大瀧詠一ヒストリー 誕生から細野晴臣との出会いと別れ はっぴいえんど・おもい・サイダー・ロンバケ | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 以下の一文は、ミュージシャン・大瀧詠一の、その生涯をたどったものです。いわば評伝の類いです。このようなものを書くぐらいですから、自分は大瀧のファンなのですが、よく聴く作品ははっぴいえんど期とソロ初期のみで、あとはロンバケの数曲ぐらいです。よって下の記述も、いささか偏ったものであることをお断りしておきます。

 構成としては、大瀧詠一と細野晴臣の関係性を骨子としました。大瀧が世に出るには細野との邂逅が必須でしたが、そこに至るには数人の方たちが介在していました。彼らが大瀧を音楽の世界に導いたといえます。この興味深い経緯を深掘りしてみました。

 繰りかえしになりますが、偏向した一文です。個人的見解も入れ込んでいます。真の大瀧ファンには受け入れ難いと思われます。他方、独自の視点で書いた自負もすこしはあります。ナイアガラーと呼ばれる方々の、たとえおひとりでもいい。お目にとまればさいわいです。


資料
引用、および参考とさせていただきました。執筆者および出版元に深謝します。


 『細野晴臣と彼らの時代』  門間雄介著

 『定本はっぴいえんど』 
 『みんなCM音楽を歌っていた』 田家秀樹著 
 『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969‐1989』 牧村憲一著
 『はっぴいえんどBOX』ブックレット
 『大滝詠一Talks About Niagara』

https://kazura1952.blogspot.com/2012/01/blog-post_19.html
など多数

 

 

 

 

 大瀧詠一は1948年7月28日、現在の岩手県奥州市に生まれた。本名を菊池榮一という。菊池は父親の姓であり、大学時代まで名乗っていた。大瀧は母親の旧姓である。事情はあきらかではないが、詠一は母子家庭の一人息子として育った。

 母は小学校の養護教諭であり、勤め先に大瀧を連れていくことがあった。牧歌的な時代であり、幼き息子は職員室でおもちゃにされた。教職員旅行にも連れていかれ、『めだかの学校』を歌わされた。この歌の作曲者は中田喜直という。大瀧はのちに中田の甥と友人となり、その友・細野晴臣と知り合うこととなった。

 母は歌が好きだった。息子は練習につきあわされ、三橋美智也や春日八郎のレコードを聴くようになる。春日の『お富さん』を口ずさむようにもなり、幼い大瀧を知る人の思い出となった。家ではよく「のど自慢大会」がおこなわれた。おばたちが流行歌の本を手に訪れ、みながわれ先にと歌った。大瀧は司会をやらされ、流行歌のほとんどを歌えるようになった。

 お笑いも好むようになった大瀧少年は、将来落語家になろうと何席もおぼえた。10歳のときには、教室で扇子片手に『字違い』を披露している。野球・相撲なども得意であり、学芸会で主役をつとめる人気者でもあった。母の仕事は転勤が多い。大瀧は高校卒業まで県内を転々とし、6回の転校を経験、入学した学校を卒業したことはない。

 音楽への本格的な興味は小学5年の夏に抱いた。ラジオで聴いたコニー・フランシスの『カラーに口紅』で芽生えた。買ってもらったレコードをすり切れるまで聴き、以来、アメリカン・ポップスに深く傾倒することになる。大瀧はロックバンド、はっぴいえんどで世に出たが、趣向のルーツはアメリカン・ポップスであった。中学に入学後も音楽を聴きたい一心で、部活はラジオクラブに入った。先生がステレオをつくってくれ、短波放送も聴けるようになった。

 音楽に一層のめり込む、そのきっかけはエルヴィス・プレスリーだった。短波経由のFEN(米軍極東放送 ) から流れたエルヴィスの虜となった。特定のアーティストを好きになったのは、エルヴィスが最初であった。そのファースト・アルバム『エルヴィス・プレスリー』にちなんで、自身のソロ・デビュー作も『大瀧詠一』としている。

 アメリカのヒットチャートを日夜記録し、独自のチャートを作成。ラジオの録音にもいそしんだ。東京への修学旅行では、土産物代を日本橋三越のレコード売り場で使い果たしてしまう。中3のときには、みなの前で初めて歌った『想い出のサンフランシスコ』で大喝采を受けた。

 お笑いと音楽がコラボしたジャズバンド、クレージー・キャッツにぞっこんとなったのは、ラジオから流れた『スーダラ節』がきっかけだった。同級生の千葉伸行がこのレコードを持っていて、借り受けた大瀧は連日連夜聴き続けた。千葉とはクレージー・キャッツの話ばかりで、周囲から変人扱いされている。後述するように、この千葉は大瀧の運命を変える、重要人物となった。

 64年、岩手県立花巻北高校に入学。下宿で一人暮らしをはじめるが、授業料を全部レコードにつぎこんでしまう。1年で退学となり、2年からは岩手県立釜石南高校に編入された。大瀧が楽器を始めたのはこの年からで、友だちがギターを貸してくれた。だがうまく弾けない。三日であきらめドラムを演りだした。練習は、こたつの上に漫画雑誌を置いて叩いた。

 2年では初めてのバンドも組んでいる。お笑い好きの大瀧はコミックバンドをやりたかったが、同志がいない。組んだビートルズタイプのバンドは学校の予餞会で演奏、大瀧が歌った『イエスタデイ』は大絶賛された。ギターも3年生のときは少しは弾けるようになった。

 のちに大瀧ははっぴいえんどとして岡林信康のバックをつとめたが、その『友よ』を演奏中、落涙したことがある。高校時代に友人から受けた裏切りを思いだしたからだった。クールなイメージのある大瀧の、意外なエピソードである。

 大瀧には「日課」があった。中学生時代から毎週日曜日にレコード屋に通っていて、高校に入ると放課後の日課となった。どの棚に何のレコードがあるかすべてを把握し、客に薦めたりもした。デビュー後、店を営むおばさんにあいさつに行くと、大層喜んでくれた。

 ギターを覚えてから、大瀧ははじめてのオリジナル曲を書いている。中学の同級生千葉が詞を書き、大瀧が曲をつけた。将来ミュージシャンになろうとは思わなかったが、歌はいっぱい知っている。深夜放送のディスク・ジョッキーや音楽評論家にあこがれた。この夢は実現し、自らのラジオ番組で趣味の音楽を電波にのせ、縦横無尽に語りつくしている。



千葉伸行

 67年の春、大瀧は上京し大学を受験した。しかし失敗。そのまま予備校に入った。だがほとんど通っていない。学費は例のごとくレコード代に消えてしまった。仕方なく小岩の製鉄会社に入ったものの、まともに勤める気はなく、在籍していた三ヶ月のあいだ、出社したのは二十日ほどだった。船橋ヘルスセンターでの社の慰労会で、ビートルズの『ガール』をアカペラで披露すると、部長が「うまい」と褒めてくれ、課長は「君は会社に勤めるような人ではない」と退職を促した。大瀧は「そうでしょうね」と応じ、辞めている。

 東京には、千葉伸行が居た。千葉は中学を出ると東京の寿司屋で修業をはじめたが、一年で田舎に帰り、再び上京、鉄工所で働きだしていた。大瀧の東京での知り合いは、千葉しかいなかった。大瀧が製鉄会社に入ったのも、あるいは千葉の鉄工所と関係しているのかもしれない。

 すでに触れたように、この千葉が大瀧の運命を変えることになった。東京での人間関係があった千葉は、上京して数日後の大瀧を誘い、アマチュア・バンドの練習場に連れて行った。千葉の中学時代の先輩(大瀧の先輩でもある)がバンドを組んでいた。

 このバンドのメンバーのひとりに布谷文夫がいた。布谷は専修大生で、のちにブルース・クリエイションでレコード・デビューし、また大瀧プロデュースによる『ナイアガラ音頭』などの作品を発表している。大瀧は布谷を介することにより、細野晴臣と出会うことになる。千葉の何気ない誘いが、大瀧詠一の運命を決することになった。

 すこし余談を挟みたい。大瀧ははっぴいえんど解散後ソロとなり、創設したナイアガラ・レーベルでアルバムを発表している。だが自分はこれら諧謔的というのだろうか、コミック・ソングのような一連の曲にはついていけなかった。世評も同様であったようで、ナイアガラのセールスは惨敗であった。はっぴいえんど以来の多くのファンも離れていった。ナイアガラは苦境に陥り、大瀧は引退まで考えた。

