には、エレックへの置き土産となるアルバム『人間なんて』を発表。アレンジは加藤和彦が行なった。拓郎と同い年ながら、4年前の大ヒット『帰って来たヨッパライ』の著名なミュージシャンである。このアルバムには翌年大ヒットとなる『結婚しようよ』が収録されている。拓郎はこの曲を発表前にラジオで披露していた。大きな反響があった。だが自身のスリーフィンガー奏法では限界があった。そこで助けを求めたのが、ラジオ局で知り合った、経験豊富な加藤だった。
加藤はスタジオに新進気鋭の松任谷正隆や林立夫らを引き連れてきた。ギターのカッティングやボトルネック奏法、松任谷の足踏みオルガンなど、斬新な音を重ねることにより、『結婚しようよ」は幾重にも華やかなサウンドに包まれた。『どうしてこんなに悲しいんだろう』では松任谷にコードを渡すと、その場で素晴らしい間奏をつけてくれた。前作『青春の詩』の古いミュージシャンとはまったく異なる、新しいセンスの仲間との出会いは大きな財産となった。
72年(26歳) 人気爆発
1月、CBSソニーに完全に移籍した拓郎は、シングル盤『結婚しようよ』を発売する。CBSソニーはソニーとアメリカのCBSが設立した、エレックとは比べものにならない大きな企業である。68年の、この新しいレコード会社誕生の際は新聞各紙が一面で報じるなど、音楽業界の枠を超える社会的な事件であった。
拓郎はこの3年後、CBSソニーから自ら設立したフォーライフ・レコードに移る。そのフォーライフも辞め、インペリアル・レコードを経て、09年、エイベックスに移る。小室哲哉のダンスミュージックで急成長した同社に入るにあたり、拓郎は次のように語っている。
「(エイベックスに移籍した時は)エレックからソニーに入った際、初めての大手レコーディングメーカーでのレコーディングということで、すごいプレッシャーを受けながら、アルバム『元気です。』を書いた時に似ていたね。緊張感とか怖さとか、大手レコード会社を怖れる気持ちとかが、(CBSソニーとエイベックスで)同じようにあった」
「すごいプレッシャーを受けながら、アルバム『元気です。』を書いた」との、拓郎らしからぬ述懐が意外だ。吉田拓郎とレコード会社というと、フォーライフを思い浮かべてしまうが、CBSソニー移籍も大きなエポックであったのだ。本人も言うようにフォーライフの設立は、人気に増長した若気の至りであった。失礼ながら、CBSソニーに入ったときの初心を謙虚に持ち続けていたら、いらぬ苦労をせずに済んだだろうにと思ってしまう。
ともかくも、吉田拓郎はこのメジャーな舞台に立つやいなや、生来の音楽的才能、タレント性を発揮し、あれよあれよという間にスターダムにのしあがっていく。『結婚しようよ』はオリコンチャート2位にかけのぼり、50万枚の大ヒットとなった。6月にリリースした次作『旅の宿』は60万枚を売り上げ1位を獲得。一方この月には、長野県軽井沢の聖パウロ教会で四角佳子と結婚式を挙げている。スターというものは結婚で人気が落ちるのが常だが、エレック社長の懸念なぞどこ吹く風、吉田拓郎の人気はすさまじかった。
結婚の翌7月発売のアルバム『元気です』はアルバム・チャート第1位を13週独占し、45万枚以上を売り上げる。当時レコードの売上はシングル盤が主体であった。アルバムは1万枚売れれば御の字の時代だった。それが飛ぶように売れる、レコード業界の常識を覆す現象となった。吉田拓郎はフォーク界のみならず、日本の音楽界に革命を起こし、その頂点に立ったことになる。
当然、テレビの出演依頼が押し寄せてきた。これに対し拓郎は出演拒否の挙に出る。それまでは頭を下げてのテレビ出演だったが、一転強気の姿勢に転じた。「一曲では自分の世界は理解してもらえない」と、何曲も歌う時間を要求した。NHKは「歌謡グランドショー」で5曲の枠を提供し、オーディションで落とされていたNHKに拓郎は出演した。
「歌謡グランドショー」出演ではトラブルがあった。売れっ子になっていた拓郎は前の仕事でスタジオ入りが遅れ、リハーサルがまともにできなかった。この番組には前述した、因縁の布施明も出ていた。またもや布施は「今頃来やがって」と噛みついた。拓郎は布施を殴りつけた。布施は02年、バラエティ番組でこの30年前の非礼を詫び、「ずっと悩んでいた。許して下さい」と頭を下げたという。
ビッグになった吉田拓郎だったが、フォ-クファンのすべてが支持したわけではなかった。4月、武道館での、岡林信康や加川良らが出演した「音搦大歌合せコンサート」のステージに拓郎も立ったのだが、客席から「帰れ!帰れ!」の大ブーイングを浴びている。8月の金沢・卯辰山のコンサートでは、座布団、ビール瓶を投げつけられた。観衆はメジャーになった拓郎を、コマーシャリズムに毒された裏切り者として糾弾した。わずか1年前、『全日本フォークジャンボリー』でのヒーローから一転、フォークファンは吉田拓郎を近親憎悪した。
この年、拓郎は父を亡くしている。家族と長年離れて暮らしていた正廣だったが、73年の3月末を以て鹿児島県庁を辞し、広島に移り住むことになっていた。正廣と折り合いの悪かった朝子の母は高齢となり、施設へ移っていた。だが正廣は転居を目前にした1月、執務中に倒れてしまう。最後の仕事を仕上げるため、鹿児島県立図書館で寝泊まりしていた。死因は脳卒中。ペンを握ったままの絶命だった。『結婚しようよ』発売11日前のことであり、息子の歌の大ヒットを知ることはなかった。
父は自分が高等教育を受けることができなかった。その分子供に期待し、きびしく接していた。音楽活動をはじめた拓郎も快く思っていなかった。だがその名が広まるようになると、ひそかに芸能記事を切り抜き、楽器店に足を運びレコードを買い求めていた。父の逝去直後に息子は『おやじの唄』をつくり、『旅の宿』のB面に収めた。
