伝説的ミュージシャンたちの50年〜ユーミン・尾崎亜美・SKYE | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 去る9月20日、『NHK MUSIC SPECIAL』が放送されました。月一でプログラムされるこの日のタイトルは、「伝説的ミュージシャンたちの50年」。出演は、松任谷由実、尾崎亜美、そしてバンドのSKYEで、半世紀近く前、この人たちの音楽をよく聴いていた自分にとって、久々に見応えのある番組でした。

 松任谷由実と尾崎亜美は、今さら説明を要しないミュージシャンです。新結成されたSKYEも、鈴木茂・小原礼・林立夫・松任谷正隆という、かつてのキャラメル・ママを彷彿とさせるメンバーです。男性陣は全員が今年古稀、女性陣も失礼ながら還暦をとうに越えているものの、まだまだ元気いっぱいなご様子。往年のファンとしてはうれしいかぎりです。


 以下の一文は、この番組を文字起こししたものです。出演者同士の会話、コメント、ナレーションをできるかぎり再現しました。とはいえ、音楽番組を音なしで再現など、どだい無理な話です。多用したキャプチャ画像により、せめて雰囲気だけでも感じていただければと思います。

 

 また、番組内で語られた言葉をキーワードとしたエピソードを追記しました。本や雑誌などに載せられているもので、番組をより深く理解していただけると思います。そして蛇足・僭越ながら、ブログ筆者の個人的感想も書かせてもらいました。

 自分は荒井由実(あえて旧姓)の『中央フリーウェイ』や、尾崎亜美の『マイピュアレディ』、そしてキャラメル・ママのサウンドが大好きです。これらがすべて合体したような番組が、半世紀近くも経て実現するとは、思いもかけぬことでした。

 

 というわけで、以下の記事は番組再現というよりも、自分の思いを吐露するものかもしれません。それでも、放送をご覧になった方のお目にとまり、すこしでも共感していただけたなら、とてもありがたいことです。

 

 

引用・参考資料

『伝説的ミュージシャンの50年』NHK

『僕の音楽キャリア全部話します』松任谷正隆著

『東京バックビート族』林立夫著

『ムッシュ!』ムッシュかまやつ著

『鈴木茂のワインディング・ロード』鈴木茂著

『ユーミンの罪』酒井順子著

『村井邦彦の時代』松木直也著

『フォーク名曲事典300曲』富沢一誠著

週刊朝日2015.10.2号

など

 

 

 

 

 

 


 

松任谷正隆(音楽プロデューサー) 松任谷由実の夫でプロデューサー 編曲家として松田聖子・吉田拓郎などを手がけた。
 

小原礼(ベーシスト) 70年代イギリスで人気となったサディスティック・ミカ・バンドのベース その後 福山雅治や矢野顕子などをプロデュース。 

 

林立夫(ドラマー) 大瀧詠一・井上陽水・大貫妙子などの録音に参加 音楽プロデューサーとしても活躍。

 

鈴木茂(ギタリスト) 伝説のバンド「はっぴいえんど」のギター 石野真子「狼なんか怖くない」長渕剛「巡礼歌」などを編曲。

 

 

 

出会い

 

由実 十代って言ったら幼なじみね。
正隆 このふたり、林と小原が一番古いんだよね。
小原 青学で林と出会ったのは13歳のとき。バンドを組んだけれど、そのうち鈴木茂と知り合って、こんなに上手いのがいるのならギターなんか弾いている場合じゃないと、ベースに転向した。茂はうちの学校まで来て、教室で練習していた。
鈴木 他校生だったけれど、青学(高校)で授業を受けたことがある。うしろで座っていたけれど、先生は何も言わなかった(笑)。
小原 正隆と出会ったのは、吉田拓郎さんの「結婚しようよ」のレコーディングでだった。
正隆 そのあとプロになったのだけれど、林が誘ったからプロになった。
林 なにか、その言い方だと、悪の道に誘ったみたいだ(笑)
正隆 だって、うちのオフクロに林が怒られていた(笑)
 「うちの正隆を変な世界に引きずりこまないでください」って(笑)

 

 

今回のSKYE結成に至った「歴史的背景」について。

 

 林立夫と小原礼は、青山学院中等部2年でクラスメートとなった。音楽で意気投合、ほかの二人を誘い、バンド、ムーヴァーズを組んだ。高1のときムーヴァーズは、立教大生細野晴臣が属するイベント団体のオーディションを受ける。ここで鈴木茂と出会った。ギターの鈴木は、ムーヴァーズがカバーをあきらめていた難しい曲を、いとも簡単に弾いていた。鈴木が加入し、小原がベースにまわり結成されたのがSkyeであった。Skyeの、高校生とは思えぬ卓越した演奏に細野らは驚愕したという。SKYEの名が、Skye由来であることは言うまでもない。


