『信長公記』の記述が年次を欠くために断定できませんが、翌天文一七年(1548)九月、勝ち戦に乗じて道三は織田方の城になっていた大垣城を攻めました。
するとこんどは、信秀の出陣中を狙い、清洲衆(守護代の兵)が信秀の居城古渡城を囲んだというのです。
当時、三河戦線でも信秀は敗れ、美濃戦線では大敗し、尾張国内でも清洲衆が蜂起して信秀は窮地に陥ちました。
こうして信秀は道三と和睦せざるをえなくなりますが、信秀は、天文一八年(1549)ごろに発病します。
祈祷や治療の甲斐なく、失意のうちに四二歳でこの世を去りました。
これまた『信長公記』は没年の年次を欠いておりますが、天文二〇年から翌年にかけてのことだと考えられます。
そして尾張統一は信長の代に実現します。
信長が父のできなかったことを成し遂げられたのも、父信秀が尾張随一の実力者であり、弾正忠家の財力があったればこそでしょう。
【著者新刊情報】『江戸東京透視図絵』(五月書房新社。1900円+税)
編集者「町歩きの本をつくりましょう。町を歩きながら、歴史上の事件を“透かし見る”という企画です」
筆者「透かし見る?」
編集者「そうです。昔そこであった事件や出来事のワンシーンをイラストレーターの先生に描いてもらい、現実の写真と重ね合わせるんです。つまり、町の至る所に昔を透かし見るカーテンのようなものがあると考えてください」
筆者「それってつまり、“時をかけるカーテン”ですね。そのカーテンがタイムマシンの役割を果たしてくれるんですね!」
編集者「まあ、そんなところでしょうか……」
筆者「やります、やります。ぜひ書かせてください!」
という話になって誕生したのが本書。新しいタイプの町歩き本です。
【著者新刊情報】『明智光秀は二人いた!』(双葉社、1000円+税)
明智光秀はその前半生が経歴不詳といってもいいくらいの武将です。俗説で彩られた光秀の前半生と史料的に裏付けできる光秀の後半生とでは大きな矛盾が生じてしまっています。そこでこんな仮説をたててみました。われわれは、誰もが知る光秀(仮に「光秀B」とします)の前半生をまったく別の人物(仮に「光秀A」とします)の前半生と取り違えてしまったのではなかろうかと。この仮説に基づき、可能な限り史料にあたって推論した過程と結論を提示したのが本書です。 したがいまして、同姓同名の光秀が二人いたというわけではありません。最近では斎藤道三について「父と子の二代にわたる事績が子一人だけの事績として誤って後世に伝わった」という説が主流になっています。そう、斎藤道三も「二人いた!」ということになるのです。
【著者新刊情報】『超真説 世界史から解読する日本史の謎』(ビジネス社、1600円+税)
日本史が世界史の一部であることはいうまでもありません。そこで大真面目に「世界史から日本史を読み解いてみよう」と考えました。その結果を最新刊に凝縮させました。 弥生・古墳時代から現在に至るまで、日本は東アジアはもとより、ヨーロッパやイスラム諸国からも影響を受けながら発展してきています。弥生時代の「倭国大乱」から明治新政府による「日韓併合」まで、日本史を国際関係や世界史の流れから読み解きました。