荒井由実ヒストリー拡大版(5/5) あとがき | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

荒井由実ヒストリー拡大版(4/5) 完結編

ブレイクするも初期ファン離反 軋轢 そして結婚

 

から続く

 

 

 

あとがき

 

 本文をお読みいただき、ありがとうございます。ですが最後は、いささか尻切れトンボのような終わり方となっていて、拍子抜けした方もおられるかもしれません。ファンクラブの解散や、荒井由実としてのラストアルバム制作時の状況など、ネガティブなエンディングとあっては、読後感はよくないと思われます。申し訳ないことです。

 

 ですが、現実の社会というものは得てしてこのようなものでしょう。華やかに見える音楽界であっても例外ではないはずです。素晴らしい楽曲の背後には、創作にまつわる複雑な人間模様があった。荒井由実自身やとりまく人々のさまざまな思惑があり、そして彼女の音楽は生まれてきたのです。

 若いときは無心に音楽を聴いていました。それらミュージシャンたちが置かれていた状況や心理状態などは想像だにしなかった。しかし歳月が経ち、かつて愛聴していた音楽はどのような背景で生まれてきたのか、現在は書誌やネットの情報により、その経緯が明らかになってきています。歴史に興味がある自分は評伝の類いもよく読んでおり、彼ら彼女らの活動の経緯を知りたくなりました。そこで誰に頼まれるでもなく、自己満足的にこのような一連の文を書いているわけです。

 一方、自分は、荒井由実の結婚後の歌には関心がありません。華美になった松任谷由実の歌に魅力をおぼえなくなった。それらのアルバムなどが発表されたころには、音楽の興味が他のジャンルに移っていたり、二十歳を過ぎ、音楽に十代のときのような熱き思いを感じなくなっていた。というわけで本文も、荒井由実時代終焉と同時に終わってしまったというわけです。

 


 そんな中途半端感を埋めるというと語弊がありますが、以下に、荒井由実時代の音楽を絶賛する、おふたりの文章を引用させていただきます。拙文とは雲泥の差の、知性および荒井由実愛あふれる文章に感じ入っていただけるはずです。


    まずは、作曲家の團伊玖磨氏です。この方については、本文中でもコメントを紹介しましたし、以下の二編も前回アップした際と同じ内容ですが、再度引用させていただきます。

 團氏はすでに故人ですが、日本を代表するクラシックの作曲家であり、またエッセイストとしても知られていました。その一冊『好きな歌・嫌いな歌』には『ひこうき雲』の一文があり、アルバム『ひこうき雲』に絶賛と言っていい評価を与えています。また別稿で『雨のステイション』にも触れていて、これにもまた感嘆の言葉が記されています。



ひこうき雲

 息子のレコードが積み重なっているダンボールの箱の中を掻き廻していたら、リンゴの印の付いたおびただしいビートルズのレコードに混じって、HIKOKI GUMOというレコードを見付けたので、それを聴いてみて吃驚した。とても良いからである。 

 荒井由実という若い娘が歌っていて、ジャケットにも何にも書いてないのでよく判らないのだが、歌もピアノも作詩も作曲も全部彼女がしているらしい。 先ず詩が良い。第一曲の「ひこうき雲」を聞いて僕はそう思った。第二曲以下、このレコードには全十曲が入っていて、その全部を聞いて、僕は重ねてそう思った。それと同時に、メロディーに不要な装飾が無く、その事が詩を生かすのだと言う事も気付いた。

  この娘の上にはいつも曇り空が拡がっていて、どの歌からも、クールな、現代の無愛想さが、不思議なリリシズムとなって流れて来る。そして、よく聴いていると、一見無愛想に動くような動かないようなメロディーが 、単に決して無愛想なものでは無い事が感じられて来る。何でも無いように感じられて、何でもあるのだと感じるのは僕だけであろうか。

 何回か聴いてみて一番良いのは矢張りこのレコード全体の名前にもなっているだけに「ひこうき雲」なのかも知れないと思った。この歌は、ルフランを持っていて、二度目のルフランの最後の盛り上げが、常識的にではあるにせよ、印象的である。 

  "空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 " 