 大瀧の音楽のルーツは多々あるが、ひとつにはコミック・バンド、クレージー・キャッツがあった。落語などお笑いが好きな大瀧にとって自然なことだった。だがクレージー・キャッツは単なるコミック・バンドではない。優れた音楽性を有していた。だからこそ大瀧は惹かれた。

 つまり、大瀧をあらぬ方向に傾かせたがクレージー・キャッツであった。だが一方で、このバンドに熱中したからこそ、千葉伸行が同好の士となり、そして細野晴臣との邂逅に導いてくれたことになる。この視点に立てば、ナイアガラ時代の否定的な見方も変わってくる。今日みなが知る大瀧詠一を生みだしたのは、クレージー・キャッツであり、そして千葉伸行という友人の存在であった。千葉がいなければ、大瀧詠一は細野晴臣と出会うことはなかった。


 なお、千葉はその後、布谷の作品『冷たい女』の詞を書いている。プロの世界に足を踏み入れていたようだ。千葉をさらに調べると、とあるミュージシャンがブログに書いていた。このブロガーは若き日の大瀧や千葉と交流があり、そのことを記していた。この記事によると、ゲームのトランプで遊んでいたときのこと、千葉は大瀧に言われた何でもない冗談に腹を立て、以来音信を絶ってしまったという。日本ポップス史を塗り替えた友情の顛末としては、いささか寂しい話である。



布谷文夫

 閑話休題。布谷は大瀧がドラムを叩けると聞き、組んでいたバンドに勧誘する。これを機にこのバンドはタブーと改名した。だが低レベルのバンドであった。ディスコなどですこし演奏した程度で、メンバーの脱退により2ヶ月ほどで消滅している。

 大瀧のアメリカン・ポップス好きを知った布谷は、「おまえにぴったりの人間がいる」と、ある男を紹介してくれた。67年の暮れのこと、大瀧は新宿の喫茶店で相手と会うこととなった。大瀧が幼少期に口ずさんでいた『めだかの学校』の作曲家・中田喜直の甥で、名を中田佳彦という。大瀧より一歳上の立教大生であり、彼こそが、細野晴臣の友人であった。

 こうして大瀧は、細野と巡り会うことになる。その前に、布谷と中田の関係性にも触れておきたい。だがそれは、関係性ともいえない、瞬間的な遭遇であった。布谷は北海道の出身なのだが、ある日、同郷出身者から頼まれ、ライブハウスでのバンド演奏に応援出演したことがあった。そのメンバーのひとりが中田だった。布谷はこのときの中田の音楽趣向が印象に残り、大瀧に紹介したのだった。

 運命論的な話をくりかえして恐縮だが、このバンドが布谷を呼ばなければ、布谷は中田を知ることはなかった。千葉の先輩、千葉、布谷、そして布谷の同郷出身者の4人が、大瀧を細野に導いたことになる。



中田佳彦

 さてここからはすこし、中田佳彦という人の生い立ちを紹介しておきたい。中田の父はファゴット奏者にして作曲家であり、この弟が喜直であった。喜直は『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』などの童謡で知られる、戦後日本を代表する作曲家のひとりである。

 中田の祖父にあたる章も、現在の東京藝術大学の教授をつとめ、唱歌「早春賦」の作曲家として音楽史に名を残している。中田が幼かったころ、父は朝の食卓に着くより先にピアノでバッハを弾いた。

 中田のまわりには空気のようにクラシックがあった。中田は小学校に入るとピアノを習い、中学生になるとクラリネットやサックスを演奏した。だがクラシックに疑問を持つようになる。クラシックは、たとえば風景は描写できる。しかし人の心を表現しているとは思えない。中田は景色ではなく、人の心の葛藤などの表現に興味をもった。

 高校生になった中田は、ラジオから流れてきたビートルズを聴き、人間の感情を生き生きと伝えるポップ・ミュージックに興味を持った。そしてロックやポップスを聴きあさるようになる。ギターを弾きはじめ、キングストン・トリオやブラザース・フォアのコピー・バンドを友人たちと組んだ。中田はクラシックを学ぶために東京藝術大学に進学することを考えていたが、結局立教大学に進み、社会学部で新聞学を専攻した。

 初めて顔を合わせた大瀧と中田は、布谷の言うとおり、とても話が合った。中田はアメリカン・ポップスが何よりも好きだった。音楽全般にも精通し、すでに曲もつくっていた。それはプロの作品のように出来がよかった。人前で演奏すると、レコードで発売されている作品か問われた。大瀧もその歌をとても気に入った。自分の曲とは、雲泥の差だった。



細野晴臣

 大瀧と中田が新宿の喫茶店で二回目に会ったあとのことだった。店を出たふたりは近くのレコード店に入った。音楽好きの当然のコースであった。するとその店に、ひげをはやしたぼうっとした男が立っていた。細野晴臣だった。中田と同じ立教の学生である。中田は白金台の細野の家でレコードを聴いたりギターを弾くなど、親交を深めていた。サイモン&ガーファンクル的なデュオも組んでいた。

 翌68年の1月、大瀧は細野の家を訪れることになった。この日細野は応接間のステレオセットの上に一枚のレコードを飾った。アメリカのロック・バンド、ヤング・ブラッズの『ゲット・トゥゲザー』である。中田によると、大瀧は音楽的なセンスに優れているという。ならば知られていないこのレコードに気がつくかもしれない。細野は新しい友人の音楽知識を値踏みしようとした。

 このころ大瀧は、髪をビートルズやビージーズのようなマッシュルーム・カットにしていた。細野の家に着き、応接間に入った。その瞬間、マッシュルーム・カットの青年はステレオの上のシングル盤に目を留めた。「おっ、ゲット・トゥゲザー!」

 大瀧はすでにこのレコードを手に入れていた。「シングル盤がこれ見よがしに飾ってあるんだよ。これを見つけるやつはいるのかっていうような感じで。だから挨拶の前に、『ゲット・トゥゲザー』と言ってしまった。何だか意地が悪いっていうか趣味が悪いっていうか。それだけが掲げて置いてあった」


お茶飲み会

 こうして大瀧と中田は毎週日曜、細野の家に招かれ、お茶飲み会と称する集まりを開くことになった。レコードを持ち寄り、曲を分析した。ギターを弾いて、コードを学び、自作の曲を発表する。それは勉強会だった。三人は曲つくりや曲の構造に興味を持ち、大好きな音楽をあらゆる角度から深く探究していった。

 細野のオリジナル曲はすべて英語だった。メロディアスでもなく、リズミックでもない、変わった不思議な歌が多かった。大瀧もつくっていたが、いいのが出来なかった。作曲などと呼べる代物ではなかった。不出来なのを披露すると、ほかのふたりの顔が曇った。

 一方、中田の曲は群を抜いていた。一段と深い音楽の趣と独自のコード感がある曲をつくっていた。また中田は落ちつきのあるギターを弾く。曲のよさが生きるギターで、歌もよかった。中田は高い声の持ち主でもあった。中田の曲は、大瀧の感性にぴたりとはまった。

 大瀧と細野は中田に触発された。特に大瀧はおおいに勉強になった。このときに自分のベースがすべて固まったとさえ言う。あるいはこのころから全然進歩していないとさえ、18年後に出た『定本はっぴいえんど』で語っている。

 年初にお茶飲み会がはじまった68年の4月、大瀧は早稲田の第二文学部に入学した。その夏、大瀧は岩手に帰省し、ギターを抱えて海に行き、一曲書いている。このときはうまくできた。これならあのふたりの前でも胸をはって歌える。東京に戻ると、細野と中田が手放しで褒めてくれ、ふたりに認められた最初の曲となった。大瀧は、これを元に収録したのが、アルバム『ロング・バケーション』の『スピーチ・バルーン』である。

 68年9月、三人はランプ・ポストというバンドを組んだ。新宿のライブハウスに出るためであった。オーディションに挑み、サイモン&ガーファンクルなど数曲を演った。だが落ちてしまう。大瀧はその審査をしていた、同じような年格好をした奴らが忘れられない。『ロング・バケーション』の大ヒット後も、「せせら笑ったそいつらに今、会いたい」と語っている。かくてランプ・ポストはあえなく消滅。細野は他のバンドにも籍をおいていて、活動の主軸をそちらに移していった。

