平安京が誕生する前の京都の謎②[聖徳太子と河勝] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 太秦の由来について一説によりますと、「ウズ」は貴(とうとい)の古語で「マサ」は朝鮮語の「村」を意味するともいわれ、ウズマサは村を率いる貴族、すなわち、秦氏の族長を意味するともいいます。

 

 秦氏の族長が住んでいたから地名が太秦になったというわけですが、まだまだ謎は残ります。

 

 まず、秦という氏名の由来です。

 

 これには、機(はた)織りの集団を率いていた氏族という意味があるとされていますが、朝鮮語で「はた」は「海」を指すともいわれ、諸説あります。

 

 次に、秦氏は渡来後、太秦の地でどう発展していったのでしょうか。

 

 秦氏には葛野川(現桂川)に堰(葛野大堰=かどのおおい)を築いたという伝承があり、彼らは朝鮮半島の最新の治水技術によって土地を切り開き、同じく朝鮮からもたらした養蚕・機織りなどの殖産技術をもってヤマト政権(朝廷)に仕えていたとされています。

 

 しかし、開発や殖産には人が必要です。

 

 秦氏は渡来系の人々や現地の日本人らを部民(べのたみ=天皇家や豪族らの私有民)として組織していたようです。

 

 そして、推古天皇の甥にあたる厩戸王(聖徳太子)が活躍した6世紀末に秦河勝という一族のスターが登場します。

 

 『上宮聖徳太子伝補闕記(じょうぐうしょうたいしでん・ほけつき)』によりますと、用明天皇2年(587)、蘇我馬子が厩戸王とともに物部守屋を倒した丁未(ていび)の乱に参陣したとされ、これが事実なら、秦氏の軍事力が厩戸王家(上宮王家ともいいます)の私兵として用いられたことになります。

 

 それはまた、両者の関係の深さを示す逸話ではないでしょうか。

(つづく)

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