さらなる余談です。

 上記の会話によると、松任谷正隆がプロになったのは林が勧誘したからだという。ならば、正隆が荒井由実にめぐり会えたのは林のおかげということになる。今日の松任谷由実は正隆のバックアップの賜とされるから、林がスーパースターを生みだしたといえる。話は異なるが、細野晴臣がはっぴいえんどを結成するとき、ドラマーは松本隆ではなく、林も候補者としていた。また細野はYMOの結成時、林に断られて高橋幸宏をメンバーとした。林立夫という人は、逆説的な意味も含め、日本ポップス界のキーパーソンであったといえる。

 

 

 

 

ひこうき雲 誕生

 

 

由実 中学時代、ロックとクラシックが融合した、プロコル・ハルムのようなイギリスのバンドが好きだった。私は歌を歌うことは考えていなかった。作曲家になりたかった。自分で作詞・作曲した歌をアルファ(レコード会社)に売り込みに行った。そのとき5〜6曲あったのかな。そのうちの『ひこうき雲』にすごく反応してくれて、「自分で歌ったら」って言われたんです。

 



 

 

 

そのアルバム制作にあつめられたミュージシャンが、キャラメル・ママだった。メンバーはすでに二十代でプロ・ミュージシャンとして数多くのレコーディングに参加していた松任谷と林。そしてはっぴいえんどで活動していた、鈴木と細野晴臣の4人。卓越した演奏力をもち、最先端の洋楽を貪欲に吸収していたキャラメル・ママが、当時、19才だったユーミンと出会った。

 

そして一年をかけて、ファースト・アルバム『ひこうき雲』がつくられた。

 

 

由実    ワンフレーズ、ワンフレーズ、それぞれが発明みたいな感じなんですよね。情景が浮かぶっていうか、匂いがする。

 

 

ブリティッシュ・ロックをこよなく愛するユーミンと、アメリカの音楽に強い影響を受けたキャラメル・ママ。その音楽性の違いが新しい音楽を生み出した。

 


 

 

由実 私は彼らと全然違うファッションをしてて、イギリスのロックが好きだったから、そのころ、グラムな格好をしいました。グリーンのサテンのピタパンにロンドンブーツ。メイクとか黒っぽいんですよ。濃いんですよね。で、キャラメル・ママは(アメリカの)西海岸な音だし、カントリー(ミュージック)が入ってるような、全然違うものが好きだった。

鈴木 ユーミンは、ぼくたちをカントリー・ミュージシャンと思っていたでしょう。

由実 特に松任谷・・・(と、夫を指す)
正隆 ただウェスタン・シャツを着ていただけじゃん!
林  一生言われるよな。
正隆 一生言われてるよ。

 

 

鈴木 でも、あのころはおもしろかったんだよ。カントリーとロックが混ざって、そこにイギリスのクラシック・ミュージックとロックが混ざって、入り乱れていた。あのころから、ヘッド・アレンジ(意見を出し合いアレンジを決めていく手法)を始めた。それまでは音符が書いてあったのが、コードしか書いてなくて、その場でみんなのアイデアを出し合っていった。それがおもしろかった。
 新しいサウンドが、日めくりカレンダーみたいに出てきた時代だったね。

 


 

ユーミンとキャラメル・ママがつくるサウンドは、ニューミュージックと呼ばれ、都会的で洗練された、新しいポップ・ミュージックを次々と生み出していった。

 

由実 何か、違うものをやりたいと思って・・・。人と違うことというよりも、自分のやっていることの、また次に何かあるんじゃないかって思って・・・

 

 

 

 

 

 

 

卒業写真

 

由実 自分のつくった約50年前の曲だけど、自分たちの”卒業写真”を見るような感覚はとってもあります。

 

 

 エッセイスト・酒井順子は、ユーミンと同じ立教女学院の出です。『卒業写真』のモデルには諸説があるなかで、酒井はさすが、独自の説を紹介しています。

 

 

酒井順子著『ユーミンの罪』

近未来への郷愁 から

 

 (前略) アルバム「COBALTHOUR」には、近い過去を振り返る歌が多いのでした。たとえば、「卒業写真」。今でも、卒業の定番ソングとして有名なこの歌、そういえば私も高校の卒業謝恩会において、級友達と歌いましたっけ。

 この歌は、正確に言えば卒業ソングではありません。卒業して数年後ソング、なのです。高校を卒業して、おそらくこの歌の主人公は大学もしくは短大へ進学したのだと思います。当時は、戦後から高度成長期にかけて上昇し続けてきた大学進学率が、一つのピークを迎えた時。男女あわせて38%ほどになっていました。ニュートラ(アイビーをカジュアル化し、ブランドものを取り入れることでより女性化したファッション。神戸に始まり、全国の女子大生の間で流行)もブームとなり、女子大生の存在感が増していった時代です。

