「フォーライフ 4人の冒険」 NHKアナザーストーリーズ 文字起こし | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 我が家でとっている新聞は読売なのですが、BSのテレビ欄がとても小さい。番組名が並んでいるだけで、肝心の内容が何もわからない。通販だらけの民放ならまだしも、NHKまでもが同じ扱いなのです。たかがテレビ欄とはいえ、最大部数の読売がこれでは、だから新聞は見放され、購読数が減るのだと思ってしまいます。

 

 今回取りあげる、3月放送のNHK「アナザーストーリーズ」も何がテーマかわかりませんでした。この番組はよく見るのですが、その日は調べるのが面倒で、ネットでの番組検索をスルーした。すると友人が、「今晩、フォーライフをやるよ」と連絡をくれたのです。持つべきものは友。ありがたかった。

 

 今回の記事は、その「俺たちが音楽の流れを変える!〜フォーライフ 4人の冒険〜」の文字起こしとなります。自分がそうだったかもしれないように、放送を見逃した人のために書いてみました。ほぼ半世紀前、フォーライフという物議を醸したレコード会社の物語です。

 

 

 

 

 

フォーク界の大スター、吉田拓郎、小室等、井上陽水、泉谷しげるの4人が、自分たちの手で運営する新しいレコード会社を立ち上げた。まさに、ミュージシャンの、ミュージシャンによる、ミュージシャンのための会社。それは既存の音楽会社に叩きつけた宣戦布告だった。だが彼らの理想は分厚い現実の壁に突き当たる。4人は何を成し遂げ、何を成し得なかったのか。

 

 

いつの時代も若者のパワーが新たな価値を創造し、社会を動かしてきた。フォーライフレコードの設立もそのひとつだった。運命の分岐点は1975年4月11日。東京の赤坂プリンスホテルに詰めかけた三百人の報道陣を前に、吉田拓郎、小室等、井上陽水、泉谷しげるの4人は、フォーライフ立ち上げを発表。当時人気絶頂の4人が、一同に会すること自体、すでに事件だった。そして宣言したのは、ミュージシャン自身による、新しい会社の設立だった。

 

 

初代社長となったのはフォーライフレコードの創立メンバー小室等。四つの強烈な個性はどうやって結集したのか。

 

計画を立てた4人を世間は兄弟になぞらえた。長男は歳年長の小室等(31歳)。バンド六文銭のリーダーで、フォーク界に幅広い人脈をもっていた。作曲した『出発の歌』は、世界歌謡祭のグランプリを受賞。

 

 

次男は吉田拓郎(29歳)。ラジオやライブコンサートで圧倒的人気を誇る若者のカリスマ。レコードを出せば必ず売れる、まさにドル箱スターだった。

 

 

三男は。その豪快さで「狂犬」と呼ばれた泉谷しげる(26歳)。たしかなギターテクニックと荒々しい表現でコアなファンを獲得していた。

 

 

末っ子は井上陽水(26歳)。アルバム『氷の世界』で日本初のミリオン・セラーを叩き出した、一番の稼ぎ頭。

 

 

4人併せてレコードの総売上100億円の旗揚げだった。そんな彼らには共通点があった。シンガーソングライターだということ。ギター一本あれば、自分で歌詞を書き、曲をつくることができる。だからこそ望んだのは、誰にも邪魔されずに歌をつくり、収入を得ること。だが当時のミュージシャンは、レコード会社の縛られていた。

 

小室:レコードを出すということは、専属契約を結ぶということが当然のことでした。逆にいうと、デビューしたければ、専属契約を結んでいただきたいと。やはり不自由感が否めない。レコード会社の手の中にあり、ヒモをあやつられるような・・・

 

ミュージシャンはあくまで雇われる立場。年間で出すレコードなどのノルマが課せられ、時には本意ではない曲づくりを強いられた。

 

泉谷:歌手というものの価値が低かった。プロデューサーのいうとおりの歌を歌わないとダメだったし、自分でつくるということはもってのほかだったし、作詞家作曲家、ディレクター、プロデューサーのものであって、歌手は歌手でしかなかった。そのいらだちがフォークという、自作自演という形で爆発した。

 