73年(27歳) 金沢事件
前年の72年10月から拓郎は、それまで誰も手掛けなかった、全国コンサートツアーを敢行している。バンドやスタッフを引き連れ日本中を回った。73年は1月の鳥取を皮切りに、年末に至るまで全国56会場で公演した。一方で、柳田ヒロ、チト河内ら一流ミュージシャンとロック・ユニット、新六文銭を結成。このバンドは拓郎自身のツアーの合間を縫い17会場で演奏した。だがその4月の金沢公演の夜、とんでもない災いの種が生まれた。
表面化したのは、それから1ヶ月後の5月23日早朝のことだった。拓郎は都内の自宅を訪れた刑事に同行を求められ、東京・丸の内署で逮捕される。容疑は金沢で知り合った女子大生への強姦致傷、監禁、傷害容疑である。警察によると事件は次のような経緯でおこったという。
「金沢でのコンサートを終えた吉田拓郎がバンド・メンバー3人と市内繁華街のスナックに入ると、店には女子大生のA子とボーイフレンドの男性がいた。拓郎ファンであるA子は喜んだが、男性はそれに嫉妬したのか、店を出る際に捨てゼリフを吐き、拓郎は男性の顔を殴ってしまう。男性は唇を切るケガを負い、拓郎らの泊まるホテルで手当てを受けた後、帰宅した。部屋には拓郎とメンバー、A子、スナックから同行した店の女子従業員が残り、酒を飲みながらトランプなどに興じた。その後、拓郎はA子を自分の部屋に連れて行き、20分にわたって監禁し、暴行しようとしたが抵抗され未遂に終わった」
ファンの間では、これを金沢事件と呼ぶ。手錠をかけられた拓郎は、新幹線と在来線を乗り継ぎ金沢へ護送された。しかしその12日後、不起訴処分で釈放される。事件はA子による虚偽だった。拓郎が男性を殴ったのは事実だったが、A子への乱暴行為はなかった。なぜこのような事態となったのか。
その夜、A子は友人宅に泊まるとウソをつき家を出た。だが朝帰り後に両親にバレて、「吉田拓郎に暴行された」と口走ってしまう。A子には婚約者がいた。A子の話を信じた婚約者は怒り、A子は告訴せざるを得なくなった。拓郎の逮捕後、一緒にいたメンバーやスナックの従業員らの証言が次々と出て、検察は警察に再捜査を命じ、A子は被害届を取り下げることとなった。
嫌疑は晴れたものの、拓郎が受けたダメージは大きかった。逮捕のショックと10日間の留置場生活で憔悴しきった。接見の弁護士に「やったとウソをついてでもここから出たい」と弱音を吐いた。独房では昼夜を違わず電灯で照らされ、隣室の殺人容疑の男には『旅の宿』を歌えと脅された。収容されている金沢中署の外では、女子高校生らが拓郎の歌を合唱し励ましていた。
独房にいた間の6月1日、発売されたアルバム『伽草子』はチャート1位を記録したが、社会的・経済的ダメージは大きかった。3公演がキャンセルとなり、レギュラー出演のラジオ番組は別番組に差し替えられ、CM曲は自粛となった。由紀さおりに曲を書いた『ルームライト』も放送されなくなった。テレビ出演の拒否など、拓郎の生意気な姿勢・言動を腹に据えかねていたマスコミはここぞとばかりにこのスキャンダルを大々的に報じ、フォーク界の寵児をこき下ろした。
拓郎は女子大生を逆告訴しようとした。だが母の朝子が反対した。「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」。母は我が子の冤罪を晴らすことより、むしろ加害者である娘の幸せを願った。朝子は広島でルーテル派教会の信者であり、息子の逮捕後は無実を信じ教会で嘆願署名を集めていた。
84年に出した自著『俺だけダルセーニョ』には、「国家権力に血まつりに上げられ・・・マスコミに叩きまくられ・・・ここまでおちたらもう何も怖くない・・・大変なエゴイストが生まれた」と書いている。金沢事件が原因だろう、飲み屋で喧嘩をふっかけ、女を連れて飲み歩く、「そんな暮らしが2~3年は続いた」と続けている。後述する『襟裳岬』、フォーライフの立ち上げ、つま恋などはこの「2~3年」のできごとであり、比類なき業績を上げていた一方で、荒れた私生活を送っていたことになる。またこの事件について、2022年のアルバム『ah-面白かった』LP盤ライナーノーツでも多くの字数を費やし語っている。半世紀経っても、負った心の傷は癒えていない。
12月、傑作ライブ・アルバム『LIVE73』が発売される。ライブとはいえ、ほとんど新曲が並べられた野心作である。フォークシンガーと呼ばれることへの反発だろう、大胆なロックアレンジが施され、拓郎本来のR&Bテイストが爆発した。広島時代から、これぞがやりたかった音楽だった。後発のライブ盤はいくつもあるが、『LIVE73』は今なお圧倒的な高揚感を誇る。
74年(28歳) 襟裳岬
森進一に拓郎が作曲提供した『襟裳岬』が74年レコード大賞を受賞。歌謡曲界の権威ある賞をフォーク・シンガーが書いた曲を受けることは、日本音楽界の大きな転機を意味した。ましてやテレビの世界を拒否してきた男の作品である。授賞式に現れた拓郎は、正装が当然のなかにあって上下ジーンズ姿で登壇した。大会関係者のひんしゅくを買ったというが、拓郎ファンにとっては痛快なシーンであった。
「女なら都はるみ、男だったら森進一に書いてみたい」。ビクターレコード新人ディレクターの高橋隆は、拓郎の酒席の戯言を忘れなかった。高橋はソルティー・シュガーで活動し、大ヒットした『走れコウタロー』で流ちょうな競馬実況中継を聴かせている。同グループを解散後、ビクターに入社し、所属歌手である森進一と吉田拓郎の組み合わせを企画した。前述の通り、拓郎と森はともにデビュー前、渡辺プロで顔を合わせていた。両者とも押しも押されぬ大スターになり、再びの邂逅に至ったことになる。
