「光秀ファミリー」その末路(最終回)[嫡男にも囁かれる生存伝説] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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フロイスが記す「十三歳」の光秀長男を光慶だとすると、彼は亀岡城で病死したのではなく、坂本で自害したことになります。


では、光慶とともに坂本城で自害した“もう一人の息子”は誰なのでしょうか。


これも『明智軍記』によりますと、前述した乙寿丸になるわけですが、別の史料には「自然(じねん)(まる))」という息子の名がみえ、彼を含めると、光秀の子は「四男四女」いたことになります。


また、正室のほかに光秀は側室をもっていたらしく、その側室との子於崔(おづる)(まる)は生き延び、歴史研究家明智憲三郎氏の先祖にあたるといいます。


このほか、光秀の遺児が京都妙心寺の僧侶南国梵(なんごく)(ぼんけい)和尚なったという説、前述した光慶こそが南国和尚だとする説などあるのです。


その光慶ですが、前述したように“亀山城での病死説”や“坂本城での自害説“があり、謎多き人物です。


”南国和尚説=光慶説“ほかの生存説も囁かれています。


千葉県の市原市には光慶のものとされる墓が伝わっています。


墓石には「土岐□重五郎」と刻まれ、□の部分は判読不明。


ですが、明智氏は土岐一族であり、かつ、重五郎は十五郎に通じます。


坂本城で自害せず、そこを脱し、市原(上総国)まで逃れたのでしょうか。


しかし、驚く必要はありません。


なにしろ、光秀自身の生存説もまた、まことしやかに囁かれているのですから……。


その可能性についてはまたの機会に述べてみたいと思います。




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