『解説をあつめて』2  はっぴいえんど全曲解説集『ライブ・はっぴいえんど 1973.9.21』編 | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

1974年に発売された、『ライブ・はっぴいえんど 1973.9.21』。

以下は、そのLP盤ライナーノーツからの引用文です。

北中正和、富沢一誠、そして松本隆の三氏によるもので、いわば伝説のバンドの貴重な「同時代資料」といえます。

 

はっぴいえんどファンならご存じのように、このライブ盤(以下9.21)の演奏は、スタジオ盤とは趣がかなり異なります。

ロック色が強く、オリジナルが好きな方からからすれば違和感が大きいかもしれません。

また引用した文は総評的なものであり、タイトルの「全曲解説」にはそぐわないものです。

ですが自分としては、この「9.21」は、ファンク・ロック感いっぱいの『はいからはくち』をはじめ、お気に入りの楽曲が多い。

 

今回の『解説をあつめて』2をアップしたのは、「9.21」を語りたかったこともあります。

お目通していただければありがたいです。

 

 

 

 

 

「フォーク&ロック・シーンの状況を塗りかえたはっぴいえんど」
富沢一誠


 ひとつの伝説が破れて新たな神話が生まれ、新らしい歴史の幕は切って落とされた。73年9月21日、東京の文京公会堂で行われた〈CITYコンサート〉でのことである。このコンサートはあいにくの雨降りにもかかわらずはっぴいえんど解散以来はじめて4人か集まって演奏するということで、その姿を演奏をひと目でも見よう、たった一度でもいいから聞こうとする人達で店員千人の会場は超満員だった。

 そんな超満員の熱気にあてられてか、ステージも迫熱していて、細野晴臣、鈴木茂らが新しく作った〈キャラメル・ママ〉、大瀧詠一がプロデュースをしているという〈ココナツ・バンク〉、松本隆の二ュ-・グループ〈ムーン・ライダース〉のステージは素晴しかったが、なんといってもこの日の圧巻は、元〈はっぴいえんど)の演奏だった。この日まで「はっぴいえんどはレコードのグループでステージは最悪だ」と伝説的までに語りつがれてきたが、この日の演奏を聞いた人は、その伝説が見事なまでに崩壊していく様子をまざまざとながめ。そして「はっぴいえんどは最高だった」という新たな神話が生まれつつあることを肌で感じとったと思う。それほどまでにこの日のくはっぴいえんど〉の演奏は素晴しかった。おそらくレコード以上のできではなかったか、と思われる。

 話は今から3年ほど前にさかのぽるが、はっぴいえんどは〈スカイ〉(鈴木茂、後藤次利、小原札)というグループと早すぎた幻のグループとして名高い〈エイプリル・フール)(細野晴臣、松本隆、小坂忠、柳田ヒロ、菊池栄二)と大瀧詠一、布谷文夫の2人からなる名なしのグループの3組のグループを母体として生まれた。メンバーは言うまでもなくボーカル&ギター・大瀧詠一、リード・ギター・鈴木茂、ベース・ギター・細野晴臣、ドラムス・松本隆の4名である。

 はっぴいえんどは最初、岡林信康のパック・バンドとして注目されたが、それ以上に彼らが提唱し実行しつづけた〈日本語のロック〉は当時の話題を独占し「ロックは英語でやるのが当然だ」とか「日本人かやるのだから日本語でなければ」……と喧喧囂囂の議論を呼んだ。今から考えればあまりにも馬鹿げたことのように思えるが、当時としてはこれがもとで取っ組みあいの喧嘩まで実際に起こったのである。

 なぜこれほどまでに〈日本語のロック〉という奇妙な?ことばが大いに使われたのかというど、70年といえば日本にロックが輸入されてまもない頃で、それに加えアメリカン・ヒッピーのフリークの思想、さらに映画『ウッドストック』が上映されたりして否応無にロックが注目され、その影響をうけていくつかのロック・グループが出現した。そんななかで。これは当然と言えば当然のことであるが数多くのロック・グループが目指したものは外国のバンドのコピーだった。しかも、どのくらい上手く真似するかが。そのグループの実力の尺度となっていた。

