『フェルマーの最終定理』ダイジェスト版(1/2) 数学弱者向けノンフィクション・サスペンス | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 数学が苦手です。数式を見るだけで頭が痛くなってしまう。なのに今日は、数学の本の話をします。身のほど知らずは百も承知ですが、この本、『フェルマーの最終定理』はとてもスリリングでおもしろい。

 フェルマーとは、ピエール・ド・フェルマーという人の名です。17世紀の法律家であり、アマチュア数学者でもあったフェルマーは、数行のメモを遺しました。



 フェルマーはこの定理を証明したとも書き添えていたのですが、具体的な内容は記しませんでした。以来、天才数学者たちが三世紀にわたりこの証明に取り組んできた。だが、それが成されることはなかった。

 その難攻不落の未解決定理を、1993年、プリンストン大学教授のアンドリュー・ワイルズが解いたのです。サイモン・シン著 『フェルマーの最終定理』は、ワイルズの八年にも及んだ苦闘の物語です。感動の数学ノンフィクション・ドキュメンタリーであり、アマゾンのレビューには、絶賛のコメントがずらりと並んでいます。

 同書の魅力は、やはりノンフィクションとしての秀逸さにあります。ワイルズが定理を証明したことを読者は知っているにもかかわらず、解けるか否かという、サスペンス感を堪能することができます。そして数学的な記述を押さえたことも、一般受けした要因だったようです。たしかにあまり数式は出てきません。

 ですが、数学が苦手な身としてはハードルは高かった。数式こそ少ないものの、難しい数学的思考が頻出するからです。理系の人なら苦もないのでしょうが、でない者にとってはいささかキツイ。やむなく読み飛ばしたところも少なからずあった。それでもこの本はおもしろかった。

 ならば数学的な記述がなくても、この本は成立するのかもしれない。というわけで、本書から、自分が理解できた部分のみを抜き書きしたのが下の一文です。いわば『フェルマーの最終定理』の、文系向きダイジェスト版ということになります。

 とはいえ、数学用語を完全に取り除いたわけではありません。一部の数式や、あるいは「楕円方程式」とか「モジュラー形式」といった言葉は残さざるを得ませんでした。これらを抜きにしてはさすがに話が通じなくなってしまう。

 ですが、以下の文に、たとえば楕円方程式といった言葉が出てきても、そのまま読み進めてください。意味は不明であっても話の流れは理解してもらえるはずです。言うまでもありませんが、自分自身、楕円方程式なるもの、これが何たるかわかっていません。それでも『フェルマーの最終定理』は十二分に楽しむことができたからです。

 本書を手にしたのは、発刊当時の、二十年前のことでした。本屋で手にして思わず買ってしまい、難解部分を読み飛ばしつつも、その素晴らしさに知的興奮をおぼえたものです。以来、時折、今度こそは完読しようと試みたものの、その壁は高かった。おそらく、同じような思いをした方は多いはずです。

 果たして拙文がダイジェスト版としてきちんと成立しているかはわかりません。所詮は数学弱者による、自己満足の代物です。ですがアバウトではあるものの、ワイルズの偉業への軌跡を曲がりなりにも感じ取っていただけるはずです。ノンフィクション・サスペンスが好きで、(失礼ながら)数学はチョット、と言う方にお読みいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

「ここで終わりにしたいと思います」

 1993年6月23日、ケンブリッジでおこなわれたその数学の講演は、二十世紀でもっとも意義深いものとなった。会場にいた二百人ほどの数学者は、その場にくぎづけになっていた。とはいえ、黒板をぎっしりと埋めたギリシャ文字や代数式をすべて理解できていたのは、そのうちの四分の一ほどにすぎなかっただろう。あとの人々はただ、歴史的出来事に立ち会えるかもしれないという期待を胸にそこにいたのである。

