荒井由実ヒストリー拡大版(4/5) 完結編 ブレイクするも 初期ファン離反 軋轢 そして結婚 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

荒井由実ヒストリー拡大版(3/5) 

散々な初ステージからブレイクまでの苦闘

から続く

 

 

『COBALT HOUR』

 

 

 

ジャンジャン

 72年のシングルデビューから2年、アルバムデビューからでも約1年が過ぎても、荒井由実の人気は低迷していた。それでも、世間とは異なる様相を見せ始めた場所があった。74年9月から翌年1月にかけてのこと、由実は毎月、渋谷ジャン・ジャンでライブをおこなった。ブレッド&バターとのジョイント・ライブである。

 兄弟デュオであるブレッド&バターは、由実の才能を認めていて、オシャレな音楽の先駆者でもあった。31歳の岩澤幸矢と25歳の岩澤二弓は、5年前に和製サイモン&ガーファンクルというキャッチフレーズでデビューしていた。茅ヶ崎で育ち、湘南がホームタウンの兄弟は、プール付きの大きな家のガレージを借りた。そして友人たちと改造し、『ブレッド&バター』というライブもおこなうカフェをつくり、山下達郎や同じ湘南に住む南佳孝らが出演している。

 78年にブレッド&バターはアルファに移籍。その第一弾のアルバム『レイト・レイト・サマー』のレコーディングでは、彼らもまた、ディレクターの有賀に手厳しくやられている。制作には、細野をプロデューサーに、YMOのメンバーや鈴木茂、小原礼らが揃い、そして作家名・呉田軽穂こと、松任谷由実が作詞・作曲した『あの頃のまま』が収録されている。このアルバムをきっかけに、ブレッド&バターは新しいファンを獲得していった。松任谷由実は人に提供した楽曲の中で、『あの頃のまま』が一番好きだという。
 
 話をジョイント・ライブに戻す。バックをつとめていたダディー・オー(パパ・レモンから改称)の平野の記憶によると、客足は月を追うごとに伸びていったという。3回目の74年11月29日、リハーサルを終えると、「大変だよ。お客さんがパルコのほうまで並んでる」と、マネージャーの嶋田が昂奮して楽屋に駆け込んできた。

 由実や平野らは、どういうことなのか想像がつかない。それは開演すると同時にわかった。ジャンジャンの舞台は低いのだが、そのぎりぎりまで客が座りこんでいて、通路までもが人でいっぱいとなっていた。次の12月には満員札止めとなっている。

 小劇場には、林パックのリスナーも多く訪れていた。平野はスタッフから、「林パックで盛りあがってるみたいだ」とは聞いてはいた。だが深夜放送という特別な世界のできごとに実感はなかった。ジャンジャンの観客は徐々に増えてきていたが、この日の超満員は、予想をはるかに超えることとなった。客席の熱気もすごかった。じっと息をのんで見つめる視線と、一音たりとも聞き逃すものか、と思える真剣さが伝わってきた。

 ブレッド&バターの岩澤幸矢も驚きを隠せない。「ユーミン、すごいぞ」と、眼を輝かせた。彼らにとっても、これは他人事ではなかった。本番はいつになく密度が濃くなり、ユーミンの曲にブレッド&バターのコーラスが溶け込んだ。平野らの演奏も熱を帯び、小劇場という空間のせいだろう、客とミュージシャンが一体感につつまれた、素晴らしいライブとなった。荒井由実のいう名のアーティストが、時代の空気にフワリと乗りはじめた。


日本青年館

 翌月の12月25日におこなわれた、日本青年館での『荒井由実クリスマス・コンサート』も、それまでにない大きな盛り上がりを見せた。ゲストボーカルに山下達郎と大貫妙子、そして、吉田美奈子、山本潤子も出演している。実はこのコンサートで、由実はそれまでとは異なるスタイルを披露していた。

 「デビュー当時の由実さんは、五輪真弓さんと比べられてました。同じテレビ番組に出て、同じようにピアノを弾いていたからです。五輪さんは線が太くて歌がうまい。 由実さんは線が細くて歌がヘタだったから、いつもコテンパンにやられて、思い切りヘコンで帰ってくる。コンサートもだんだんやりたくなくなってきて、ある時、学芸会みたいにしたいと言い出した。それが日本青年館でした」  (松任谷正隆)

 五輪真弓は由実と同じ、72年にデビューしている。しかもシングルでのデビューであった由実に較べ、アルバムからのスタートだった。おまけにレコーディングはロサンジェルスでおこない、ピアニストには、当時アルバムが全米チャートを独走していたキャロル・キングが参加していた。この時点での存在感は、圧倒的に五輪真弓が上だった。ましてやキャロル・キングは、まさに村井が由実の目標としていた存在であった。由実は意識せざるを得ない。だが同じ土俵では戦えないことも自明であった。

 「舞台で歌うこと自体が恥ずかしくてしょうがなかったから、もう見世物にしちゃえと思って。ヴォーカルもごまかせるし(笑)。青年館のコンサートでは自転車に乗ってステージに出て来たんだけど、色気を出して客席に愛想を振りまいたものだから、走るルートを間違えてギタリストが並べているエフェクター(音色を変える装置)を全部踏んじゃって、つなぎ直している間の三曲くらいはギターの音が全然出なかった(笑)」 (松任谷由実)

 この日を境に、それまでの由実のライブパフォーマンスが変わっていった。ピアノを弾かず、ハンドマイクで振りをつけて歌う場面が増えていった。歌の弱さや緊張をごまかした。

 当時の女性シンガー・ソングライターのファッションは、黒のロングスカートに長いストレートヘア、というのが定番だった。そんな時代に、由実は、天井からペーパー・ムーンに乗って網タイツ姿で下り、赤いマントを羽織り、白いジャンプスーツで飛び跳ねた。

  「コスプレですよね。ピンク・レディーの三年先を行ってた」(松任谷由実)。「由実さんの大衆性、派手好きは母親の芳枝さんの影響でしょう。いろいろな演劇を見るのが好きな人だから」 (松任谷正隆)



ルージュの伝言

 また由実は、日本青年館で新曲を披露している。3ヶ月後に発売するシングル盤、『ルージュの伝言』を歌った。モデル・チェンジしたステージに合わせたような、軽快なリズムとメロディは、アメリカン・ポップスを彷彿とさせ、軽い8ビートはニール・セダカ風だった。それまでの内省的な曲とはあきらかに違っていた。