 こんな風潮に逆らって、というよりそんなことは60年代に嫌というほどやってきたくはっぴいえんど〉の連中は、外国バンドのコピーに対するアンチ・テーゼとしてく日本語のロック〉を提唱した。そして「日本語はロックにのりにくい」という嘲笑をうけながらも地密な活動をしつづけ、ついに70年8月にはファースト・アルバム、通称ゆでめんというアルバムを発表し人々を「アッ!」と驚かせしめた。というのは。あれほどまでにリズ厶にのりにくいといわれていた日本語をものの見事にコードとりズムのうえにのせてしまったのである。

 この頃、よく言われることに「はっぴいえんどは後になればなるほど評価が高まってきたバンドである」云々……これは、考えてみると無理もないことである。というのは、彼らは60年代と70年代の間を〈日本語のロック〉つまりく言葉〉でもって表現してきたバンドだからだ。他の数多くのロック・バンドがコピーもしくは英語によるロック(これも奇妙なことばだが、いくら英語でと言ってもオりジナルとは名ばかりだった)をずっとやっているなかで、はっぴいえんどだけは日本語のロック。言わば、はっぴいえんどは当時としては異端児だったわけだ。それは、彼らがセカンド・アルバム『風街ろまん』を発表する71年11月まで続く。

 今でこそ、キャロル、ファニー・カンパニーをはじめとするロック・グループが最初から日本語で歌っていても、さも当然のことのように思えるか、はっぴいえんどが通り過ぎてきた70年から71年までは、それが少しも当然のことではなくかえって異端のことだった。そして異端であるが故に不当に低い評価しかされなかった。

 ところが、このような状況がひっくりかえるのにそう時間はかからなかった。はっぴいえんどが2枚のアルバムを発表してから72年度には乱魔堂、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフなどが相ついで活躍するようになり、今度はロックとて日本語で歌うことかさも当然のようになってしまった。それとともに、はっぴいえんどの評判は急激に高まっていった。

 松本隆は「シーンのなかで生きてきたという実感はあまりない」と語っているが、あくまでも傍目から見ているかぎり。そう言えるのは謙遜でやはり彼らはっぴいえんどは激動のロック&フォーク・シーンのなかを常に台風の目的存在で生きて来たと思う。そして今、彼らの残した3枚のアルバムを聞いてみて、ますますそう思わざるをえない。

 というのは。実際3枚のアルバムを聞いた人ならわかることだが、1枚目『はっぴいえんど』2枚目『風街ろまん』と3枚目『HAPPY END』とは明らかに違いがみられるということだ。それは前者が言葉による唄を前面に押し出しているのに対して、後者はよりバランスのとれたトータルなサウンドに主眼をおいていること。換言すれば前者は唄が演奏と並列していたのに対して後者は唄と演奏が融合してしまったということだ。

 なぜ、3枚目『HAPPY END』で、はっぴいえんどはその変貌をとげたのだろうか。それはロック・シーンの状況と無関係には語れない。というのは。はっぴいえんどはく日本語のロック〉というのろしをかかげて、自ら日本語によるオリジナル・ロックを実戦してきた。おそらく、それは彼らにとっては未踏の世界かつ当時のロック・シーンにおいてはあくまで異端分子だった。だからこそ、彼らはその反動エネルギーとして勢いよく、あくまでも自ら提唱した〈日本語のロック〉を片意地なまでに遂行してきたのだと思う。ところが、あるとき、ふと気がついてみると今までく日本語のロック〉をやっていたのは彼らはっぴいえんどだけだったのに、いつのまにかまわりのグループがみんな日本語でやっている。状況かかわってしまったのだ。いや、かわってしまったというよりはっぴいえんどが状況をかえてしまったと言った方か適切だ。

 こうなってはじめて彼らに余裕がもてたのかもしれない。今まではく日本語のロック〉を定着させるべく、ただがむしゃらにやってきたにすぎなかったのに……これからは、きばんでそれをやる必要がない。そこで4人ともども、それぞれの個人的音楽志向にはしる。その兆しが3枚目、はっぴいえんどにとってはラスト・アルバム『HAPPY END』のなかに如実に語られている。何度も言うようだが、そこには一口に言えば〈唄〉から〈サウンド〉への変りゆきが歴然としている。

 この変りゆきは、はっびいえんどの解散を明確に物語る要素と当時の僕には思えたし。実際。解散後の大瀧詠一のソロ・アルバム、細野晴臣のソロ・アルバムを見れば、その解散も当然のことのように思える。この意味ではっぴいえんどのもっともはっぴいえんどらしいのは1枚目、2枚目であり。3枚目はあくまでも解散後の始発台のように僕には思えるか………どうだろうか。

