「斎藤道三は二人いた!」になったのはなぜか?②[惣領を射殺] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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新左衛門の息子の道三は長井家を奪い取り、守護代の斎藤家を継いで、仕えていた守護の頼芸まで放逐します。

 

こうみてきますと、「蝮」とあだ名される通り、現在の常識からいうと、極悪非道な男そのものです。

 

しかし、因果応報。

 

道三は国を盗んだ四年後、最後は家臣たちに叛かれ、哀れな末路を遂げるのです。

 

それでは、道三の国盗りの過程を追ってみましょう。

 

美濃では守護の座を巡って土岐頼武(政頼)と頼芸の兄弟が争い、頼武の妻の実家である越前朝倉氏や周辺の北近江浅井氏・南近江六角氏はもちろん、尾張の織田氏を巻きこんだ内乱の時代にありました。

 

一方の旗印である土岐頼武が戦乱の中で亡くなり、子の土岐頼純が大桑城(岐阜県山県市)に拠り、道三がその内乱の混乱に乗じて権力を掌握します。

 

道三は天文二年(1533)に長井規秀として初めて確かな史料に登場しています。

 

当時はまだ惣領の長井景弘とともに書状に連署(サイン)していますが、翌年には道三だけの署名になっていますので、その一年の間に、景弘を葬り去ったのでしょう。

 

長井氏の惣領を射殺」という承禎の話は事実だったのです。

 

天文四年から五年にかけて道三は、頼芸を立てて頼純と争い天文六年に道三が斎藤の家を継ぎ、斎藤左近大夫利政(のちに秀龍と改名し、道三と号す)となっていることが確認できます。

(つづく)

 

【著者新刊情報】『江戸東京透視図絵』(五月書房新社。1900円+税)

編集者「町歩きの本をつくりましょう。町を歩きながら、歴史上の事件を“透かし見る”という企画です」

筆者「透かし見る?」

編集者「そうです。昔そこであった事件や出来事のワンシーンをイラストレーターの先生に描いてもらい、現実の写真と重ね合わせるんです。つまり、町の至る所に昔を透かし見るカーテンのようなものがあると考えてください」

筆者「それってつまり、“時をかけるカーテン”ですね。そのカーテンがタイムマシンの役割を果たしてくれるんですね!」

編集者「まあ、そんなところでしょうか……」

筆者「やります、やります。ぜひ書かせてください!」

という話になって誕生したのが本書。新しいタイプの町歩き本です。

 

【著者新刊情報】『明智光秀は二人いた!』(双葉社、1000円+税)

明智光秀はその前半生が経歴不詳といってもいいくらいの武将です。俗説で彩られた光秀の前半生と史料的に裏付けできる光秀の後半生とでは大きな矛盾が生じてしまっています。そこでこんな仮説をたててみました。われわれは、誰もが知る光秀(仮に「光秀B」とします)の前半生をまったく別の人物(仮に「光秀A」とします)の前半生と取り違えてしまったのではなかろうかと。この仮説に基づき、可能な限り史料にあたって推論した過程と結論を提示したのが本書です。 したがいまして、同姓同名の光秀が二人いたというわけではありません。最近では斎藤道三について「父と子の二代にわたる事績が子一人だけの事績として誤って後世に伝わった」という説が主流になっています。そう、斎藤道三も「二人いた!」ということになるのです。

【著者新刊情報】『超真説 世界史から解読する日本史の謎』(ビジネス社、1600円+税)

 日本史が世界史の一部であることはいうまでもありません。そこで大真面目に「世界史から日本史を読み解いてみよう」と考えました。その結果を最新刊に凝縮させました。 弥生・古墳時代から現在に至るまで、日本は東アジアはもとより、ヨーロッパやイスラム諸国からも影響を受けながら発展してきています。弥生時代の「倭国大乱」から明治新政府による「日韓併合」まで、日本史を国際関係や世界史の流れから読み解きました。

 

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