 その後、大学進学率は微減もしくは横ばい状態となりました。バブルの時代に再び上昇に転じ、現在のように大学進学率が五割を越える時代となるわけです。

 ユーミンは、高校卒業後に美大に進学しました。そして「卒業写真」の主人公もまた、高校時代とは全く違う環境に身を置き、夢中で数年間を過ごした女子大生なのだと思います。化粧やお洒落、恋も覚えたことでしょう。大学進学率が急ピッチで上がるのと反比例するかのように、「結婚まで処女は守る」といった考えの女性は激減していった時代なのです。

 そして、「悲しいことがあると開く皮の表紙」というその皮表紙の中身は、卒業写真。その中でも、「卒業写真のあの人はやさしい目をしてる」という、「あの人」を主人公は眺めます。おそらく既に処女ではない主人公は、彼を「町でみかけたとき 何も言えなかった」のです。それは、「卒業写真の面影がそのままだったから」。変わっていない彼に対して、自分は色々な意味で変わってしまっていたから、話しかけられなかったのではないか。

 ユーミンと同じ高校に通っていた私ですが、高校時代、一つの伝説がまかり通っていました。E先生という、ものすごく怖い体育の女性教諭がいたのですが、ユーミンの「卒業写真」における「卒業写真のあの人」とはE先生のことなのだと、まことしやかに言い伝えられていたのです。

 歌の中で、「あの人」はもちろん男子の同級生を思わせます。が、ユーミン自身は女子校出身。そしてE先生は、高校三年生か最後の体育祭で踊る伝統のダンスを、鬼のように厳しく教える方で、怒られた事が無い人はいないほどだった。

 「人とみに流されて変わってゆく私を あなたはときどき遠くでしかって」


 という歌詞を聴けば、怒り顔が似合うE先生像もあてはまるわけですが、真偽のほどは定かではありません。

 

 

 

愛しのロックスター

 

1970年代、当時の若いミュージシャンに愛されたロックスターがいた。それは、ムッシュかまやつ。高校生で歌手デビューし、アメリカにも留学。帰国後、ザ・スパイダースのギタリストとして活躍し、新しいサウンドを先取りするソング・ライターとして知られていた。兄のように慕っていたムッシュのライブを、ユーミンやSKYEのメンバーはこぞって見に行っていた。



 

林 中学の制服を着たまま、それこそ小原と銀座のACB(アシベ)に見に行っていた。
由実 私も銀座ACBに行ってた。行くとムッシュは若造のところにもフラッと来てくれた。

 

 

ムッシュは業界人のたまり場だった六本木のレストランで、当時まだ中学生だったユーミンと出会い、その才能にいち早く注目した。そしてムッシュはユーミンのデビュー曲、『返事はいらない』をプロデュース。

 

 

 

由実  (プロデューサーだけどムッシュは)何にも言わなかったことを覚えている。ほんと、風のような人で、音楽で気楽に遊べばいいよっていうのを、体現しているようだったから、スタジオもそんな雰囲気だった。


 

 

 

 興味深いことに、下記のムッシュが語る『返事はいらない』収録時の状況は、ユーミンの言葉と真逆となっています。どちらが「真実」なのか。ユーミンはムッシュの持つ雰囲気を表現したのかもしれません。吉田拓郎もムッシュが亡くなったとき、「いいエピソードばかりだけれど、あの人は暴れん坊だった」と、世評を否定していました。これは拓郎とムッシュの親密さゆえの発言です。同様に以下のムッシュの言葉も、ユーミンとの関係性の深さゆえだと思われます。

 

 

『村井邦彦の時代』

松木直也 著

 

 ユーミンとはじめて会ったのは69年ごろだと思うけど、このころの若いミュージシャンの多くがウッドストックの影響を受け、それが時代の大きなムーブメントでした。哲学的にものを考える時代で、ユーミンには精神的にも純粋培養されて育ってきたような印象を受けましたね。ユーミンは僕たちでも聴いていないロックのレコードを聴き、単なるロックファンではなかった。子供のようなきれいな顔をして口数も少なくガラス細工みたいで、もしかしたら泣きながら詞を書いているんじゃないかと思ったぐらいです。そのころ僕たちの世界ってどちらかというと四捨五入で、気分で『いいね』とアバウトのところが多かったけど、彼女にはまったく通用しないんです。自分自身で納得しないと、こっちが面倒くさいと思っていても、あらゆる角度から突っ込んでくる。ユーミンは妥協するっていうことが、そのころからないんだよね(笑)。僕はもう、大変な人を引き受けてしまった。村井さんには悪いけど、正直、早く終わって欲しいと思ったし、このときは打ち解けないまま終わりました。

 

 

 

1976年、ユーミンとムッシュは、一夜限りのテレビ番組『セブンスターショー』で共演。この番組でムッシュと共演するために書いた歌がある。のちの代表曲『中央フリーウェイ』である。

 

 