 現在、細野晴臣、鈴木茂は〈キャラメル・ママ〉(ドラムスに林立夫、キーボードに松任谷正隆)というグループを作りステージ活動をするかたわら、吉田美奈子、荒井由実。南正人、のバッキング及びプロデュースを担当し、大瀧詠一は〈ココナツ・バンク〉のプロデューサーとしてCMの作曲家として活躍しはじめているし、松本隆は〈ムーン・ライダース〉のドラマーとして、また南佳孝。岡林信康のレコーディング・プロデューサーとして、それぞれ自分の進むべき道を明確にうちだしマイペースで歩みはじめた。

 冒頭でひとつの伝説が破れて新たな神話が生まれ、新らLい歴史の幕は切って落とされたという表現を使ったが、9月21日のくCITYコンサート〉を見て心からそう思わざるをえなかった。〈ムーン・ライダース〉で楽しそうにドラムを叩く松本降、〈ココナツ・バンク〉をバックに歌う大瀧詠一、〈キャラメル・ママ〉で思い切りベースを、ギターを弾く細野晴臣に鈴木茂。さらに松本隆がプロデュースしたという南佳孝の姿を見、歌や演奏を聞いていると、なにか新しいことが始まりそうな気がした。

 最後にはっぴいえんどが演奏をしはじめて終ったとき、確かにはっぴいえんどの時代は終ったと認めないわけにはいかなかったけれど、ここからまたく新しい歴史の幕は切って落とされた)とも思わずにはいられなかった。



「〔CITY〕が開いた輝やかしい夜」
北中正和


 1973年9月21日、東京の文京公会堂で、風都市の主催による「CITY-Last Time Around」というコンサートが行なわれました。コンサートの出演者は、南佳孝、吉田美奈子、西岡恭蔵、ムーン・ライダース、ココナツ・バンク、布谷文夫、大瀧詠一、キャラメル・ママ、そしてはっぴいえんど。

 開場の数時間前から、雨の中を列を作って並びつづけた聴衆で、会場は満貝の盛況ぶり。予定時刻からかなりおくれて、かまやつひろしの小気味よい司会で、ようやくステージかスタートしました。

 まず最初に登場したのは、ちょうどその日にファースト・ソロ・アルバム『摩天楼のヒロイン』を松本隆のプロデュースのもとに発表したばかりの、南佳孝。ストリング・カルテットを伴奏に、ピアノの弾き語りで、そのアルバムの中から〔眠れぬ夜の小夜曲〕〔摩天楼のヒロイン〕〔ピストル〕ほかの曲を披露しました。彼のうたい方は、ジャズ・ボーカルやポップスに彼自身傾倒したことがあるからか、フォーク畑出身のシンガーの唱法とは一線を画したユニークなもの。ストリングスの演奏がメロディアスすぎて、リズムか平坦になってしまったようだけれど、彼の非常にソフィスティケイトされたボーカル・ワークには注目させられました。

 次いでやはり9月21日にファースト・ソロ・アルバム『扉の冬』を発表したばかりの吉田美奈子が、ストリング・カルテットをバックに〔扉の冬〕〔ねこ〕ほかを演奏。かつて野地義行とPuffというグループを組んで活躍していたこともある彼女ですが、ローラ・ニーロやジョニ・ミッチェルの影響を受けたと思われる彼女の肉声は、以前よりも丸昧を増してきたようです。キャラメル・ママがプロデュースを担当したソロ・アルバムの場合とは違って、この夜はちょっとあがり気味というか心細げで、ステージの構成にもうひと工夫あってもよかったのでは、という気がします。

 西岡恭蔵は、バックにオイル・フット・ブラザーズとはちみつぱいからのピックアップ・メンバーで構成された臨時編成のバンドをバックに登場し。相変らず突き抜けるようなストレートでダイナミックな声で、〔街の君〕〔街行き村行き〕〔春一番〕などの歌をきかせてくれました。途中、〔サーカスにはピエロが〕では、ゲストに三浦光紀とあかた森魚が登場して、一緒にうたうという楽しい一幕もありました。バックの演奏がPAのせいか、ピタッと決まらなかったようなのは残念。

