松平純子『両国橋』& 由紀さおり『ルームライト』 吉田拓郎作品 知られざる創作エピソード | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 昨年末に放送されたラジオ番組「オールナイトニッポンゴールド」。ここで吉田拓郎は『両国橋』を語りました。1975年に彼が作曲し、女優であり歌手であった松平純子に提供した歌です。

 拓郎ファンであった自分はこの歌も気に入り、よく聴いていました。しかしさしてヒットしなかったようです。レコード会社は拓郎人気を当て込んだろうに、その思惑は外れました。以来、メディアでこの歌が語られることはなかったかもしれません。

 今回拓郎が口にしたのも、作詞者である喜多條忠が亡くなったからでしょう。逝去は当放送の直前のことであり、悼む意味で拓郎はとりあげたようです。下の本文は、その文字起こしとなります。作者本人こそが語れる創作エピソードです。

 『両国橋』は、その後由紀さおりがカバーしました。有名な歌手ですから、いまや彼女の持ち歌と思われているかもしれません。自分としては、耳に馴染んだ松平純子版の方が好きなのですが・・・。

 それはさておき、今日はこの関係性から、そして同じく拓郎が作曲した、由紀さおりの『ルームライト』のエピソードも紹介させてもらいます。自分はこの歌もとても気に入っています。吉田拓郎の他者への提供作品(作詞は岡本おさみ)としては、『両国橋』と並ぶ双璧の傑作とさえ思っています。あの所ジョージも、拓郎作品の中で『ルームライト』が一番だといいます。拓郎自身もアルバム『ぷらいべえと』でセルフカバーしています。

 ですがこの歌は不運に見舞われました。発売直後におこった「金沢事件」です。拓郎が金沢の女性への暴行容疑で逮捕されたのです。しかしこの事件は女性の虚偽の申告によるものでした。拓郎の嫌疑は晴れましたが、騒動の余波のため、『ルームライト』はメディアで流れず、ヒット曲とはなりませんでした。由紀さおりは自著でそのことを惜しみつつ、『ルームライト』への深い思い入れを語っています。

 以下、これらの内容は例によって引用だけの代物ですが、当時を知る拓郎ファンには、そこそこ興味をもっていただけると思います。まずは2021年12月17日、「オールナイトニッポンゴールド」での吉田拓郎のトークからです。

 

 

 

 

 (番組に)由紀さおりの『両国橋』のリクエストが来た。だけどあれは由紀さおりさんの歌ではなく、彼女がカバーしたもの。ポップでいいアレンジで、由紀さんはうまく歌っている。

 『両国橋』はたしか70年代の半ばに、東映の映画でデビューした、松平純子さんというきれいな女優さんがいて、この方からボクに作曲の依頼が来たもの。当時ボクにはいろんな依頼が来始めていた時期だった。けれど自分の全国コンサート・ツアーなどが忙しくて、詞が誰だとか構わず依頼を受けていた。曲自体は一生懸命つくったけれど、詞は誰が書いているか考えていなかった。まぁ、適当な、やっつけ仕事だった。

 松平純子さんもどんな歌を歌うのかよく知らないまま、きれいな女の人だなぁくらいで、引き受けた仕事だった。で、これは、詞は当時の喜多條忠らしい、両国橋という場所で恋をするとよくないという、なかなかおもしろい設定の話。

 この曲のアレンジは、『ライブ’73』というアルバムのブラス・オーケストラのアレンジをやってくれた、ジャズサックス奏者の村岡健さんだった。村岡さんのブラス・アレンジが、『ライブ’73』のファンクな、ソウルな感じを醸し出してくれた。この村岡さんが『両国橋』をアレンジした。

 ところが当時はまだまだブラス・ロックがどうのなんて日本じゃなかった。ましてや松平純子さんが歌う曲というのは、この人がファンクな歌手じゃない。一般的な歌謡曲の人だったはず。ところが村岡さんという人が、無茶苦茶なブラス・ロックのアレンジをしたんで、かっこいいんだけれど、時代的にちょっと誰にもわかってもらえないくらい先に行っちゃっていた。すごい先端を行く歌謡曲のアレンジをしてしまった。