歌手は制作者ではなく、あくまで歌い手。そのためレコード収入の大半は会社に取られ、シンガーソングライターでさえ、もらえるのはわずか3%程度。自分で作詞作曲し、自分で歌ったものとしては、とても納得できるものではなかった。

 

 

そんな複雑な思いを抱えていたある日、小室のもとに、一本の連絡が入る。これがすべての始まりだった。

 

 

小室:そういう時期に、「レコード会社 つくりましょう」。カネ出すやつがいる。という話がきて、そういうことなら羽ばたきたい、という気持ちもあったので・・・

 

願ってもない申し出であった。話を聞くと、数億円もの資金を提供してくれるという。さらに海外での成功例が背中を押した。当時、ビートルズなど、海外のアーティストが自分の会社を立ち上げ、自由な創作活動をはじめていた。

 

小室:インディーズな感じで、アーティストたちがレコードを自力で出したり、あるいは自分らだけのマーケットを目論んでレコードを出すとか、どこか日本のアーティストより自由感が伝わってくる。オレひとりではできないけれど、できるわけもないけれど、(吉田)拓郎以外、見当たらなかった。その当時は密に拓郎さんとはコミュニケーションがありましたから。とくに「吞みニケーション」のほうで・・・彼がビッグであるということが非常に重要なことで、小室が言ったって耳目はどこも微動だにしないけれど、拓郎さんだったら、人は「おっ!」と言うだろうし。と言っても、拓郎さんは押しも押されぬソニーのスターですから、ソニーがそんな簡単に「わかった」と言うわけもない。

 

ところが、

 

小室:(吉田拓郎は)「あっ そう。やってもいいけど条件がある」と。「俺と小室が親しいってことは世間はよく知っている。このふたりじゃ分かりやす過ぎる。(井上)陽水を連れてくれば俺はやってもいいよ」と。(陽水の)デビューシングルは僕がアレンジャーなんです」

 

だが陽水はポリドールレコードで売上の半分を稼ぎ出す超売れっ子。

 

小室:当然陽水も無理だろう(と思っていたら)まんざらでもない。どうしたんだろうこの人たちは(笑)。レコード会社をつくることで、ネクストステージを求めていたんだろう。

 

3人は新会社設立に向け、夜の街で密談を続けた。

 

 

小室:(話し合いを続けたが)やっぱりなんか違うね。お友達同士がじゃれ合っているみたいな、それ以上にはならないから、もうひとつだね。で、誰かもうひとり、誘おうと。すると誰言うともなく、「泉谷」と出た途端に間髪を入れず、全員が「泉谷」だよねって・・・

 

 

泉谷:冗談だと思ってましたね。それはそうでしょ。アーティストが会社つくるってのは、考えられないでしょ。だからこれはドッキリカメラだと思った。でも誘われたことはうれしいんで、どんな冗談でも乗ってみようか、と。一番売れてる拓郎と陽水がくっつくわけですから。ふたりでいいんじゃないか、俺ら(小室と)はいらねぇんじゃねえか(笑)

 

だが小室には、泉谷を誘った理由があった。

 

小室:あの当時の泉谷さんのポジションってのは、乱暴者っていうレッテルはありますけれども、泉谷を良しとするセンス、ギターを弾くストローク感はすごいドライブがかかっていて、泉谷じゃないと出ないリズムなんですよね。いやぁ、泉谷以外にないよねって。

 

次は会社の運営に必要なスタッフをあつめないといけない。

 

ミュージシャンの常富善雄。吉田拓郎とは音楽の在り方を語り合う仲だった。

 

 

常富:タクシーの中で僕はたまたま助手席に座ったんですけれど、後ろから(拓郎に)ゴンゴンってやられて、フォーライフってレコード会社をつくるんだけれど、「おまえも来るんだから」って言われて。いわゆる音楽制作、プロデュースってことに興味を持ちだしたころだった。それだけに、フォーライフに来いっていう言葉の響きは魅力的には感じました。

 

北村亘 フォーライフで宣伝を担当。

 

 

北村:当時、いわゆるテレビに露出しないで、ラジオとライブだけで100万枚近いセールスをあげている。何をどういう風にやっているのか、個人的に興味をもちまして、参加させていただきますと手をあげました。

