「斎藤道三は二人いた!」になったのはなぜか?①[六角承禎の暴露] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 油売りの商人から成り上がり、美濃一国を盗んだ戦国の梟雄、斎藤道三は二人いた――今や、「道三」二人説が通説化しています。

 

 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも「父子二代の国盗り」というセリフがでてきます。

 

すべては『岐阜県史』の編纂過程で発掘された古文書がきっかけでした。

 

道三の死の四年後、南近江の大名六角承禎が斎藤義龍(道三の嫡男)の娘と嫡男義治との婚儀に反対する理由として、斎藤が成り上がり者の家だと強調し、道三父子の経歴をこう暴露しています。

 

「斎治(義龍のこと)の祖父新左衛門(道三の父のこと)は京都妙覚寺の法華坊主。(美濃へ来て)、西村と名乗り、長井弥二郎(美濃の守護土岐家の執政)へ仕えた。(その後、)濃州の錯乱(美濃内乱)の際、野心を抱いて長井家の一族となる。また、斎治の父左近大夫(道三のこと)は長井氏の惣領を射殺し、(守護代の)斎藤一族へと成り上がった」

 

その後、道三が守護の座につけた土岐頼芸を放逐し、美濃一国をわがものとするのです。

 

承偵もそこまで書いていませんが、江戸時代の軍記物では、還俗後に道三は油売りの商人になることになっています。

 

新左衛門という道三の父がそれにあたります。

 

その油売りが妙覚寺時代の伝手を頼り、執政の長井長弘にとりいって土岐家の家臣に連なります。

 

初代の話はそこまで。

 

 その新左衛門の息子の道三は父の恩人であるはずの長井氏の惣領を殺し、長井家を奪い取るや、守護代の斎藤家を継ぎ、仕えていた守護の頼芸まで放逐するのです。

 

 

 

 

(つづく)

 

【著者新刊情報】『江戸東京透視図絵』(五月書房新社。1900円+税)

編集者「町歩きの本をつくりましょう。町を歩きながら、歴史上の事件を“透かし見る”という企画です」

筆者「透かし見る?」

編集者「そうです。昔そこであった事件や出来事のワンシーンをイラストレーターの先生に描いてもらい、現実の写真と重ね合わせるんです。つまり、町の至る所に昔を透かし見るカーテンのようなものがあると考えてください」

筆者「それってつまり、“時をかけるカーテン”ですね。そのカーテンがタイムマシンの役割を果たしてくれるんですね!」

編集者「まあ、そんなところでしょうか……」

筆者「やります、やります。ぜひ書かせてください!」

という話になって誕生したのが本書。新しいタイプの町歩き本です。

 

【著者新刊情報】『明智光秀は二人いた!』(双葉社、1000円+税)

明智光秀はその前半生が経歴不詳といってもいいくらいの武将です。俗説で彩られた光秀の前半生と史料的に裏付けできる光秀の後半生とでは大きな矛盾が生じてしまっています。そこでこんな仮説をたててみました。われわれは、誰もが知る光秀(仮に「光秀B」とします)の前半生をまったく別の人物(仮に「光秀A」とします)の前半生と取り違えてしまったのではなかろうかと。この仮説に基づき、可能な限り史料にあたって推論した過程と結論を提示したのが本書です。 したがいまして、同姓同名の光秀が二人いたというわけではありません。最近では斎藤道三について「父と子の二代にわたる事績が子一人だけの事績として誤って後世に伝わった」という説が主流になっています。そう、斎藤道三も「二人いた!」ということになるのです。

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