秀吉の新「中国大返し」の謎(最終回)[70㌔走破の奇跡] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 秀吉が5日に中川清秀への返書を書いた事実からみて、次のような行軍が考えられます。

 

 まず4日の午後に高松を発ち、8キロ先の野殿で野営。翌朝すぐ中川からの書状を読んだ秀吉が返書を書き、すぐさま発った――。

 

 野殿からさらに東の沼城までの距離はほぼ15キロですから、返書で書いた通り、5日中に沼城へ入るのは距離的にみて確実です。

 

 午前の早い時間に野殿を発てば、遅くとも昼下がりの時間帯に沼城へ入り、兵に休息を与えられます。

 

 ここまでゆっくりしたペースで進軍しているのは、やはり背後の毛利の動きを警戒しているからでしょう。

 

 一方、秀吉の近臣が細川忠興の重臣松井康之に宛てた書状(添え状)によりますと、「六日中に姫路にもどり、九日に出陣した」とあります。

 

 沼城から姫路城まではおよそ70㌔。5日の夜に沼城を発ったとしてもほぼ丸一日で姫路城に入るのは至難の業です。

 

 しかも、途中には難所の船坂峠があり、当日は悪天候だったともいわれています。

 

 A説・B説のどちらをとるにしても、この「沼ー姫路」間の70㌔の強行軍が秀吉の天下取りを呼びこんだのは間違いありません。

 

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