 

 

同じ夢に結集したスタッフは18人。だが、新しい会社がスタートする前に、思いもよらぬことがおきた。

 

小室:いなくなっちゃんたんですよ、出資するヤツが。脱落したんです。

 

なんと、出資を約束していた人物と連絡がつかなくなったのだ。しかしすでに前の会社を辞めてきた者もいる。そんなとき、まだ公表していない計画が新聞ですっぱ抜かれた。

 

 

小室:もう(新聞に)出ちゃった。突っ走るしかない。で、最低限の資本金を4人、8人が出し合ったのかな。

 

4人と主要スタッフが出し合った資本金は三千万円。彼らは所属レコード会社に契約更新しないことを伝えた。オフィスは渋谷と原宿の中間地点に構え、最年長の小室を社長に選出した。

 

社名はフォーライフレコード。For Lifeは「生活のために」。フォーにはFourには「4人」の意味もこめた。

 

創立宣言の記者発表で掲げた言葉は、「私たちに音楽の流れを変えることができるのでしょうか?」。

 

これに対し、スターに逃げられたレコード会社の反応は?

 

 

ポリドールレコード担当者:(陽水は当社で)スーパースターになったと思っています。だから彼が(当社から)抜けていって、自分で、あるいは自分が新しいスタッフを抱えて、プロデューサーなりディレクターを抱えてやることで、はたしてお客さんが満足する商品をつくれるであろうかという意味で、非常に惜しい気がします。正直言いまして、難しいんじゃないと。

 

 

吉田拓郎が所属していたCBSソニーは、「彼らの決意が固くてどうしても強行するなら企業防衛の手を打たねばならない。非常識はいましめたい」。恩知らず、カネほしさと書き立てるマスコミに、拓郎はこう応えた。「ソニーに不満があったわけではなく、制作からプロモートまで、リスクは覚悟で責任をもってやってみたいのさ。1枚のレコードを出すことが、命がけの勝負というとこまで徹底したいんだ」。

 

小室:そりゃあ、ポリドールだってソニーだって、はいはいわかりましたって言うわけないよね。

 

 

大手レコード会社相手に売ったケンカ。それはいきなり手痛いしっぺ返しを食らう。レコード盤製造に欠かせないプレス作業。どこの工場もフォーライフの仕事で使うことはできなかった。

 

常富:拓郎も陽水も泉谷も小室さんも、ある意味でいままでお世話になったところと、一方的に切って、自分たちでやっていくんだという、それはやっぱりある意味で、こういうことを皆さんがやり出したらレコード業界も非常に混乱を起こすという、レコード協会ですか、協会があるんですけれど、レコード会社同士があつまった申し合わせで、どこも(協力を)拒みましょうと。

 

小室:レコードをつくるには、レコードのスタンプ、つまり盤をプレスしてもらわないといけない。で、プレスする組織・会社もレコード会社が持ってるんですよ。他の会社のプレス工場に持っていってもダメです、敵に回しているからね。プレスするところが無いな。で、韓国の方でプレスを頼もうかとかね。

 

そんな窮地に手を差し伸べたのは、4人とは利害関係がなかった、別のレコード会社。プレス会社を紹介してもらい、販売ルートも確保し、なんとか第一弾のリリースにこぎつけた。

 

ライブ音源をそのまま落とし込んだ泉谷のアルバムである。『ライブ!!泉谷 ~王様たちの夜~』(1975年)

 

 

泉谷:まあ、要するに、これを出すということは、タマがなかったんでしょうね(笑)。

 

小室:もう、いい風はどこにも吹いていない。いい風があったのは、泉谷、拓郎、陽水という、この面子がそろったということは、考えてみればいい風だったと思うんですけれど、(しかし)全然、風は逆風でした。

 

日本の音楽の流れを変えたいという、大きな野望の下に走り出した革命児たちの、しかし、ドタバタの中でスタートを切ったフォーライフレコードであった。それでも、レコード製作の他に、もうひとつ、ビッグ・プロジェクトが進められていた。

 

 

 