 大瀧と中田の交流は続いた。翌69年4月のこと、ふたりはエヴァリー・ブラザース的なデュオをやろうと、東芝へ売り込みに行っている。東芝には中田の兄・基彦がクラシックの部署で働いていた。大瀧と中田はオリジナルをつくり、東芝のディレクターに聴いてもらった。しかし「これじゃぁ、プロは無理だね」と、夢はあえなく潰えてしまった。ちなみにふたりとも目が細いので、デュオ名を『アイズ』と名付けていた。



世捨人

 タブーの解散後、布谷はピッキーズというバンドに入っていた。大瀧は中田や細野と親交とともに、布谷とのつきあいも続けていた。ピッキーズ出演のライブハウスに行くと、ステージに上がらされ、ピーター・ポール&マリーの『500マイル』をエルビス・プレスリー風に歌ったこともある。大瀧は熱中していただけあってプレスリーのまねがうまかった。

 69年、ピッキーズに加入してきたのが、名ギタリストとなる竹田和夫であり、同バンドはブルース・クリエイションと衣替えしてゆく。ブルース・クリエイションは7月にアルバム・デビューを果たし、大瀧はその活動に同行し、マネージャー的なサポートをおこなっている。

 大瀧は竹田とも親しくなった。音楽面だけでなく、布谷を交え三人で語りあった。難しい話に熱中し、朝までニーチェについて論じたこともある。やがて大瀧は住んでいた笹崎の部屋を引き払い、布谷のアパートに転がり込む。布谷が仕送りを月の半分で使い果たすと、後半は大瀧の仕送りで暮らした。将来への明確な指針を持たず過ごしていたこの時期を、大瀧が振りかえっている。

 「漫画の永島慎二のフーテンによく出てくるような生活を送っていた。僕の68、69年ていうのは、こうあらねばいけないとか、僕はこういう者であるとかとはまるで無縁だった。自分ひとりで何かやるとかっていうことも、何も考えてなかった。ただただレコードを聴いて。生演奏かなんかあるところに聴いて歩いていた。仕送りでレコード全部買っちゃうと金がなくなって、めしが食えなくて、腹へって竹田の家に行ってめし食わしてもらったりとかさ、コーラのびん売って、電車賃かせいで、とかいうような生活していた。ブルース・クリエイションのマネージャーといっても、カネはもらってない。知識は目一杯あったから、相談役というか世話役だっただけ」

  

細野晴臣の飛翔

 一方、細野はこの時期、大きく飛躍していた。加入していたバンド、フローラルが発展的に解消、エイプリル・フールが結成され、レコーディングをおこなったのだ。69年4月、大瀧はこの話を知った。お茶飲み会で一緒だった細野の、いきなりのレコードデビューである。大瀧は大きな衝撃を受けることとなった。

 「バンド演奏で曲になって音になっている。もう感動を禁じえなかった。変な歌ばかりつくってたけどこういうのつくるんだぁ(笑)。ものすごく興奮したのおぼえてる。細野さんは、やる人なんだなって」

 だが、それから5ヶ月経った9月。細野がぽつりと言った。「エイプリル・フール、解散するんだよ」。細野にとっては、エイプリル・フールはレコーディングできることが魅力であって、以降は興味が失せていた。アメリカのロック・バンド、バッファロー・スプリングフィールド(以下バッファロー)の魅力に取り憑かれ、新バンドでそれを体現したかった。

 細野はそのメンバーとして、エイプリル・フールの小坂忠と松本隆に声をかける。小坂はヴォーカリストとして、松本はドラマーとしてである。ふたりは細野の構想に共感し、新バンド結成へと動き出した。

 ところが突如小坂が心変わりしてしまう。ロック・ミュージカル『ヘアー』のオーディションに応募し、採用されたのだ。あろうことか細野は、小坂のオーディション参加を手伝っていた。松本は「何やってんだ」と、細野の矛盾した行動に怒った。細野自ら、新バンドメンバーを手放してしまった。

 言うまでもないことだが、この新バンドには大瀧が加わることになる。つまり小坂の離脱なくして大瀧詠一の参加はなかった。大瀧の、運命のターニング・ポイントの最終局面が、小坂の変心であった。

 だがこの時点で、細野にとって大瀧は対象外であった。大瀧はバッファローの理解者ではなかった。細野にとっても大瀧は、アソシエイションやビージーズの信奉者であり、ブルース・クリエイションのステージでプレスリーを真似する印象も強くなっていた。新バンドにはとても誘えない。



覚醒

 ところが、バッファローには興味がない大瀧が、ある日その認識を改めることとなった。ブルース・クリエイションのアルバムはポリドールから出ており、布谷は多くのレコードを部屋に持ち帰っていた。その中に、バッファローの『ドゥ・アイ・ハフ・トゥ』があり、その日遊びに来ていた竹田がプレイヤーにかけた。大瀧は驚いた。とてもいい曲だったからだ。

 そのとき竹田は、大瀧に促している。音楽が好きなのならば、自分でやったほうがいい。絶対に自分でやるべきだと。自分たちのバンドに帯同するだけで、何ら生産的でない、刹那的な生き方が歯がゆかったのか。その才能を自らの音楽活動において発揮すべきだと、三歳年長者への忠告であった。大瀧は思った。

 「考えてみると、自分でやるって考えてなかった。具体的に何をやるとか、自分はどういう風に生きるのか、とかじゃなくて、浮遊していた。和夫に自分でやった方がいいよって言われたとき、何かハッと目がさめてね、あ、なるほど、と思った」

 竹田から諭された翌々日、大瀧は細野と会っている。「覚醒」した大瀧ではあったが、さしたる用があったわけではない。細野の新バンド構想はもちろん、小坂が抜けたことや、新たなメンバーを探していることも知らない。だが話題がバッファローとなり、『ドゥ・アイ・ハフ・トゥ』が気に入ったと話すと、細野の目の色が変わった。

 ヴォーカリストを失い途方に暮れていた細野は驚いた。『ゲット・トゥゲザー』と同じように、大瀧の口からバッファローの名が出たことが意外であり、運命だと思った。この時期、バッファロー好きを公言していたのは、細野だけだった。その音楽を大瀧が理解したのだ。小坂が抜けたその直後におきた、まさに運命であった。

 「合言葉みたいなものでね、バッファローは。バッファローのなにがわかったのか知らないけど、以心伝心というか、きっと極意がわかったんだろうと。ぼくのやりたい方向にも興味があったんだろう。だから自然と三人(細野・大瀧・松本)で集まりだして、ぼくの家や松本の家でいろいろなレコードを聴きはじめたんです」

 こうして大瀧は、はっぴいえんどと名付けられる新バンドに合流することになった。そして大好きなポップスを封印。細野の目指す方向性に自分を順応させることにした。だが「闇夜の中にポンと一人入ったみたいな感じ」だったと、大瀧はこのときの心境を語っている。

 「細野さんや松本も『ぼくたちだって試行錯誤だった』って言うんだけど、もっと真っ暗だったよね、俺は。わかんなかったんだよね。特にああいうロック的なものは。好きなロックンロールとは違うものだと思ってたからね」



はっぴいえんど

 新バンドを結成することになった細野・大瀧・松本の三人は、結束を固めるため、10月に東北へ自動車旅をおこなった。バンドとして進むべき道と、日本語の詞でオリジナル曲をつくるという方向性を共有した。なによりも共に過ごした時間は自由で幸福だった。松本は語る。「このときの細野さんがいちばん楽しそうだった」と。

 細野は旧知の天才ギター少年鈴木茂を招き入れ、メンバーが固まった。すると間もなく、レコーディングの話が舞い込んできた。エイプリル・フールのときから細野に注目していた音楽ディレクターからだった。むろんこの上ない朗報であった。

 大瀧と松本はすでに曲つくりに着手していた。松本の詞に大瀧が曲をつけた『12月の雨の日』が、はっぴいえんどとして最初の曲となった。また東京育ちの松本は、東北出身の大瀧を意識し、『春よ来い』を書いている。ともに大瀧が曲をつけたこの2曲に、細野は心底惚れこんだ。

 しかし自身の創作は難航した。もともと自信がなかった。試作した曲もディレクターに否定された。一方、大瀧は次々と曲を書いてゆく。このため、バンド内の比重は大瀧に大きく傾くことになった。とはいえ、結束に亀裂が生じたわけではない。東北旅行の高揚感のまま、はっぴいえんどは、ファースト・アルバム制作に邁進した。