12月に発売されたアルバム『今はまだ人生を語らず』は、『元気です。』に次ぐ売上を記録。前作『伽草子』発表が金沢事件の渦中でセールスを落としていただけに、吉田拓郎健在を世にアピールした。1曲目『ペニーレーンでバーボン』は膨大なことばの洪水を心地よいビートに乗せ、ファンの心を鷲づかみした。エレック時代や『元気です。』の当時は小・中学生であったなど、ファンになりきれなかった層も「第二世代」として新たに支持した。
10月28日から31日にかけては、神田共立講堂と渋谷公会堂で4日連続の公演を打った。当時、収容人員2000人規模会場での4日にもわたる連続公演は皆無であった。
75年(29歳) フォーライフ、つま恋、離婚
4月、フォーライフレコードを設立。大物ミュージシャンによる新しいレコード会社の設立に世間は驚いた。だが大手レコード会社は猛反発し、その傘下のレコードプレス会社がフォーライフのプレスを拒否するなど、波乱のスタートとなった。社長には小室等が就いた。拓郎ら4人から社長を互選することになり、無記名で投票。小室が満票で選ばれた。小室も自分に入れていた。
「音楽の流れを変える」。大きな志を抱いて出発したフォーライフだったが、当初から冷ややかな目で見られていた。フォークシンガーのなぎら健壱もその一人。「この4人はレコード会社ごっこをしたいのかと思ったね。アーティスト契約だけじゃなく経営にも参加するって聞いて早晩ダメになるだろうって。ほとんどの大手レコード会社がフォークに参入しているのに、今更何をやろうとしているんだろうかと失礼ながら思ったよ」
8月、静岡県のつま恋広場で開催された「拓郎 かぐや姫 つま恋コンサート」が開かれた。集まった大観衆は5万人とも6万人ともされ、主催者ですら正確な数はわからない。この伝説のコンサートについて、70年代ファンにはありきたりの記述は不要だろう、ここでは、さすがの拓郎も大観衆を前に極度に緊張したことだけ触れておく。
自身目当てのファンだけにもかかわらず、また72年の頃の「帰れコール」が浴びせられるかもしれないとの恐怖がよみがえったという。ビールを一気に飲みほしステージに上がった。歌い出しても震えは止まらなかった。それはバンドメンバーも同じで、演奏は狂い、まともな曲はほとんどなかった。内容的にはともかくも、このコンサートは吉田拓郎にとって金字塔となり、その代名詞ともなった。
9月、四角佳子と離婚。自身の深夜放送で発表。
75年は20代最後の年だった。30年経った06年、還暦を迎えた拓郎は当時を振り返っている。「若い頃、20代の吉田拓郎というのはとんでもない奴だったらしい。僕は純粋無垢な、バランスのとれた良い奴だと自画自賛してたんですけれど、違ってたらしいね。天下を取ったような気分で怖いもの知らずに言いたい放題やってましたね」。75年は、フォーライフ、つま恋、離婚と、その20代を凝縮したかのような波乱に満ちた一年だった。
76年(30歳)クリスマス
5月、フォーライフからの第一弾アルバムとなる『明日に向って走れ』を発表。前作『今はまだ人生を語らず』のパワフルさから一転、一曲目のアルバムタイトル曲をはじめ、全体も寂寥感が漂い、ファンは拓郎が受けた前年の離婚のダメージを否応なく感じることになった。
フォーライフレコードは76年3月の決算で31億円の売上を計上。外野の不安視をよそに、まずは順風満帆なスタートと思われた。だが拓郎自ら企画し11月に発売した、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる、小室等によるオムニバス・アルバム、『クリスマス』のセールスに失敗する。4人のファンがそれぞれ買ってくれるという甘い算段がいけなかった。常識を越えたイニシャル30万枚をプレスしたが、10万枚も売れなかった。ファンは4分の1しか入っていないアルバムは買わなかった。フォーライフの経営は一気に傾いた。
このアルバムは、当初は拓郎個人の作品として企画されたものだった。欧米のアーティストにとってクリスマスのアルバムはひとつのステイタスとされる。あるいは母・朝子の信心も影響したのかもしれない。ともかくも母は喜んだことだろう。それゆえ一転、息子が苦境に陥ることになり、さぞ心を痛めたと思われる。
音楽評論家の富沢一誠は、「吉田拓郎の全盛期は72年から76年あたり」とする。72年1月の『結婚しようよ』大ヒットがその始まりであるから、丸5年となる76年の末に、拓郎発案のアルバムがそのピリオドを打たせたことになる。
77年(31歳) 社長就任
拓郎は『クリスマス』で生じた赤字を埋めるため、急遽アルバムを作ることになった。だが曲がない。シンガーソングライターが、他人の曲をカバーすることになった。予算もなく、スタジオもミュージシャンも押さえられない。夜中の0時過ぎからレコーディングを行ない、メンバーも寄せ集めで、アマチュアがドラムを叩いた。風邪をひいたが治す時間もなく鼻声で歌った。レコード・ジャケットは拓郎がキャンディーズの伊藤蘭をイメージしクレヨンで書いた。4月に発売され、しかし皮肉にも、この年のフォーライフのアルバムで最も売れたアルバムとなった。営業はパート2を作ってくれと頼んだ。これには拓郎は頑として拒絶した。
『ぷらいべえと』で持ち直したものの、フォーライフの業績は好転しない。社内の空気は暗かった。4人のレコードの売上は、過去に比べ平行線か下降線をたどっていた。小室の経営姿勢に問題があった。4人の考え方も合わなかった。危機意識も異なった。陽水は我関せずであったし、逆に泉谷は社長を俺にやらせろと言い張った。拓郎が出ざるを得なかった。