 この曲想は正隆が勧めたものだった。由実は家に帰ると、兄のもつシングル盤を片っぱしから聴きこんだ。頭の中にはエリザベス・テーラーの映画があった。鏡に別れの言葉を書いて家出してゆくシーンを頭に描きながら譜面にペンを走らせた。すると『ルージュの伝言』があっという間に出来上がった。要した時間は、30分ほどだった。

 当初この歌はB面だった。それを逆にして、『ルージュの伝言』を表にもってきた。この選択は正しかった。日本語訳されたオールディーズの歌はすでにあったけれど、個性的なユーミン流ポップスが、10代から20代の若者たちに受け入れられることになってゆく。

 それまでのシングルと異なり、『ルージュの伝言』はスマッシュヒットとなった。実数売り上げは10万枚ほどではあったが、東京という局地的な由実の人気に、全国的な火が付き始めた。

 この歌は軽快で、ふと耳を傾けるような心地よさがある。しかし詞の内容は単なるラブソングではない。軽やかさに誘われて歌の世界に入ってみると、けっこうシビアな男女のトラブルが描かれている。恋人に内緒で彼の母親に会いに行って、浮気されたことを電話で叱ってもらおうという、勝ち気な少女心が歌詞となっている。

 余談となるが、この歌は矢沢永吉と当時の妻がモデルであるらしい。74年の秋のこと、由実は矢沢らのバンド、キャロルらといっしょにツアーをまわっていて、矢沢の妻とも親しくなり、夫婦げんかの話を聞いて詞に書いたという。

 嶋田富士彦は、『ルージュの伝言』がシングルカットされた事情をこう説明する。

 「『12月の雨』の次のシングルは『卒業写真』にしようとユーミンは考えていたようですが、ハイ・ファイ・セットのデビューアルバムに『卒業写真』を提供したところ、シングルカットされることになったんです。ユーミンは当時いろいろなバンドが出演するオムニバス形式のコンサートによく出ていて、キャロルやサディスティック・ミカ・バンドなどのオープニングアクトとして演奏することもありました。そのあたりの影響だったのかはわかりませんが、シックスティーズの盛り上がる音楽も面白いと思って、『ルージュの伝言』を作ったんじやないでしょうか。『ルージュの伝言』がスマッシュヒットすると、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドと一緒に、北海道をツアーしたこともあります。これまでのユーミンの音楽性とはかなり違っていましたから、周囲の評価は真っ二つ。重要なブレーンの方から『ちょっとこの曲は応援できない』と言われたこともありました。ただ、当時は『ライブから盛り上げていこう』という方針があったんです。ジャンプスーツなどの派手な衣装を着てみたりとか、そういうことが始まった頃です。そうすると、どうしても『ルージュの伝言』のように、アップテンポで盛り上がる曲が必要になってくる。レコード制作には絶対的な自信を持っていましたから、ライブでワーッと盛り上がったお客さんが、家に帰ってレコードを聴けば、絶対に違った良さを見出してくれるっていう自信がありましたから」



COBALT HOUR

 75年6月、3枚目のアルバムとなる、『COBALT HOUR』が発売された。この新しいアルバムは、4か月前に発売された『ルージュの伝言』と同様、幅広い共感を得られる、シティ・ポップ集に仕上がっていた。私小説的な作品が多い前2作から、由実は急速に舵をきった。一時代前のオールド・ファッションの空気感、40年代から60年代のアメリカ音楽を目指した。由実はポップソングのライター&シンガーへ転身した。心の風景を歌う方向ではなく、誰にでもわかる、売れる音楽をめざした。このアルバムのレコーディング終了時、スタジオには誰が用意したのか、「目標100万枚!」という垂れ幕が飾ってあった。
 
 『COBALT HOUR』は、それまでにない売れ行きとなり、7月14日、ついにヒットチャートで初のベスト・テン入りし、6位にランキングされる。村井はこのとき、前2作のアルバムとは違うセールスのスピード感に、「ブレイクアウトしたときに必ずや前のアルバムも売れていく」と、スタッフたちに話している。

 そして半年後、後述するする『あの日にかえりたい』が大ヒットし、その遡及効果で、アルバムチャート1位を初めて記録した。『ルージュの伝言』および『COBALT HOUR』以後のユーミンは、恐るべきスピードで巨大化していくことになる。

 『COBALT HOUR』発売前から、由実は全国ツアーをおこなっている。75年4月から始まったツアーは果てしなく続き、8月に由実は過労のため、早朝の羽田空港で倒れた。しかしこの日の延岡のコンサートを強行、翌日からの久留米、福岡、鹿児島、大牟田、徳山と続くハードスケジュールも必死にこなしたが、9月にはついにキャンセルせざるをえなくなった。 

 このころは『ぎんざNOW!』などテレビ出演が増えている。慣れぬテレビ局の環境も大変だった。スタジオに入れば、芸能関係者が敵意を込めてにらみつけてくる。テレビ局、芸能プロダクション、音楽出版社、作詞者、作曲者たちは一種のカルテルを形成し、莫大な利益を分配していた。その中に属さないシンガーソングライターの存在は、既存の芸能界を脅かすものであり、関係者は由実たちに敵愾心を燃やしていた。



ファンクラブ

  『ルージュの伝言』が発売された直後、荒井由実のファンクラブが生まれている。林パックの熱心なリスナーであった沼辺信一が中心となり、75年4月に発足した。アルファーの布井育夫から「ユーミンのファンクラブを作ってほしい」と声をかけられたことがきっかけだった。

 嶋田が語る。「普通、ファンクラブは会社がしっかりとイニシアティブをとって自前で運営するものです。でも我々の会社(アルファ)には『ファンクラブはアイドルのもの』という認識があった。いわゆるニューミュージック系の歌手がそういう組織(ファンクラブ)を持つことはいかがなものか、と考えていた。そこで熱意のあるファンの方にやっていただこうということになったんです」

 誰よりも熱心に荒井由実を追いかけていた沼辺信一がファンクラブの中心メンバーとなるのは必然だった。しかし女性アーティストのファンクラブ会長が男ではキマリが悪いと、当時高校一年の菊地亜矢を会長に立てた。

 「女子高生か会長の方が聞こえがいいから、というだけの理由です(笑)。でも、ユーミンのことは本当に好きでした。林パックで初めてユーミンを聴いた時はすごくびっくりして、『林さん、これは何? 何を見つけてきたの? 何を教えようとしているの?』って衝撃を受けたんです。声にビブラートがかかっていなくて、『この人、きっとノドちんこないんだよ』なんて、みんなふざけて言ってましたね(笑)」(荒井由実ファンクラブ会長 菊地亜矢)