 アルバム・タイトル『はっぴいえんど』、通称ゆでめんのレコーディングは、70年4月におこなわれた。曲つくりやボーカルなどで、大瀧の存在感が前面に押し出されたアルバムではあったが、彼らは合議的で、誰かが強引に作業を進めるということもなく、揉めごととは無縁だった。
 
 音楽に向かう彼らの姿勢もひたむきだった。ひとたび音楽を離れると、そこにはクラブ活動のような和気あいあいとした雰囲気があった。次作『風街ろまん』制作前、はっぴいえんどは岡林信康のコンサート・ツアーのバック・バンドをつとめ、全国各地を旅している。その当時を細野は語る。

 「みんなで旅に行くと、「後輩は布団を敷け」って言ったりしてね。松本と茂が文句を言いながら布団を敷いてました。そういう遊びだったんです。先輩と後輩をあえて意識してやろうじやないかと。大瀧くんとは謎かけをやったりね。それがおかしくておかしくて。ほかにもポーカーをやったり、ブラックジャックをやったり、旅だとそんなことばかりでした」

 四人には親密でなごやかな空気が流れていた。そして彼らは、他のロック・バンドとは異質だった。細野が自虐的に言う。「見た目も暗かったし、誰も近寄ってこなかった。でもぼくたちはそれが楽しかったん。冗談ばかり言っていてね」

 71年を迎えた時点で、細野23歳、大滝22歳、松本21歳、鈴木にいたってはまだ19歳。はっぴいえんどはその老成したムードとはうらはらに若いグループだった。


風街ろまん

 71年4月、はっぴいえんどは、シングル『12月の雨の日/はいからはくち』を発売した。この『はいからはくち』のシングル・バージョンは、『風街ろまん』に収められたバージョンとは異なるアレンジであり、バッファローを目指した、その到達点と言わしめる完成度となった。同時にこの曲は、以降のバンドの方向性を変えることになった。大瀧が回想する。

 「でき上がってしまったというある種の納得感、満足感があった。そうなると、やっぱりポテッシャルが下がる。目標に向かうエネルギーは間違いなく薄れる。だから、はっぴいえんどは『はいからはくち』のシングルで完成した。その後は個々の遊びが始まってる。細野さんはジェームズ・テイラーとかそっちに向かい、ぼくはエルヴィス回帰、ナッシュヴィル/メンフィス回帰だった」

 ゆでめんの時から曲つくりや歌うことに苦悩していた細野は、ジェームス・テイラーに活路を見い出す。そして『風をあつめて』や『夏なんです』などの傑作を生みだしていった。日本語のロックを確立した「金字塔」。そう称される彼らの二枚目のアルバム『風街ろまん』は、71年11月に発表された。詞と曲とサウンドを突きつめ、最も高度なレベルで融合させた作品である。

 一方このアルバムでは、個々の遊びが顕著であった。『風街ろまん』の大瀧の曲は、あきらかに諧謔趣味が強くなっていた。それでもなお大瀧には、はっぴいえんどのために、自身の本来の音楽的嗜好-エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズやリヴァプール・サウンドなどを自制する、ある種のブレーキが効いていた。

 ところが細野はジェームス・テイラーヘの傾倒を隠さず、自身の音楽的な嗜好に素直にしたがい、『風をあつめて』や『夏なんです』をつくりあげた。そんな細野への思いを大瀧がストレートに述べているインタビューがある。

 「『風街』で細野さんがジェイムス・テイラーっぽいことをやりだした。アチラは何も考えずに、自分の音楽やり続けてるんだよ。はっぴいえんどのためにぼくは自分の好きな音楽を封印した。ぼくは何のために目をそらし続けたのか」

 「バッファローがわかった」と細野に伝え、はっぴいえんどの野心的な構想に参画したとき、大瀧は本来好きだったポップスを封印した。そしてバッファローなどの、それまで聴かなかったウェストコースト・ロックの世界に身を置いた。細野に裏切られた思いだった。

 細野は新たに自分の好きな音楽を見つけると、無邪気に、軽々とそこへ飛びうつった。大瀧とは対照的に、細野は自分の好みの変化に正直だった。大瀧は『夏なんです』や『風をあつめて』のレコーディングには参加していない。『風をあつめて』を録音した日、スタジオで細野と交わしたやりとりを松本が回想する。

 「細野さんに「大瀧さんは?」って聞いたら、必要ないから呼ばなかったって。悪気はまったくないんだよね、あの人。細野さんって自分のやりたいことしかない人だからさ。でも大瀧さんはそういうことに傷ついて、結局解散に向かっていくんだけど」

 『風街ろまん』に収録された「花いちもんめ」は、細野と大瀧の関係性の変化を察知して、松本が詞にした曲である。松本は細野を「右手の烟突」に、大瀧を「左手の烟突」になぞらえ、ふたりが煙を吐きだしているさまを表現した。彼らはなんだか怒りっぽいように松本には見えた。



ソロ

 『風街ろまん』のレコーディングがおこなわれていた71年8月から9月にかけて、自曲をほぼ録り終えていた大瀧は、スタジオの近くの喫茶店で時間を持てあましていた。そこにキングレコードのディレクター三浦光紀がやって来て、「大瀧さん、ソロやらない?」と声をかけた。三浦には考えがあった。はっぴいえんどのメンバーがひとりずつソロ作品を作ることにより、それをバンド全体の人気につなげていくという構想である。

 このソロ・プロジェクトの第一弾には、アメリカン・ポップスに造詣が深く、ヒット・メーカーとしてのポテンシャルを持つ大瀧がいい。三浦の提案を受けた大瀧は、ソロ作品の是非について細野に相談すると、「話があるうちにやっておいたほうがいいよ」とOKした。

 大瀧は、自分のポップスの原点である『ロコ・モーション』のイントロを模して、『恋の汽車ポッポ』を71年10月に発表した。大瀧はこのシングル制作をはっぴいえんどのソロ・プロジェクトのひとつと認識しており、そのため制作ははっぴいえんどのメンバーでおこなっている。ソロ作品はこのあと細野、鈴木と続くはずだった。ところが翌72年2月になって状況は一変した。

 キングから独立した三浦がベルウッド・レコードを設立すると、大瀧がベルウッドにおいてソロ活動を継続することになった。そして大瀧の二枚目のソロ・シングル『空飛ぶくじら』が、はっぴいえんどのメンバーをいっさい加えずレコーディングされた。同シングルは6月にリリースされ、また大瀧のソロ・アルバムのレコーディングがはじまった。この収録の一部には、細野と松本と鈴木が参加した。だが、バンドの結束は失われつつあった。細野が言う。

 「バンドのたがが緩んできた。ベルウッドの動きは、ぼくには疎いできごとだったんですけど、三浦さんと大瀧くんとでなにかをはじめる気配があったりして、バンドを続ける気持ちが次第に弱まっていったんです、みんな。ぼくもそうでしたから」

 72年11月、大瀧はファースト・アルバム『大瀧詠一』をリリースする。この作品で大瀧は、はっぴいえんどに加わってから封印していたポップスに対する愛着を吐きだした。ここまでの一連のソロ作品は、はっぴいえんど解散の要因のひとつだとされてきた。だが大瀧にはバンドの面々と袂を分かつ意思はなかった。ソロ作品が解散を招いたと言われることを気に病んでもいた。



解散

 しかしながらバンドの解散は避けられないところまで来ていた。このころメンバーの私生活にも大きな変化があった。まず前年の71年5月に松本が結婚し、72年の3月に細野、7月には大瀧が相次ぎ結婚した。細野が白金台の実家を離れ、埼玉県狭山市の狭山アメリカ村に転居したのは、この結婚から数カ月後のことだ。

 細野がアメリカ村に引っ越したことにより、はっぴいえんどのメンバー間にあった緊密な関係は失われた。彼らははっぴいえんどを結成する前から細野の家に集い、レコードを聴いたり音楽の話をしたりして交流を深めていた。だが細野がアメリカ村に転居した72年6月、青春の日々は終わりをつげた。大瀧のソロ・アルバムのレコーディングが終わる前後のころ、彼らはミーティングを開き、正式に解散を決定した。