 三枚ある黒板が計算式でいっぱいになり、講演者は一息ついた。そのあいだに一つ目の黒板が消され、ふたたび講演が続けられる。あたかも数式の一行一行が、解決に向って一歩ずつ小さな歩みを進めているかのようだった。だが、講演がはじまってから三十分を過ぎても、これが証明ですという言葉はなかった。

 講演者の名前はアンドリユー・ワイルズ。1980年代にアメリカに移住し、プリンストン大学の教授となった控えめなイギリス人である。ワイルズはこのプリンストン人学で、同世代中もっとも才能ある数学者との評判をとっていた。ところがここ数年というもの、ワイルズは学会の年会にもセミナーにも顔を見せなくなっていた。じつはワイルズはこの七年間というもの、数学最大の問題を解決すべく完全な秘密のうちに研究を続けていたのである。ワイルズは息をのむばかりの進歩を遂げ、いままさに披露せんとしている新しいテクニックと道具立てを作り上げていた。ワイルズは周囲との交渉をいっさい絶つことにしたが、それはリスクの高い、数学の世界では異例ともいえる戦略だった。

 どこの大学でも、特許のとれる発明などありえない数学科は、秘密主義からもっとも遠いところにある。誰とでも自由にアイディアを交換し合うことは数学者の誇りであり、数学科のお茶の時間は、アイディアを仲間に聞いてもらったり、吟味し合ったりする日常行事へと進化を遂げている。その結果、論文は共著やグループで発表するのが普通になり、栄誉もまた分かち合われるようになった。

 しかし、ワイルズ教授が単独でフェルマーの最終定理の完全な証明に成功したとなると、数学界最高の栄誉は彼一人のものになるだろう。その一方で、ワイルズは秘密主義をとったツケを払わなければならなかった。それは、前もって自分のアイディアを数学者仲間と議論したり検証したりできなかったということ、そしてそれゆえに、彼の証明が根本的なところで誤っている可能性は決して小さくないということだ。

 ワイルズとしても、できれば十分に時間をとってこれまでの仕事を見直し、最終原稿を隅から隅までチェックしたいところだった。だが、ケンブリッジ大学のアイザック・ニュートン研究所で成果を発表できるという願ってもない機会を得て、ワイルズは懸念を振り捨てることにした。ニュートン研究所が存在する目的はただ一つ、世界中のもっとも優れた頭脳を数週間にわたって招聘し、各自が選んだ最先端のテーマでセミナーを開いてもらうことである。

 傑出した聴衆を前に研究成果を披露できるというのは、ワイルズにとって実に魅力的な話だった。しかしワイルズがニュートン研究所で発表したいと思ったいちばんの理由は、そこが彼の故郷、ケンブリッジだったからである。彼はこの地で生まれ、育ち、数に対する情熱を育んだ。そして、彼の人生を支配することになる一つの問題に出会ったのも、ここ、ケンブリッジだったのである。



最後の問題

 話は三十年前にさかのぼる。1963年、10歳のアンドリュー・ワイルズはすでに数学の魅力の虜になっていた。「学校では算数の問題を解くのが大好きでした。家に帰っても問題を解いていましたし、自分で新しい問題を作ったりもしました。しかし私が見つけたなかで最高の問題は、町の図書館にあったのです」

 ある日、学校からの帰り道、ワイルズ少年はミルトン通りにある図書館に寄ってみることにした。大学の図書館などにくらべればお粗末ながら、そこにはパズルの本が豊富に取りそろえられていた。それがしばしばアンドリューの興味を引いたのである。そうした本には科学のクイズや数学のパズルが満載で、たいていは巻末に答えがまとめてあった。しかしこの日ワイルズは、たった一つしか問題の載っていない本に引きつけられた。そしてその問題は答えがなかった。

 エリック・テンプル・ベルによる『最後の問題』というその本には、数学のひとつの問題をめぐる歴史が語られていた。ピエール・ド・フェルマーが書き記した難問である。

 フェルマーのその遺産の前に偉大な数学者たちが次々と屈服し、三百年ものあいだ誰ひとりとしてその問題を解くことはできなかった。数学にはほかにも未解決の問題はあるけれど、フェルマーの問題をこれほど特別なものにしているのは、それが一見するといかにも簡単そう見えることだろう。ベルの本をはじめて読んでから三十年の時を経て、ワイルズはフェルマー最終定理に出会ったときの気持ちを語っている。