由実 いまだに亡くなったことが信じられない。こういうところに出てきそう。
 ムッシュはいつも自分のことを発展途上って言ってた。

尾崎 かっこいいですね。
由実 『ノーノーボーイ』とかね、無茶苦茶いい。
尾崎 大好き。
由実 いいねって言うと、あの頃、いい音楽の神様がついていたんだよねって、言うのが粋なのね。
  今はああいう大人がいないね。
小原 ぼくらががんばってならないとね。

 

 

 下の引用は、松任谷正隆著『僕の音楽キャリア全部話します』からです。松任谷は活字媒体でよく本音をよく語っていますが、ここでも、かまやつひろしについても遠慮ない言葉を吐いています。

 

 

 

 「中央フリーウェイ」は、テレビ番組の企画から生まれた曲でした。TBSの「サンデー・スペシャル」で、1976年に「セブンスターショー」というシリーズをやりましてね、一週間に一人ずつ、七組のアーティストの番組を放送しました。

 第一回はジュリー(沢田研二)で、最終回は拓郎。森進一さんや西城秀樹さんも出演したと思います。その番組に「ユーミン&ムッシュー」と題して、由実さんもかまやつさん(ムッシュかまやつ。当時はかまやつひろし)と一緒に出演しています。僕は由実さんとかまやつさんの回と、拓郎の回で、キーボードを演奏しました。ユーミン&ムッシューの時の演奏は、ティンパンです。ビーチーボーイズのような、内山田洋とクールーファイブのような、コーラスもやらされました。

 番組の企画で、由実さんがかまやつさんヘプレゼントしか曲が「中央フリーウェイ」でした。この曲はね、僕は完成しないんじゃないかと思った。というのも、転調をくり返して、どこへ行くのかわからなくなっているように感じたからです。ミュージシャンには、どこへ行くかわからなくなりそうで、しっかり楽曲として成立せられる人はいます。ブラジルのイヴァン・リンスのようなね。でも、ほとんどのミュージシャンは何度も転調していくと、音楽の出口が見つからなくなってしまいます。それで結局完成しない。そんな状態に陥って、試行錯誤を重ねた由実さんがついに完成させだのがこの曲です。本人はどう感じているかわかりませんけれど、僕には奇跡に思えました。

 ところで、この番組では、かまやつさんも由実さんに曲をプレゼントしています。「楽しいバス旅行」という曲です。これはしゃべっていいのかな…。かまやつさんだから許してくれるかな…。この曲、僕は、酔っぱらって一分でっくったんじゃないかと思いました。楽しいバス旅行、ピピッピー、という曲です。これを「いい曲が」と言った人もいたけれど、でも、僕はやっぱり一分でつくったんだと思いますよ。

 

 このアルバムのリリースの頃に、横浜の山手教会で由実さんと結婚しています。結婚式といっても、けっしてロマンティックなものではなくてね。新婚旅行は熱海にある由実さんの親戚の旅館に行ったんですけれど、拓郎やかまやつさんも一緒に来ちゃって、夜が明けるまで大宴会でした。ほかにもユイのスタッフもみんな集まっちゃって、むちゃくちゃなことになりました。
 

 

 

 かまやつひろし自伝の冒頭の話は、題して「仕切りのユーミン」。半生を綴るそのトップにユーミンを持ってくる。ふたりの関係性がよくあらわれているように思えます。この一文では番組で語られているように、ムッシュを慕う人が多いことがわかります。そして「ユーミン新婚旅行乱入事件」にも触れています。つまり松任谷正隆の引用と合わせ、事件の被害者・加害者双方の「証言」がここに揃ったことになります。

 

 

 

 

『ムッシュ!』
ムッシュかまやつ著


 「ムッシュの骨は私か拾ってあげるからね」。ユーミン(松任谷由実さん)は、前々からそういっていた。彼女とのつきあいは長い。1970年代以降のぼくの音楽生活には、何かとユーミンが絡んでいる。キーパーソンといっていいだろう。

 ぼくがスパイダースのメンバーだった60年代に、まだ多摩美の学生だったユーミンは、ジャズ喫茶の楽屋によく現れた。「青い影」を大ヒットさせたプロコル・ハルムが好きで、グループサウンズでも、スパイダースよりも、もっとコアな、モップスとかゴールデン・カップスのフアンだったんじゃないかな。そのうち、タイガースを脱退し加橋かつみさんの「愛は突然に」で、彼女は、まず作曲家としてデビューした。

 実際に彼女とコラボレートしたことは、しかし、一度しかない。76年だったか、TBSテレビの「セブンスターショー」という番組で、ふたりのショーをやったことがある。当時、売れに売れていた沢田研二さんや西城秀樹さん、森進一さんや五木ひろしさんといった人たちがメインで、ぼくらは”色モノ”扱いだった。この時のプロデューサーは、人気ドラマ「時間ですよ」でもお世話になった久世光彦さん、音楽監督が松任谷正隆さんだった。