吉田拓郎とかぐや姫による、『つま恋コンサート』だ。それまではの公演は、公会堂などの屋内が多く、武道館でも観客数は1500人だった。だがつま恋コンサートの動員数は前代未聞のなんと6万人。しかも野外でオールナイトという画期的な試みであり、夏フェスを定着させるきっかけとなった。

 

第二の視点は、このコンサートの責任者、川口勇吉。だれもやったことがない、想像を超える事態の連続で、その大成功の舞台裏にあった、悪戦苦闘のアナザーストーリー。

 

 

吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋」は、1975年8月2~3日におこなわれた。テレビでもない、レコードでもない、ライブで直接歌を届けたい。その熱い思いに共感して、西から東から6万人の観客があつまり、音楽史に残る伝説となった。

 

責任者だった川口の目には、いまも46年前の光景が焼き付いている。

 

川口:こののり面(斜面)に全部人がいたんです。(最初の)『ああ青春』の声が出たとき、泣けた。始まったって。涙が止まらなかった。だって日本で誰もやったことがないんだもん。よく始まったなと思って。

 

 

だれもやったことのないコンサート。それは想像をはるかに超える挑戦だった。きっかけは1969年、アメリカでおこなわれた大規模野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル」。ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンなど、超豪華アーティストが参加し、愛と平和・反戦を訴えた、規格外のオールナイトコンサートだった。

 

フォーライフ創立1年前の、1974年、ウッドストックに強い関心を寄せた音楽制作会社社長の後藤由多加は、アメリカに飛び、出演アーティストのマネージャーを訪問。会場の視察もおこなった。その情報をもちかえると、拓郎は言った。「日本のウッドストック」をやりたいと。

 

1年後、拓郎たちが設立したフォーライフで後藤は副社長に就任。日本のウッドストックは本格的に動き出す。企画書には拓郎の熱い思いが込められた。「制限される時間の枠をすて、歌いつくす、語りつくすという、奔放なアーティストの在り方を展開してみたい」。

 

時はテレビの歌番組の全盛期。毎日のように、華やかな歌手が映っていた。だがそこに拓郎の姿を見ることはほとんどなかった。

 

川口:テレビはね、ヒットスタジオとかいっぱいあったんだけれど、みんな、「尺を短くしてくれ」。ワンコーラスか、ワンハーフ、ツーコーラス、3分以内とか。シンガーソングライターって、その全部、一曲で伝えるわけだからさ。それをカットされちゃったら、えっとなるじゃん。自分たちの気持ちを伝えたいためにつくって歌ってるわけだから。

 

歌に込めたメッセージをファンに直接届けたい。デビュー以来拓郎が大切にしていたのが、コンサートだった。もともと学園祭(でのライブ)を日本中、200カ所くらいやってた。直接、生で訴えていた。そこがわれわれの主戦場だった。

 

ヒッピー文化が若者の心をつかんだ時代。髪を伸ばし、既成の権威を嫌い、拓郎の歌を聴きに来る。その多くはカネのない学生だった。そのため、チケット代を安く抑えた。すこしでも多くの若者たちが来てくれれば、いずれフォーライフのレコード販売にもつながる。そんな相乗効果を狙っていた。

 

オールナイト12時間のコンサートが2500円。格安だ。観客動員目標は、常識破りの4万人。本番は、8月2日の夏休みに決定した。だが、こんなことがやれる場所はあるのか。

 

川口:(目標観客数が)ウソだろう、みたいな。で、正月明けから場所を探しに行ってくれと。どこにあんの、そんな所と思ったけれど、一番最初に思ったのはスキー場。スロープがあれば、3万、4万入るよねって。ゲレンデで。でも、いくつかと話をしたら、難しいと言われた。音楽って、当時は不良がやると思われていた。エレキギターやアコースティックギターをもってワーワーやってるのは不良だと思われていた。

 

本番まで半年を切ったとき、有力な候補地が見つかった。「つま恋リゾート」。楽器メーカー、ヤマハの所有地だった。

 

当時、ヤマハのスタッフとして対応にあたったつま恋リゾートスタッフの木下晃。

 

 