3月、吉田拓郎は小室等に代わり社長に就任。髪を短く切り、その姿は一変した。自らの音楽活動を封印。社長業に邁進した。お飾り社長ではなかった。毎日スーツを着て誰よりも早く会社に行き、社員全員あつめて訓示をおこない、報告や数字もすべて見た。制作された作品をチェックした。社員の高い外食昼飯代を知り、弁当を手配すると反発されたりした。昇級やボーナスの査定をおこない、役員給料は一気に下げた。情に流されまいと鬼になった。社員も50人以上に膨れあがっていた。方針に従わない者は馘首した。
ゴルフのグリーン上では銀行と金利の相談をし、営業にもまわり、地方のレコード店主には不良在庫を責められた。レコード会社の社長と食事をし、大手プロダクションの社長会にも出席し、渡辺プロの渡辺晋社長、ホリプロ堀威夫社長らと酒を酌み交わした。「お前なにやってるんだ。バカヤロー」と怒られたこともあった。午前2時や3時に「いまから来い」と電話がかかってきた。行くと説教された。「会社ごっこは楽しいか」といじめられ、しかし可愛がってももらえた。
7月、浅田美代子と再婚。74年の提供曲『じゃあまたね』で知り合ったとされる。この77年にもキャンディーズに『やさしい悪魔』を書いている。2010年にインタビューした、熱烈な拓郎ファンである作家の重松清がこれらアイドルとのかかわりを話題に出すと、拓郎はこう返した。
「東京に出てきてからの音楽活動で何が楽しかったって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って作業する。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときの気持ちのよさといったら、もう(笑)」。正直な人である。これに対して重松は、「拓郎さんのそういう部分を、ファンは見まいとしてきた感じはあります」と、直球の苦言を呈している。
10月、拓郎がオーディションで見いだした原田真二を拓郎自身がプロデュースし、フォーライフのアイドルとしてデビューさせた。テレビ・ラジオなど主要メディアのみならず、あらゆるマスコミに売り込みをかけた。シングル盤『てぃーんずぶるーす』『キャンディ』『シャドウボクサー』の3枚は、10月から毎月1枚という、異例のローテーションで発売された。これは拓郎の発案であった。真二のルックスとポップス感覚はたちまちブームとなった。3枚のシングル盤は120万枚という驚異的な売れ行きをみせた。
だが拓郎の周囲には、手放しで喜べない空気もあった。表層的には評価されるべきだが、果たして本当に拓郎の手腕だったのか。プロデューサーとして真二をコントロールして大ヒットにつながったのか。計算しきった設計図の上で成された行為だったのか。情熱のほとばしるまま突っ走り、たまたま良い結果を得ただけではないか。実はクリスマス・レコードの失敗と紙一重だったのではないか。彼が本当の意味での社長、あるいはプロデューサーだったのかと疑問視もされた。
11月に発売された自身のアルバム『大いなる』は、前作『ぷらいべいと』よりセールスを落とした。『ぷらいべいと』は、いわばやっつけ仕事であり、新作はそれよりも売れなかったことになる。レコード・ローテーションでつくられただけと評する音楽評論家もいて、以降も大きな売上を記録することはなくなる。
78年(32歳) 復帰
3月から4月にかけ、全国15力所の小規模ツアーを行なった。心境に変化が起きていた。歌に対する渇望だった。社長業より、アーティストであるという自負が再び頭を持ちあげてきた。歌うことはやめて裏方にまわると宣言していたが、撤回となった。「おれってどうして、こうコロコロ変わるのかな…」。社長室にも姿を見せなくなった。
アルバム制作にも取りかかる。作詞家・松本隆やスタッフとサイパンに飛び、合宿を行い、10日で14曲を仕上げた。帰国後も創作は続けられ21曲となった。LP2枚組でもおさまらず、シングル盤も1枚付ける異例のアルバムができあがった。11月、『ローリング30』が発売された。
拓郎は合宿で松本に、「太田裕美の詞を書いてるんじゃねえぞ」と罵倒し、次々と詞を書かせ、流れ作業のように曲をつけたという。個人的感想を言わせてもらえば、自分ははっぴいえんどのファンでもあったのだが、そもそも都会的な松本隆の詞に吉田拓郎はマッチしていたのだろうか。速成でつくられたことも気になる。筒美京平も認めたメロディメーカーとはいえ、このアルバムのどこにも、70年代前半の魅力を感じることはできない。
自分のファン歴は『ローリング30』でフェードアウトが始まった。同じようなファンも多かったようだ。後年、拓郎はこうぼやいている。「ツアーやってると分かるんだ。客明かりで見えたりするし。俺がちょっと松本隆の歌なんか歌うと全然乗ってないのが分かるんだ。”あなたの細い手~”とかロマンティックな歌を歌ってると”何だい”みたいな顔してるわけ。”君が去った”とか歌うと”ウォー”ってなる。何十年それなんだっていう連中。いるんだよなあ」
79年(33歳) 篠島
つま恋から4年経った7月、「吉田拓郎・アイランド・コンサート・イン篠島」を開催。チケットは即日完売し、観客2万人を動員、オールナイトで69曲、8時間歌い続けた。ピークを過ぎたとはいえ、さすが吉田拓郎である。
もっとも、篠島は本人にとって不本意なコンサートだったという。当初は瀬尾一三のバンドがメインで演奏する予定であったのだが、リハーサルが上手くいかなかった。そこで急遽、松任谷正隆のバンドが多くの曲を肩代わりすることになった。思い描いていた形ではなくなり、やる気を失った拓郎は、台風や雷で中止にならないかとさえ願っていた。
