慶長2年(1597)7月15日、全羅南道沿岸部へ進もうとしていた日本水軍に先制攻撃を仕掛けた朝鮮水軍ですが、釜山南西の巨済(コジェ)島付近の海域で逆に朝鮮水軍は大敗します。
ただし、このときの水軍司令官(水軍統制使)は、慶長の役で李舜臣に援助を乞うた元均でした。
李舜臣はそれまでの活躍を彼に妬まれ、その讒言によって一兵卒に落とされていたのです。
この海戦では元均らの司令官が相次いで戦死し、朝鮮水軍も船のほとんどを失いました。
文禄の役の敗戦を参考に、日本軍も船に大砲を載せるなどして対策を練った結果だとされています。
そこで李舜臣が水軍統制使に再任され、全羅南道沿岸の最西端まで進んでいた日本水軍を追ったのです。
そして、慶長2年9月16日、半島南西端と珍島(チンド)の間の狭い海域(そこを鳴梁といいます)で両軍が衝突しました。
それでは、『乱中日記』という李舜臣の日記をもとに、まずは通説を確認しておきましょう。
その日、藤堂高虎を司令官とする日本水軍133隻が鳴梁の海域に入ってくると、朝鮮側の諸将は「衆寡(しゅうか)敵せず」と考え、戦いを回避しようとしました。
しかし、李舜臣の乗る船が臆せず火砲を乱射しながら突き進むと、やがて他の船も従いだしたのです。
その中の1隻に日本側の船3隻が群がり、そこへ李舜臣の船が近づいて弓矢を乱射すると、日本側の3隻の船は沈み、兵たちは海に浮かんだといいます。
(つづく)
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