木下:最初(川口さんが)見えたとき、「4万人」と聞いて、この田舎でしょ。電車は東海道線しかないし、東名(高速)もないし、新幹線もないし、そういう所(客が)来るのかな、というのがありました。

 

当時の掛川は、新幹線も停まらない、人口6万人ののどかな街。だが川口は、ここには4万人をあつめられる条件がそろっていると確信した。駅から会場への安全な道。

 

川口:電車を降りた人が、そのままずっと列になって歩いて行けばいいから、で、クルマは全然来ないところだから、この道はすごい有効だった。

 

会場近くには、大人数が待機できる駐車場もある。周囲は一面茶畑で、騒音被害の心配もなかった。

 

川口:すごい整理しやすい。こんなシチュエーションないよな、ぐらい。もうできると思った。

 

川口たちの地道な努力によって、拓郎たちの挑戦は、全国的な話題となった。チケットは完売となった。

 

ところが、チケットが完売したあと、問題はおきた。静岡県警が中止勧告を出したのだ。大勢の若者たちがあつまり、不測の事態がおきるのを恐れたからだ。教育委員会からは未成年の深夜外出を問題視され、18歳以下のファンには、払い戻しすることにした。

 

そうこうしているうちに川口は、川上に呼ばれた。ヤマハの名物社長、川上源一。つま恋リゾートの最高責任者である。

 

 

川上:これでNO(中止)って言われちゃうかな、と思いながら、どうしようかなと・・・

 

だが、川上はこう言った。川上さんは自分がやっている事業は、ヤマハ発動機はオートバイだし、日本楽器は音楽だし、「全部若者のための事業だから、これを応援しないって言ったら、俺が笑われるよ」と言ってくれた。で、いま起きている問題を片づけていこうって。すぐ県知事に電話するからって。

 

川口はヤマハの専務らと県庁を訪問。知事の理解を得ると、警察や教育委員会の不安の声もおさまった。当日の警備には、警察の協力も約束された。

 

拓郎が同席する打ち合わせ。左に川口がいる。ここで拓郎は、冗談交じりに、客が本当にあつまるのか不安を口にしている。

 

 

だが本番間近になると、そんな不安を吹き飛ばす事態がおこった。待ちきれない若者たちが会場近くに押し寄せ、駐車場などで野宿を始めたのだ。

 

 

川口:三日前くらいで、たぶん4~5千人いたと思う。前の日で1万人いたと思う。

 

駐車場からあふれた若者たちは、街中へ。

 

 

洋服店店主:この人たち、あれどこの人たち?ってのが、ちらちら見え始め、増え始めた。ヒッピーみたいな人たち。(その人数は日に日に増え)もう食べるものはない。売ってない。そんな大勢の人たちが来るほど用意していない。それから、ござがなくなった。蚊取り線香がなくなった。掛川に6万人が来ることがありあえなかった。人口が6万人ですから。

 

 

喫茶店店主:夜はとにかくびっくりしました。なんだか聞いたことがないよいうな音、ザクザクという音がして、窓をあけると、頭ばっかり、みんな並んで向こうの方に行かれたんですけれど、今行って泊まるところあるのかねって。

 

 

住職:この本堂を主に、私たちが住んでいるところまで開放して、泊まっていただいた。女の人と男の人はいっしょにするわけにはいかないから、分かれていただいて。50~60人の若者が雑魚寝し、おなかをすかした彼らにおにぎりをふるまった。

 

菓子店:父も母もオープンタイプだったので、人を泊めてあげたりして、トイレも貸してあげたり。若い女性がトイレに並んだので、父は段ボールで用を足した。

 

川口:茶畑で、大の方をやってた。座っちゃうと頭しか見えない。それで農家の人からクレームが来て、ヤマハの従業員がビニール袋と鉄のはさみで全部とって歩いた。三日ほどやった。地元は大切にしないと。次ができなくなるから。

 

地元の人びとのさまざまな協力のもと、ようやくこぎつけたコンサート当日。小さな掛川の街に、全国から若者が集結。目標の4万人をはるかに超え、6万人に達した。

 

(コンサートの様子が流れる)

 

そして午後5時。拓郎がステージに上がった。本番直前、舞台スタッフの木宮は、拓郎の意外な姿を目にした。

 