 「その問題はとても簡単そうなのに、歴史上の偉大な数学者たちが誰も解けなかったというのです。それは十歳の私にも理解できる問題でした。そのとき私は、絶対にこれを手放すまいと思ったのです。私はこの問題を解かなければならない、と」

 その問題が簡単そうに見えるのは、誰でも知っている、"ピュタゴラスの定理"が基礎になっているからだ。

 「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」

 幼いアンドリュー・ワイルズを引きつけた本には、ピュタゴラスの定理が説明されたあと、この定理は、次の数式におきかえることができる、とあった。
 



 一見すると何の罪もなさそうなこの方程式だ。しかしベルの本は、その姉妹方程式として、x y z のどれもが三乗になっているものを取り上げていた。

 



 指数を二乗から三乗に変えたとたん、その方程式の整数解は求まらなくなるとベルの本は語っていた。何世代にもわたって多くの数学者が計算用紙にペンを走らせたが、この方程式にぴたりとあてはまる数を見つけることはできなかった。指数を3からより大きな数字 n (4、5、6……)に変えたとしても、解はやはり求まりそうにない。
 



 ピュタゴラスの方程式の指数2を、それより大きな数字に変えただけで、整数解を求めるという比較的簡単だった作業が、想像を絶するほど困難なものに変わってしまったのだ。

 フェルマーは、歴史上もっとも優れた数学者の一人である。無限にある数をすべて試すことはできなくても、フェルマーはこの方程式に解がないことを確信していた。よく知られているように、フェルマーの最終定理は次のように書かれている。

 



 ワイルズはベルの本を読み進むうちに、フェルマーが世界中の数学者が永遠の時をかけても解は見つけられまいと豪語したという話も読んだ。ワイルズはその証明を読めるという喜びに震えながら、夢中でページをめくった。しかしそこに証明はなかった。証明はどこにもなかったのである。ワイルズは途方にくれ、憤りを感じ、そして好奇心の虜になった。

 彼はすぐさま、教科書で学んだ手法を使って証明に挑みはじめた。フェルマー以外の誰もが見逃した何かを見つけることができるかもしれない。ワイルズは、自分が世界に衝撃を与える夢を見た。


 

絶頂、そして恐怖の始まり

 

 それから三十年、ワイルズの準備は整った。ニュートン研究所の講堂に立ち、黒板にチョークを走らせ、こみあげる喜びを押し殺すようにワイルズは聴衆を見据えた。講演はクライマックスにさしかかった。

 チョークを握り、黒板に向きなおるワイルズ。証明を完成させる最後の数行が書かれた。三百有余年におよぶフェルマーへの挑戦が、いまはじめてなし遂げられたのだ。歴史的瞬間を捉えようと幾筋かのフラッシュが発せられた。ワイルズはフェルマーの最終定理を書き終えると、聴衆に向き直って穏やかにこう告げた。「ここで終わりにしたいと思います」

 二百人の数学者たちから祝柵の喝釆がわき起こった。結末に不安を抱いていた者でさえ、信じられないという顔で笑った。このときワイルズは、三十年来の夢がついに叶ったものと信じ、七年間の孤独の末、ついに秘密の計算を公表できる時が来たと思った。

 だが、ニュートン研究所が幸福な気分に包まれているそのときにも、悲劇の幕は上がろうとしていたのである。至福の瞬間をかみしめるワイルズは、その場にいたすべての人たちと同様、忍び寄る恐怖の影に気づくよしもなかった。

 

 

 

 

 

 

数学者ワイルズ誕生

 話は18年前に戻る。1975年、ケンブリッジ大学の大学院生になったアンドリュー・ワイルズは、いよいよ研究者としての一歩を踏み出そうとしていた。最初の三年間は、院生は一種の徒弟制度のようなものに組み入れられる。指導教官から指導を受ける。ワイルズの指導にあたったのは、教授を務めるジョン・コーツだった。