 ココナツ・バンクは。メンバー・チェンジかあったらしく、伊藤銀次(ギターとリード・ボーカル)、藤本雄志(ベース)。上原裕(ドラムス)の3人に、はちみつぱいの駒沢裕城(ペダル・スティール)が加わった編成で登場。彼らのステージの問は、福岡風太が三揃いのスーツを着て現れて、司会を担当して、〔のぞきからくり〕ほかの曲を演奏。伊藤銀次のボーカルは、決してうまいとはいえないのですが、せいいっぱいやっている感じか出ていて、朴訥とした魅力がありました。そして布谷文夫が現れて、彼らをバックに〔台風〕を1曲披露。

 そしてその後に大瀧詠一がいよいよ登場。彼は布谷文夫のアルバム及び、近い将来レコーディングに入る予定のココナツ・バンクのレコードのプロデュースを担当しています。この夜は、今年になって彼が音楽を手がけた資生堂のコマーシャル・フィルムの上映の後、ココナツ・バンク、シンガーズ・スリー、シュガー・ベイブたちをバックに、三ツ矢サイダーのコマーシャル・ソングを生演奏。途中、〔ウララカ〕や〔空飛ぶくじら〕の一節をうたいこんだ貫禄たっぶりの彼の歌いっぶりは、会場の聴衆を完全にのみこんで、それまで肩をいからせていた聴衆の気持を大きくくつろがせたのです。そしてその雰囲気の中で〔ココナツ・ホリディ〕の演奏が続きました。

 さて、松本隆がひきいるムーン・ライダースは、中編成のプラス・セクションも加わっての熱演。一曲目から。もうポップ・ソウル風のリズムでスタートして、聴衆を驚かせましたが、初期はちみつぱいのメンバ-だった山本浩美や鈴木博文(彼はたしか鈴木慶一の弟です)の持っている下町的雰囲気、ある種の俗悪さが、キーボードの矢野誠などの持っているハイセンスでホップな感性とまざり合って。不思議な世界をかもし出していたのに注目させられました。全体のアンサンブル、ボーカルの入れ方などの点で、ステージ慣れしていないところが、ちょっと目についたようですか……

 キャラメル・ママは、この日がコンサート・デビュー。細野晴臣、吉田美奈子。南正人などのソロ・アルバムを通じて、その演奏をきいている人たちは、一様に、レコーディングの水準の高さに注目していましたが、この日は他人のバックではなく、自分たち自身の演奏を展開するということで、最も期待の集められていたステージでした。松任谷正隆の長いオルガン・ソロにはじまり。鈴木茂のギターが入り、林立夫と細野晴臣が加わってしばらく演奏だけが続き、そのまま〔僕はちょっと〕が、細野晴臣のソロ・アルバムとはアレンジをすっかり唆えて演奏され、〔さよなら通り三番地〕も、やはり新しいアレンジで登場。会場の期待感を意識してか、ちょっと力み気味の演奏で、すっかり完成したサウンドというわけではないけれども、とてもリズミカルな、自分たち独自のリズムを持っていることを十分に感じさせるだけの演奏だったのは、やっぱりスゴかったのです。

 そして最後に、とうとうはっぴいえんどが登場。〔はいからはくち]〔夏なんです〕をはじめ、おなじみのナンバーを次から次へとそれも以前のはっぴいえんどとは、アレンジもほとんど変えて、貫禄たっぷりに、ところどころとちり気味でしたが、余裕を残しながらやってのけたのにびっくり。ステージに立つ彼らの姿も、デビュー当時とは比べものにならないほどズシッとしていました。そんなわけで、予定時間をオーバーしていたのにもかかわらず、アンコールの手拍子が鳴りやまず、〔春よ来い〕などは、ついにやらされてしまったという感じでした。

 このコンサートをずっと聴いていて面白く思ったのは、はっぴいえんどの演奏と、はっぴいえんどから派生(?)したキャラメル・ママ、ムーン・ライダース、それに大瀧詠一が関わっているココナツ・バンクの3つの新しいグループの演奏との間に横たわっている、いろんな意味での差異や共通項を見出せたことで、それはそのまま、はっぴいえんどがスタートした頃から現在にいたる時の流れをも感じさせるものでもありました。

 中でも興味深く思われたのは.キャラメル・ママ、ムーン・ライダース、ココナツ・バンクの3つのグループの演奏に共通して強くあらわれていたりズムヘの欲求。あのチャカポコチャカポコしたギターのリズムの切り方や、よく弾むうまく問をとったベース・ランなど、アメリカのホップ&ソウル・ミュージックの影響を感じさせるリズムが、とても目についたことです。

