山上に逃げこんだ浅井・朝倉勢の糧道を断とうとした信長ですが、比叡山延暦寺が彼らをを庇護したのです。
さらには、甲賀に逃れていた仇敵の六角義賢(南近江の観音寺城主だった武将)までが兵を挙げました。
大津の信長の周囲はいわば敵だらけ。こうして信長は窮地に陥りました。
そこで彼は各勢力を個別撃破しようと考えたのです。
そのため、最大勢力といえる朝倉・浅井勢を支援する比叡山に対して、横領した山門領(延暦寺の荘園)をすべて還付すると、まずは“飴”で誘い、次いでこの申し出を断ったら、比叡山山上の堂塔を「ことごとく焼き払う」(『信長公記』)と、“鞭”で脅しました。
しかし、比叡山はこの申し出を無視したのです。
結局、朝倉・浅井勢との対陣は3ヶ月の長きにわたり、信長は、越前の朝倉が雪に閉ざされて動けなくなるころを見計らい、当時の室町幕府将軍足利義昭と関白二条晴良を動かし、何とか朝倉・浅井勢と和睦に持ちこむことができました。
こうして危機は解消されましたが、比叡山延暦寺への恨みが残りました。
したがって、信長の性格を考えると、予告どおり、全山ことごとく焼き払ったとしたとしても不思議ではありません。
矛盾は深まるばかりです。
その一方で、考古学調査との矛盾を取り除くための手がかりがないわけではありません。
(つづく)
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