 だけどいいよ。いま聴いても、この時代にこれはすごいというアレンジになっている。曲も気に入っているけどなぁ。「人から聞いた話だけれど・・・」。このマイナーな感じが、拓郎さんうまいなって感じ。自分で言うか。今日は喜多條を偲んで・・・、これが喜多條とボクの処女作だと思う。ここからあいつとの作詞作曲コンビがはじまったと思う。喜多條は、あっちで(趣味の)ボートレースにうつつを抜かしているはずだから。

 

 

 お気づきになられたでしょうか。『両国橋』について拓郎は、「一生懸命つくった」と言った尻から、「適当な、やっつけ仕事だった」と訂正?しています。一生懸命というワードが急に恥ずかしくなり悪ぶったのか、あるいは本当に適当だったのか。そもそもこの方の言うことは、よくコロコロ変わるのであまり信用はできないのですが・・・。

 いずれにせよ、拓郎がこの時期多忙だったのは事実でしょう。そのような中にあっても、自身の歌も人に提供する曲も高水準のものが多かった。拓郎は稀代の作曲家筒美京平も認めるメロディ・メーカーだったのです。やっつけ仕事だったのであればなおさら、素晴らしい才能・感性の持ち主ということになります。

 

 

 

 

由紀さおり著
『明日へのスキャット』 2019年刊から


 70年代、音楽活動も総じて好調でした。『恋文』『春の嵐』『挽歌』……。歌謡曲といってもポップスに近いものから、和の音階を取り入れたものまで、幅広く人気を勝ち取ることができました。

 同じそのころ、当時全盛だったフォークやニューミュージックのアーティストの方に曲をつくっていただくことも試みました。私が由紀さおりとして最初にレコードを出したのが、東芝のエキスプレスレーベルという、ニューミュージック系のレーベルだったこともあって、フォークやニューミュージックの方々と、ディレクターを通じて接点があったのです。

 その最初の作品が、吉田拓郎さんが曲を書いてくださった『ルームライト』(1973年)でした。私はそれまで曲をいただくときは譜面があって、それを見て覚えてきたのですが、拓郎さんのときは、ご自身が弾きがたりで歌ったテープが送られてきただけです。聞いてみると、とても新鮮なメロディで、吉田拓郎さん独特のフレーズに、言葉が踊るように乗っていました。

 「あ、面白い曲だわ」

 すぐ、心を掴まれました。そして、いつものように譜面にして覚えようと、そのメロディを音符に起こしてみて驚きました。譜面にしたら、細々とした16分音符の多いこと。1小節に音符が詰め込まれていて、上がったり下がったりの音の動きやリズムの多様なことといったら。そして音が「揺れる」んです。自分で弾いて歌っていると、細かな音符を歌うときは一定のテンポではなく、微妙に小節最後の4拍目はその細かなフレーズを気持ち待って、次の小節に移るんです。だから、気持ちよく「揺れる」曲ができるんだ……。

 五線紙に音符を書いて作曲しているだけでは出てこないニュアンス、テクニック、フレーズの作り方がある! そのことに気づいた私は衝撃を受けて、途中で譜面を見て歌うのをやめました。譜面を見て覚えるその先に、自分で感じ作る由紀さおりの節まわし、これを産み出すために時間をかけ、努力をしなくてはと悟ったのです。

 そうして出会った曲、とても思い入れのある『ルームライト』でしたが、実はいわくがありまして。レコードが発売された直後に、なんと、拓郎さんがいわれなき事件に巻き込まれてしまわれて……。そのせいで、この曲は当時、ほとんどオンエアされなかったのです。それは残念でした。でも、私にとっては大好きな曲だったので、今でもコンサートではよく歌っています。

 少し前のことになりますが、「私はこの曲が好きで、ずっと歌ってますよ」、と拓郎さんにお伝えしたいなあ、と思っていたところ、プロデューサーの飯田久彦さんが機会をつくってくださって。拓郎さんと、お元気だったころのムッシュかまやつさんと4人でご飯を食べに行きました。約40年ぶりの再会。とても嬉しかったです。

 

 

 由紀さおりは今も第一線で活躍しています。ですが自分が愛聴したのは『ルームライト』だけ。ましてやプライベートには関心はなかったのですが、今回引用した彼女の自著で結婚歴(離婚)があることを知りました。相手はCM音楽プロデューサーの大森昭男でした。