 ファンクラブ誕生を知らせるチラシには、こう書かれている。

 《このたび、シンガーソングライター、荒井由実(ユーミン)のファンクラブが結成されることになりました。『ひこうき雲』『ミスリム』の両アルバムによって、またその活発なステージ活動を通じて、すでに数多くの音楽ファンの心をとらえている彼女は、今年もまた、新たなる飛躍をめざして、大いに張り切っています。そうした荒井由実の音楽活動を、何らかの形でバックアップすると共に、ファンの皆さんと彼女との交流を深め、またファン相互の親睦をはかろうとするのが、このファンクラブの目的です。具体的な活動としては、さしあたって、運営が軌道に乗るまでの間は、会報(スケジュール表を含む)の発行を中心にした地道なものを考えています。(中略)会員には、会員証と会報(今期は二回発行。第一号は4月上旬発行予定)が発送されるほか、特典として、もれなくユーミンの大型ポスターがプレゼントされます。その他、今後の予定として、ファンの集いなどの催しも計画されています。荒井由実とその音楽を愛する皆さん、ぜひど入会ください》
 
 入会金200円、会費月額100円という手作りのファンクラブは、約200人の会員を集めた。会員となったファンたちが、後年、当時を振り返っている。

 「林パックで初めてユーミンを聴いて、五反田のレコード店にすぐに『ひこうき雲』を買いに行きました。いまだに歌詞を全部覚えています。今までにはない、絵が見えてくるような言葉づかいで、たいしたものだと思いましたね」

 「ラジオから『ベルベット・イースター』のイントロが流れ出した時は、外国の曲だろうと思っていました。のちにユーミンがプロコル・ハルムが好きだと聞いて、なるほどなあ、と納得したことを覚えています」

 「ユーミンのライブはよく行きましたね。いまでも覚えているけれど、渋谷のジャンジャンの昼の部で300円。客は二十人くらい。こんなに歌が下手なのか!とびっくりしました。共演はシュガー・ベイブだったけど、大貫妙子や山下達郎の声の方がいいよなあ、と思いながら聴いてました(笑)」



いちご白書をもう一度

 75年のある日、社外から、アルファに荒井由実への曲の依頼があった。村井がかつて一緒に仕事をした前田仁からであった。CBS・ソニーで吉田拓郎や山本コウタワーとウィークエンドを手がける敏腕の音楽ディレクターである。このとき前田は29歳。東芝EMIから移籍してきたフォークグループ、バンバンも担当していた。

 バンバンは、ばんばひろふみと今井ひろしの2人組で、71年にデビューしたものの鳴かず飛ばずで、次回作が駄目だったら解散という状況下におかれていた。イチかバチか、他の人に楽曲提供と頼もう。その運命を託したのが、荒井由実だった。まだ無名といっていい存在だったが、ばんばは由実の歌が大好きだった。

 前田は早稲田大学時代に学費値上げ反対の学生運動に参加し、そのことがもとで商社への就職内定が打ち消されるという苦い経験をしている。当時を前田が振り返る。

 「ユーミンとは初対面ではなかった。松任谷(正隆)さんが吉田拓郎の仕事をしてたので、そのころ紹介され、村井さんからも話を聞いていた。最初ユーミンに『仁さん何を書けばいいの?』と聞かれ、僕は窮地に追い込まれていたばんばひろふみの話をしてから、なぜか、曲の題材になるかどうかはわからないけど、大学を卒業して5、6年過ぎてもいまだに自分のなかで沸々としているものがあって……と身の上話を切り出した。就職の内定を取り消されたときに付き合っていたガールフレンドに青山の『ユアーズ』でリンゴを買ったときのことなど、思い出すままに話を始めた」

 それを真剣に聞いていた由実は、「仁さんの話はロマンチックじゃなくて、可哀想になってくる」と言うと、青春映画の『いちご白書』(70年)のストーリーを話し出した。

 この映画は、アメリカの作家ジェームズ・クネンが19歳のときに、コロンビア大学の大学紛争の体験を書いたノンフィクションをもとにしている。ブルース・デイヴィソンとキム・ダービーが主演し、紛争が激化したキャンパスに警察が乱入し、二人が引き裂かれていくというストーリーで、学生たちを催眠弾で排除する映像がラストシーンとなっている。主題歌はパフィ・セント=マリーが歌う『サークル・ゲーム』で、サウンドトラックにはニール・ヤングやクロスビー、スティルス&ナッシュが参加。この映画は、カンヌ映画祭で審査員賞を獲得した。前田が言葉を継ぐ。

 「そのとき僕は映画を観ていなかったけど、自分が体験した学生運動と比べると随分と軟弱だよってユーミンに言うと、『若い人たちに感動を与えているし、とてもいい映画だから観てよ』と返された。こっちはロジカルに説明できるタイプじゃないから、とにかく映画を観ると言ってそのときは帰った。曲を頼まれたユーミンは相当困ったと思う。でも彼女は2週間ぐらいで、『「いちご白書」をもう一度』というタイトルの曲を書いて来た。この歌の『就職が決まって髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね』というフレーズは、実際は就職が決まってではなく、就職試験を受けにいくときに髪を切っていたんだよねと、御茶の水駅近くの錦華公園で見た学生の光景を教えてくれました」

 由実に学生運動の経験はない。御茶の水美術学院に通っていたころ、その界隈の明治大学や中央大学などにおける、いわば全共闘運動の残滓を垣間見たに過ぎない。だがそれは確実に由実の脳裏に焼き付いていた。依頼してきたばんばの風貌は、学生運動活動家そのものだった。

 嶋田は、このミーティングに参加していた。「前田さんは、バンバンへの思い入れが強く、かなり熱く話していました。それと、学生運動の話は僕が聞いていてもインパクトがあって、ユーミンはそんな前田さんの熱意を作品にうまく反映させて、バンバンのキャラクターを活かすような曲づくりを目指したのだと思います。『「いちご白書」をもう一度』を聴いたとき、それまでのユーミンのバラードとはひと昧違う仕上がりで、作家としても凄い才能だと驚かされたものでした」

 だがばんばは最初、由実が吹き込んだ仮歌を聴いて思った。映画『いちご白書』は観客が入らず、上映はすぐに打ち切りになっていた。誰も知らない映画の歌なんて流行らないと、不安をおぼえたという。だが時代の空気をたくみに取り入れた、それまでの作風とはまったくちがう仕上がりは、由実の作家としての非凡な才能をあらためて感じさせることになった。由実は時代の空気を歌にした。『「いちご白書」をもう一度』は、100万枚を超える大セールスとなった。