 ぼくとユーミンのほかに、バッック・ミュージシャンとして、松任谷さん、林立夫さん、鈴木茂さん、細野晴臣さんというメンバーのティン・パン・アレー、それに斎藤ノブさんも出演した。みんなでギャグをやったり踊ったりしかものだから、「イメージがこわれる」と、ティン・パン・アレ・のファンは大ブーイングだった。横須賀のファン・クラブが怒って解散した、という尾ヒレがこの話にはついている。

 ユーミンと松任谷正隆が横浜のホテルニューグランドで披露宴を行い、熱海へ新婚旅行に出かけたときには、「初夜を妨害しよう!」というわけで、ぼくと拓郎(吉田拓郎さん)、のちにファンハウスの社長になった新田和長さん(プロデューサー)の三人で、新郎新婦についていった。ユーミンの親戚が経営しているという旅館の和室で、化粧をしたりバカをやって、朝まで遊んで騒いだ。

 そのユーミンが、98年の暮れ、こんなことを言い出した。「ムッシュをサカナにして、還暦祝いのパー・テイをやろうよ」。年明けの1月12日に、ぼくは60歳になろうとしていた。それまで、別に隠していたわけではないが、年齢のことは自分からはとくにいわないようにしていた。いつまでも年齢不詳でいたいから。それが、還暦パーティなどしてしまったら、

 「あの野郎、とうとう六十になったんだ」。みんな、そう囁き合って話のタネにすることはまちがいない。知っている人は知っていることだが、なんか勘弁してほしかった。ところが、なにしろユーミンは、ぼくがふだん、”仲居頭”と呼んでいるほど、仕切りがうまい。銀座で店を開いたら絶対成功するだろう。拓郎、斎藤ノブ、泉谷(泉谷しげるさん)、武部聡志さんで実行委員会が結成され、あれよあれよというまに準備が進んでいく。

 だんだん当日が近づくにつれ、イヤになってきて、ある日「やっぱりやめよう」といったら、ユーミンがスッカンカンになって怒った。「いまさら何よ!」

 ユーミンが決めた当日の決まりはこうだ。
一、呼ぶのはアーティストだけ。マネジャーも連れてこない。
一、マスコミには知らせない。
一、目立たないように、会場入り囗に花などは置かない。
一、会費は一万円。

 参加の誘いは、前日あるいは当日に電話かファクスで行った。そうしないと、ぼくはともかく、ユーミンや人気者目当てにマスコミが押し寄せる恐れがある。実に内々に、呼ぶ人間を決めて連絡をとった。だが、なんといっても忙しい人たちばかりだ。いったいどれくらい集まるのだろうか、へ夕すると誰も来ないんじゃないかと、ユーミンもわれわれもギリギリまで心配だった。そこで、「誰も来なくても、演奏して楽しもうぜ」と、ユーミンのツアー・メンバーを中心にしたバンドを組み、当日、朝からリハーサルまで行った。

 会場は東京タワー近くのロシア料理店「ヴォルガ」。11日の午後7時から始めて、誕生日の午前0時にピークを迎える、というスケジュールを、ユーミンはキッチリと組んでいた。当日、早くから会場入りして始めたリ、リハーサルを午後5時に終え、「やれやれ」というわけでメンバーたちと飯倉の「キャンティ」でひと休みしていた。

 「人は集まるかな」。「あいつは来てくれるかな」。パーティまであと2時間というのに、まだみんな心配顔で話していた。そこにマチャアキ(堺正章さん)がひょっこり現れた。彼は、一応カッコつけて、パーティにちょっと遅れて顔を出すつもりで時間をつぶしに来たらしい。そこを見つかってしまったわけ。オレたちは喜んだね。「マチャアキが来ればもう大丈夫。”しゃべり”と”笑い゛でなんとかなるぞ」

 それでひと安心して、7時ギリギリに会場に戻ったら、人がいっぱい集まってくれていた。美樹ちゃん(今井美樹さん)、桃井(桃井かおりさん)、元レベッカのNOKKO、いろんな人たちがいたが、みんなマネージャーを連れずにひとりで来てくれた。カッコいいよね。うれしかった。

 こうして盛大なプライベート・パーティが始まった。集まってくれたのは、総勢150人。大盛況どころか、大騒ぎになった。みんなでかわるがわる歌い、演奏してくれた。ところが、とにかく大勢だから、歌いたくてもなかなか順番がまわってこない。「いまちょっと失敗したから、もう一度歌わせてくれ」なんていう人も。そのたびにユーミンが「もうダメよ!」と止めるくらいのノリだった。泉谷なんか、「カネ払って歌うの初めてだよ、オレは」とブツクサいいながら、そのくせズーッと歌いっぱなしだった。