 

木宮:この裏に、小さい楽屋があったんです。拓郎がアイスボックスに、ビールを入れておいてくださった。缶ビールを用意しておいてくれ、やる前に飲むからって。誰にも言うな。本当にこのステージに上がる寸前に、二本、ガ~ッと飲んだ。一気飲みして。緊張していたんだと思います、相当。

 

川口:拓郎なんかさ、歌い出したころさ、(手が)震えていたもんね。あの映像見たらわかるけど、すごい緊張して。

 

 

そして午前5時が近づいた明け方、拓郎自身59曲目。コンサート、最後のナンバー『人間なんて』。この歌の6万人の大合唱は十分間、続いた。それには裏話があった。熱唱しながら舞台袖に目をやる拓郎の視線の先には川口がいた。

 

川口は終演の時間を、始発に動き出すタイミングに合わせていた。お客さんが安全に帰れるまで歌うよう、舞台袖から拓郎にサインを出していた。

 

川口:どうなるかと思って始めてたからさ。もう懸命にやるしかなかった。

 

 

 

日本の音楽シーンに革命を起こしたつま恋コンサートの大成功。こうしてつま恋は伝説となった。この勢いでフォーライフも一気に波に乗るかと思われた。だが、年を追うごとにメンバーが離脱してしまう。泉谷しげるが去り、吉田拓郎が去り、井上陽水が去り、最後に残ったのは小室等だけ。結束していた4人の間に、なにがおきたのか。

 

最初にフォーライフレコードを去った泉谷しげる。誰よりも自由を求めていた泉谷は、それゆえに別の道を歩むことになる。

 

泉谷は誰よりも自由を好んだ。

 

 

泉谷:一年目はおもしろかったんだけれど、二年目は、居心地の悪さを感じてくるんだけどね。最初は楽しかった。楽しいから見えないんだよな。

 

フォーライフは発足後、つま恋コンサートの勢いそのままに、4人は楽曲づくりに邁進した。初年度の売上は黒字を計上、快調なスタートを切った。迎えた2年目も、拓郎の念願だった新人プロデュース。泉谷のアメリカ単独ライブなど、それぞれが自由な創作を謳歌していた。そして11月、4人はいよいよ、セッションアルバムの制作にかかる。狙いはクリスマス。

 

 

常富:4人がそろって、クリスマスアルバムを一枚つくって、それだけでも話題になるし、これは絶対売れるに違いない。リゾートみたいなところに連れて行って、ある意味で缶詰にしちゃって、自由な行動をさせないようにして、短期間でわ~っとやってしまおうと。そうすれば、だれかがひとりわがまま言っても、小室さんが3人をうまくまとめてくれるだろう。

 

4人のアットホームな雰囲気を盛り込み、限定版として売り出した。だが、

 

小室:売れるはずだったんですよ、これ、ほんとうに。(でもファンは)泉谷、拓郎、陽水、それぞれのものが欲しいのであって、4人があつまって歌ってたって、それは要らない、みたいなことなんじゃないですか。

 

 

赤字は数億円規模にのぼった。小室は社長としての責任を強く感じた。

 

小室:三十数人の社員の向こう側に、家族の存在が見えてしまった。この人たちが養っている家族がいて、この会社はそこに対しても責任を持っていると思ったときに、そのときにはびびった、ですね。つまり、宣伝会議をするときに、売れるってことがつながる話をしているときに、俺が売れないってことに通ずる話をしたらまずいと(思うと)、ものが言えなくなった。

 

自由な創造を求めたはずのフォーライフ。しかし社員のライフ、生活のためには、売上を優先するしかない。重圧とジレンマ、小室は身を引いた。代わって自ら社長を引き受けたのは、拓郎だった。

 

 

半年間、自らの音楽活動を封印。スーツに身を包み、社長業に専念した。営業をまわり、食事会、接待ゴルフ、それまでと一変した拓郎の姿に、この男は反発した。

 

泉谷:会社を本気で維持して自分が社長になりたいとか、あれっ、マジ?、っていう。それでなんか、株券とかのことばが出てきて、株券ってなに?、意味わかんなくなって、だんだん自分が理解不能なところに・・・。遊びだったからできたんで、売れなかったんぇ、失敗しちゃったねぇ、でいいじゃないかの感覚だったんです。