あの日にかえりたい

 話はすこしさかのぼる。74年の暮れ、荒井由実の作家としてではない、自身の大ヒットが生まれる第一歩が始まっていた。

 目黒区青葉台にある女流漫画家の花村えい子の仕事場を、TBSのテレビドラマのプロデューサー、日向宏之(当時39歳)が訪ねた。日向は東京大学文学部卒業後TBSに入社し、高視聴率のドラマ『七人の刑事』を演出したあと、中村吉右衛門と酒井和歌子が共演した『いま炎のとき』(72年)のプロデュースを担当する。

 花村えい子(当時40歳)は週刊誌、月刊誌と連載をいくつもかかえており、『わが愛を星に祈りて』や『霧のなかの少女』など、少女から大人の女性まで幅広いファンを持つヒットメーカーだ。日向は、『いま炎のとき』の劇中で花村の作品を使用したことがきっかけとなり、それから二人の交友が続いていた。「花村先生、テレビドラマになるような漫画はありませんか?」。

 花村は仕事の手を休めた。「もう随分と前に書いた少女向けの漫画ですが、親の恋愛事件が子どもの人生を左右するというような物語で……」と、65年から1年間、『週刊マーガレット』に連載した『霧のなかの少女』の話を始めた。

 「花村さん、それをテレビドラマ向けにしたストーリーで考えてもらえませんか」。間もなくして日向は、「霧のなかの少女」の主人公を新たに17歳、18歳に設定を変え大人版にリメイクしたものを花村から受け取った。そのときのことを日向は94年、インタビューでこう話している。

 「劇画家のストーリーの発想は、当時のテレビ業界の僕らの想像を超えたようなところがありました。花村先生から受け取ったものを会社の番組企画コンクールに出すと入選し、すぐにドラマ化か決定したのです。急なことでしたので僕は役者さんをおさえ、すぐにロケ地を探しに北海道へ行った」

 花村は、主人公にふさわしい若手女優の顔が浮かんだ。日活映画、藤田敏八監督の映画『赤ちょうちん』や『妹』(共に74年)などで、みずみずしい演技がきわ立った秋吉久美子だった。人気急上昇中の秋吉を逆境のなかで純情可憐にも自立していく役にどうかと考えた。日向も以前手がけたドラマで秋吉を起用したことがあり、その存在感を高く評価していた。

 タイトルは『家庭の秘密』となり、「『霧のなかの少女』より」というサブタイトルがつき、75年8月から11月まで放送された。その物語、配役は……。

 北海道で牧場を営んでいる野月明(中山仁・当時33歳)は、経営的には苦しかったが、それでも一人娘の夕子(秋吉久美子・当時21歳)を大切に育てていた。不器用だけど優しい父親を夕子は心から慕っている。一方、都会で優雅な生活をおくる一条忠行(杉浦直樹・当時44歳)は、妻の由布子(渡辺美佐子・当時43歳)、娘の奈津子(池上季実子・当時16歳)を連れて自分たちの牧場を探しに北海道に行く。ここで夕子と奈津子が偶然に出会い、その後二人は友情で結ばれるのだが、夕子は、自分が野月明の子どもではなく、一条忠行と由布子のあいだに生まれた梨香という名の娘であることを知る。そのことによってそれまでに隠された秘密のベールがはがされ、さらに、二人の少女は大学生の湯浅冬樹(篠田三郎・当時27歳)を同時に好きになっていく。

 演出は、TBSの社内から数人が起用され、そのなかのチーフーディレクターである福田新一が主題歌などの音楽も担当することになった。福田はクラシック音楽の造詣が深く、自宅には4~5千枚のレコードがあった。このドラマに入る前、当時まだ千葉大学の学生だった萩尾みどりを起用し、『わたしは影』(74年)という人気を博したテレビ小説を手がけていた。

 萩尾みどりは荒井由実と同じ歳ということもあってか、その音楽性には共感を覚えていた。ドラマの撮影の合間に、荒井由実の魅力を福田に話し、福田はその影響で『ひこうき雲』を聴いていた。

 福田は、「この人にテーマソングを歌わせてみたい」と、日向に『ひこうき雲』を聴かせている。だが日向は、「何だかお経みたいだな。節も何もなくて、俺はこんなの嫌だな」と、理解を示さなかった。しかし、福田は「主題歌は新しい感覚で行きます。ドラマに相応しい、新しい曲をつくってもらいます」と、日向を説得した。

 このころ村井は、テレビの音楽番組の機材が弱々しく、荒井由実の細部にこだわったサウンドの本当の魅力を伝えられていないという歯痒さを感じていた。また、単発で音楽番組に出演してもレコードセールスに効果が現れないという結果も出ていた。福田から連絡があったのはそんなときのことだった。

 前年、中村雅俊の青春学園ドラマ『われら青春!』(日本テレビ)で中村が歌う『ふれあい』は、オリコンチャート1位を続けミリオンセラーとなった。毎週決まった時間に流れるドラマの主題歌は、一度大衆の心をつかむと、一気に右肩上がりとなり、ラジオからも拡散される。

 大きなチャンスを手にしたスタッフに村井は、自分が映画の音楽監督の経験があることから、ドラマを彩る音楽監督の重要性も話す。由実はこのころすでにCMソングの作曲も体験し、バンバンに曲を提供するなどソングライターとしても衆目を集めている。そのなかで初めてドラマの主題歌をつくり、最初に『スカイレストラン』という曲を提出した。だがこの曲は、福田からアルファに戻された。村井が語る。

 「詞がドラマの内容と合わないので変えてくださいと言われ、それで詞を書き直しすることになった。ユーミンにこういった注文は初めてでしたね」

 その後、荒井由実は演出側からのドラマの見せ場や、そこに必要な音楽の重要性を福田から聞き、すぐに新たな曲を書いた。福田はこの曲を気に入り、プロデューサーの日向たちとの全体会議で発表した。イントロやサビの部分が絶賛され、2番の詞をドラマでは使うことになった。

 本格的にドラマの撮影に入ったのは75年6月のことで、ロケーションには北海道登別にある牧場が使われている。番組の第1回がオンエアされる数日前に、出演者や関係者たちだけの試写会がTBS内で行われた。そこで主題歌の『あの日にかえりたい』が流れた。