 大森昭男といえば、大瀧詠一を三ツ矢サイダーCMで抜擢し、その存在を世に知らしめた人です。大瀧のファンであり、その作品群の中でもサイダー・シリーズが好きな自分としては、思わぬところにその名が出てきたことになります。この方はすでに故人なのですが、大瀧も喜多條も、そして『ルームライト』の作詞者岡本おさみもみな亡くなっています。わが青春期の音楽を形成してくれた人たちの多くがいなくなってしまったことに、今さらながら時の流れを感じてしまいます。

 一方、松平純子はその後どうしたのか。Wikipediaには結婚し引退したとあります。実は、拙文の資料として入手した当時の週刊誌に結婚の記事があり、相手の名も記されていました。職業は医師であり、検索すると現在は首都圏の大都市のクリニック院長だという。芸能界での大成は叶いませんでしたが、彼女はその後よき伴侶に恵まれたようで、なんとなくホッとしました。


 では最後にもうひとつ、引用文を紹介させてください。喜多條忠が1975年に書いたエッセイ本『この街で君と出会い』からです。拓郎との関係性を綴ったもので、『両国橋』が書かれる前の、ふたりの間に流れる微妙な距離感・緊張関係がおもしろい。(写真も同著から)

 

 

 

 

 

喜多條忠 著
『この街で君と出会い』
1975年


 僕は『神田川』が出るまでに、歌の詞を四つ、出てからは、二百ほど書いたが、今までに、よしだたくろう作曲のレコードは一枚もない。人は、そのことを聞くと、驚いたような顔をするが、本当である。たまたま偶然にそうなのだと言ってもいいのだが、実はかなり必然的な結果であるような気もする。南こうせつとは、家族ぐるみの交際をするが、僕はまだたくろうの家へ遊びに行ったこともない。

 非常に言いたくないことなのだが、アイツは、オレの心がどこかわかっているらしいという照れにも似た部分をおたがいに感じているような所がある。そして、たくろうは、いっしょに酒を飲むと「作家同志が、ベ夕べ夕しても、ロクなことはないだろう」という風に表現する。

 そこには彼独得のパラドックスがぷんぷん匂う。そして二人は、酒を飲むだけである。二人でいい歌を作ろうなどとは、二人とも恥ずかしくてとても言えない。現に、「よしだたくろうさんと組んで下さい」とディレクターに言われて、僕が書いたものには、ロクなもの、がない。何故か気負ってしまう。そのくせ飲むと、たくろうは、『マキシーのために』(かぐや姫)という僕のデビュー曲を讚め、僕は、メロディ・メーカーとしてのたくろうは、当代一の才能だと評価する。実に変な関係だ。

 ひょっとしたら、二人は、このまま、時々顔が合ったら、酒を呑む関係のままで終わってしまうのかもしれない。それもいいだろう。でも、いつか二人でいい歌がひょっとしたら作れるかもしれない。そして、おたがいわがままでいたい。おたがい弱虫のくせに強がっていたい。おたがい、「アイツと俺とは全然違うョ!」と言い張っていたい。そしてまた、仲良く酒を飲みたい。
 

 

 お読みいただいておわかりのように、ふたりはさほど親密な関係ではなかったようです。ですがこのあとは『両国橋』をはじめ、中村雅俊の『いつか街で会ったなら』などで手を携えました。引用した本のタイトル『この街で君と出会い』もその詞の一節であり、喜多條の拓郎へのリスペクトを感じることができます。また拓郎の方も近年のラジオ番組では、折に触れ喜多條のことを話のネタにしていました。拓郎という人は根が正直な人ですから、話題にすること自体、喜多條は気になる存在であり続けたはずです。

 

 この本から二十年ほど後の1990年代、拓郎はフォークソング期の人間関係を絶ちました。昔話ばかりする関係性がイヤになったという。この中には喜多條も含まれていたはずです。なのに再三彼を語っていた。今回の放送では軽く触れただけでしたが、心の奥深くには様々な感慨が去来していたのでしょう。だからこそ彼との最初の作品、『両国橋』を語ったのだったと思われます。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

松平純子『両国橋』 &

 由紀さおり『ルームライト』

吉田拓郎作品の知られざる創作エピソード