 マチャアキをはじめスパイダースの元メンバーも、仕事で来られなかった順ちゃん(井上順さん)、そしてどうしても連絡をつけられなかったカッペちゃん(加藤充さん)以外はみんな集まってくれて、予定になかったスパイダースの演奏も始まった。昭ちゃん(田辺昭知さん、現田邊昭知)も久しぶりにドラムをたたき、昔の外国曲のカバー・ナンバーや、オリジナル曲「バンバンバン」なんかを演奏した。そのうち石井竜也さんが「夕陽が泣いている」を歌ったり、高橋幸宏さんがドラフムをたたいたり、トノバン(加藤和彦さん)と陽水(井上陽水さん)と泉谷の三人で歌ったり、これがまためちゃくちゃになってしまって、実におかしかった。

 ロックンロールあり、ジャムセッションあり、てんやわんやのまま、いよいよ誕生日の12日午前0時を迎えたときには、吉田美奈子さんが一曲歌ってくれた。従妹のよしみで、最後に良子(森山良子さん)が、オルゴールだけをバックにして映画『ライムライト』の主題歌「エターナリー」を歌った。これがなかなか泣かせてくれた。

 「うまくいったね」。ユーミンとハグしながら泣いた。それで一応、お開きということになっていたのだが、打ち上げのため、西麻布の「アムリタ」という店に移ったら、ほとんど全員が一緒に流れてきてくれた。そこでまたみんなで勝手に歌って朝までドンチャン騒ぎ。アルフィーの連中も来ていた。坂崎(坂崎幸之助さん)がいればギター一本でなんでもできる。マチャアキも朝6時まで歌いっぱなし。翌日は声がカラカラで仕事にならなかったらしい。

 その後、ぼくの還暦祝いということは別にして、「あんなに面白いパーティはなかった」と誰もがいってくれる。みんなで歌って演奏してくれて、そのことはとても楽しかったし、ありがたかった。
 

 

若い世代が新しい音楽を生みだすために、いつも背中を押してくれたムッシュかまやつ。『 Dear M 』は、ムッシュへの思いが詰まった一曲。

 

 

ユーミンがデビューするきっかけをつくり、多くのミュージシャンに愛されたムッシュかまやつ。2017年3月逝去。享年78。

 

 

 

 

ユーミンの知られざる交流

 

『あの日にかえりたい』が発表された翌年のこと、76年、ポスト・ユーミンと呼ばれたシンガーソングライターがあらわれた。尾崎亜美。デビュー当時の尾崎亜美をプロデュースしたのは、松任谷正隆。

 


 

正隆 独特の世界観があって、現実離れしていた。他には出会ったことがない感じだった。

実は、デビュー間もない尾崎亜美とユーミンには、知られざる交流があった。




 

尾崎 (自宅のある)京都から通っていたので、ホテルでユーミンと電話で話したときに、「熱出して寝ている」というと、看病してあげるから、八王子のお家まで来なさい」。私、おカネもないし、18とかとかそんなんで、八王子は遠いし、高いし行けないって言ったら、大丈夫、払うからと。行ったら、ものすごく看病してくださって。それからも何回も電話をもらって、遊びに来たらいいよって、泊めてもらった。


尾崎亜美とユーミンの交流は、『中央フリーウェイ』のマスターテープの中にも残っていた。エンディング部分のコーラスは、18歳の尾崎亜美の声だった。

 

 


『中央フリーウェイ』のエンディング部分に、18歳の尾崎亜美のコーラスが入っている。

尾崎 仕事をしているときに、近くのスタジオでユーミンがレコーディングしていると聞いて遊びに行ったら、松任谷(正隆)さんが、「いいところに来たね、亜美」と、「ちょうど後半のところにスキャットがほしかったんだ」と言われて、「ウ~」と、ひと声出して帰った。

 

 

 

 

 

尾崎亜美と小原礼

 


 

1992年、尾崎亜美は、小原、鈴木と、「桃色BAND」を結成。それを気に小原と結婚。やんちゃだった小原と亜美の結婚に周囲は驚いた。
 

 

正隆 (結婚と聞いて)俺は驚いた。まったく、世の中でもっともピンと来ない…
尾崎 そう、高橋幸宏さんとかにめっちゃくちゃお礼言われた。「小原と結婚してくれてありがとう、小原はメロウになったよって」(笑)

小原 帰ろうかな…

 

 

 小原礼と尾崎亜美の結婚は、「桃色BAND」から5年後の1997年でした。それからさらに18年経ち、週刊誌(週刊朝日)上でふたりは「夫婦対談」をおこなっています。以下は、それを要約したものです。

 

 

 アメリカで第一線のミュージシャンと活動してきた凄腕ベーシストである小原礼と、シンガソングライターの尾崎亜美。この夫婦の出会いは82年。サディスティック・ミカ・バンドのファンだった尾崎が、自身のアルバムレコーディングに参加してほしいと依頼したのがきっかけだった。最初は小原のエージェントから断られた。だが尾崎のマネジャーが直接小原に連絡すると、あっさり「いいですよ」とOKが出た。話が小原まで伝わっていなかったのだ。あのまま諦めてたら、出会えていなかった。