70年代の終わり、拓郎を取りまく音楽の状況は好ましいものではなかった。松任谷由実やオフコースに代表される都会的な音楽、YMOを嚆矢とするコンピュータを駆使した新しい音楽手法、さだまさしや松山千春など抒情的なニュー・ミュージック、ツイストや甲斐バンド、サザンオールスターズ、ゴダイゴなどの新興ロック勢が拓郎を取りまいていた。70年代初頭に拓郎が切り開いたフィールドに、その先駆者をものともしない後続者が追いつき追い抜いていった。
12月31日、日本青年館でのコンサート。NHKの紅白歌合戦にぶつける形でフジテレビが生中継した。ここで拓郎は「もう古い歌は歌わない」と宣言する。過去との決別であり、これまでのレパートリーを捨てる。これが吉田拓郎の70年代の締めくくりとなった。アンコールの拍手に応えることなく、再びステージに上がることはなかった。会場の観客のみならず、古い歌を歌わない宣言にテレビの前のファンも大いに落胆した。
この宣言は一体何を意味していたか。『ローリング30』など、新しい歌が受け入れられない怒りだったのか。70年代前半までの古い歌ばかり受ける苛立ちだったのか。新しい音楽の潮流が押し寄せる中、時代に取り残される焦りがこの宣言を言わしめたのか。
09年、拓郎はインタビューで、篠島をこう回想している。「80年代の始まりの頃から音楽はすごく様変わりして、日本本の音楽のシーンも変わってきて、それまでのフォークだのニューミュージックだのが明らかに先細っていて、こういう時代が終わるという予感はしていた。それは、79年の篠島をやった時に、自分がやっている音楽がそんなに新しくないということをすごく思った。自分は新しいことをやっているわけじゃ全然ないということに篠島で気づき始めて。もうそういう先端にはいないんだなと。イベントとかをやってるという事実はそれはそれであるんだけど、音楽的にはちっとも新しくない。そんなことを70年代後半、80年代頭頃から思い始めてましたね」
80年(34歳) 「彷徨っている」
4月からのツアーでは、前年の宣言通り、過去との決別を実行した。曲目には新しい歌がならべられ、代表曲の『春だったね』や『落陽』を歌うことはなかった。観客の反応について、石原信一著『挽歌を撃て』には「戸惑い」「過去の歌を切望」とある。とはいえ、セットリストには『マークⅡ』『土地に柵する馬鹿がいる』『おきざりにした悲しみは』ら古い歌が含まれていて、完全な決別ではなかった。決別とは「メジャーな古い歌」を意味していたのだろうか。いずれにせよ、2年後のステージで『春だったね』なども”復活”することになるのだが。
5月に発売したアルバム『シャングリ・ラ』の収録ではロサンゼルスへ飛んだ。初めての海外録音である。だが拓郎自身が積極的に取り組んだものではなかった。「70年代で俺はやりたいことをやりつくした。80年代はなにをやればいいのかわからない」と惑う拓郎に、スタッフが提案したものだった。海外録音はこの数年前から一般化している。時代を切り開いてきた吉田拓郎にとってふさわしいものだったのだろうか。
「彷徨ってるよね。『シャングリ・ラ』でロスヘ行ってみたけど何も分からないし、行ってはみたけど迷い始めてるね。自分がよく分かってない。例えばマネージャーに『R&Bが好きだったらこんなレコーディングしたらって言われたら、おお、やってみようかってなるし、フォーライフのレコーディングディレクターに『こんなミュージシャンとやってみたらどうだ』って言われたら。おおそうか、やってみようかなって、人の企画とか人のアイデアで動いている」
「80年代を迎えた頃から自分がよく分からない。何でもやろうと、人が持ってくる企画に乗ろうという感じになっちゃってた。俺が俺がという感じじゃなくて、人が勧めてくれるものはやってみようという。 90年代後半まではそんな感じだったような気がする。テレビで番組始めるじゃない。50歳を迎える頃からか。あの頃までツアーにすごい積極性を持って出ようというのはないよ」
11月、この年の2枚目のアルバムとなる『アジアの片隅で』を発表。1年に2枚のリリースはかつてはないことだった。あるいは、方向性を求めての迷いの表れだったのだろうか。そのためか、この作品のトーンは重い。アルバムタイトル曲『アジアの片隅で』のシリアスさは『元気です。』の明るさと対極にある。
自分はそれまで聴いてきた吉田拓郎とはあきらかに変質したように感じた。以降、新作を手にすることはなくなった。後年、レンタルCDが流行ったとき、本作以降のアルバムをごっそり借りたことがあった。だが残念ながら心惹かれる曲はなかった。
81年(35歳) ヒット狙いも不発
資生堂夏のCMソング『サマ・ピープル』をリリース。ヒット曲狙いの作品であった。その魂胆をファンのみならず世間も見抜いたのか、さして当たらなかった。拓郎自身も「あれはないよな、歌っちゃいけない歌だ。オレに対して思い入れがある人に対して絶対歌っちゃいけない。言われたさ、なんでお前が今さらCMなんだってね。でも、関係ないよ。オレは自分自身のために歌ってんだから、ファンに責任は持てないよ。そんなオレを”いらん”というなら、勝手に生きればいいんじゃないか」
一昨年の末に「古い歌は歌わない」と宣言していた。たしかに翌年からのツアーでは、ファンの望む『春だったね』などがリストから外された。だが一方では、これも支持が多い『夏休み』や『イメージの詩』などが歌われた。「古い歌」の定義は何なのか。「オレは自分自身のために歌ってんだから、ファンに責任は持てない」という主張のひとつなのだろうか。