 もう一つ「紙ヒコーキ」という、紙ヒコーキにあてどない愛の言葉を走り書きして曇り空に放す、という歌も、何でも無いのに何でもあって、良いと思った。 

 正直のところ、荒井由実という女性がどういう人か僕は全然知らない。然し、これらの歌は僕を惹き付けた。こういう関係こそ、音楽とそれを聞く人間との一番純粋な段どりだと思う。僕はこのレコードが、いつから息子のレコード箱の中にあったのかも知らない。古くからあったのか、最近のものなのか、それも知らない。

 沢山の歌が出来、沢山の歌が街を流れ、そして消えて行く。然し、その中に、ぎょっとする宝物が流れている事があるのを、聞き過ごしてはいけないのだ。僕は、このレコ ードを聴いて、小さな宝物を見付けた事を幸福に思った。




雨のステイション

 梅雨に入って霖雨が頬を濡らす日が続いている。窓から外を見ると、雲が低く、海も煙っている。大学に出掛ける息子が、低い空を見上げて、
「今日も荒井由実みたいな空だ」
と言った。そう言えば、荒井由実の歌にたしか「雨のステイション」というのがあったと思ったので、息子にその事を尋ねた。

 「ありますよ、ステレオの傍の僕のレコードが入っている箱の中に。『十二月の雨』って言うのもありますよ、あとで聴いてごらんなさい」と言って彼は出掛けた。息子が出掛けて、書きものが一段落した時に、そのレコードを聴いた。そして、前に「紙ヒコーキ」や「ひこうき雲」を聴いた時と同じように、僕は又、大いに感じ入った。

 この歌にも、又彼女独特のグルーミーな”雨”が、”霧”が、ステーションを濡らし、街を煙らせ、何も彼もをにじませ、その中で、誰かに逢えるかと、何人もの人影を彼女は見送る。そんな街をかすめて飛ぶ燕に、彼女は心を縛るものを捨てて、何処かへ馳けて行ってしまいたい、と思う。

 僕は何でこんなにこの若い、見知らぬ女の子が作詞し、作曲し、自ら歌う歌に惹かれるのかを考える。そしてその原因が、どうやらほんの数人の優れた人は除いて、殆んど行き詰まっているように見える日本の職業的なポピュラーの作詞家やメロディー・ライター(アメリカではポピュラー・ソングを作る人は作曲家とは言わない)の作る商業主義のべたべたした歌には厭気がさしていて、僕自身の心が、レコード会社の汚れてじめじめした企画室などから生まれたもので無い歌を求めているからだと思う。歌というものは、本来、誰かの心から流れ出て、それをのどが渇いている人が飲むものなのだ。のどが渇いている馬に水を飲ませる事は簡単だが、のどが渇いていない馬に水を飲ませる事は不可能だと言う諺がある。余りにも商業主義の入り込んだあざとい歌にのどを渇かせていない僕は、だから、荒井由実さんや上条恒彦君の歌に惹かれるのだろうと思う。

 一寸心配になるのは、この自由経済の中で強権を持つ商業主義と、誰でも無関係ではいられない事だ。荒井さんの歌にしても、上条さんの歌にしても、それがレコードとなって売られている以上、矢張りそれは商業主義のコンベアーの上に乗っている訳だし、いつかは変質して来るかも知れないのである。結局は、商業主義の中で、商業主義の色彩を感じられぬ歌を探す事を、いつの間にかこちらがしているのかと思ったり、いや、この人達の理知が、商業主義の網の目を潜り抜け、潜り抜けしてこちらに届くのかと考えたり、そうした良いものへの鋭い嗅覚を、僕の息子のようなヤング・ジェネレーションは持っていて、それが良い事なのだと思ったり、この「雨のステイション」を聴きながら、僕は考える事が多かった。

 レコードを聴き終えて、窓の外を見ると、「六月は蒼く煙って 空も海も海岸の道も 林も何もかも」が、この歌の通りに濡れてにじんでいた。



 お読みいただいたように團氏は、荒井由実の音楽が、いずれ商業主義の波にのみこまれるのではないかと危惧しています。『雨のステイション』は『COBALT HOUR』に収録されていることから、氏は同盤の『ルージュの伝言』も聴いたはずです。やはり『ひこうき雲』とまったく異なるテイストを感じ取ったのでしょう。そのため、この後段を付け加えたように思われます。