暮れかかる 都会の空を
想い出はさすらってゆくの
光る風 草の波間を
かけぬける わたしが見える

青春の 後ろ姿を
人はみな 忘れてしまう
あの頃の わたしに戻って
あなたに会いたい

今愛を 捨ててしまえば
傷つける人もないけど
少しだけ にじんだアドレス
扉にはさんで 帰るわ あの日に

 初めて聴いていた花村は、そのときの驚きを94年のインタビューでこう語っている。

 「原作は漫画でも長い連載でしたし、内容的にも波瀾万丈なものでした。それが、たったあれだけの歌詞のなかにまとめられていました。友情で結ばれた夕子と奈津子の二人が冬樹に対する思いをじっと耐えようとするのですが、その夕子の、この恋をあきらめなければいけないという思いが『今愛を捨ててしまえば、傷つける人もないけど』と、歌詞の中に入っているんですね。鋭くキャッチなさっていい場面をさりげなく描写されて本当にびっくりしました」

 ドラマでは秋吉久美子が寂しげで強い少女を、池上季実子はあどけない無邪気なお嬢さん役を演じ、三角関係の恋愛感情のコントラストが見せ場の一つとなり、回を重ねるごとに視聴率は上昇した。

 松任谷正隆は、このドラマで音楽監督として1話ごとにラグタイムやカントリーなどさまざまなアレンジを施し、さりげなく井上陽水の曲も流した。また『空と海の輝きに向けて』も一度だけ使っている。ただドラマ自体は最初は古くさいと感じていたという。それでもそのうちに入れ込んでしまい、「オレ泣けてきちゃった」とつぶやいた。

 『家庭の秘密』は、少女漫画に掲載されたこともあって、幅広い女性たちに支持され、番組がオンエアされると、主題歌の問い合わせがTBSに相次いでいる。

 シングル盤の『あの日にかえりたい』は、ちょうどドラマが折り返し地点を迎えた10月5日に発売された。発売がこの時期にずれ込んだのは、本人が地方のコンサートなどで忙しく、レコーディングの調整がつかなかったからだ。

 ドラマの撮影も終わりに近づくころ、日向は最後の北海道ロケを進めていた。冬の気配も漂う支笏湖へ向かう路線バスのなかで、地元ラジオ局の歌謡番組から『あの日にかえりたい』が流れた。それは、リクエストはがきによるヒットランキングの1位と紹介された。日向が語る。「ああ、ついに1位なんだなと、その番組を自分はやっているんだと何か人ごとみたいに思ったことを覚えています」。

 『あの日にかえりたい』は、初登場こそ70位だったが、急上昇を続けていた。75年10月27日、荒井由実はソングライターとしてバンバンの「『いちご白書』をもう一度」で初のチャートー位を達成し、アルバム『COBALT HOUR』が19位から9位に再浮上した。

 12月1日、「『いちご白書』をもう一度」が5週連続1位を記録し、『あの日にかえりたい』が6位。翌週、「『いちご白書』をもう一度」が2位、『あの日にかえりたい』が3位と上位を占めた。そして、12月22日、『あの日にかえりたい』がシンガーソングライターとして、初の1位に輝いた。また、それまでの『ひこうき雲』が14位、『MISSLIM』が8位、『COBALT HOUR』が2位に急上昇し、荒井由実の作品に一気に火がついた。

 村井が71年に立教女学院高校の2年生、16歳になったばかりの荒井由実の存在を知った日からこのときまで、4年の月日が流れていた。やはり村井の目に狂いはなかった。



ファンクラブ 解散

 話はふたたび1年前にさかのぼる。由実がブレイクする前の74年12月、日本青年館で行われた「クリスマスコンサート」である。観客の一人に、荒井由実のファンクラブを運営する沼辺がいた。そしてここで歌われた『ルージュの伝言』を初めて聴いている。

 沼辺は思った。「聴けば聴くほど、不快感の募るイヤな曲でしたね。ちっともいいと思わなかった。なんでこんな60年代アメリカン・ポップスの類似品を、ユーミンが作らないといけないんだろう」

 しかし、沼辺の懸念をよそに、『ルージュの伝言』はその2ヶ月後、シングルレコードとして発売された。5日後に、自由が丘のソハラ楽器の店頭で行われたミニライブ(カラオケを使用)の際、由実は『12月の雨』『ルージュの伝言』『何もきかないで』の3曲を歌った。

 傍らで聴いていた沼辺は、『ルージュの伝言』が嫌で嫌で仕方がなかった。しかし、苦しい胸中を口にすることはできなかった。アルバム『ひこうき雲』『MISSLIM』の売り上げが思うように伸びず、何とかしてヒット曲を出したいと由実が必死になっていることが伝わってきたし、何よりも沼辺は、彼女を応援するファンクラブのメインスタッフなのだ。

 複雑な心境の中、沼辺は会長の菊地亜矢たちと一緒に、4月に発足する、荒井由実ファンクラブの会報『ゆうみん』創刊号のため、本人へのインタビューに臨んだ。6月に発売されるアルバム、『COBALT HOUR』レコーディングを前に、その制作状況や意気込みや訊くためである。以下はその記事から、冒頭要旨と由実の言葉を抜粋する。

 《 いよいよサード・アルバムの制作に取り組むという。アルバムに入れる曲は、もちろん全曲ユーミンの最新オリジナル。すでにアレンジもできあがっていて、あとはレコーディングを待つばりとか。そして、今回もこれまで同様ティン・パン・アレー(旧キャラメル・ママ)がバックを受け持つことになっている 》

 「でもね、今度のは、これまでとはだいぶ違った感じのアルバムになりそう。どっちかっていうと、一時代前のオールド・ファッションっぽいフンイキを感じさせる、そんなアルバムにしたいのよ。例えばさ、『航海日誌』って曲は、ちょっとハリウッドっぽい感じだし、クリスマスコンサートでやった『チャイニーズ・スープ』なんかも、割にオールド・フアツションでしょ。そういった、いわゆるアメリカ音楽の40~60年代……なんて大げさなもんじゃないけど、私なりにそうしたものを消化したみたいな、そんなアルバムをめざしているわけ。だから、アルバムのタイトルも未だ決まっていないんだけど、ちょっと古い匂いのするような感じにしたいと思っているの。2年前の『ひこうき雲』の頃のイメージとはずいぶん変わってしまうかもしれない。でもね、そうした変化は私の場合実生活での私自身とは余りカンケイないみたい。『MISSLIM』の時も、あっ荒井由実は変わった、成長した、みたいなこと言った人がいたけど、それは見当はずれな見方。そんな短期間にレコードが変わるほど、人間が変化するはずがないでしょ。私としては、アルバム毎にこういうこともしたい、ああいうこともやってみたい、という風に自分の可能性をいろいろ試しているところなのよ。全部聴いて、それがひとつの物語になるようなアルバムをつくるのが私のやり方。曲を書くことには苦労しないほうだけど、アルバムとしての統一をとってトータルなひとつの世界をつくりだすのがけっこう大変なわけ」  (『ゆうみん 創刊号』75年4月1日発行)

