秀吉の新「中国大返し」の謎⑤[茨木城主からの手紙] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

 6月4日の午前に高松城を発った秀吉は山陽道を東へ、まず、織田方へ転じていた宇喜多氏の居城沼城(岡山市)を目指しました。

 

 途中、高松から8キロほど先の野殿(同)というところまで退却したところで、摂津茨木城主・中川清秀からの書状を受け取りました(『梅林寺文書』)。

 

 摂津衆の中川はおおむね信長が光秀に討たれた事実を知っていたと思われますが、今後どう立ち回るべきか悩み、畿内から最も近いところで大軍を抱えていた秀吉の動向を知ろうとしたのでしょう。

 

 秀吉は中川ら摂津衆の動揺を鎮めるため、「信長父子は無事切り抜けて膳所(大津市)まで逃れた」という偽情報を流していますが、それはともかく、今日中に「沼まで移動します」と伝えていることが重要です。

 

 その秀吉の返書の日付が5日ですから、野殿で中川の書状を受け取ったのはそれ以前ということになります。

 

 A説の根拠の一つになっている史料です。

(つづく)

 

[最新刊のお知らせ]

『こちら歴史探偵事務所! 史実調査うけたまわります』

※小説仕立ての日本史の謎解き本です。