 

 小原はミカ・バンドの活動停止後、77年に渡米。79年からは本格的に移住して、トニー・チャイルズやポニー・レイット、それにイアン・マクレガンなど、アメリカンロックのメインストリームのミュージシャンと仕事をしていた。

 実は尾崎の、小原への第一印象はすごく悪かった。不機嫌そうで、いけず(意地悪)な人だと思った。小原も日本の音楽界にほとんど興味がなかった。だが参加した尾崎のレコーディングは衝撃だった。日本にもこんな音楽をやる人がいると思った。

 尾崎も小原のサウンドが不可欠と、以降もアルバム制作参加を依頼した。だが、こんな人とは恋愛しないと決めていた。小原はそのころアメリカ人の前妻と離婚手続き中だった。しかし尾崎の音楽性と、レコーディング合宿で参加者に料理をふるまう尾崎に惚れてしまう。アメリカからほとんど毎日、ファックスでラブレターを送るようになった。最初は音楽の才能をほめた。当時はメールはなく、国際電話は高く、ファクスが大活躍だった。猛アプローチが実を結び、交際がスタート。結婚するまでは、5年ほど日米の遠距離恋愛が続いた。

 尾崎は結婚願望がなかった。小原はずっと結婚しようって言い続けてた。だが不安もあった。前妻は俳優だったが、今度は同業者。お互いの音楽によくない影響があるかもしれないと。だが守備範囲が違い、杞憂だった。

 それより、結婚は周囲から猛反対された。泣いて止めた人までいた。小原はプレイボーイで、本当はステーキが大好きなのに、ほんの気まぐれでお茶漬けが食べたくなっただけだよと言われた。アメリカのミュージックシーンの、表舞台に近いところにずっといた小原の恋愛対象は、ルックスのいい、美人ばかりだった。

 尾崎にも意地があった。しかし結婚したら、今度は周りから感謝された。高橋幸宏からは、「亜美ちやん本当にありがとう。おかげで、本当にあいつ、よくなった」と。「猛獣使い」とも言われた。結婚後も遠距離生活は続いた。1年の3分1は尾崎がアメリカへ、3分の1は小原が日本へ。残りの3分の1はバラバラで。そのサイクルがちょうど良かった。どの時期も充実していた。結局、その別居結婚は、小原が2002年に日本に帰るまで続いた。

 

 最後に、結婚式であったエピソードを紹介する。式はアメリカ・ロサンゼルスにある小原の兄の家でおこない、日米合わせて100人近い人が出席した。

 

 だが牧師が予定を1時間以上過ぎても来ない。電話するとダブルブッキングだという。「Oh!My God!」と困り果て、列席者にいた、聖飢魔Ⅱのデーモン閣牧師に牧師を頼んだ。 「魔界では牧師とはいわず司祭というのだが……」など渋る閣下に、尾崎は「わかったから、何でもいいから、やって!お願い!」と懇願。悪魔に司式してもらった結婚式は、アメリカ人列席者に大うけとなった。

 

 式では力士からのビデオレターもあった。尾崎が相撲好きで、力士の友達が何人もいた。特に仲の良かった安芸乃島関(現年寄の高田川勝巳)がメッセージをビデオにまとめてくれていた。関取が最後に日本刀をすらっと抜いて、「何かあったら(小原が裏切ったら)、私が容赦しません」と言うと、これもアメリカ人が大喜びした。



 

 

 

 

 

マイピュアレディ

 

 尾崎亜美とSKYEが『マイ・ピュア・レディ』をセッション。デビュー2年目、尾崎の名が広く知られるようになった、自身初のヒットソングだ。


 

 

 

 以前、「小林麻美ヒストリー」なる記事をアップしたことがあります。誕生からたどった評伝です。もちろんこの人に関心があるから書いたのですが、もうひとつの理由に『マイピュアレディ』がありました。70年代、資生堂化粧品のCMで小林がキャンペーンガールとなり、『マイピュアレディ』が同ソングとなったことがあり、記事はこの歌に触れたいがために書いたようなものでした。マイフェイバリットソングは数多くあれど、ベストはこの歌かもしれません。それほど気に入っているということです。

 

 さらなる余談で申し訳ないです。「小林麻美ヒストリー」は、アップ後しばらく、検索ベスト10の常連となりました。一時はウィキペディアに次ぐ2位にもなったのち、一年後にようやく下降、100位圏外に落ちました。「松任谷正隆ヒストリー」も同じく一年ほどベスト10に入っていました。ガンバって書けば「評価」されると感じた一方、これらがご本人のお目にとまったのか、興味のあるところです。

 

 

 

 