 この言葉通り、サードアルバム『COBALT HOUR』は、『ルージュの伝言』と同じ路線となった。これに対し沼辺は思った。

 「この時期、ユーミンは急速に舵を切って、誰にでもわかるものを作ろうとした。シンガー・ソングライターとして心の風景を歌う方向ではなく、ポップソングのライター&シンガーに転身した。かけがえのない資質を犠牲にしてまでも、売れる音楽をめざしたということです。それを咎めるつもりはありませんが、僕が失望したのは確か。ファンクラブのメンバーであるにもかかわらず、結局『COBALT HOUR』のレコードは買わずじまい。大半の曲がホップな作りで、しかも出来にはひどくムラがあった。前作の『MISSLIM』からわずか半年ほどのリリースで、制作時間も足りないと感じました。ちょうどその頃、美術大学への進学を目指して浪人中だったメンバーがファンクラブの会報作りに加わってくれたので、彼に編集作業の大部分を引き継ぎ、僕自身はファンクラブから徐々に手を引いていきました。本心を押し隠したまま応援団に居座るのは、ユーミンにもファンクラブ会員にも失礼だと思ったからです」 (沼辺信二)

 『COBALT HOUR』に失望したのは沼辺ばかりではなかった。荒井由実ファンクラブの中心メンバーとなった若者たちのほとんどが、沼辺と同意見だったのだ。

 「ユーミンは商業音楽を作ると割り切った。ある意味で職人になったんです。それはそれで構わないけれど、僕にはもう関係のない音楽だった」

 「裏切られた、と言っている人もいましたね」

 「レコード店で彼女のアルバムを一番前に並べ替えていた我々からすると、ユーミンが離れていったように感じました」

 荒井由実ファンクラブの会長である菊地亜矢も、こう語っている。

 「私たちにとってのユーミンは『雨の街を』のように、庭に咲いているコスモスひとつで風景を見せられる人だった。聴いていて震えがくるようなものが、どの曲にもあったんです。ところが『COBALT HOUR』のユーミンは、とってもおしゃれでスマートなものになってしまった。裏切られたとまでは思わなかったけど、じつは私も『COBALT HOUR』以後のアルバムは買っていません。もっと心ある歌が聴きたかったから。BGMならいいけど、歌詞まで噛みしめて聴くには値しないと感じました。でも、『COBALT HOUR』を出した頃にユーミンが言っていたことがあるんです。『今度のアルバムはユーミンらしくないってみんなは言うけど、ユーミンらしい私って、どんな私なの?私はひとつの色だけの人間じゃないんだから、私がやることは全部ユーミンらしいんだよ』って。確かにそうだな、と思いました」

 ファンクラブの会報を作っていた若者たちが抱いた違和感をよそに、『ルージュの伝言』および『COBALT HOUR』以後の由実は、恐るべきスピードで巨大化していく。75年11月には、由実が作詞作曲を手がけたバンバンの「『いちど白書』をもう一度」がヒットチャートのトップに立ち、以後6週間にわたって首位を独走した。由実の、この作家としての力量を示した曲に対しても、沼辺は違和感しか抱かなかった。

 「『いちご白書』は我々の世代にとって、ほろ苦くも思い出深いアメリカンーニューシネマの傑作だったし、バフィ・セントメリーの歌う主題歌『サークル・ゲーム』(ジョニ・ミッチェル作詞作曲)は、誰もが口ずさんだ名曲でした。だからこそユーミンは目ざとくそこに着目したのでしょうが、その姿勢がいかにもあざとい。本人は『時代の気分を歌にした』と言うかもしれませんが、学生運動に伴う挫折や転向を安易に歌にしてほしくない、あの無垢で痛切な映画をネタにしてほしくない、という反発もありました。詞も旋律も歯が浮くほど凡庸で、常日頃からユーミンが唾棄していた。四畳半フォークの同類としか思えなかった。僕はユーミンの天才を心から信じていたけれど、ユーミンはその才能を使って、こんな陳腐な曲をぬけぬけと書いた。しかも大ヒットしてしまうのだから始末に負えない。『こんなんじやダメだ!』と強く思いました」

 10月5日にリリースされた荒井由実の「あの日にかえりたい」は、TBSドラマ「家庭の秘密」の主題歌となったこともあり、12月末には2週連続でチャートの首位をキープした。歌手荒井由実にとっては初めてのナンバーワンヒットである。いかにも彼女らしい繊細なメロディーの佳曲ではあるものの、歌詞が安直で急拵えだと沼辺は感じた。

 だが、自作の曲が立て続けに人ヒットしたことによって、由実の人気は決定的なものになった。「ニューミュージック」という言葉は、歌謡曲にもフォークにもロックにも収まりきらない由実の音楽を形容するために作られた造語だ。荒井由実は新時代の旗手になったのである。

 沼辺が由実と電話で話をしたのは『あの日にかえりたい』が街のあちらこちらから聞こえていた、75年の暮れのことだった。沼辺はファンクラブ会報の実質的な編集長からは手を引いていた。だがすべての仕事を押しつけるわけにもいかず、会報づくりを手伝っていた。その際に、たまたま由実と話す機会が生じた。沼辺は、勇気を振りしぼり、由実に自分の胸のうちを伝えた。
 
 「『ルージュの伝言』は好きになれない。ユーミンでなければ書けない曲が聴きたい。次のアルバムでは詞をちゃんと書いてほしい」

 必死の忠告だった。少しおどけた調子で「次は頑張りま~す」と答えた由実は、「でも、もう昔みたいな詞は書けない」とポツリと言ったという。

 このときの心境を、のちに由実は自著『ルージュの伝言』にこう記している。

 『COBALT HOUR』というアルバムが、それまでの二枚とすごく発想がかわったのよ。それまでは本当の意味での、もう二度とできない私小説のアルバムでも、私小説だというコンセプトに基づいている私小説アルバムなのね。だけどそれしかやるすべがなくて、今まで思春期とか、幼少時代を送ってきたのをすべてはき出していたアルバムが『ひこうき雲』と『MISSLIM』という二枚なの。(中略)『COBALT HOUR』はそういうものが自分でなくなっちやったという気がしたの。企画物をつくらなきやいけないという気になって、すごくプロになったアルバムだと思う。