 コーツの果たすべき責任は、ワイルズが没頭できる研究対象を見つけてやることだ。先輩数学者として、その学生の向き不向きに直感を働かせることである。コーツがワイルズのために選んだのは、”楕円曲線論”と呼ばれる分野だった。のちにわかることだが、この決断がワイルズにとって重大な転機となり、フェルマーの最終定理に挑む手法を彼に与えることになった。

 楕円曲線という名前は誤解を招きやすい。というのも、それは楕円でもなければ、日常的な言葉の意味では曲線ではない。楕円曲線という名前は、かつてこのかたちの方程式が、楕円の周や惑星軌道の長さなどを測るために使われたところからついた。ここでは誤解を避けるため、楕円曲線ではなく、楕円方程式と呼ぶ。

 実は戦後日本の数学者たちが、楕円方程式とフェルマーの最終定理とを分かちがたく結びつける考察を始めていた。コーツは楕円方程式の研究を勧めたことで、夢に手をかける道具をワイルズに与えた。



谷山豊 志村五郎

 1954年の1月、東京大学の志村五郎は、いつものように数学科の図書室に立ち寄った。この才能ある若き数学者は、『マテマティーシェ・アナーレン』の第二十四巻を探していた。この本があれば、いま手を焼いている難しい計算ができるかもしれないと考えた。ところが、その巻は貸し出されていた。借りていたのは、別のキャンパスにいる谷山豊という人物で、志村の知らない相手ではなかった。そこで志村は谷山にハガキを書き、厄介な計算を仕上げるために至急その巻を見たいのだが、いつ返却されるつもりかと丁寧に尋ねた。

 数日後、志村のもとに谷山から返事が来た。それによれば、谷山もまさに同じようなことを調べているという。そして谷山は志村に、お互いのアイディアを交換し合って、いっしょにこの問題に取り組んでみないかと提案してきた。図書室の一冊の雑誌をめぐるこの偶然の出会いが、数学史の流れを変えることになった。

 志村が数学の道に進んだのは、数学がいちばん簡単だったから。化学や物理学をやるには道具が必要だが、数学は教科書だけで済む。戦後の混乱がまだ尾を引く時期だった。だが志村は自分に数学の才能があるとは思っていなかった。ただ好奇心が強かった。

 志村が緻密で几帳面なのに対して、谷山はときに不真面目に見えるほどずさんなところがあった。谷山はたくさんの間違いを犯す、それもたいていは正しい方向に間違うという特別な才能に恵まれていた。谷山は典型的なぼんやり型の天才で、それは身なりにも表れていた。たとえば彼はひもを結ぶのが苦手で、靴ひもを一日に何度も結ぶくらいならはじめから結ばないほうがましだと考えていた。

 1954年にはじめて出会ったころ、谷山と志村はともに数学者として研究に踏み出したばかりだった。若い研究者は、教え導く教授の翼の下に入ることになっている。しかし谷山と志村はそうした徒弟制度に組み入れられることを拒んだ。前に進むには自分たちで勉強するしかない。そこでふたりは定期的にセミナーを開き、最新のテクニックや、新しくわかったことなどを報告し合うようになった。谷山はふだんはぼんやりして見えたが、セミナーとなると猛烈な推進力を発揮した。

 谷山と志村が取り組んだテーマは、”モジュラー形式”だった。数学広しといえども、この分野ほど奇妙で不思議なものもめすらしい。モジュラー形式は、もっとも難解な数学的対象の一つである。しかしその一方で、これを五つの基瀝演算の一つにも数えられた。すなわち数学の基礎演算は、加法、減法、乗法、除法、そしてモジュラー形式の五つだという。