 解散が決まったあとの72年10月、彼らはアメリカ・ロサンゼルスに渡り、はっぴいえんどとしての最後のアルバム『HAPPY END』のレコーディングに臨んでいる。このロサンゼルス録音には1枚目や2枚目のときのような明確なコンセプトはなかった。そのためこのアルバムは、メンバーのソロ曲の寄せ集めにしかならなかった。

 レコーディング中もみな押し黙ったままで、雰囲気は暗かった。現地のスタッフが、「なにか話せ」と怒ったほどで、和気あいあいであったバンド結成時の連帯感は霧散していた。収録曲には、細野が作詞作曲した『無風状態』がある。歌詞の一節には「奴はエイハヴ 気取って 」とあり、これを大瀧が咎めた。エイハヴは自分のことかと、細野を問い詰めたという。お茶飲み会のころからは想像できない、大瀧と細野には大きな亀裂が生じていた。

 大瀧はロサンゼルス・レコーディングを終えたあと、73年1月に東京都福生市に転居した。福生には在日米軍が駐留する横田基地があり、狭山アメリカ村と同様に米軍ハウスが建ちならんでいた。アメリカから帰国して、恵比寿の下宿を離れたこの時期の心境を大瀧が語っている。

 「帰ってきて、本当に一人になったね。細野と茂は一緒にやってたし、松本は作詞家として始めるようだったし、完全に一人になってしまった」

 はっぴいえんど解散後、細野は鈴木茂とともにソロ・アルバムの制作にとりかかり、松本は南住孝や岡林信康らの作品をプロデュースしたのち、チューリップのシングル『夏色のおもいで』(73年)やアグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』(74年)を皮切りに作詞家に専念した。

 そういったはっぴいえんどの他の面々の活動を尻目に、大瀧は孤独を感じていた。松本はこのころの大瀧をこう評している。

 「あの人は出遅れたんだ。細野さんとぼくは絶対的な価値観を持っていて、よく言うと我が道を行くタイプ。でも大瀧さんはまわりの動きを見て、最後に自分をはめ込むみたいなタイプだから、ちょっと苦しい時期があったと思うよ」

 だが細野は、大瀧こそ順調にスタートを切っていると思っていた。

 「たとえばサイダーのCMが有名になったりとか、着々と自分の世界を作りはじめてたからね。むしろひとりになったからこそ、そういう世界を作ることができたわけ。 彼にとってウェストコーストのロックをバンド・スタイルでやっていたはっぴいえんどは特殊な時代。それ以前の大好きだったポップスに戻るチャンスが来たわけでね。だから大瀧くんがいちばん早く世に出ていくんじゃないかと思ってた」



サイダー’73

 細野の言葉の通り、73年に入ると、大瀧はCM音楽の仕事を手がけていた。その第一弾となったのが、のちに『サイダー’73』と呼ばれる曲だった。事の起こりは、72年の春、はっぴいえんどのマネージャーであった石浦信三が、音楽プロデューサーの牧村憲一に声をかけたことだった。「はっぴいえんどでCMをやりたい」という。だが牧村は、はっぴいえんどのイメージとテレビコマーシャルが結びつかず、困惑しただけだった。

 その年の暮れのこと、牧村に、新進気鋭のCMディレクター・大森昭男から依頼が舞い込んできた。「三ツ矢サイダーからCMの依頼があり、新しい才能のある人を」という。だがこのとき、はっぴいえんどは解散が決まっていた。推薦するには、大瀧か細野か、どちらかひとりにせざるをえない。決め手になったのは、アルバム『大瀧詠一』収録の『ウララカ』だった。大森に聴かせたところ、「あぁ、いいですね。このイメージでやりましょう」となった。

 大瀧への依頼は、大森が直接おこなった。73年の1月、大森が電話をしたのだが、大瀧は大森が『ウララカ』を聴いていることを知らない。にも関わらず、大森の話を聞きながら頭に浮かんだのが、『ウララカ』のイントロであった。瞬間、「これでいける」と思った。またたくまに傑作CMソングの素地ができあがった。

 だが、大森は危ぶんでいた。大瀧には制作だけでなく、歌ってもらいたかった。それをクライアントは納得するだろうか。サイダーという商品は爽やかでなければいけない。女性の声でなければという既成概念もあった。

 大森の懸念はあたってしまう。大瀧の声をクライアントは承諾しなかった。蓄膿症の声みたいだという。その意向には逆らえない。大森は、代わりの曲が出来上がるまで、とりあえず一週間だけと説得。「本命」がオンエアされることになった。

 するとテレビに流れた『サイダー’73』に、大きな反響がおこった。途端に空気が変わり、あれほど頑なだったクライアントも承諾した。サイダーの「泡が上がってくる」清涼感や映像が曲とマッチしていた。大瀧には、CMが求めるものを具現化できる力があった。以降、数多くのCM音楽を手がけることになった。



ナイアガラ・ムーン

 74年夏、大瀧は福生への転居を機にスタジオを自宅に開設し、自身のレーベルを運営する構想に着手。山下達郎、大貫妙子らのシュガー・ベイブらが合流した。ナイアガラ・レコードの発足である。動機は『サイダー’73』が大瀧自身、おおいに気に入ったことだった。この曲をレコードにしたいと思った。ナイアガラ・レーベルの第一弾のレコードとしてシュガー・ベイブのアルバム『ソングス』をレコーディングし、75年に入って自身のアルバム『ナイアガラ・ムーン』のレコーディングをはじめた。

 大瀧の『ナイアガラ・ムーン』の発端には細野がいた。細野は大瀧のファースト・アルバム『大瀧詠一』について、中途半端だと大瀧に忠告していた。『大瀧詠一』ははっぴいえんどを引きずる曲が半分、アメリカン・ポップス的なメロディックな曲が半分という構成だったからだ。大瀧は次作にはリズミックな曲のみを収録しようと考えた。当時かぶれていたニューオリンズ音楽の影響がまともに出た。それは脱はっぴいえんどでもあった。

 「意識して60年代ものやメロディものを避けた。詞もはじめて全曲自分で書いて。パクリ、語呂合わせ……アンチ松本だよね。ホントは明るいものが好きな人間なのに、あのはっぴいえんどのジメついた世界はなんだった!って、それをぜーんぶあいつのせいにして(笑)」

 『ナイアガラ・ムーン』にはティン・パン・アレーがリズム・セクションとして参加。細野、鈴木、林立夫、松任谷正隆、佐藤博はここでニューオーリンズ特有のリズムにアプローチし、火の出るような熱い演奏をおこなった。それは完璧な演奏だった。細野はできあがったばかりの『ナイアガラ・ムーン』の音源を聴き、思わず「負けた」と口にした。

 「『トロピカル・ダンディー』をミックスしているときだったかな。『ナイアガラ・ムーン』ができあがってきてスタジオに届いたんです。聴いたら、『トロピカル・ダンディー』が駄目なものに思えるくらい素晴らしかった」


 
苦闘

 CM音楽で一世を風靡し、自身のレーベルを立ち上げた大瀧であったが、このあと苦境に陥ることになる。75年にシュガー・ベイブの『ソングス』と『ナイアガラ・ムーン』をリリースしたのだが、流通を委託するエレックレコードが倒産してしまったのだ。

 大瀧は再出発すべく、日本コロムビアと契約をおこない、76年に伊藤銀次や山下達郎とともに『ナイアガラ・トライアングルVOl.1』をリリースする。また同年には『ゴーゴー・ナイアガラ』、翌77年に『ナイアガラCMスペシャルVOl.1』『多羅尾伴内楽団VOl.1』『ナイアガラ・カレンダー』といった自身のアルバムを続けて発表し、レーベルの維持運営に奮闘した。なかでも『ナイアガラ・カレンダー』の出来には手応えを感じていた。だが商業的には失敗に終わってしまう。大瀧は無力感に陥った。

 「もう、これが売れなかったらやめよう、と……それぐらいの自信作だった。それが売れなかった。これでね、とりあえずナイアガラたたんじやったわけ。スタジオもすべて含めて。もう、やるのイヤになっちゃったのね」

 74年に福生45スタジオを開設し、ナイアガラ・レーベルをスタートさせたとき、大瀧は夢と理想を描いていた。セールスよりも、自分がいいと思う音楽を追求すること。それを大瀧はナイアガラで目指した。だが、成果は得られなかった。大瀧は78年に『多羅尾伴内楽団VOl.2』『デビュー』『レッツ・オンド・アゲイン』という三枚のアルバムをリリースしたあと、79年、ナイアガラ・レーベルを休止した。そしてスタジオの機材を売りに出した。レコード・ビジネスから身を引く覚悟でいた。