 それは、はっぴいえんどの新しいアレンジによる演奏にもいくぶんかは見られたことですが、それでも前の3者の演奏と比較してみた場合、はっぴいえんどの演奏はずっとメロディアスな歌としての要案を多く持っていたと思うのです。はっぴいえんどの歌のメロディアスな面が、大瀧詠一の個性的なボーカルに負っている部分があることは確かでしょう。しかし、それだけではなく、それぞれのグループの出発点(時期)の違いをそこに見ることができるような気が、ぽくにはするのです。

 さて、このコンサートの前半に登場したソロ・シンガーたちと、はっぴいえんどのかかわりについても、ひとつだけ触れておこうと思います。それは、先に紹介した人たちは、既に、あるいは近い将来。大瀧詠一、松本隆、キャラメル・ママの誰かにプロデュースされたレコードを発表している、又はする予定の人たちばかりだということです。

 レコーディングすること、レコード音楽というのは、ふり返ってみれば、はっぴいえんどがその出発の時点から。最も重点を置いてとり組んできた仕事のひとつです。その中で彼らが得てきた経験を、現在彼らがプロデュースしつつある他のアーティストのレコードの中にどのように生かし、伝え、発展させていくことかできるのか。その成果がいまようやく少しずつ姿を現してきているのだと思います。ぼくはそんな彼らの音楽のなかに、ひとつの時代の影を見ることができるような気がするのです。それは、直接的には、もちろん表現された彼らの音楽を通してですが、間接的には、一方で彼らがレコーディングの可能性を追求し、同時にもう片方でステージ演奏を充実させていくという活動のあり方、それを可能にするために力を貸している数多くの裏方の人たちやシステムが語りかけてくるものも含めてのことといえばいいでしょうか。

 スゴイことをやってますねえ。と称讃されれば。彼らはきっと余裕を持って、こうこたえることでしょう。「ぼくらはべつにとびきり新しいことをやってるわけじゃありません。古くからある智恵にただほんのちょっとしたことを付け加えたにすぎないのです」と。だけれど、そのほんのちょっとしたこどがとても重要なことなのです。9月21日のコンサートは、73年にぼくが見たものの中でも、最も素晴らしく充実した数少ないコンサートのひとつでした。



「はやすぎた回想録」
松本隆


正直に言って、ぼくら4人の誰もが、あの晩のコンサートに乗り気じゃなかった。それは別れてから辿りはじめた個々の道を歩くのにせいいっぱいで、一年もたたないうちにまた同じステージの上に立って何をしたらいいのかわからなかったからだ。ぼくもこの一年間というもの録音スタジオにはいりっきりのような気がしていたし、それは細野氏にしても同じ事だった。けれども、あの晩の最後のみで大瀧氏が喋った言葉をトラック・ダウンをしていて聞き取った時、ぼくは茂に向かって思わず「いいね」と言ってしまったのを彼も「うん、いいね」と首肯いてくれた。大瀧氏はテープの中で、「それでは最後に、この4人でしか出来ない曲をやります」と言っていたのだった。ぽくも茂もあの時は全く気付かなかったけど、そのテープではじめて聞いたのである。

 あの日の『春よ来い』は今まででいちばんいい出来だったと思う。おそらくもうこれっきりで誰も歌わないたろうけど、あの歌ははっぴいえんどのなかでは、異端の感じを持っているのに、最後にはいつもあの曲にもたれかかってしまった。岡本おさみ氏がぼくにいった初期の〈吐きすて〉の歌、『春よ来い』。思えばぽくらの作った歌の中で一番素朴だったのだろう。

 はじめて大瀧氏の狭い下宿に遊びにいった晩、ぼくはゴロッと寝そべって、彼のノートにいたずら書きをしたのである。ついさっき読み終えたばかりの永島慎二の漫画が頭にこびりついていたからかもしれない。そのいたずら書きに大瀧氏はギターの音を合わせたのである。そんないきさつを経て出来た曲だったと思う。今ではその永島慎二も書棚の隅で眠っている。

 あの頃ぽくらは議論に夢中だった。どんな風に表現するかに、その方向を定めるのに意見を出しあった。そして意見はひとつにまとまった。意見のくいちがいを放棄して、そのことに触れなくなったのが何時からだかわからない。終わりの方では沈黙に支配されていたけれど初期の頃はよく喋ったと思う。