 また90年1月、『月刊カドカワ』のインタビューで、こう答えている。

 《『やさしさに包まれたなら』(注・『MISSLIM』収録)という曲は、自分でいうのも変なんですけど、すごく特殊な歌で、もう書けないな、っていうものなんです。インスピレーションというか、今、振り返ると、何であんなことを書けたんだろう、と思うような内容で。(中略)荒井由実のころって、私はほんとうにインスピレーションで、というかインスピレーションというものがあるということも意識せずに書いていた時期があるんです。そうしたら、いつしかそれができなくなった。これはもう、自分で書いて書いて見つけるしかないなって気持ちで……。》

 由実のデビューアルバムである『ひこうき雲』に収録された曲は、すべて16歳までに書いたものだ。セカンドアルバムの『MISSLIM』に収録された曲の多くもまた、十代の頃に書いたものだが、それだけでは足りず、新曲もいくつか付け加えた。二枚のアルバムを作り終えて、曲のストックは尽きてしまった。

 由実にはわかっていた。『ひこうき雲』と『MISSLIM』の二枚のアルバムに収録された曲の水準の高さを。そして、すでに十代の少女ではない自分には、『ベルベット・イースター』や『雨の街を』『やさしさに包まれたなら』のような曲は決して書けないことを。由実は決意した。時の流れを止めることはできない。自分はもう夢見る少女ではない。ならば、以前のような水準に届かなくてもいい。完璧と思えなくともいい。書いて書いて書きまくろう。そこから、次の高みが見えてくるかもしれない。そう考えた由実は、ホップでキャッチーな方向に路線変更し、作品を量産する。そのスタートがシングル『ルージュの伝言』であり、サードアルバム『COBALT HOUR』だった。

 72年7月のデビューシングル『返事はいらない』から、すでに3年が経過している。試行錯誤を繰り返しつつ続けているうちに、ようやくヒット曲を出すことができた。ほかの歌手に曲を提供するソングライターとしても、自分自身で歌うアーティストとしても、プロフェッショナルとしてやっていける自信がようやく生まれてきた。アルバムは残るものだ。音楽家である以上、時間をかけていい作品を作りたい。だが同時に、ある程度のセールスを残さなくては、自分の居場所や創作活動を守ることは決してできない。自分は現実と必死に格闘している。ファンから口出しされる筋合いはない。由実は沼辺の言葉を愛情とは受け取らなかった。

 「邪魔しないでよ、と(笑)。ただ、ファンというのはそういうものだと、最初から思っていた部分もありました。アーティスティックなものと、ポップス的なものは、両方とも自分の中にある要素。どのくらいのバランスで出てくるかがアルバムによって違うだけです。『ルージュの伝言』は、もっと明快なポップスを作りたい、という思いがあってコニー・フランシスのパロディみたいな感じにしました。『あの日にかえりたい』は、作った時はかなり歌謡曲っぽかったけど、ボサノバをモロにやるというのが新しいアプローチ。最初は同じメロディーに『スカイレストラン』という詞がついていて、もうちょっと男と女の話みたいな感じだった。サビのところは『なつかしい電話の声に出がけには髪を洗った』っていうんですけど。TBSディレクターの福田新一さんから、『家庭の秘密』という秋吉久美子さん主演ドラマの主題歌をユーミンで行きたいというオファーをいただいた。気に入っていた『スカイレストラン』を提出してみると、曲はすごく好きだけれど、ドラマに合わせて歌詞を変えてほしいと言われた。それで『あの日にかえりたい』の詞にしました。残っていた『スカイレストラン』の歌詞には村井邦彦さんが曲をつけてハイ・ファイ・セットが歌った。ファンたちはそのことにもすごいコンプレイント(不平不満)を持ったみたい。自分が作った歌詞を誰かの依頼に合わせて変えるとは何事かと。ドラマの主題歌になるのは不純だとか、商業主義だとか、そんなことが言われた時代だった。私の音楽はものすごくファジーだから、商業主義かアートか、どちらかには分けられない。当時の私のファンの中心圏は、団塊の世代の少しあとの世代。だから多感な高校生の頃に見た学生運助に強い影響を受けているんです。『「いちご白書」をもう一度』も、東京キッドブラザーズの東由多加さんにバッサリと書かれましたよ。映画の『いちご白書』も学生運動も、そんなもんじゃないって。林美雄さんが私の音楽をお気に召した理由も、私の音楽がセンチメンタルでメランコリックだったから。背景はずいぶん違いますけどね。ルートは違っても同じ感情に行き着いた、ということでしょう」(松任谷由実)

 由実と電話で話してからまもなく、沼辺は荒井由実ファンクラブから完全に手を引いた。そればかりか、ファンクラブ自体が数力月後には自主解散してしまった。中心メンバーが二ューアルバムを買わないゆえの、当然の帰結となった。スターになった由実も、私設ファンクラブを必要としなくなった。

 沼辺は思う。由実の『ベルベット・イースター』『雨の街を』『やさしさに包まれたなら』は時代性を一切感じさせない。同じ曇り空の下にあっても、これらの曲は時代を超えた永遠の古典なのだと。

 荒井由実のコンサートに通いつめ、ファンクラブの結成を依頼されるほど彼女の音楽を深く愛した沼辺は以後、一度もそのコンサートに行っていない。沼辺が持っている荒井由実のアルバムは、『ひこうき雲』と『MISSLIM』の二枚だけである。

 一方、由実は、林美雄との関係性はひとつも変わらなかったという。

 「林さんとの関係は『旅立つ秋』を贈ったくらいまでがタイトだったけれど、私かメジャーになったからといってつきあいを変える人ではなく、会えば以前と同じ感じで接してくれました。少数が支持しようが、多くの人が支持しようが、林さんにとっては関係ない。かといって、自分はまだ誰も気づかない時に(ユーミンを)見つけたんだぞという振りかざし方もまったくなかった。林さんはそういう人です」(松任谷由実)



軋轢

 ニューミュージックという言葉は、歌謡曲にもフォークにもロックにも収まりきらない、由実の音楽を形容するために作られた造語だ。荒井由実は新時代の旗手になった。デビュー時から「私は絶対に有名になる」と、由実はよく口にしていた。『ひこうき雲』でのブレイクではなかったが、由実はその願いをついに成就した。