 この時期の大瀧を、音楽評論家・渋谷陽一は「世捨て人」であったと評している。同じく音楽評論家の北中正和は、「『大瀧詠一』と『ナイアガラ・ムーン』からは大きな衝撃を受けたが、ナイアガラ・レーベル後半の活動には歯ぎしりした」と書いている。音楽家・小西康陽も、最初のソロ・アルバム2枚がすべてであり、『ゴーゴー・ナイアガラ』以降は、心の底からがっかりしたと語っている。

 細野はナイアガラ・レーベルの内情には詳しくなかった。だが自身と大瀧が直面した困難について、少なからず思いあたる節があった。

 「ぼくも大瀧くんも50年代、60年代のアメリカのポップ・ミュージックにいろんな影響を受けてるけど、いい曲がヒットしていた時代だから、そういうファンタジーを持ってるんだね。いいポップスこそ売れるべきだって。ところが日本ではそうは行かないというジレンマがあった。無力感を感じるわけです。ぼくはプレイヤーの側面がすごく強いから、それでだいぶ救われてたと思う。でも大瀧くんは自分で曲を作って、歌って、レコードを出して、ファンタジーを純粋に実現しようとしたんじゃないかな」

 大瀧の、ナイアガラ・レーベルでのファンタジーは徒労に終わった。78年に前作『レッツ・オンド・アゲン』をリリースしてから、大瀧は二年にわたり自身の作品の発表を控えていた。日本コロムビアとの契約が切れたあとも、レコードの発売権が同社に残っていたためだ。そして発売権が解消したのち、大瀧はCBS・ソニーからリリースする新作のレコーディングを開始した。81年3月発売の、アルバム『ロング・バケイション』である。


ロング・バケイション

 大瀧は勝負に出た。『ロング・バケイション』は、最後のアルバムとして企画されたものだった。このアルバムでも100位にも入らないのなら音楽業界から足を洗う覚悟だった。「最後」のアルバムとして大瀧が考えたのは、それまでリリースする機会のなかったメロディックな曲をひとまとめにすることだった。

 その目論見は、1st.『大瀧詠一』をかつて中途半端だと指摘した細野の発言の影響によるものだった。細野の言葉を受け、リズミックな曲をまとめたものが『ナイアガラ・ムーン』になり、メロディックな曲をまとめたものが『ロング・バケイション』になった。

 『ロング・バケイション』が発売される前のある日、大瀧は細野の住む白金の団地を訪ねている。その時期のふたりは疎遠になっていた。細野はYMOの一大ブームにより多忙な日々を過ごしていたし、彼らはそれぞれの道を歩んでいた。そんななか、大瀧は細野に唐突に電話し、その顔を見るなり力を込めて言った。「次はぼくの番だ」。

 70年代の終わりにYMOを結成し、世界に進出した盟友に対して、大瀧は80年代のはじめに世に出るのは自分だと宣言しに来たのだ。大瀧は新しいアルバムを制作するにあたり、はっぴいえんどを解散したあと疎遠だったもうひとりの盟友の家を訪ねている。松本隆だった。

 松本は75年に作曲家の筒美京平とのコンビで太田裕美のシングル『木綿のハンカチーフ』をつくり、大ヒットしたことから職業作詞家として独自の地位を築いていた。筒美とのコンビでは、中原理恵の「東京ららばい」(78年)や、桑名正博の『セクシャルバイオレットNO.I』(79年)や、近藤真彦の『スニーカーぶる~す』(80年)をヒットに導き、歌謡界の新たなヒットメイカーと目されるようになっていた。

 大瀧は再び松本と組み、仕事をしたいと思った。自身の「最後のアルバム」でその協力を仰ぐことにした。松本は「よろこんで協力させてもらうよ」と答えた。大瀧には新アルバムのコンセプトがあった。大瀧は79年に刊行された、イラストレーターの永井博による絵本『ロング・バケイション』のタイトルを考え、そこに文章を書いていた。大瀧が相談しに来た日のことを松本が振りかえる。

 「大瀧さんがぼくのところに来て、けっこうシビアに話したんだよね。どうしたいのかって聞いたら、永井さんの絵本を見せてくれて、こんな感じにしたいんだって。それがアルバムのジャケットになったプールの絵。ぼくは機会があればそういう無国籍なものをまたやりたいなと思っていた。そこから『ロング・バケイション』のイメージができていった」

 歌が創作される場合、詞か曲かどちらかが先になる。『ロング・バケイション』の場合、すべて曲先であった。大瀧は新アルバム用に書き下ろした曲を、まとめて松本に渡した。そして、詞をつけやすい順番でやってくれと頼んだ。すると『カナリア諸島』が最初にできあがってきた。大瀧もこの曲は自然とできあがったという。だから、それが最初にくると思っていたら、その通りになった。

 松本は、高校生時代に読んでいた小川国夫の小説に登場する台詞をヒントに『カナリア諸島にて』を書いた。この詞ができあがったとき、大瀧は松本に電話で読み上げてもらっている。すると身体が震えるような手応えを感じた。松本と組むのは7年ぶりではあったが、これでまた松本とやれると、力強く思った。

 大瀧はその詞にメロディを付け、歌入れしたデモ・テープを家へ持ちかえった。すると妻が気に入って毎日のようにそれを聴くようになった。妻はナイアガラ以降の作品を聴くことはなかった。大瀧は驚き、そして自信を深めた。今度のアルバムは間違いなく売れるはずだ。

 『ロング・バケイション』は、大瀧の32歳の誕生日である80年7月28日に発売される予定であった。このため4月からレコーディングがはじめられた。ところがこのころ、松本の妹が幼いときからの心臓の病に倒れ、帰らぬ人となった。心痛で松本は詞を書けなくなってしまう。松本がほかの作詞家を探してほしいと伝えると、大瀧は「今回は松本の詞じゃなきや意味がない」と、アルバムの発売を延期した。

 予定から8ヵ月後の81年3月にリリースされた『ロング・バケイション』は、オリコンのアルバム・チャートでまず70位にランクインした。100位以内に入らなければ音楽業界から足を洗うと決意していた大瀧の賭けは、勝ちに転んだ。けれどもこれで終わりではなかった。『ロング・バケイション』はさらなる快進撃を続けた。ロート製薬のCM『君は天然色』が始まると、アルバムの売れ行きがうなぎのぼりに上がった。結局、81年の年間アルバム・チャートの2位となり、発売から1年を経て100万枚を突破している。

 レコード・ビジネスの過酷さに一度は音楽への意欲を失った大瀧だったが、細野がYMOの成功によって音楽的な復活を遂げたように、彼もまた起死回生となる特大のアーチを大空に描いたのだ。



歌謡曲の世界

 このころ、松本が動いている。YMOで人気が沸騰した細野と、『ロング・バケイション』を大ヒットさせた大瀧を、歌謡曲の世界に引きいれたいと思った。松本は歌謡曲の世界で一匹狼だった。はっぴいえんどという、ロックの世界から歌謡界に転身していた松本は孤軍奮闘していた。共闘する仲間が必要だった。

 まず松本は、細野を引っ張り込んだ。81年8月5日に発売されたイモ欽トリオのデビュー・シングル『ハイスクールララバイ』は、オリコンのシングル・チャートで7週連続の1位を記録し、その後ミリオン・セラーを達成し、81年の年間チャートでは4位に入った。こうしてまずは細野が歌謡曲の世界に連れ戻された。

 次に松本は大瀧を引き込んだ。松本はこのころ松田聖子の曲つくりに深く関与していた。そのチームに大瀧を加えた。松本が詞を書き、大瀧が作曲と編曲を手がけたのが、松田聖子の7枚目のシングル『風立ちぬ』。81年10月にリリースされ、大瀧に作曲家として初のシングル・チャート1位をもたらした。こうして歌謡界の仲間に加わることになった大瀧は、以降もこの世界で多くの作品を世に送り出した。



イーチ・タイム

 そして、84年3月21日にリリースされた『イーチ・タイム』は、大瀧に生涯初となるアルバム・チャートの1位をもたらした。だが同時に、大瀧にとって最後のアルバムとなった。この作品について、彼は気になる発言をおこなっている。