 さて最後にご紹介したいのは、沼辺信一氏の一文です。氏は、本文で記した通り、荒井由実ファンクラブの中心的な存在だった方です。この当時の状況が、柳澤健氏の『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』に詳述されていて、拙稿は、この本に負うところがきわめて大きいわけです。

 同著の発刊は2016年なのですが、この4年前、音楽誌『MUSIC MAGAZINE』が、『ユーミンの40年』という特集を組んでいます。沼辺氏はここに寄稿していて、以下はその全文となります。題して『ファンクラブ創立メンバーが語る荒井由実 天衣無縫に才能を披瀝する少女との出会い』。ここには拙文では紹介しきれなかった事こまかな、荒井由実最初期の貴重な状況が語られています。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。



『MUSIC MAGAZINE』
2012年12月号


 当時、木曜深夜(金曜の早朝3~5時)にTBSラジオで林美雄さんの「パックインミュージック第2部」という番組があって、そこでユーミンのことを知りました。林さんがむちゃくちゃのめりこんで、毎週のように『ひこうき雲』(73年11月発売)の曲をかけたんですよ。天才少女だ、八王子の歌姫だって。だから自分で『ひこうき雲』を買ったときには、曲はラジオで聴いて全部知ってて、曲順だけが新鮮だったくらい。

 とにかく、今まで聴いたことがない種類の歌だった。誰の胸の内にもある世界のことを歌っていて、どんな思春期の女の子にも共感できるものだと、男である私にも感じられるのに、これまで一度も歌になったことがなかった。しかもそれが、単純なラヴ・ソングじゃない、心の中のひそかな出来事なんだ。本当に大切なことを、言い当てていると思った。

 その2年ほど前に、キャロル・キング、カーリー・サイモン、ローラ・ニーロ、それからジョニ・ミッチェルといった、女性シンガー・ソングライターが登場してきて、すごくいいと思ったんだ。でも、自分の言葉を自分で歌っているのに、言葉の壁が立ちはだかって、全部は分からないっていう、隔靴掻痒の感があった。それと同種のものなんだけど、こちらはなんといっても日本語。ニュアンスが隅々までわかる。ユーミンは、誰にでもわかる言葉で歌っていた。そして、ここが肝心なんだけど、お世辞にも上手くなかった。でも、自分の言葉で歌うから真実味が備わってる。少し前には、五輪真弓さんが鳴り物入りで登場していて、存在が大きかったんです。しかも、ロスで録音して、歌も上手くて。だけど、いかにもキャロル・キングの後追いだったし、曲の出来不出来もあった。

 73年の暮れに、渋谷で、かまやつひろしさんらと一緒のコンサートにユーミンが出てるんです。それは観ていないんですが、観た友人に聞くと、彼女は登場するなり泣いちゃって、メロメロ状態。「行かなくて正解だったよ」と言われた。後で知ったけど、彼女はソングライター志望だったんですね。それをシンガー・ソングライターとして舞台に乗せられてしまった。

 正式なデビュー・コンサートが74年春です。林さんのラジオでコンサートのことを聞いて、チケットを買いに行ったら、最前列のど真ん中がまだ残っているわけですよ。そこで観ると、彼女が気の毒なくらいあがっていて、震えていて、声が上ずっているのがわかる。いたたまれない感じだったですね。それでも、ソングライターとして天才だという確信は揺るがなかった。下手でも自分で歌うというのはいいものだと感じた。歌が、ほんとうにこの人の中から生まれてきているのだと信じられる。そのあとの1年間、東京近辺でやったコンサートは、大学の学園祭まで、ほとんど見に行きました。まあ、追っかけですね。

 夏くらいから渋谷の小スペース「ジァン・ジァン」で、最初は昼の部、やがて夜の部で定期的にライヴをするようになった。翌75年春くらいまで続けてましたね。74年10月にシングルになる『12月の雨』は、売りたかったみたいで、ステージではささやかな振りもつけて、今日のユーミンに繋がる方向があった。