 アメリカナイズされた音に日本語を乗せるごと、それがある指標だった時期もあった。だが『風街ろまん』が出来上った時、ぽくらは足を踏み入れた道すじが予期しない方向に屈曲しているのを知った。ぼくらは全ての努力をはらった後だから、そこに辿りついたことを肯定したのだった。曰く「今までの日本になかった、日本的な音」。これはいわゆる歌謡的な音を極力さけてきたぼくらにとってとまどいを覚えたのだが、このあたりから4人の方向はさまざまな岐路に別れ、それに対処しようとしはじめたのである。

 アルバム『HAPPY END』では、ものの見事に先に述べた現象がかき消えたのも面白かった。1年に2、3日しか雨の降らないというロスの乾いた音がそこにあった。英訳したぽくの詞を読んで、日本は1年中雨が降っているのか、と茶化した詩人くずれのトム、さよなら日本、さよならアメリカと歌うぼくらに「それじゃメキシコにでも行くか」と真似面に聞いたローウェル・ジョージ。ジャケットの俗っぽい原色に包まれて、ぼくらの内ならぬ、カリフォルニアの無色の風がパッケージングされていた。ぼくら4人はさまざまな想いをあの大陸に残してきたのに違いない。ただいくつかの見果てぬ夢が、あの旅によってふっきれたことは確かだったし、異国からの「みやげ物」は後の道標として残ってゆくだろう。

 ぼくが細野氏と会った時、彼はいくつかの日本語の曲と英語の曲をだいたい半々ぐらいずつ書いていた。ぼくらは「エイプリル・フール」でハード・ロックを1年ほど演ったあげく、その反動でアコースティック・ギターをサウンドのメインに置いた音作りにしたいということで、新しいグループを作ったのだ。大瀧氏はクリエイションの飛び入りでプレスリーの真似をしていたけれど、彼とはつげ義春や永島慎二の話を通じて親しくなったようだ。ちなみに細野氏は白土三平派であった。鈴木茂氏は少し遅れて入団した。彼は角を丸くけずったヘンテコなギターを片手に、我らがファースト・アルバムの録音がすむまで、まだためらっていたようだったが、いつしか引きこまれていた。

 いくつかのアメリカのグループにぽくらは親しみを感じていたようだ。それらは時を追うにつれ、日本でも名をあげ、逆にぼくらがそれらから離れてゆくきっかけになったようだ。ぼくらは無名だった時も少し名をあげてからも運にめぐまれなかったようだ。それはぼくらの音がまわりから見てフォークかロックかよくわからなかったらしいし、また妙に気取ったむずかしがりやのように眼にうつったのだろう。

 9月21日のコンサートで、一人一人のそれぞれのステージが非常に肩のこらないくハッピー〉な演奏だったことを考えてみればなるほどと思う。ぼくらもまた。そのくはっぴい〉から抜け出ようと思っていたのかも知れない。けれども4人から派生した音が渇いているのなら、あの4人だった時に不思議にしみついていた、妙に湿っぽい感じはどうしてなのだろう。あの時には、あんなに嫌っていたはずのそれは、今にしてみればひとつの重要な魅力だったのかもしれない。

 技術屋、職人バンド、バック・グループなどのありがたくない形容詞を頭にいただきながら最後まで、それから脱け出せなかったことも不運のひとつだろう。一人一人の個性はいつとなく、〈誰それの役割〉となり、4人のつながりがそれ自体〈枠組み〉となってしまった時、ぽくらはそれぞれに息苦しさを感じはじめていた。そんな空気のなかで創られた『風街ろまん』はあらゆる意味で、その方法としてのくはっぴいえんど〉の完成だった。最近になってよく聞かれる一枚目の通称『ゆでめん』のアルバムの人気は、そんな完成の前にあった、模索あるいは実験のなかで創られたからであろう。おそらく、音作りや詞作りの作業のコツをのみこんでいくうちに、ぽくらは重要なものを置き忘れてしまったのかもしれない。だがそれも、それぞれに別れた後では、また模索の時期に再び戻っていることを思えぼ。今となってはしかたのないことだろう。