 「『イーチ・タイム』で、急に終わるとは思ってもいなかった。曲は無尽蔵に出てくるものだから、4枚組になるのかと思ったほどだった。でも数曲つくったら、まったく出てこなくなった。6曲目ぐらいまでは調子がよくてジャンジャン録っていたが、『ペパーミント・ブルー』を録ったあたりからペースが落ちて、曲が出てこなくなった。それまでまったく休んだことがなかったし、スランプなんてなかった。突然、終わった感じだった」

 「『イーチ・タイム』は周囲にせかされて出した。できれば出したくなかった。出して失敗した。だが出すとなったときには、もう終わらせようと思って出した。『レイクサイド・ストーリー』というのは、フェイドアウトする曲だが、大エンディングのパターンもあった。今日工場に行かないと発売日に間に合わないというので、階下にクルマが待っているという状況で、テープを差し換えた。そのときは確たる思いがあったわけではなかったが、結果的にはあれが最後のアルバムになったから、自分で終わろうとした」

 大瀧は、こう言葉を継いでいる。「ようやくはっぴいえんど前の、本来の単なる音楽好きに戻れた」。以降、アルバムが発表されることはなくなった。


急逝

 プロ・カメラマン野上眞宏は、立教で細野と同級生であった。細野と行動をともにする中で、はっぴいえんどや多くのミュージシャンと親交を結び、彼らの姿を数多く記録していた。74年に渡米し、主にニューヨークを拠点に写真家として活動。日本に帰国後は、自身のデジタル写真集をリリースすることになり、野上は細野や松本隆や鈴木茂に会い、彼らに撮影当時を振りかえってもらう手はずを整えていた。

 13年11月に野上が大瀧のもとを訪ねたのは、そのためであった。野上が最後に大瀧に会ったのは渡米前のことで、四十年ぶりの再会である。ふたりは食事をしながら思い出話に花を咲かせた。大瀧は昔の細かいことを記憶していた。以前と変わらずエネルギーにあふれていて明晰だった。野上は年明けの再会を約束して大瀧と別れた。

 だがふたりがふたたび会うことはなかった。翌月の12月30日、細野は知人からの電話を受ける。「大瀧詠一が亡くなったとテレビが速報していた」という。信じられない。見間違いか誤報だと思った。大瀧に近い人からの連絡で事実だと知った。


 「いなくなって初めて『しまった』と思った。彼の持っている豊かな音楽世界に、もうちょっと接触していたかった。というか、話したかったよね、もっとそういうことについて。いなくなった途端に、もう話す相手かいないんだなと思った。ぼくのソロ活動についてどう思ってるかも聞きたかったんだ。そういうことをもうそろそろ話してもいい時期だと思っていたし。でもなによりも、彼のソロアルバムを一緒につくりたかった。ソロアルバムをつくることについては、彼はぜんぜん動かなかったから、なにを考えていたのかも聞きたかったしね。福生に行って、野上くんと一緒に行って、そういう話を聞きたかった」

 「本当はぼくも野上くんと一緒に行けばよかったんだけど、邪魔になるだろうから伝言だけ頼んだわけ。大瀧くんがソロをつくらないというのは世間でも話題になってたから、なんでもお手伝いするよって。ぼくを好きなように使ってくれみたいな気持ちだったんです。ぼくだけじゃなく、ティン・パンのメンバーもバックアップするからさって。もう一度『ナイアガラ・ムーン』のようなことができるんじゃないかと思ってたんですね。そういうことをちゃんとやっていい時期がまた来てた気がするから」

 05年以降、自身のルーツ・ミュージックに回帰していた細野は、お互いのルーツに根ざしたところで再び大瀧と音楽ができるはずだと感じていた。けれども、福生を訪れた野上が細野から預かったメッセージを伝えると、大瀧はこう言った。「それは細野さん流の挨拶だ」。

 大瀧は笑って、細野の申し出に応じなかった。細野が真剣に言っているのだからと野上は説得を試みたが、いつもそうなんだと言って大瀧ははぐらかした。結局、それが細野には大瀧の最後の言葉になった。

 「野上から『細野流の挨拶だ』という返事を聞き、大瀧くんならそう言うだろうなとは思った。でも、ぼくはその伝言に『本気だよ』という気持ちは込めていたんだ。実は十年くらい前から、はっぴいえんどをもう一回やらないかという誘いがたくさん来ていた。ぼくは七十歳になったらできるだろうって言っていたんだけど。つまり、人間関係が馴れ、枯れてくるから。いろんな記憶が曖昧になってきて、だいたいのことはどうでもよくなってくる(笑)。それは経験上そうなの。YMOもそうだったしね。2000年代に入ってYMOを再びやり出したときも、昔のことはどうでもよくなってたからね。人間ってうまくできてるんですね」

 細野は大瀧が亡くなってから、あらためて彼の存在の大きさに気づくようになった。たとえば新しいアルバムができあがると、もし大瀧がこれを聴いたらどう思うだろうかと、細野は気掛かりに感じた。そうやって彼が自分の音楽をどう感じるかと考えながら、これまで曲をつくってきたことに細野は気づいた。

 細野は17年の終わりに、大瀧もまた同じようなことを思っていたのだと、山下達郎から聞いている。「大瀧さんとは73年から40年くらい付き合ったけど、彼のつくってるものはほとんど全部、細野さんに向けて発信されてますから。これを細野さんが聴いたらどう思うかって、話していました」

 大瀧は細野の最大の理解者のひとりだった。そのような人物を失った喪失感は細野にとって実に大きなものだった。けれども細野は彼のために曲を作り、それによって彼との関係を締めくくろうとはしなかった。

 「ああ、いなくなっちゃったなと思うけど、生きてるときとなんら変わらない気もするんだよね。ただ疎遠なだけで。ずっとどこかにいる感じがするから。だからまとめようとすることはないんだ。まとめちゃうとそこで終わっちゃうからね」


中田佳彦 その後

 話は69年に遡る。大瀧・細野とのランプ・ポストが尻すぼみに終わり、大瀧と組んだアイズも実を結ばなかった中田佳彦は、その後、プレイヤーでもソングライターでもない音楽への道を見いだそうと、キングレコードに就職した。入社後は、営業や宣伝を経て学芸制作の部署に異動し、クラリネットやハーモニカのアルバムを制作した。

 中田は80年にキングレコードを退社してからは、フリーのディレクターとして童謡や唱歌の制作に携わり、『ぼくならきっと』や『輪になって』といった曲を作曲した。絵本作家で歌手の中川ひろたかのアルバム『あそびうたがいっぱい』(83年)をプロデュースしたときには、そのなかの数曲に自身の歌声を残している。どこか大瀧に似た澄んだ歌声だという。だが中田は04年に亡くなってしまう。まだ五十代半ばの若さだった。

 中田には先述の通り、兄の基彦がいた。基彦も同じ音楽業界の東芝音楽工業に入社し、クラシックのディレクターを長年務め、日本で社会現象になったピアニストのスタニスラフ・ブーニンやオペラ歌手の中丸三千繪らのレコーディングを手がけた。ふたりは同じ立教大学を経て、ともに音楽ディレクターとなって活躍するが、基彦によるとふたりの性格は対照的だった。

 「ぼくはどちらかと言うと社交的で、弟の佳彦は突き詰めるほうですね。ロマンを夢見る追求型。だから細野さんや大瀧さんと合ったんでしょう。大瀧さんは岩手の方でしたから、 うちの先祖も東北、福島なので、似たところがあったのかもしれません」

 細野は大瀧を通じて中田の動向を聞くことはあったが、その後のつきあいはほぼ途絶えていた。04年6月に中田が病で亡くなったとき、三鷹でおこなわれた葬儀に駆けつけた細野は、久しぶりに彼と対面した。中田が亡くなったいまも、基彦はある日の光景を記憶している。それは中田が音楽ディレクターの仕事をするようになって数年後のことだった。

 「あるとき佳彦がレコードを持ってきて、家の応接間のプレイヤーにかけたんです。そのベースを聴いて、ぼくは感心しましてね。要所に心地いい、クラシックで言うポルタメントが入って、まさに歌うベースでした」。それは荒井由実のデビュー・アルバム『ひこうき雲』(73年)に収録された『ひこうき雲』だった。基彦はそのベースが心地よくて、「このベース、誰?」と弟に尋ねた。中田は答えた。