 だがモジュラー形式という領域は、数学のなかでも他の領域とのつながりがきわめて弱い。とくにワイルズがケンブリッジ大学で研究することになる楕円方程式とはまったく関係がなさそうだった。モジュラー形式は研究するには厄介な代物だった。

 モジュラー形式と楕円方程式とは、数学という宇宙のかけ離れた領域に浮かぶ別々の世界なのであり、この二つに多少とも関連性があるなどとは誰も考えもしなかった。ところが谷山と志村は楕円方程式とモジュラー形式とは実質的に同じではないかと言い出して数学界に衝撃を与えたのである。この独立独歩の二人の数学者によれば、モジュラーの世界と楕円方程式の世界とは統一できるというのだ。

 1955年9月、栃木県日光で数学の国際シンポジウムが開催された。それは日本の若手研究者にとって、自分たちの研究成果を世界に向けて発信できる、またとない機会だった。

 シンポジウムで谷山は、楕円方程式はどれもみなモジュラー形式と関係づけられるのではないかとの考えを表明した。この仮説を聴いた人たちは、奇妙なアイディアだと思った。そんなものは単なる偶然の一致にすぎないと、一顧だにしなかった。谷山の唯一の援軍は志村だった。志村は、友人のアイデアの力強さと深さを信じていた。シンポジウムが終わると志村は谷山の仮説を発展させる仕事に取りかかった。その仮説に肉付けしようとした。

 しかし1957年、志村はプリンストン高等研究所に招かれる。そのためにこの研究は一時中断されてしまう。志村は、米国での二年間の客員教授を務め終えたら、ふたたびこの問題に戻るつもりだった。しかし1958年11月、予想もしない出来事が起こった。谷山豊が自ら命を絶ったのである。

 志村は今でも、プリンストンで谷山から受け取った最後の手紙も大切に保存している。その最後の手紙は、わずか二ヵ月後に赳こる出来事のことなど微塵も感じさせないものだった。今日にいたるまで、志村は谷山の自殺の原因がわからない。

 志村だけでなく、谷山の友人たちを不思議がらせたのは、彼が鈴木美佐子という女性と恋に落ち、年内に挙式の予定だったことである。当時もっとも輝いていた先駆的な頭脳は、自らの意志でその命を絶った。彼はその5日前に32歳になったばかりだった。谷山の自殺から数週間後、二つめの悲劇が起こった。鈴木美佐子が、あとを追って命を絶ったのである。

 谷山の死後、志村はもてる力のすべてを注いで、楕円方程式とモジュラー形式の関係を理解しようとした。それから数年、志村はさらなる証拠を集めるとともに、この理論を支えるための論理を見出そうと懸命の努力を続けた。そうして志村はすべての楕円方程式が、どれかのモジュラー形式と関連しているに違いないと確信するようになった。

 志村が積み上げた証拠のおかけで、楕円方程式とモジュラー形式に関する彼の理論は、広く受け入れられるようになった。志村はそれを完全に証明することはできなかったけれども、この予想はもはや単なる希望的観測ではなくなった。この予想は、「谷山=志村予想」と呼ばれることとなった。この予想にはじめて生命を吹き込んだ男と、それを育で上げた同僚の功績が認められてのことだった。

 谷山=志村予想が欧米でも話題になりはじめたころ、のちにアンドリュー・ワイルズを指導することになるジョン・コーツはまだ学生だった。この予想に接したコーツは驚きつつも、その難解さに嘆息した。美しく画期的な考えではあったが、これを実際に証明するのは、非常に難しそうだった。

 1960年代の後半には、大勢の数学者が谷山=志村予想を繰り返しテストした。しかし谷山=志村予想に有利な証拠は出てきても、決して証明には至らなかった。数学者たちはこの予想は成り立ちそうだと感じてはいたが、誰かが論理的な証明を見つけ出すまでは、予想はあくまでも予想でしかなかった。