 ぼくと細野氏のように、一緒のグループにいた時よりも今の方が、話も通じるし、会う回数も度重なるように、4人の時は鋭い緊張関係で結ばれていたといってもいい。だが今は離れているからといって、その全てが解除されたわけではない。それぞれに分散はしたけれどそれは輪が広がったともいえるし、人がくファミリー〉と言うのも、あながち間違ってはいない。みんなくされ縁だと思ってあきらめているのである。

 またたくまに過ぎてしまった3年だった。くはっぴいえんど〉は60年代と70年代の間にぽっかり口をあけた時代の狭間の所産だったのだろうか。今はまるきり状況も貌を変え、世紀末の色を濃くしている。こんな時には叙事的に〈ハッピー〉にならざろうえないし、全ては無意味へ崩れこむのだ。抒情にはじまり抒情に終わり、ひとつの世代の原風景を描こうとしたくはっぴいえんど〉の幕はおろされたのだ。

 あの晩はとても素敵だったと思う。ぼくらはすごく楽しく演れたし、それぞれが自らの青春らしきものに終止符を打つような淋しさを感じていたにちがいない。〈はっぴいえんど〉よさようなら!

 

 

 

 

 

『解説をあつめて』2

 はっぴいえんど全曲解説集

『ライブ・はっぴいえんど 1973.9.21』編

 

 

 

 

 

あとがき

 

松本隆によるはっぴいえんどへの惜別のことばは、万感がこもっていてなかなか読ませてくれます。拙稿もこれで終わっておけば余韻が残るのかもしれません。ですが、いつもの癖でこのような余計なものを付け加えます。もうすこしだけおつきあいください。

 

当記事「9.21」の作成にあたっては、多くの本や雑誌にあたりました。だが、ほとんどが当たり障りのない無難な記述が多かった。その点、上記のライナーノーツはリアルタイムで書かれたせいか臨場感があり、これらがベストだと思いました。一方では、ひと味違うユニークなものもありました。ただ「本編」に組み込むにはいささか場違い感があるため、以下に番外編として紹介させてもらいます。

 

それは、ムッシュこと、かまやつひろしの評伝からです。上の記述にもあるように、ムッシュは「9.21」の司会をつとめました。ですが、事はスムーズには進まなかったようです。この本にはそのときの状況が描かれていて、ちょっとおもしろい。

 

 

サエキけんぞう著 『エッジイな男 ムッシュかまやつ』から

 ビートルズを始めとする洋楽ロックは、編曲を重層的に吟味しエフェクト機材を駆使して録音する急カーヴを描いていたが、はっぴいえんどは日本では最速にそれに対応した。ムッシュはそんなはっぴいえんどにいち早く反応していた。1970年に創刊されたばかりの『ニューミュージックマガジン』の「日本のロック賞」を受賞したデビュー作『はっぴいえんど』は「フオークだ!ロックじゃない」との批判も浴びたが、「ムッシュは一番早いエールを送った人物だ」、と細野晴臣は回想する。ムッシュはパーソナリティを務めるラジオでは、はっぴいえんどの曲を沢山かけ、その普及に大きく貢献した。そのため、はっぴいえんどの大舞台の司会を務めることになった。

 はっぴいえんどのライヴ盤となった1973年9月21日の歴史的なラストコンサート「CITYーLast Time Alound」。固定席数2000名の文京公会堂は完全に埋まっていた。日比谷野外音楽堂など、チラホラとした観客数でのはっぴいえんどしか知らないファンにとっては、「こんなに人気あったの?」と驚いただろう。

 当日のライヴは初々しいものだった。多くのファンにとっては初見参の南佳孝、吉田美奈子がまず登場、西岡恭蔵と続き、ココナツ・バンクと大瀧詠一の登場を迎えた。ギッチリ満員の聴衆は、熱狂的に反応しつつ、それでも次には「何か出るのか?」とカタイ雰囲気を崩さなかった。

 内省的なキャラクターだったはっぴいえんどは、そのファンも寡黙な人の集まりだった。「はっぴいえんどはこれから何をするんだろう?」。期待というよりは吟味するような視線が投げかけられ、重苦しいような緊張感が客席を包んでいた。その中に、あの屈託のないムッシュが例の馴れ馴れしい調子で「こんにちは~」とステージに登場した。

 客席はヒイた。「なんでムッシュが出て来るの?」。サウンドにやたらうるさいはっぴいえんどファン。神経質で組みしにくい性格の集まりだ。ムッシュも参っただろう。なにしろ、「どうですか~」と客席に呼びかけるが、全く反応する気配がないのだ。「あ~やっぱり、ファンもアーティストと同じ気むずかしい人だちなんだな」と、ムッシュも腹をくくっただろう。

