「光秀ファミリー」その末路④[嫡男の謎] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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三女と四女はいずれも信長の指示で細川忠興と織田信澄に嫁ぎました。


忠興の妻となった三女が、有名な細川お玉、洗礼名ガラシャです。


四女の夫信澄は、信長の甥。


実父は、信長に殺された信行(信勝などともいう)です。


したがいまして、本能寺で義父の光秀とともに伯父の信長を討ったという噂が流れ、実際に備中で秀吉と対陣していた毛利方の書状には、謀叛人として「七兵衛(じょう)(信澄のこと)」の名がみえます。


その噂はデマでしたが、当時、大坂にいた信澄は、デマを信じた信長三男の信孝に攻め滅ぼされるのです。


さて、ここで嫡男光慶の話に戻そうと思います。


『明智軍記』によりますと、光慶は丹波亀山城(京都市)を預かっていました。


しかし、父光秀が謀叛を起こす前から重い(やまい)にかかり、謀叛の知らせを聞くと、煩い苦しみ、かえって病を重くし、光秀が死んだとされる六月十三日に病死したといいます。


一方、当時の南蛮人宣教師ルイス・フロイスによりますと、坂本城で光秀の男子二人が自害したとし、「長男は十三歳であった」と記録しています。


丹波亀山で死んだという話とは矛盾する話です。


また、秀吉の書状でも、坂本城に光秀の子二人がいたことになっています。


だとすると、江戸時代の編纂物である『明智軍記』より、当時の記録である『日本史』に軍配を上げて、フロイスが記す「十三歳」の光秀長男を光慶だと考えることができます。


 そうなりますと……。


(つづく)


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