 「これ? 細野だよ」

 中田は音楽家だった祖父の代からのDNAを受け継ぎ、コードやメロディの感覚に鋭敏だった。一方でその血筋に起因する重圧のようなものを感じていたのではないかと基彦は考えている。

 「祖父の代から続く音楽環境のなかで、理想のコード、理想の響きを追い続けた人間だったと思います。重圧もあったでしょうね。DNAを受け継いだという使命感が。そういった意味では、佳彦は音楽家になれなかった葛藤をつねに抱えていたような気がします」

 大瀧が負けたと認めるほど、中田の才能は優れていた。それゆえ、お茶飲み会のふたりの、その後の華々しい活躍を複雑な思いで見つめていたことだろう。「音楽家になれなかった葛藤」という基彦の証言には、その意味も含まれていると思われる。

 細野と大瀧がブロ・デビューして以降、中田は彼らと仕事をする機会をほとんど持たなかった。数少ない仕事のひとつが大瀧の初のソロ・アルバム『大瀧詠一』(72年)に収録された第一曲目『『おもい』である。中田はそのコーラス・アレンジを担当した。

 また大瀧は最後のアルバム『イーチ・タイム』のエンディングを飾る『レイク・サイド・ストーリー』に、中田とつくった曲のコード進行をそのまま取りいれている。みずからの出発点を「最後の最後」の曲に組みこむことにより、大瀧は音楽人生の区切りを付けようとしていたのかもしれない。

 大瀧詠一が世に出るには、細野晴臣との邂逅が必須であった。この両者を結びつけたのは中田佳彦であった。中田の存在なくして大瀧詠一の音楽は生まれることはなかった。自身は音楽家にはなれなかったが、大瀧のソロファーストアルバムのオープニング・トラックと、ラストアルバムのエンディング・トラックに中田佳彦が関わっていたことは、やはり大瀧にとって運命の人であったように思える。

 さて今回この一文を書く資料としては、『定本はっぴいえんど』に依るところが大きかった。そのインタビュー記事において、大瀧は中田から受けた影響を能弁に語っていた。すでに本文に挿話したものも含まれるが、最後にその言葉を生のまま紹介して、「大瀧詠一ヒストリー」を閉じたい。

 「中田君も細野さんもいい曲をじゃんじゃん作っていたね。中田君の才能に嫉妬に近いものを感じたこともあったね。作曲家が叔父さんにいるとやっぱりいいのかな。中田喜直さんみたいなメロディが自然に出てくるんだね、やっぱり童謡で育ってるでしょ。その郷愁みたいなものを、彼は新しいロックみたいなもので作ってるわけだけど、根本にそういうものを感じる。これはそういう音楽の血筋があるんじゃないのかと思った。そういう影響受けたり、中田君の存在が曲をつくる意味においては非常に大きかった。中田君と2人で共作みたいな、まあほとんどあの人が根本をつくったものに自分がちょっと足したりとか。レノン&マッカートニーほどの共作じゃないんだけれども。それをベーシックにしてつくったのが『レイク・サイド・ストーリー』。この曲の途中でマイナーになる部分があるんだけれど、それは中田君とつくった曲のコード進行をそのまま入れた。中田君もすごく偉大なソングライターだった。僕の中では、ものすごくきっかけをつくってくれた人だったし。曲をつくったりとかするのは勉強会のころから始めたから、何か常に、曲をつくったりするときに、時々だけどフッと思いだすときがあるんだよね、自分の出発点みたいなことで。それが一番大きかったんじゃないのかなあ。何かその頃から全然進歩してないんじゃないかなあ。そのころにもう俺の場合は全部きまっちゃったっていうか、あの時に全部ベーシックなものができたね」

 

 

大瀧詠一ヒストリー

 

 

 

あとがき

 自分がまだ高校生であった、半世紀もまえのことです。京都・二条城の横にある、駿台予備校京都校に通っていました。毎週土曜日、夕刻からの講習を受けるためです。勉強熱心だったわけではありません。田舎の高校生の、駿台ブランドに憧れての受講でした。また、帰路にある繁華街、四条通の大きなレコード店に立ち寄るのも楽しみでした。

 72年の12月のことです。その店内にある曲が流れはじめました。いっしょに駿台を受講していた友人が、「これ、ええなぁ」と声をあげた。発売されたばかりの1stアルバム、『大瀧詠一』でした。当時は大瀧はもちろんのこと、はっぴいえんどもマイナーな存在でしたが、京都では大学生など一部に人気があったらしい。地元の小さなレコード店では聴けなかったかもしれません。このアルバムから大瀧詠一とはっぴいえんどの存在を知り、ともにそのファンとなりました。

 大瀧のその名は、大ヒット作『ロング・バケイション』で広く知られています。たしかにいいアルバムです。しかし自分としては、『大瀧詠一』こそが彼のベスト・アルバムです。『おもい』に始まる、『それはぼくぢゃないよ』『指切り』の1st冒頭三曲こそが、大瀧詠一の最高傑作群であると思う。件のレコード店で流れたのも『おもい』でした。

 大瀧の作品は、いわゆるウェット系とドライ系に大別されます。『おもい』などはウェット系の典型であり、一方、1stには『あつさのせい』などドライ系の傑作もラインナップされている。細野はこれらの混在を問題視したようです。しかし自分はこのバラエティさこそが大瀧の真骨頂であると思う。ドライ系でほぼ構成される2ndアルバム『ナイアガラ・ムーン』『福生ストラット(パートII)』『シャックリママさん』なども素晴らしい。これらのイントロが流れるだけで、いまだ心躍るものがあります。

 では1stと2ndの世評はどうなのでしょうか。やはり細野と同様、評価されず、人気もないのでしょうか。じつはこれに関し、文藝別冊『大瀧詠一』(2005年)に興味深い記事が載っていました。

 下の画像はそれをスキャンしたものです。題して「私的大瀧詠一ベスト5」。大瀧のファンである6人のミュージシャンが、それぞれ好きな大瀧作品を5曲リストアップ(MOODMANのみ1曲)しています。大きな記事の間の所々に差し込まれたコラム的なもので、タイトル表示が大きいのはそのためです。



 さて、ご覧いただき、お気づきになられたでしょうか。『指切り』が5人により挙げられています。1stアルバム『大瀧詠一』収録の曲ですが、6人中5人と、ほぼ全員が選んでいます。ほかの曲は最大でも2人であることから、この「人気」は相当なものです。

 では次に、アルバム別に見ていきましょう。記事のままではわかりにくいので、表にまとめてみました。




 一目瞭然ですね。1st『大瀧詠一』から4曲が選ばれ、また2nd『ナイアガラ・ムーン』からは5曲が入っています。一方、『ロング・バケイション』からはわずか2曲のみ。1stと2ndの多さが際立つ結果となっているのです。自分にとっての大瀧詠一もやはり1stと2ndであり、かならずしもロンバケではない。この趣向と一致することが、とてもうれしく思います。

 惜しむらくはこれらの選曲に、三ツ矢サイダー関係が入っていないことです。自分は、ほぼ半世紀前、このCM曲がテレビから流れ出た瞬間をおぼえています。無名であった大瀧詠一の声が、いきなり茶の間に出現したからです。また曲自体も素晴らしかった。選曲されなかったのは、CM曲ゆえだと思いたいところです。

 このように大瀧詠一を愛聴していた自分ですが、3ndアルバム以降を聴くことはなくなりました。本文中でも触れましたが、諧謔的とされる一連の曲に自分はついていけませんでした。新しいアルバムを買い求める都度、心底がっかりし、大瀧を案じたほどです。当時は一般的な評価もわかりませんでしたが、あとでそれらのアルバムは売れなかったと知り、あぁやっぱりと納得したものです。

 ですから大瀧がロンバケで息を吹き返したときは、その復活に安堵しました。一方で、なにか凝り過ぎな曲調、サウンドに違和感もおぼえました。今回のミュージシャンたちも初期作品に高い評価を与え、ロンバケにはさほどではない。やはり大瀧音楽の真骨頂はデビュー期にあったのでしょうか。細野が1stを評価しなかったのはウェット系とドライ系の混在であり、個々の曲は評価していたのかもしれない。そうでなければ、同じプロ・ミュージシャンたちの選曲と整合しません。

 最後に、5人のミュージシャンが絶賛する『指切り』について、このサイトが詳述しています。とても素晴らしい解説です。勝手なご紹介となりますが、こちらもお読みいただければと思います。

 おつきあいただき、ありがとうございました。