 忘れられない事件は、たしかキャラメル・ママの出演の前に起こった。あまりに神経質に固まっている客席をほぐそうとムッシュは「ちょっと背伸びをしてみましょうか?」と客席に呼びかけたのだ。フォークのコンサートなら、当たり前とも言える気づかいだった。ところが場内を見渡す僕にはハッキリ見えた。誰一人したがう者はいなかったのだ。ムッシュは照れくさそうに笑って、キャラメル・ママ(細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆)の紹介を始めた。中学三年生の自分ではあったが、「はっぴいえんどファンは本当にコワイな」と思ったものだ。

 結局、最後に登場したはっぴいえんど本体の紹介の役割を担ったのは、仕事を終えて飛び込んできたオールナイトニッポンの亀渕昭信であった。「ハイみなさん!」と、深夜放送そのままの名調子でシャウトする亀渕に対しては、今度は圧倒的な歓声でこたえたのである。

 


ムッシュが「9.21」の司会に抜擢されたのは、そのフレンドリーなタレント性が理由でしょう。しかし彼とはっぴいえんどのファンに親和性があるとは思えません。ムッシュにはメンバーであったスパイダースのイメージが強烈に残っていたはずです。はっぴいえんどはアンチGSでもありましたから、客席が冷淡だったのは当然のことでした。彼がスパイダース時代に作曲した、『ノー・ノー・ボーイ』や『あの時君は若かった』は名作ですが、フォーク・ロック界からすれば歌謡曲の一種でしかありませんでした。

 

当時の自分も、ムッシュにはそういう認識でした。ですが、「9.21」の翌年に発売されたそのソロ・アルバム『あゝ、我が良き友よ』で一転、評価を改めました。冒頭の曲、『仁義なき戦い』を聴いたからです。松本隆作詞・細野晴臣作編曲の、ファンク・ロック色がきわめて濃い、とてもマニアックで一般受けするとは思えない曲です。セールスを意識するならばほかの曲をトップにもってくるはずで、大胆な選曲からは、ムッシュの細野・松本への大いなるリスペクトを感じることができます。

 

そして『仁義なき戦い』のテイストは、『はいからはくち』9.21バージョンと相通ずるものがあります。「9.21」の観客も『仁義なき戦い』を聴き、ムッシュを再評価したはずです。両者のファンである自分は、そう思いたいところです。

 

さて、話はいささか個人的趣味の吐露に走ってしまったようです。話題を「9.21」に戻し、松本隆のささやかなエピソードを紹介し、この記事を閉めさせてもらいます。


昨年は、松本隆作詞活動50周年記念「風街オデッセイ2021」が開催されました。会場ではオリジナル・グッズが販売され、「松本隆オリジナルドラムスティック」なる、松本の名や顔が刻印された記念品もあったようです。

 

ですが以下のエピソードは彼自身が実際に使用したスティックの話であり、唯一無二の「歴史的」なスティックのお話です。風街オデッセイでオリジナルドラムスティックを買った方なら、垂涎の的となる代物でしょう。

 

松本隆

はっぴいえんどの最後のステージは、とっても気持ちよく完全燃焼できた。解散はぼくが決めたことじゃなかったけど、四つどもえの相対的な価値観にしばられることから逃れたいという気持ちはぼくにもあった。ドラムはすごく好きだったけど、細野(晴臣)さん以外のベースでドラムを続ける気もしなかったから、これで心置きなく作詞家になれると思った。そして最後にステージからスティックを放り投げたんだ。

 

篠原章

ぼくにとっては73年9月23日がシティ・ホップ事始めである。はっぴいえんどの解散ライヴ「CITYーLast Time Alound」の日だ。この夜、はっぴいえんどなどの新しい音を聴いて、興奮のうちに文京公会堂を後にしたぼくは、地下鉄の後楽園駅から乗った丸ノ内線の車内で、ドラム・スティックを幸せそうに抱きしめている少女に出くわした。松本隆が演奏後に客席に投げたスティックだ。ぼくは無言のまま彼女に笑いかけた。ぼくたちのポップが始まったね!・・・と祝福したつもりだった。彼女もスティックをかざしながら優しく微笑んだ。東京の夜は眩しかった。