 振りかえれば75年は、2月に『ルージュの伝言』、6月には『COBALT HOUR』、8月の『いちご白書をもう一度』、そして10月『あの日に帰りたい』と、ヒット作が立て続けに発売された年だった。73年末のデビューから2年で、由実は頂上に登りつめた。そして75年は私生活でも12月に正隆と婚約。まさに順風満帆の年だった。

 しかし内情は違った。この年はアルファとの軋轢が生じていたのだ。皮肉にも、売れ始めた、『COBALT HOUR』のころから揉めだしている。アルファとは契約によるアルバム作りとツアーがあり、さらには所属するハイ・ファイ・セットや石川セリらに、作家として曲を書かなくてはならない。自分だけが馬車馬のように働かされる。懸命に働いても、そのカネを他のアーティストの育成に使われていることも不満だった。『いちご白書をもう一度』も『あの日に帰りたい』も、本意でないスタイルで書いた。批判は覚悟の上だった。

 由実はアルファを辞めたかった。しかしその経営状態は思わしくなく、ブレイクした由実が辞めるとアルファは傾く。今までかかった宣伝費はどうなると責められた。本人の反対を押し切って、ベストアルバム『ユーミン・ブランド』も出されてしまった。『あの日にかえりたい』のヒットの頃には、由実の気持ちは萎えていた。自分の中の祭りが終わってきていた。年2枚のアルバム制作がノルマだったが、『COBALT HOUR』の後、翌76年11月の『14番目の月』まで1年半、由実は新作アルバムを出していない。

 「18歳でデビューして精神状態が良くなかった。追い詰められていた。結婚すれば違う地平が拓けると思った。結婚は現実逃避だった。婚約した時点で、表舞台から姿を消すつもりだった」。76年3月に多摩美術大学を卒業した頃は、引退を決意していた。もう人前で歌うのはやめよう。依頼があれば曲を書こう。もともと自分は作曲家になるつもりだったのだから。

 ダディ・オーはすでにバックバンドを辞めていたが、平野は自著で、由実のこの間の事情を推察している。「ユーミンは周囲の人たちに気をつかう人だった。 『私が私が』と前にでるタイプではない。半歩くらい引いたところからみんなを見ていて、うまいところで話に加わって盛りあげる。そのタイミングが絶妙で、相手がミュージシャンでもスタッフでも違う業界の人でも、その場のバランスを心得ているところがあった。彼女は空気を読む天才だと推測する。だから会社ともめたのは相当な不信感があってのことではないか」



14番目の月

 『14番目の月』は、荒井由実独身最後のアルバムとして76年11月に発売された。前作『COBALT HOUR』でのアメリカン・ポップス的なサウンドの流れの延長線上にある作品。アップテンポな曲が多く、サウンド的にも豪華で、1曲1曲の完成度も高い。

 このアルバム発売を機に由実は、アルファを辞めている。松任谷由実 「『14番目の月』を出すころには、どうせみんな移り気で、いろんな女性アーティストがポストユーミンといわれていて、あきられて捨てられるという気持ちだった。ポストユーミンという言葉が屈辱だった。まだ生きているのに葬られてしまうようだった。ろくでもない歌手がまねをしているのが許せなかった。精神状態は最悪だった。

 でもこのアルバムの、一個一個の作品はすごく気に入っている。とくに『中央フリーウェイ』は自分でいうのはおかしいけれど、すごく完成度が高い。これだけの曲を書けるもんだったら書いてみろという自負がある。あの曲は八王子で書いたが、できたときは興奮ものだった。この曲で決着つけて結婚した」。

 『中央フリーウェイ』は転調を何回も繰り返す。何度も転調するとほとんどのミュージシャンは、音楽の出口が見つからなくなる。それで結局完成しない。由実もやはりこの陥穽にはまった。しかしついに完成させた。その様子を傍らで見守っていた正隆は、奇跡がおきたと感じた。

 正隆は由実と出会った頃の思い出をこう語っている。「最初に練習した曲は『ひこうき雲』で、サビの♪かけ~て~いく~のところでB♭m7に行くコード進行に、それはもう大変なショックを受けた。このコード進行で僕は結婚を決意したと言っても言い過ぎではないだろう。人生なんてそんなものだ」。

 荒井由実は、アルバムを録り終えた。

 「『14番目の月』をとったのは芝浦のスタジオなのよ。明け方までミックスダウンしてて、全部とり終わったあとマスタリングといって曲を順番どおりつなげて、間のサイレントの部分は何秒というのも決めて、全部レコードと同じ状態のマスターテープをつくったの。そのあと暗いスタジオに椅子を並べて試聴会したの。ごく親しい友達とか、仲人さんがTBSのドラマのディレクターだったりして、その人も音楽好きで遊びにきていたりとか、ごくごく内輪の連中十何人で、『14番目の月』を明け方に聴いたの。妙に祭りのあとという感じがしてね。その仲人さんなんかもドラマなんかつくり終わったあと、セットも片づけたカランとしたところを見てるの好きなんだって。そういう話して、そういう気分で聴いていた。夜が明けるか、明けないかのときにエレベーターで下へ降りていくと、芝浦なんて海の臭いがすごいするわけ。柳がワァーッと植わってで、すごい感慨があったの。でも、残るものをやっててすごいよかったなと思う。レコードだと生理も残るでしょう。もちろん文章でも生理は残るんだろうけど、音楽だと詞と歌と、生理的なコンディションなんかも残るでしょう。あぁ、あのときカゼひいてたなというようなことまで残るじゃない。そういうレコード産業に携わってよかったみたいなことをすごい思ったね。そのときは、もう引退するつもりだったから」

 スタジオの雰囲気は、まさに「祭りのあと」だった。事実、結婚してから約1年半、由実は作品を発表していない。婚約した時点で、表舞台から姿を消すつもりだった。ステージで歌うことを一切やめ、音楽活動は作曲のみに限定。作家として家でこつこつと曲を書いていこうと思っていた。

 『14番目の月』をリリースした9日後に、由実は横浜山手教会で正隆と式を挙げた。仲人はTBSの福田新一が、司会は林美雄がつとめた。結婚後は夫の姓を名乗る。福田には、もし結婚後にレコードを出すときは「松任谷由実」にする。そのほうがカッコいいからと冗談で話していた。すると披露宴で福田がこれを美談として、業界関係者を前にスピーチしてしまう。歌手はやめるつもりだったのに、由実は引っ込みがつかなくなってしまった。

 

 

『14番目の月』

 

 

 

荒井由実ヒストリー

 

 

 

荒井由実ヒストリー拡大版(5/5) あとがき

へ 続く