4月に、小室等、井上陽水とニューヨークに飛んだ。TBSラジオの収録として、摩天楼の街角でギターの弾き語りをした。前年12月にジョン・レノンが暗殺された、ダコタハウスの前ではビートルズ・ナンバーを歌った。すると目の前をオノ・ヨーコが通り過ぎた。「こんなことってあるんだ」と拓郎は感きわまった。「ジョンが死んだ40歳までは歌う」。拓郎がそう口にするようになったのは、この偶然のできごとからとなる。
82年(36歳) 社長退任
6月、吉田拓郎はツアー中の株主総会でフォーライフ・レコード社長退任を表明。6年の在任であった。これから17年経った99年、インタビューで退任当時を問われ、こう語っている。
「結局6年、社長やったのかな。その間、僕は音楽は一切やってない。5年間は社長を本気でやろうと。毎日スーツ着て、誰よりも早く会社に行き・・・(中略)(社長業は)面白くないですよ。だけど僕は何でも面白がる人なんです。だから。中途半端に社長やってると楽しくなくなっちゃうから、きっぱりと音楽はやめた」
この「(在任中は)音楽は一切やってない」、「きっぱりと音楽はやめた」は事実ではない。在任していた77年~82年にかけて毎年アルバムを発表しているし、コンサートも77年以外すべて開催している。篠島も79年である。ならなぜこう口走ったのか。この当時の音楽的に行き詰まりや、情熱も欠如していたとの記憶が、過去をこう表現させたのだろうか。
このインタビューでは、社長退任後となる「30代後半から40代後半までは苦しかった」と吐露している。50歳からは「LOVE LOVEあいしてる」が始まっているから、このテレビ番組で苦しい時期を脱したということなのだろう。つまるところ、31歳の社長就任以降50歳に至るまで、吉田拓郎は長い長いトンネルにいたことになる。
5月、ツアー「王様達のハイキング」開始。本数は60本近くに上った。73年以来、およそ10年ぶりの多さである。青山徹やエルトン永田、島村英二らバック・ミュージシャンは拓郎お気に入りの面々であり、女声コーラスを配し、カラフルにショーアップされたステージに立った。一アーティストに戻った吉田拓郎はまさに王様に見えたという。そして『春だったね』などが”復活”し歌われた。79年の「古い歌は歌わない」宣言はここに撤回となった。前言を翻そうと誰にも文句を言わせない。まさに王様ゆえの特権なのか。
83年(37歳) コンピュータ
アルバム『マラソン』を発表。自宅のコンピュータでデモテープを制作した。YMOが時代の寵児となり、この年には”散開”している。音楽にテクノロジーという、かつてなかった方法論は定着して久しく、実は拓郎はこの制作手法に一早く関わっていた。『マラソン』のレコーディングは通常のかたちでおこなわれたが、一部の楽曲は拓郎がつくったデモ・テープがそのまま使われた。11月にはこの年2枚目のアルバムとなる『情熱』を発表。前年の社長退任後、精力的に創作活動を行った。
09年、コンピュータ音楽に関し、こう語っている。「新しいものが好きなわけですよ。その頃、俺が好きだった音楽といえばね、ちょうど音楽が変わってきて、コンピュータが出てくる匂いがする。それとかシンセサイザーというもののサウンドが溢れてくる時代になっていて、生の演奏じゃない音が聞こえてくるわけじゃない。いわゆる加工するということ、手作りじゃなくてね。それに興味を示す訳ですよ、僕は。新しいもの好きだからさ。それはもう明らかにフォークなんてものじゃないし。”王様達のハイキング”のような演奏でもないわけ。ああいう血と汗とみたいなのじゃなくてさ。スタジオで加工する音楽を心地好いという感覚を持っていたわけ。まあ、自分が向いてる向いてないっていうのはあると思うんだけど俺はしてみたくなってた。だからやたらと機材を家に買い込んだり、いろんなスタジオ作ったり、チャンネル数の多い卓を置いてレコーディングやってみようとか。色んな本を読んだり勉強したりして、そっちへいくんだよね、気分が」
拓郎は当初譜面を読めなかった。コンピュータを扱うことで読めるようになった。ストリングスのアレンジもコンピュータで行うまでになった。だが70年代のファンにとって、吉田拓郎とコンピュータ音楽は対極の存在だった。ある音楽誌に吉田拓郎の交遊録が載った。その中に高橋幸宏がいた。拓郎ファンの中には、YMOのユキヒロとの付き合いが理解できない者がいた。テクノポップが広く流行し、新しい音楽に順応できない古い世代は戸惑っていた。
84年(38歳) 陰る観客動員
拓郎の武道館コンサートは79年から始まっていた。音楽評論家・富澤一誠はその全てに観客として参加していた。5年目となる84年は様相が異なった。2階席や3階席に空席が目立ち、富澤はショックを受けている。以前からレコード・セールスにおいてその傾向はあったが、頼みのコンサートでも拓郎離れが始まった。72年のブレイクから十年以上が過ぎていた。当時吉田拓郎に熱狂した若者の多くは社会人となり、あるいは結婚し、子供ができ、それぞれが生活するために雑多な枷を負うようになっていた。音楽は生活から消え、遠い存在になっていた。
上の記述は、富澤が84年に上梓した、『ぼくらの祭りは終ったのか ニュ-ミュ-ジックの栄光と崩壊』を元にした。拓郎人気の衰えは”同業者”も感じていた。この本にはシンガーソングライターの小椋佳の辛辣なことばが紹介されている。