 ハーバード大学教授のパワー・メーザーは、谷山=志村予想について語っている。

 「みごとな予想でした。しかしはじめのうちは無視されていましたね。あまりにも時代に先駆けていたからです。最初に提示されたときは相手にもされなかった。まさに仰天するような理論だったのです。あっちには楕円の世界、こっちにはモジュラーの世界。この二つの世界はそれぞれ精力的に研究されてはいたが、あくまでも別の世界だった。楕円方程式を研究している数学者はモジュラー形式のことには詳しくなかっただろうし、その逆も言えたでしょう。そこに谷山=志村予想が登場して、完全に別の二つの世界に橋が架かっているという壮大な推測をしたのです。そう、数学者という連中は、橋を架けるのが大好きなのです」

 数学における橋には莫大な価値がある。橋が架かれば、別々の離れ小島に住んでいた数学者同士が、互いにアイディアを交換し合ったり、相手の作り出したものを詳しく調べたりできるようになるからだ。数学とは、無知の海に浮かぶ知識の島々からなる世界である。形について研究する幾何学者たちの島もあれば、数学者たちがリスクや偶然を論じ合う確率の島もある。何十もの島のそれぞれが独自の用語体系をもっているため、島が違えば住民の話していることもさっぱりわからなくなる。幾何学と確率とではまったく別の言葉が使われているし、微積分学の俗語は、統計学の言葉しか話さない人たちにとっては意味不明なのである。

 もしも谷山=志村予想が成り立てば、何世紀ものあいた未解決だった楕円の世界の問題を、モジュラーの世界の側から攻略することができる。楕円方程式の領域とモジュラー形式の領域との統一は、数学者にとっては希望の星だったのである。この予想はまた、ほかのさまざまな領域にも橋が架けられるのではないかという希望を抱かせることになった。

 谷山=志村予想は未証明の予想だったにもかかわらず、もしもそれが証明されたら何か言えるか、という推測のかたちで、何百もの論文に登場していた。そうした論文では、「谷山=志村予想が成り立つと仮定すると……」という言葉に続いて、未解決の問題の解き方が述べられてゆく。もちろん、そこから導かれた結論はやはり一つの仮説でしかない。なぜならそれは、谷山=志村予想が成り立つという仮定に依拠しているからだ。そうして得られた結論は、仮説のまま次々と他の理論に組み込まれてゆき、谷山=志村予想に依拠する数学はどんどん膨れ上がっていった。谷山=志村という一つの予想を土台として、まるまる一つの新しい構築物ができあがっていったのである。しかしこの予想が証明されないうちは、そのすべてが崩壊してもおかしくはなかった。

 

 

 

 

ミッシング・リンク

 1984年の秋、ドイツ、シュヴァルツヴァルトの真ん中にあるオーバーヴォルファッハという小さな町で、えり抜きの数論研究者によるシンポジウムが開かれた。彼らがここに集まったのは、楕円方程式の研究におけるさまざまな進展について論じ合うためだった。

 ザールブリュッケンからやってきた数学者ゲルハルト・フライは、谷山=志村予想を攻略する方法については何もアイディアをもっていなかった。しかしフライは、谷山=志村予想を証明することは、そのままフェルマーの最終定理の証明につながるという驚くべき主張をした。フライは聴衆を前に、フェルマーの最終定理を黒板に書いた。



 フェルマーの最終定理によると、この方程式に整数解はない。しかしフライは仮定として、フェルマーの最終定理に少なくとも一つの解があるとした。

 そしてフェルマーの最終定理を、別のかたちの方程式に変形してみせた。

 


 並べ替えられた方程式は、形の上では元の方程式と似ても似つかないように見える。だがもし解があるとすれば必ずこうなる。続けてフライは、この方程式が実は楕円方程式であることを示した。フェルマーの最終定理の方程式が、楕円方程式に変形されたことになる。

 しかし一方でフライは、この楕円方程式は異常な性質をもつとした。異常ということは、フライの楕円方程式はモジュラーと結びつかないことになる。この事実は重大な意味を含む。フライの楕円方程式によれば、谷山=志村予想は成立しないことになる。

