直虎の父は遠州井伊谷(浜松市)の地頭(国人領主)井伊直盛、母は今川家の家臣新野親矩の妹祐椿尼です。
井伊家は、南北朝時代以来、駿河の今川家と矛を交えてきましたが、直虎の曾祖父・直平の時代になって、今川の勢威に従わざるをえなくなります。
それまで井伊谷城で割拠してきた井伊家としては複雑な思いがあったのでしょう。重臣の小野政直(通称小野和泉守)を除き、心から今川に服していなかったようです。
それが禍の元となりました。
天文十三年(1544)十二月、事件が起きます。
当主の直盛には男子がなく、叔父直満の子亀之丞(当時九歳)と娘の直虎を娶せ、亀之丞に家督を継がせようとしました。
直虎は従兄弟叔父の許嫁となったのです。
しかし、前述した小野和泉守の讒言により、大叔父の直満が今川義元によって駿府(静岡市)の今川館に呼び出され、殺されてしまいます。
その理由はよくわかりません。直満と和泉守の「不和」が原因だとされていますが、単なる不和だけが対立の理由とは考えられません。
和泉守は「親今川」の筆頭というべき存在ですから、「対今川」の方針を巡り、直親と深刻な対立があったのでしょう。
直満が三河衆や相模の北条家ら、今川家の敵と誼を通じていたという説もあります。
いずれにせよ、直満が殺されてしまい、直虎の縁談が宙に浮いてしまうと同時に、そのお相手である亀之丞の命が危なくなります。
江戸中期に書かれた井伊家の伝記(『井伊家伝記』)には、駿府から戻った和泉守が亀之丞を殺すように義元から命じられたと報告したことになっています。
仮に義元が殺害命令を出さなくとも、義元の威を借り、重臣で「親今川」の和泉守が亀之丞を殺す恐れは十分にありました。
そこで直満の家臣が亀之丞をかます(
藁蓆を袋状にしたもの)に隠し、それを背負って井伊谷の山中へ逃れます。
そのあと井伊家の菩提寺・龍潭寺第二世住職の南渓和尚(直虎の大叔父)と計り、南渓和尚は亀之丞を信州の松源寺(高森町)へ入れました。
(つづく)
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