富沢一誠著『フォーク名曲事典300曲』

マイピュアレディ 尾崎亜美


  尾崎亜美のデビューは衝撃的でした。彼女は1976年3月20日に「瞑想」でデビューしましたが、そのシヤレたポップス・センスは群を抜いていました。それだけにポスト・ユーミンと評価は高かったのです。彼女をスカウトした当時東芝EMIの武藤敏史ディレクターはそのきっかけを語ります。

 

 「京都に十字屋さんという大きなレコード店があって、そこのブッキング部門のJ音楽企画が彼女の面倒をみていて、そこからインターソングという音楽出版社に話が来て、そのインターソングから、京都にすごい女の子がいる、と話があったんです。それで見に行ったんです。そうしたら、学園祭にパンパンの前座として出ていたんですが、そのときのピアノの弾き語りが良かった。歌は抜群だし、ピアノも…。それでやることに決めたんです」


 レコーディングにあたって、武藤さんはアレンジヤーに松任谷正隆を起用しました。松任谷の音楽センスが彼女に合っていると判断したからです。こうして彼女のデビュー・シングル「暝想」は76年3月20日に発売されました。これは5万枚のスマッシュ・ヒットになりました。彼女は有望な新人と注目され、”ポスト・ユーミン”の一番手にランクされました。そして資生堂のキャンペーン・テーマに抜擢される。そのころ、資生堂及びカネボウのキャンペーン・テーマに起用されるということは、ヒットを約束されたも同然でした。武藤さんは述懐します。


 「曲ができ上がって初めて聴いたとき、 ”あっ気持ちが動いている“というフレーズがあったんですがヽこのフレーズの ”あっ“がうまくメロディーに乗っていたので、これはいけると確信しました。ここに彼女のポップス・センスが凝縮されていると思ったからです」


 ”あっ気持ちが動いている たった今恋をしそう“と彼女は恋にときめく瞬間を見事に歌にしました。これがたくさんの人々の共感を得たのか、この「マイピュアレディ」(77年2月5日発売)は30万枚のヒットとなり、彼女は一躍トップシンガーヘと成長しました。

 

 この曲にはエピソードがあります。武藤さんは語ります。


 「実はマイピュアレデイというコピーが歌詞には入っていないんです。2コーラス後の間奏でささやいているだけなんです」

 

 

 

 

SKYE

 

半世紀にわたって、第一線で活躍してきた四人。全員が70歳になる今年、新人バンドとして新たなロックを追求している。

 

正隆 本当はキャラメル・ママでバンドがちゃんとやりたかったんだけど、あのときやりたくて出来なかったことを46年のブランクを経てやっている感じ。

 

 

鈴木 この歳になってくるとぶつかり方もうまくなっているような気がする。

 

 

 素顔のままでいられる。運命というとちょっと重い。縁って言う方がいいな。

 

 

小原 10年くらい前だったらたぶん出来ていないんじゃないかな。ここにきて出来るべくして出来たのかなと。

 

 

 

 

隔離され、思うように音楽ができない、コロナ禍の鬱屈とした気分を吹き飛ばしたいとの思いでつくられた『ISOLATION』。ユーミンと尾崎亜美もコーラスで参加した。


出会ってから50年、時代を創った、6人の伝説的ミュージシャンが奏でる、新たなロック・バンドSKYE。10月27日にアルバム「SKYE」が発売される。




                          

あとがき

 最初にも書きましたが、SKYEというバンドは、やはりキャラメル・ママを想起させてくれます。キャラメル・ママのベース細野晴臣以外は同じメンバーなだけに、当然といえます。松任谷正隆の、「本当はキャラメル・ママでバンドがちゃんとやりたかったんだけど、あのときやりたくて出来なかったことを46年のブランクを経てやっている感じ」のコメントも、それを象徴しています。

 

 ただ松任谷は当時、キャラメル・ママのメンバーとしっくりいかなかった。以前からバンドを組んでいた細野・鈴木・林の輪の中に入った疎外感や、音楽性のちがいも大きかったようです。それが今回のコメントにあらわれたのかもしれません。

 

 また他の三人のコメントも、鈴木の「この歳になってくるとぶつかり方もうまくなっているような気がする」、林の「素顔のままでいられる運命というとちょっと重い。縁って言う方がいいな」、小原の「10年くらい前だったらたぶん出来ていないんじゃないかな。ここにきて出来るべくして出来たのかなと」と、それぞれ含蓄のある言葉が並んでいます。

 

 これらの意味するところは、余人にはうかがい知ることはできません。ですが、十代に音楽を介し出会った四人が、半世紀にもわたるそれぞれの長い道のりを経た後、古希にして再び組むことになったからこその深い言葉だといえます。今回の番組で披露された二曲は、期待に違わないものでした。人生の集大成(まだ早い?!)ともいえる、10月末に発売されるアルバム『SKYE』も、楽しみに待ちたいと思います。