 逆に言えば、もし谷山=志村予想が証明されれば、フライの楕円方程式は存在しえない。フライの楕円方程式が存在しなければ、フェルマーの方程式は解を持たない。ゆえにフェルマーの最終定理は成り立つ。 

 言い換えれば、フライの論理は次のようになる。

(1)もしもフェルマーの最終定理が成り立たなければ、フライの楕円方程式が存在する。
(2)フライの楕円方程式はきわめて異常な性質をもつので、モジュラーではありえない。
(3)谷山=志村予想によると、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
(4)ゆえに、谷山=志村予想は成り立たない。

 さらに言い換えれば、こうなる。

(1)もしも谷山=志村予想が証明されれば、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
(2)もしもすべての楕円方程式がモジュラーなら、フライの楕円方程式は存在しえない。
(3)フライの楕円方程式が存在しなければ、フェルマーの方程式は解をもたない。
(4)ゆえに、フェルマーの最終定理は成り立つ!

 ゲルハルト・フライは、フェルマーの最終定理の真偽が、谷山=志村予想が証明できるかどうかによるというドラマティックな結論を導いたのである。もしも谷山=志村予想が証明できれば、自動的にフェルマーの最終定理を証明したことになるというのだ。フライが言うには、フェルマーの最終定理を証明するために乗り越えなければならないハードルは、谷山=志村予想を証明することだけだ。

 しかし問題があった。実はフライは、自分の楕円方程式が異常だということを十分に示さなかった。フライの楕円方程式は完全に異常だということが証明してこそ、フェルマーの最終定理を証明するスタート台に立てる。まずはフライの楕円方程式が成立しないという、不成立の証明をまず成し遂げなければならない。

 数学者たちははじめ、フライの楕円方程式の異常さはごくふつうの方法で証明できると考えた。フライの犯したミスは初歩的なものだから、誰がいちばん早く式を組み替えるかの競争になるだろうと思ったのだ。おそらく数日のうちには、フライの楕円方程式の奇妙さを証明されるだろう、というのが大方の予想だった。しかし、一週間が過ぎても数ヶ月が過ぎても、証明は成されなかった。フライの楕円方程式はモジュラーではないと証明するステップさえも、世界中の数学者たちに頭を抱えさせたのだ。

 谷山=志村予想とフェルマーの最終定理との結び付きを完成させようと奮闘してた数学者のひとりに、カリフォルニア大学バークレー校の教授ケン・リベットがいた。リベットはオーバーヴォルファッハでの講演を聴いて以来、フライの楕円方程式を否定する仕事に没頭していた。しかし他の誰もがそうだったように、一年半もの努力にもかかわらず、リベットもまた何の成果も挙げられずにいた。

 1968年の夏、国際数学者会議に出席するために、バリー・メーザー教授がバークレーにやってきた。リベットとメーザーはバークレーのキャンパス通りにあるカフェーでカプチーノを飲みながら、思うようにいかない仕事の話をしたり、数学の現状についてぼやき合ったりした。ふたりは、フライの楕円方程式へのさまざまな試みを話題にした。リベットは自分の試みを説明しはじめた。その方法はなかなか期待がもてそうだったが、まだその一部しか証明できていなかったのだ。

 「私は自分のやっていたことをバリーに話して聞かせました。特殊ケースは証明できたんだが、それを一般化して完全な証明にする方法がわからない、と言ったのです」

 メーザー教授はカプチーノをすすりながらリベットのアイディアに耳を傾けていたが、突然ぴたりと動きを止め、信じられないといった顔でリベットを見つめた。

 「おい、わからないのかい。もう解けてるじゃないか。(M)構造のガンマ・ゼロを加えてやって、きみの理論にあてはめればいいんだよ。それですべて解決するじゃないか」

 リベットはメーザーの顔を見つめ、カプチーノのカップに目を落し、それからまたメーザーの顔を見た。それはリベットの数学者としての人生のなかでもっとも重要な瞬間だった。彼はそのときのことを鮮やかに覚えている。