「僕も含めて、陽水さん、拓郎さんがかつてほど受けなくなっていることは、僕は当然だと思っています。だって考えてみれば、大した芸もなくて、それでもあたかも芸人のようにお金を稼いでいたわけでしょう。それで芸人であればエンターテイナーであるべきなのが、彼らはエンターテイナーとして生きてたんじゃなくて、なんか身勝手な主張したことがたまたま時代の波とあっただけだから。そこにマーケットがあったわけですよ。そのマーケットと繋がったら、たまたま偉大なエンターテイナーのごとく稼いだわけでしょう。ところが今はそのマーケットがなくなってしまった」
この年、読売新聞が「あなたの好きな歌手は?」という調査を行っている。ニューミュージック系としては、松山千春、松任谷由実、谷村新司、小椋佳、五輪真弓の名が入っている。だが70年代前半を席巻した、吉田拓郎や井上陽水の名はない。かつて彼らを熱狂的に支持した世代は、十年でその名を忘れてしまっていた。
この84年から15年後、拓郎はTBSのトーク番組『拓郎のお喋り道楽』でホストをつとめている。大友康平をゲストに迎えた回では、新しい世代の音楽を理解できないと洩らした。「桑田(佳祐)君や大友君たちの音楽くらいまでが許容範囲ですよ。そのへんまでだったら、しびれるなぁって曲があったりするんだけど、今のはしびれられないよ、全然。これ、どこがいいか教えろっていうくらい何がなんだかさっぱり分からないですよ。それが、すごい枚数で売れてるじゃない、何百万枚とか」。
84年は小室哲哉率いるTM NETWORKがデビューしている。彼らがブレイクするのはすこし先になるが、拓郎は大友にこうも吐露している。「おれ、はっきりいって小室哲哉の音楽は分からない。彼にも分からないって言ってるのだけれど、一生分からないんじゃないかって思うんだよ」。70年代初頭のデビューから十余年、かつて日本の音楽界に新風を巻き起こした吉田拓郎だったが、時は流れ、彼を取りまく音楽環境はその理解を超越しつつあった。
その小室哲哉は吉田拓郎をどう認識していたのか。09年、小室は『罪と音楽』を著わしていて、「吉田拓郎の『祭りのあと』が大好きだ」と記している。小室が引き起こした詐欺事件後に出た本だが、事件後の苦しい状況・心情によるものではなく、若い頃から好きな歌だったという。拓郎のポップな曲ならまだしも、『祭りのあと』は小室の音楽とはあまりにかけ離れていて信じがたい話だが、「詞曲とも感服している」と書かれてある。自分は小室と同世代ながら、その音楽は理解できないが、小室が自分と同様に吉田拓郎の音楽の洗礼を受けていたことに親近感を抱いてしまった。
10月、発表したアルバム『フォーエバーヤング』の1曲目は『ペニーレインへは行かない』である。十年前の『ペニーレインでバーボン』のセルフ返歌といえる。この店がある原宿の街が様変わりしたことにより作られたというが、R&Bの傑作『ペニーレインでバーボン』にシビれたファンにとって時の流れを感じさせるに十分な歌だ。このころ自分はすでに新作を聴かなくなっていたが、何かでこの曲を知り、吉田拓郎の存在がさらに遠くに感じたものだった。さらに後年、実は拓郎はバーボンが苦手だと知った。ペニーレーンでもレミーマルタンを好んで呑んでいたという。語呂の良さからのバーボンだったのだろうか。あの歌にまさに酔いしれていた自分は何だったのだろうと思った。
85年(39歳) 引退の噂
7月、「ONE LAST NIGHT IN つま恋」を開催。75年以来二度目となる、つま恋オールナイトコンサートとなった。前年の武道館コンサートでは動員力の衰えが顕在化したが、つま恋ブランドと言うべきか、3万8000人の大観衆を集めた。この日拓郎は「生涯最良の日にしたい」と登壇し、「楽しませてもらったぜ、サンキュー」と叫びステージを降りた。
この年の春、「拓郎が引退するらしい」との噂が流れていた。本人は引退こそ口にはしなかったが、週刊誌の取材に語った「ピリオド、区切り、けじめ、70年代の幕引き」が憶測を呼んだ。実際、つま恋の後、ギターを一本だけを残して他をすべて仲間に分け与えている。
つま恋に先駆け、6月に発売されたアルバム『俺が愛した馬鹿』のジャケットもギターのみで、本人の姿はない。音楽評論家・田家秀樹は解説本で「ギター・サウンドとはほど遠い打ち込み音で、力量感もない」と評している。収録曲の『誕生日』では「僕は今日を最後に雲隠れ」とあり、実際、「すべてに飽きた、終わりだ」と拓郎は人前から姿を消した。これから2年間、月2回のラジオ収録以外、ほとんど家から出ない暮らしに入った。
「80年代の前半からもう、自分のやることなすこと確信がなくなってたからね。その頃、俺が好きだった音楽といえばね、コンピュータが出てくる。シンセサイザーというサウンドが溢れてくる時代になっていて、生の演奏じゃない音が聞こえてくる。それに興味を示す訳ですよ、僕は。新しいもの好きだからさ。そっちの方を本気でやってみたいとか思うタイプ。だから打ち込みとかシンセサウンドをやってみたいとか自分でやってみて自分で把握したい」
前出の重松清は、80年代の前半にラジオから流れた拓郎のことばが印象に残っている。あるバンドが解散したことから、「いいなぁ、オレも吉田拓郎を解散したい」と洩らしたのだ。ソロのミュージシャンは解散できない。70年代の、自ら確立したイメージを払拭し塗り替えることは容易なことではなかった。
6月には、司会も務めた「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」が旧国立競技場で開催された。6万人を集めた大規模イベントで、はっぴいえんど再結成で出演した大瀧詠一は、この催しを「ニューミュージックのお葬式」と自虐した。事実、大瀧は『ロング・バケーション』を始めとするヒット作を世に出した後、以降は仙人と呼ばれるほど寡作になった。拓郎に限らず、70年代に活躍したミュージシャンはそれぞれの岐路に直面していた。
