「斎藤道三は二人いた!」になったのはなぜか?③[国盗りなる!] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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天文一二年(一五四三)、土岐頼純は道三に大桑城を攻められ、越前へと逃亡します。

 

ところが翌年、頼純を支援する形で朝倉勢と尾張の織田信秀(信長の父)の連合軍二万五〇〇〇の大軍が南北より当時井口と呼ばれていた岐阜城下へ進軍しました。

 

道三に危機が迫ったのです。

 

しかし道三は、敵勢を城下にひきつけ、反撃に討ってでます。

 

こうして道三は織田軍を木曽川に追いつめ、三〇〇〇名を溺死させる大勝利をえるのです。

 

その後、道三は朝倉・頼純と和睦します。

 

ちなみに、こののちも織田信秀は天文一六年(一五四七)に美濃へ攻め入りますが(NHK大河ドラマ『麒麟がくる』第二回に登場したシーン)、この時も敗北します。

 

そうして信秀は、駿河の今川勢に備える意味もあって、斎藤家との和睦を一気に進め、後に道三の娘が信長の正室として輿入れしてきます。

 

濃姫と呼ばれる帰蝶です。

 

彼女は、道三と頼純が和睦した際にその証しとして頼純へ嫁ぎましたが、夫頼純が道三に毒殺されたため、父のもとに出戻っていました。

 

れでは、美濃はその後どうなったのでしょうか。

 

天文一六年に頼純が道三によって毒殺されて以降、土岐頼芸の後ろ盾である織田家が道三と和睦しますと、頼芸は完全に浮き上がってしまいました。

 

こうして天文二一年(一五五二)ごろ道三は頼芸を追放し、ついにその国盗りが実現するのです。

 

ところが、内乱という混乱の中でこそ、道三は能力を発揮できるタイプの男。争いがおさまると、行政手腕が問われるようになりますが、どの史料を読んでも、道三が他の戦国大名が実施しているような民政上の目立った施策を実行している節がありません。

(つづく)

 

【著者新刊情報】『江戸東京透視図絵』(五月書房新社。1900円+税)

編集者「町歩きの本をつくりましょう。町を歩きながら、歴史上の事件を“透かし見る”という企画です」

筆者「透かし見る?」

編集者「そうです。昔そこであった事件や出来事のワンシーンをイラストレーターの先生に描いてもらい、現実の写真と重ね合わせるんです。つまり、町の至る所に昔を透かし見るカーテンのようなものがあると考えてください」

筆者「それってつまり、“時をかけるカーテン”ですね。そのカーテンがタイムマシンの役割を果たしてくれるんですね!」

編集者「まあ、そんなところでしょうか……」

筆者「やります、やります。ぜひ書かせてください!」

という話になって誕生したのが本書。新しいタイプの町歩き本です。

 

【著者新刊情報】『明智光秀は二人いた!』(双葉社、1000円+税)

明智光秀はその前半生が経歴不詳といってもいいくらいの武将です。俗説で彩られた光秀の前半生と史料的に裏付けできる光秀の後半生とでは大きな矛盾が生じてしまっています。そこでこんな仮説をたててみました。われわれは、誰もが知る光秀(仮に「光秀B」とします)の前半生をまったく別の人物(仮に「光秀A」とします)の前半生と取り違えてしまったのではなかろうかと。この仮説に基づき、可能な限り史料にあたって推論した過程と結論を提示したのが本書です。 したがいまして、同姓同名の光秀が二人いたというわけではありません。最近では斎藤道三について「父と子の二代にわたる事績が子一人だけの事績として誤って後世に伝わった」という説が主流になっています。そう、斎藤道三も「二人いた!」ということになるのです。

【著者新刊情報】『超真説 世界史から解読する日本史の謎』(ビジネス社、1600円+税)

 日本史が世界史の一部であることはいうまでもありません。そこで大真面目に「世界史から日本史を読み解いてみよう」と考えました。その結果を最新刊に凝縮させました。 弥生・古墳時代から現在に至るまで、日本は東アジアはもとより、ヨーロッパやイスラム諸国からも影響を受けながら発展してきています。弥生時代の「倭国大乱」から明治新政府による「日韓併合」まで、日本史を国際関係や世界史の流れから読み解きました。

 

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