 「私はメーザーに言いました。きみの言う通りだ、どうしてそれがわからなかったんだろう、と。まったく愕然としましたよ。(M)構造のガンマ・ゼロを加えるだなんて、こんな簡単なことに気づかなかったのですから」

 (M)構造のガンマ・ゼロを加える」というのは、ケン・リベットにとっては簡単なことかもしれないが、カプチーノを飲みながらそれができるのは世界でも一握りの数学者だけだ。それはきわめて難解な論理の一ステップなのである。ケン・リベットは言う。

 「決定的に重要な要素が私には見えていなかった。私は、ほんとうにそれでいいのだろうかと考えながら、天にも昇る気持ちでどうにか家にたどり着きました。まさに夢見心地でしたよ。それから椅子に腰掛けて、計算用紙に走り書きをしはじめました。一、二時間ほどですべてを書き終えたので、鍵となるいくつかのステップをチェックして、すべてうまくかみ合っていることを確かめました。それから論証をはじめからチェックして、『よし、絶対に大丈夫だ』と言いました。バークレーでの国際会議には何千人もの数学者が出席していたのですが、私はほんの数人の人たちに、谷山=志村が成り立てばフェルマーも成り立つことを証明できたよ、とさりげなく話したのです。その話は野火のように広がり、すぐ大勢の知るところとなりました。彼らは私に走り寄ってきては尋ねるのです。『フライの楕円方程式がモジュラーでないことを証明したというのはほんとうか』。私は自分でもほんとうだろうかと一分ほども考えてから、いきなりこう言いました。『ああ、ほんとうだ』」

 こうして、フェルマーの最終定理は谷山=志村予想と分かちがたく結ばれた。すべての楕円方程式がモジュラーになることを証明すれば、フェルマーの方程式には解がないことになり、したがって、フェルマーの最終定理を証明したことになる。

 フェルマーの最終定理は三世紀半ものあいだ、解決できそうにない、数学の辺境にぽつんと孤立したパズルだった。しかしいまやゲルハルト・フライにヒントをもらったケン・リベットが、フェルマーを舞台の中央に連れ出した。17世紀以来の最大の難問は、20世紀におけるもっとも意義深い問題とつながったのだ。歴史的にも心情的にも大きな意味をもつ一つのパズルが、現代数学に革命を赳こす力をもつ一つの予想と結びついたのである。かくして数学者たちは、フェルマーの最終定理に挑戦できるようになった。

 フェルマーの最終定理が成り立つことを証明するためには、まず最終定理が成り立たないと仮定する。そうすると谷山=志村予想も成り立たないことになる。しかし、もしも谷山=志村予想が成り立つことが証明できれば、フェルマーの最終定理が成り立たないという仮定に矛盾する。したがってその場合には、フェルマーの最終定理も成り立たなければならない、ということになるのである。

 フライは、問題の輪郭を鮮やかに浮かび上がらせた。谷山=志村予想を証明しさえすれば、フェルマーの最終定理も自動的に証明されるというのだから。

 一瞬、数学界に一条の光が射し込んだ。が、すぐにまわりの現実が見えはしめた。数学者たちはかれこれ三十年以上も、谷山=志村予想の証明に挑戦しては敗退してきたのだ。今になって急に前進することなどありえるだろうか? 懐疑論者たちは、これで谷山=志村予想が証明できるという、かすかな希望も消え失せたと考えた。そういう人たちの理屈によれば、フェルマーの最終定理の解決につながりそうなものはなんであれ、証明などできっこないのである。決定的な一歩を踏み出したケン・リベットでさえ悲観的だった。

 「私は、谷山=志村予想は証明できないと考えている絶対多数の一員でした。証明してみようともしませんでした。やってみるどころか、考えることさえしなかったのです。たぶんアンドリュー・ワイルズは、この予想を証明できると考えた、世界にも数少ない無謀な人間の一人だったのでしょう」

 

 

 

 

『フェルマーの最終定理』ダイジェスト版(2/2)

へ 続く