 74年の10月に『MISSLIM』が出ます。発売日には銀座の山野楽器でミニ・コンサートをやったと思う。『ひこうき雲』ほど強烈ではないにしても、この2枚目もよかった。この頃には、聴いてるこちら側も知恵がついてきて、アルバムのバックがすごいことに気付いた。『ひこうき雲』のベースがべらぼうにうまい。キャラメル・ママってのは何者だ、となる。東北沢の深夜スナックにたむろしていたら、小倉エージさんがフラッ
と入ってきて、『HOSONO HOUS』(73年5月)のB面をリクエストして、静かに聴いてくれっていうの。で、いいだろっていう顔をして帰っていくのが印象的だったな。それで『HOSONO HOUS』を知る。キャラメル・ママをバックにしてのユーミンは、FM東京のスタジオ・ライブ(74年4月)があったけど、当時一度も生で聞く機会がなかった。これは非常に残念です。

 この頃に、アルファの人から、ファンクラブを作らないかと誘われました。熱心なファンは当時の東京に100人くらいかな。何度かユーミンにインタヴューもしたし、代々木公園でファンの集いを催したり、75年の夏には、『あの日にかえりたい』の元になった『スカイレストラン』(未発表)のレコーディングを見せてもらったり。

 ところで、ユーミンを強力にバックアップした林美雄さんの番組は終わってしまった。74年の8月に、ラジオ局の番組改変で、「パックインミュージック」の2部が全部なくなっちゃうんです。CMが入って、トラック運転手のための歌謡曲番組になった。ぼくらにとって、大切な遊び場だったから、”パック林美雄をやめさせるな!聴取者連合”ってのを作って、署名を集めて…。そういう時代だったんですね。荒井由実の署名ももらいましたよ。このときに、孤独なリスナーがひとつのところに集まった。林さんは日本映画のこともよく話していて、池袋の文芸座でオールナイトがある晩、女の子は一人で行くのは不安だからって、「オールナイトを見る会」なんてのができてたわけ。そういうネットワークができていたから、数千人の署名も集まったし、その仲間たちのあいだから、ユーミンのファンクラブもできちゃった。

 ちょうどその頃です。『ルージュの伝言』(75年2月)が出て、アルバム『COBALT HOUR』(75年6月)が出て。『ルージュの伝言』を、ちっともいいと思わなかったんだよなあ。なんでこんな60年代アメリカン・ポップスの類似品を、”特別な”彼女が作らないといけないんだ、と。ところがこの曲、そこそこヒットしたんだ。

 『COBALT HOUR』は、大半の曲がホップなつくりで、しかも出来にムラがあって、制作時間が足りないんじゃないかと思った。それから、キャラメル・ママがティン・パン・アレーと名を変えた。しっとりと濡れた抒情的世界から、巧妙でドライな演奏になった。同時期の細野さんの『卜ロピカル・ダンディー』(75年6月)にもついていけなかったなあ。

 このとき、彼女は自覚的に、急激に舵を切っていると思うんです。それで・・・こちらは以前のように夢中になれなくなったんですね。こんなんじゃ嫌だって。『COBALT HOUR』が出たとき、ユーミンに直接電話したこともあったな。

 「次のアルバムでは、詞をちゃんと書いてほしい」って言ったと思う。今から考えるとおそろしいけど、顔見知りだったし、当時はやっと売れ始めた小娘ですし。「ルージュの伝言」は嫌いだっていった覚えもあります。ユーミンじゃないと書けないものを書いてほしいと。そのとき電話口の彼女はたしかこう答えたと思う。もう昔みたいな詞は書けないって。それを聞いて、そうだよな、となんだか納得してしまった。

 『ひこうき雲』の収録曲は、中学高校のときから書いてた曲を一枚にまとめた、彼女の十代の集大成だよね。それから数年たって、ユーミンも変わる時期だったんだよ。もちろんその後もずっと天才なんだけど、天衣無縫に才能を披瀝するんじゃなくて、天才を自ら意識してコントロールするようになった。

 今思えば、そこには時代的な流れも作用してる。同じ人のアルバムなのに、73年と75年ではまるで別物になってしまう。ユーミンはまさにその例なんだけど、細野さんも同じだと思う。『HOSONO HOUS』は、フォークとしても括れるほど、心情がすごく出てる。バンドを解散して、ひとりきりになって、米軍ハウスに住んで、都会から離れて自分を見つめるという、そういう時に生まれた内省的なアルバムでしょう。八王子でユーミンがじっくり曲を熟成させたのも、狭山のハウスで細野さんが音楽するのとまさにパラレルで、喧騒から離れて、孤独に心と対話するのが可能だったのが73年という気がする。70年代のはじめの数年間は、曇り空っぽい気分って言うのかな、気持ちが晴れない感じっていうのかな。政治の季節が終わって、どことなく閉塞的な空気になった。声を上げることもできないで、内向していく時代。『ひこうき雲』や『COBALT HOUR』は、内向するその果てに、心の風景が描かれている感じ。絶叫でもない、プロテストでもない、つぶやきが歌になる。そんな時代が確かにあった。二人とも、80~90年代の一時期、これらの作品は封印したがってたよね。もう時代の空気が大きく違っていたから。