10月、拓郎の母が亡くなる。持病で長い間床に伏せていた。亡くなる5年前、帰省した拓郎は母に叱責されている。「最近のあなたの言動は許せません。人を傷つける傲慢な言い方はよくありません。歌を聴いても、全然感動しなくなりました」。母は息子の深夜放送を録音し、マスコミの記事を切り抜き、つぶさにその行動を知っていた。「きっとおれは東京にいて年々変わってるんだよな。面倒くさくてついうるさいって言っちまう。しっくりいかない原因はおれの方にあるんだよな…」。母は亡くなる3年前にも、新曲『王様達のハイキング』に「傲慢で偉そうだ」と苦言を呈している。以後、この歌はステージで封印された。いくつになっても息子は母に頭が上がらず、母は最期まで息子を案じていた。
86年(40歳) 映画出演
1月に公開された、日本テレビ『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。主題歌や劇中歌を歌い、準主役でもあったが、撮影の苦労に辟易し、何ら評判にもならなかったという。自分は今回、動画サイトでその出演シーンを観たが、あの吉田拓郎が濡れ場を演じていて驚いた。当時これが話題にならなかったのなら、落胆も無理はないと思う。拓郎はこの時期のインタビューでも、「映画に出演して、他に何もない。もうやり尽くした。飽きた」と、昨年から続く厭世的な言葉を吐いている。
一方で、9月にはアルバム『サマルカンド・ブルー』を発表。引退示唆発言からすれば、前言撤回作品となる。これは『幕末青春・・・』で音楽を担当した加藤和彦の働きかけによるものだった。加藤がプロデュースし、すべての作詞を妻の安井かずみが手がけた。2回目の海外レコーディングであり、初のニューヨーク録音となったが、そもそも拓郎にはやる気がなかった。夫妻に説得され、当地にも半ば無理矢理連れて行かされた。結果、拓郎の自己評価も厳しい。「失敗作ですね」とし、ステージでもこのアルバムの曲はほとんど歌っていない。
安井かずみと同じ女性作詞家である阿木燿子は、この年40歳を迎えた吉田拓郎をこう評している。「拓郎さんはきっと四十年間で、何百年も生きた感覚があるんじゃないかしら」。拓郎と同世代で、一足早くキャリアをスタートさせた阿木は、同じ業界人として波乱に満ちた吉田拓郎の歩みを見続けてきた、その実感なのだろう。それにしても四十年を「何百年」と表現するとは、ことばを生業とする作詞家だけに、意味するところは重い。
この86年はコンサートを開いていない。映画出演と気の進まぬアルバム制作と、拓郎は休眠状態にあった。フォーライフにも所属するユイ音楽工房にも拓郎の担当者はいなかった。
12月、森下愛子と再々婚した。
87年(41歳) 休眠続く
月2回のラジオ収録がベースの年となった。表立った動きは、南こうせつ「サマー・ピクニック」のゲスト出演と、松本隆の映画『微熱少年』にカメラマン役での出演など数えるほどしかなく、アルバム発表やコンサートツアーはなかった。
88年(42歳) 再始動
88年、拓郎が望んだのは、42歳にしての「再」デビューだった。1月、16年間所属していたユイ音楽工房を離れ「宇田川オフィス」を設立する。実質的な個人事務所である。85年を最後にツアー活動を休止していた間、フォーライフとユイに拓郎の担当者はいなかった。「拓郎さん、そろそろ歌いましょうよ」と声を掛け続けていたのが、フォーライフの宣伝課長・宇田川幸信だった。宇田川はフォーライフを辞め、吉田拓郎の復活に賭けた。
3月、シングル『すなおになれば』発売。サッポロ・ドライCMソングとなり、楽曲のみならず、自らはじめてCMに出演している。4月にはアルバム『MUCH BETTER』を発売。1年7ヵ月ぶりの新作で、コンピュータによる打ち込みサウンドである。「飽きる」という言葉を公のインタビューで何度も口にしてきた拓郎からすれば、情熱を傾けられる制作手法だったのだろうか。
3年ぶりとなるツアーにも出た。名古屋、大阪、東京では、ライヴ・ハウスに出演した。デビューした当時、ライヴ・ハウスはほとんど存在せず、72年の渋谷・ジャンジャンが唯一であった。40代での本格的な初出演となったのだが、東京・日清パワーステーションでは、至近距離で「拓郎コール」の嵐を浴びてしまう。吉田拓郎というアーティストの宿命というべきか、音楽的な評価より、ファンはその存在そのものに価値を見出していた。これに懲り、以来ライヴ・ハウスには出ていない。
後年、このツアーを問われ、「あの辺も彷徨ってるね。あの頃のバンドも納得してなかった。その頃って宇田川オフィスでしょ。80年の中盤から後半は、社長とかをやってたりした時期に知り合った業界の他の人たち、フォークやニューミュージックじゃなくてザ・芸能界というような人たちと仲良くなったりして、そちらの人たちと、他の人の曲を作るとかも含めて人のアルバムに参加したりとかいうことに割と熱中してた頃だと思う。だから自分のアルバムとかなんとかよりも、むしろアイドルたちの曲を書いたりとかを熱心にやってたな」
この頃の観客動員はどうだったのだろう。田家秀樹は、88年の状況についてこう記している。「40代のアーティストが活動していくうえでむずかしいのは、若いときに音楽とともに人生を共有していた聴き手が、生活を抱えてしまうことなのだ。家庭ができ、家族ができる。そして、仕事に追われるうちに、コンサートに行くという行為とは無縁になっていく。そういう意味では、茶の間に入っていくCMという形で再開を印象づけた」