秀吉の新「中国大返し」の謎②[清水宗治の切腹] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 光秀を討つことを決めた秀吉は、すぐ近くに陣取る毛利本軍が信長の死を知る前に講和をまとめ、兵を返さねばなりません。

 

 そこで毛利に示していた講和条件を譲歩します。

 

 備中・備後・美作・伯耆・出雲の5ヶ国割譲に代え、備中・美作・伯耆三国の割譲を求めたのです。

 

 しかし、高松城主清水宗治の切腹だけはどうして譲れません。

 

 そこまで譲歩してしまったら、織田陣営に何か非常事態が起きたと毛利に感づかれるからです。

 

 秀吉は和睦条件を毛利方に伝えますが、宗治の切腹だけは認められないというのです。

 

 そこで秀吉は宗治へ直接働きかけ、城兵の助命と引き換えに、自らの切腹と開城を承諾させました。

 

 宗治は、そのころ秀吉の水攻めで水没しかけていた高松城から漕ぎ出した小舟に乗り、羽柴勢が見守る中で見事、腹をかっさばきました。

 

 それが6月4日の午前のこと。

 

 両者の講和交渉はほぼ以上の通説通りだとみられ、A説では宗治の切腹を見届けた直後に秀吉が大返しを始めたことになります。

 

 しかし、まだ毛利の本軍が猿掛に滞陣中です。

 

 いわば敵に後ろを見せて大返しするわけですから、背後を衝かれる恐れがありました。

(つづく)

 

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