 

フォーライフを救うため、社長業に徹した拓郎。フォーライフの自由を何より愛した泉谷。

 

泉谷:アーティストになりたかった、自分は。アーティストは職人。あれもつくりたい、これもつくりたい。いいのか、こんなことしててっていう。

 

 

フォーライフ創立から3年、泉谷は去った。その後拓郎は音楽活動を再開したが、社長も続けた。ひたすら業績回復に邁進し、売上至上主義を公言して憚らなかった。

 

 

常富:拓郎はそういうことを逆に、ポロポロ歌に書いたりしましたけれどもね。周りがいろいろ自分に言っても、そんなものは関係ないって、自分に言い聞かせている歌ですね。これがまさに、レコーディングしているときに、あぁこれが今の心境なんだなと思って、ぼくは聞いていたんですけれどもね。

 

大いなる

 

ロックンロールの響きがいい

あの娘しびれてくれるはず

つっぱれ 意地はれ はりとおせ

かまうじゃないぞ 風の音

 

(中略)

 

立ち上がる時 噛みしめた

ころんだ傷が 癒える時

男の夢を かなわさん

小さな声で 叫んだよ

 

拓郎は6年かけ会社を建て直すと、社長を退き、アーティスト活動に完全復帰した。

 

 

そして1999年、すべてをやりきった吉田拓郎は、フォーライフを離れた。その後、井上陽水も。ただひとり、小室等だけが残った。

 

 

フォーライフについて今思うことは?

 

小室:しでかしてしまったことだと思うんですよね。もちろん夢を持ってしでかしたんですけれども、そのしでかしについては、思うようにはいかなかった、ぼく個人はね。思うようにはいかなかったそのフォーライフレコードが、どういう風になくなっていくのか。もしなくなっていくとすればね。なくなっていくところまで見届けないと、しでかした人間として決着がつかない。もちろんクビになったら別ですけれど、辞めることができない。

 

 

小室は今もフォーライフレコードの契約アーティストとして、活動を続けている。

 

四つの強烈な個性が出会い、大きな冒険に挑んだ。けれど4人は別れ、それぞれの道を歩み出した。フォーライフの試みは、一時のはかない花火だったのか。いやそれはちがう。あのときの4人の大冒険が、その後アーティストの大きな道標となり、日本の音楽業界が自由で豊かに成長した。

 

フォーライフ創立から46年。拓郎が成功させたオールナイトコンサートは、夏の風物詩として、いまや多くのアーティストの間で定着した。自由な創作と権利の意識に目覚めたアーティストも次々にあらわれた。日本の音楽の流れを変えたその原点には、あの日の4人がいた。

 

今回、吉田拓郎に取材を依頼したところ、こんなメールを送ってくれた。

 

あの時代のフォーライフ結成に関しての「現在の吉田の心境は」と問われれば、

 

吉田:素晴らしい楽曲を作り出したいと言うシンプルな音楽人生を目指していた僕にとって余計な熱量を費やした時間になってしまった」という感じです。まぁ、「やらなきゃ~よかった」って事ですかね(大笑)

 

 

その拓郎に泉谷は、

 

 

泉谷:俺が辞めていくって言ったときに、ちゃんと話し合って、辞めさせてくれよって言ったときに、必死で止めたのも吉田拓郎だからね。ほんと、応えてあげたかったよね。ほんと、必死で止めてたな。こいつはいい奴だなと思ったよ。ただ社長になっちゃうとな。だから俺はおそらく怖かったのは、やっぱりさぁ、自分の好きな人に失望していくのがイヤなんだろうと思う、おそらく。やっぱりこれはもう、男女の仲に似てるかもしれないね。好きな人って、好きになりたくないじゃん(笑)。おれ、今気づいた。おれが悪い。もうしわけない。吉田拓郎、もうしわけなかった(と、頭を垂れる)。

 




NHKアナザーストーリーズ

「俺たちが音楽の流れを変える!

〜フォーライフ 4人の冒険〜」

 


 

 

吉田拓郎フォーライフヒストリー