 ユーミンが口癖のように言っていた言葉を思い出す。自分の音楽はマイナーじゃなくてメジャーなんだ、と。たとえ実際にはまだ売れていないにしても。そのメジャーな彼女の音楽がしばらく誰にも知られず、深夜ラジオの中だけで享受されていた。あたかもアングラな存在であるかのように。浅川マキとも中山ラビとも、そんなに違わない立ち位置だったんだ。そういう状況にユーミンはきっと不本意だったんじゃないかな。

 とにかく、自分はそういう時期のユーミンと出会った。そして、多くの人たちがその才能に気づき始めると、さっさとファンをやめてしまった。ファンクラブも1年ほどで、熱心な後継者にあとを託して離れました。だから申し訳なくて、もう彼女に合わせる顔がない。まあ、人気が出てからのユーミンにはもう、ファンクラブなど必要なかったんですけどね。それから彼女の生はずうっと聞いてなくて、大掛かりなステージは一度も見ていない。

 そうそう、たった一度ですが、ユーミンの歌うのを間近に見たことがあります。2002年に林美雄さんが亡くなった。お別れ会があって、番組の常連だった石川セリさんや原田芳雄さんが来て歌った。突然のことだし、スケジュール的に無理だろうと思っていたら、最後にユーミンも登場した。『MISSLIM』の最後に入ってる『旅立つ秋』という、しんみりした寂しい曲は、もともと番組を辞める林さんへのはなむけとして書かれた歌。それを30年近く経ってから、告別の場で…。じ~んとしましたね。涙が滲んだ。まるでこの日のために、あらかじめ書いておいた曲のような気がして…。

 

 

 

 

 

 

 

ー 引用元の雑誌、書籍、番組、ネット記事 -
 
『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』柳澤健著
月刊誌文藝春秋 柳澤健 『時代を創った女 松任谷由実』
『音楽家 村井邦彦の時代』 松木直也著
『聞き上手 話し上手』佐藤可士和対談集
『読むJ-POP 1945-1999私的全史』田家秀樹著
『地球音楽ライブラリー 松任谷由実』
『僕の音楽物語』平野肇著
『あの頃、この歌、甦る最強伝説』富沢一誠著
『ユーミンの罪』酒井順子著
『松任谷由実1972-2011フォトストーリー』松任谷由実著
『MUSIC MAGAZINE』2012年12月号
『僕の音楽キャリア全部話します』松任谷正隆著
『風都市伝説』北中正和責任編集
『地球音楽ライブラリー 松任谷由実』
『ルージュの伝言』荒井由実著
『僕の音楽キャリア全部話します』松任谷正隆著
『愛国とノーサイド』延江浩著
『エッジィな男 ムッシュかまやつ』 サエキけんぞう‎ 中村俊夫 共著
『風都市伝説』北中正和責任編集
『財津和夫の心のものさし』財津和夫対談集
『好きな歌・嫌いな歌』團伊玖磨著
『あいつの切り札』富沢一誠著

『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介著
 NHK 「荒井由実『ひこうき雲』誕生の秘密」
Yuming Biography特別対談「荒井由実」を語ろう
デイリー 「ひこうき雲」は雪村いづみの曲だった
平凡1976年5月
週刊 Mimi1976年2月
週刊セブンティーン1971年5月
週刊平凡1976年4月
週刊明星1976年3月
週刊現代2013年7月27日号
 同  2015年4月4日号
 同  2019年11月16日号
 週刊新潮2019年3月21日号
https://ameblo.jp/nonnnonnblog/entry-12118735901.html
http://blog.livedoor.jp/yoshietibi516/archives/50406625.html
https://news.line.me/issue/oa-jolf/76990bc3b246