天正10年(1582)6月3日の夜、前日に京で起きた本能寺の変の悲報が備中高松(岡山市)にいた羽柴秀吉の陣中に届きます。
そこから奇跡とされる中国大返しが始まり、13日に秀吉は山崎(京都府大山崎町)で明智光秀を討つのです。
この奇跡の行軍でいつ秀吉が高松を発ち、いつ当時の居城である姫路城へ入ったのか――この二点が定まっておりません。
史料によって、主に「4日午後出発・6日夜到着」(A説)、「6日午前出発・7日夜到着説」(B説)の両説があります。
スピードが重視される大返しで、とくに高松出発の日程が2日ずれているのはかなりの差です。
筆者はこれまでB説をとってきましたが、再考してみたいと思います。
両説あるのは、史料によってA・Bそれぞれの日程に分かれているためです。
しかし、どの史料を信じるかという単純な問題でもありません。
そこでまず当時の情勢を確認しておきましょう。
当時秀吉は中国地方で覇を唱える毛利輝元方の高松城を包囲。織田信長の援軍到着を待っていました。
一方、輝元はみずから猿掛(倉敷市)まで軍勢を率いて高松城を後詰していたのです。
(つづく)
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